死した鶴   作:Гарри

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03.「セーフハウスで」

 何を始めるにしても、私たちは傷の手当てをしなければならなかった。私の折れた左手薬指は腫れ上がって、指輪の代わりに腕輪をはめるのにぴったりのサイズになっていたし、初月だって無傷という訳ではなかった。しかし、私は今や脱走兵だ。全国で指名手配の身、とまでは行かないにせよ、軍の施設に行って、書類数枚で療養させて貰える身分ではない。つくづく私は自分の無計画性が恥ずかしくなった──翔鶴姉の足取りを辿る以上、荒事が向こうから手土産片手にやってくることぐらい、予期しておくべきだったのだ。もしきちんとそれについて考えていれば、対処法を用意しておいただろう。基地から必要な物資をかっぱらっておくとか、工廠の女王、工作艦娘「明石(あかし)」を抱き込んでおくとか、できることは少なくなかった筈である。それを怠ったのは、実に情けない話だった。

 

 その情けなさを助長してくれたのが、初月である。彼女だって軍警察の決定に逆らってこの件について調べているのだから、私ほどではないが危険な橋を渡っている。しかし、やはり経験してきたものが違うということだろう。彼女はいわゆるセーフハウスを用意していて、そこに物資を貯め込んでいた。そしてその貯蓄には、高速修復材も含まれていたのである。高速修復材、この素っ気(そっけ)ない名前の透き通った緑色の液体は、深海棲艦と同時期に現れ、人類に手を貸して私たちのような艦娘を世に生み出させた、“妖精”と呼ばれる謎めいた小人たちが作り出したものである。効用は負傷部位への塗布により発揮され、損傷した艦娘の肉体の完全な修復を行ってくれる。たとえ手足がちぎれ腸をぶちまけていようとも、生きてこの薬剤の力を受けられさえすれば助かるほどだ。まあ、そんな大怪我なら入渠施設に辿り着く前に失血、または出血性ショックで死んでいる可能性が高いが。

 

 左手薬指の骨折と、全身の打撲や擦り傷程度なら、ごく少量の修復材で治癒させられる。セーフハウスの簡易入渠施設、つまるところバスルームで初月から分けて貰った修復材を使いながら、私は便利な隠れ家と物資が手に入った幸運を、導いてくれた翔鶴姉に感謝した。ムカつくので初月には感謝せずともよいものとする。治療を済ませて、風呂場を出る。そこではたと、着替えの服がないことに気づいた。初月は駆逐艦娘の中では大きな体をしているが、正規空母艦娘と衣服を共有できるほどではない。仕方なく、初月との交戦でぼろぼろになってしまった私服に再び袖を通した。せめて下着だけでも替えたいが、今は我慢した方がいいだろう。初月に向かって「あんたの下着貸して」なんて、死んでも言いたくない。その後に続く言葉が「売って活動資金にするから」でもない限りは、だ。

 

 脱衣所を出て、リビングへ向かう。セーフ()()()の名の通り、ここは家だ。あるいは、一般的なマンションの一室だと言うこともできる。洋室二つに、リビングとダイニングとキッチン一まとめの部屋が一つ。後はトイレと脱衣所、風呂場。控えめなサイズのバルコニーもある。そんな場所にいると、まるで自分が艦娘でなくなって、民間人に戻ったような気分になりそうだ。幸い、私には初月がいる。彼女の顔を見れば、自分が何故ここにいるのか、私はたちまち思い出すことができる。それは新しくできた友達と、楽しいルームシェアライフを送る為ではない。

 

 私がリビングに入ると、部屋の端でソファーに腰掛けて、ノートパソコンを使っていた初月が立ち上がった。彼女は軽く頷いてから私の脇を抜けて、自身の傷の手当をしに行った。彼女を待つ間、くつろいでいようと決めて、私もソファーに足を向ける。三人は余裕を持って座れるサイズだったので、いっそ寝そべることにした。初月がソファーの上に残していったパソコンが邪魔なので、キッチンカウンターの上にでも動かそうと思って、それを手に取る。けれどその時画面を見て、私は思わずこの精密機器を窓にでも投げつけてやりたくなった。

 

 モニターには、翔鶴姉が集めた捜査資料が表示されていた。服のポケットを探るが、何も見つからない。当たり前だ。カードリーダーの中に、渡した覚えのないメモリーカードが収まっている。初月は私が浴室で治療を行っている間に、脱衣所で私の服からそれを盗み出したのだ。私が迂闊だったと言えばそれまでだが、手を組もうとあちらから言い出したのなら、それが表面的なものであったとしても、相手の信用を得られるように振舞うべきだろう。ところが初月は、それと全く逆のことをやった。ここまでされると、わざと不信感を植えつけようとしているのではないか、と思いたくなる。

 

 開くこともできない大きなデータの方はともかく、翔鶴姉の参考人リストはコピーされたと見て間違いないだろう。きっと初月はUSBメモリとか、そういうものにダウンロードした筈だ。私からカードを盗み、そのことを隠そうともしていないことからもそれは明白である。私は横になる気も失せて、さっきまで初月がそうしていたように、膝の上にパソコンを置いて参考人リストを調べ始めた。最も怪しいのは浦風だが、彼女から次に繋がる手掛かりが必ず手に入るとは限らない。そういう時、次を一々探したり検討したりしていては、時間を浪費してしまう。その間に真実が、私の手中からすり抜けて消えていくようなことがあれば……待っているのは復讐の失敗という不名誉と、無意味な短い人生だ。

 

 浦風と、彼女が率いていた第三艦隊、加えて第四艦隊のデータを呼び出し、何か浮かばないものかと考える。浦風を除いて全員失踪しているなら、確実に何か──そこで、私はデータ数が足りないことを発見した。第三艦隊は浦風以外の全員が失踪しているが、第四艦隊は五人だけで、一人分足りないのだ。欠落していたのは艦隊旗艦の分で、手掛かり発見か、と興奮しかけて、翔鶴姉がこんなことを見落とすだろうかと考え直す。まさか、あり得ない話だ。それなら、何らかの理由から、参考人とすることはできないと判断したのだろう。

 

 がっかりしつつ、第四艦隊の二番艦「ヴェールヌイ(Верный)」の戦歴を読むと、これが大したものだった。戦中に十五歳で志願した彼女は、訓練所を出た直後から大規模作戦に参加させられ、転属すれば敵の大反抗に遭い、所属艦隊が壊滅してまた転属すると、再び大規模作戦に駆り出される、といった不幸の繰り返しだったらしい。その生存能力を買われてか、一時期は軍研究所付きの艦隊での平和な生活を送っていたようだが、半年足らずで戦場に逆戻りしている。終戦まで生き抜いたのは奇跡みたいなものだ。記述そのものは役所的で無味乾燥としたものだが、想像力を使えば読み物として楽しめる域である。これだけ立派な戦歴で、どうして単冠湾という辺境の第四艦隊にいたのかが分からない。提督たちが頭を下げて、横須賀に招聘(しょうへい)してもいい傑物だろうに。

 

 この本筋とは関係のなさそうな謎を頭から追い払おうとしていると、初月が治療を終えて出てきた。私はちらっと彼女の方を見て、目をモニターに戻した。私が彼女の窃盗に気づいたということを、わざわざ言葉にする必要はない。どうせ初月はそれを承知だ。言ったって、謝りはしないだろう。そうとなればいらぬ発言は、私の苛立ちを増すことで、この不安定な協力関係の破綻を招くだけだ。ただでさえ、私たちは半分以上本気で殺し合った間柄である。揉め事の種に自ら肥料をやらなくてもいいだろう。

 

 初月は私の隣に座った。近いな、と私は思った。気に入らない距離だ。が、モニターに映っているものを共有しようとすれば、この距離になるのも仕方ない。諦めて、初月に訊ねる。「私が修復材を使ってる間に、何か見つかった?」「お前のメモリーカード以外にか?」本当に一々気に障る喋り方をする奴だ。こういう手合いは二度とそんな口を利けないようにしてやるか、こちらが慣れるしかない。なので、私は努めて冷静に答えた。「そうよ」これは初月を少しはマシな態度にさせた。少なくとも挑発抜きで、彼女は答えた。

 

「一つある。お前が入院していた軍病院だが、あそこに入ってた艦娘が結構な数、退院後に消えているんだ」

「ちょっと、私の入院先まで翔鶴姉は喋ってたの?」

「時々、僕が車で送迎してたからな。その程度だから、どの部屋にいたかまでは知らないぞ。プライバシーに関する疑問が解けたなら、話を続けてもいいか?」

 

 私は首を縦に振った。

 

「このリストにある最も新しい失踪者も、軍病院にいた艦娘だった。四ヶ月前に失踪してる。それ以降、失踪者は出ていない」

「それなら、翔鶴姉の遺したデータが最新のものだって前提はあるけど、失踪の原因がここ四ヶ月の間に軍病院から消えたことになる、よね?」

「うん、そうだ。当該期間内に軍病院から退院、もしくは退職した者の情報を手に入れなければいけないな。さて、そっちは何か見つけたか?」

 

 ヴェールヌイの戦歴が超スゴい、とは答えられなかった。さりとて、ない袖は振れない。結局私は、翔鶴姉が除外したであろう第四艦隊旗艦についての疑問を提起することにした。初月は思案するように息を漏らすと、これも浦風に会いに行けば分かるだろう、と評した。私は彼女が当てこすりや皮肉を言ってこなかったことを意外に思ったが、顔や言葉には出さないでおいた。私だって、口喧嘩を避けられるなら避けたいと思う程度には、協調性のある艦娘なのだ。

 

 膝の上のノートパソコンから顔を上げて、向かいにある窓を見る。遮光カーテンが掛かっており、その向こう側は見えない。だが何となく、まだ夜だろうな、と感じる。視線を戻してパソコンの時計を見てみれば、夜明け前と言ったところだった。普段ならベッドでぐっすりの時間だが、眠気はない。それどころか、食欲がまたしても鎌首をもたげ始めていた。冷凍食品のパスタ一皿では足りなかったらしい。しかも食べ終える前に、翔鶴姉の家を出て行かなければならなかったことを考えると、今の空腹はもっともな状態というものである。私は勇気を出して、初月に聞くことにした。

 

「ねえ、お腹減ったんだけど、食べるものあるかな」

「お前は僕から時間、捜査資料、高速修復材や余分の寝室まで奪っておいて、今度は食料まで奪おうとするのか。その次はなんだ、車か? 家か?」

 

 嫌味な言葉を聞きながら、私は段々と、自分がこの初月を理解し始めている気がした。艦娘でも人間でも、性格というのは後天的に形成されるものだ。こいつはこういう性格にならずにはいられないような、何かしらの経験を積んできたのだろう。上官や艦隊員が、どいつもこいつも嫌な奴だったのかもしれない。そいつらは裂け目みたいな笑顔を浮かべ、他人に悪意を振りまく手合いだったのかもしれない。そういう人種とのコミュニケーションは、真っ当には行えないだろう。相手を真似して、その真似を自分のスタイルとして取り込むことが要される。そして悲しい結果として、もう一人の嫌な奴ができあがる訳だ。つくづく哀れである。

 

 口論は空腹を加速するだけなので、私は席を立ってキッチンに向かった。大体どの家でもそうと決まっているが、台所には冷蔵庫があるものだからだ。捻くれた初月も、ここについては捻くれようがなかったのか、私の望んだ通りにそれはそこに置かれていた。冷蔵庫を開けて、閉じる。水のペットボトルしか入っていなかった。冷凍庫はと見れば、冷凍食品がぎっしり詰まっている。翔鶴姉といい初月といい、食事にはもっと気を使うべきだろうに。でも今から外に出て買って来ようとは思えなかったので、私はドリアを二つ取り、両方ともコンロ下のコンビネーションレンジ(電子レンジ機能付オーブン)に突っ込んだ。シンク脇の一番上の引き出しから、使い捨てのプラスチック製スプーンを二本取る。その下の引き出しを見れば、紙コップがあった。それも二つ取り出しておく。

 

 キッチンカウンター越しに初月の方を見れば、彼女は情報の精査をまだ続けているようだった。誰が翔鶴姉を殺したのか、本気で突き止めようとしていることは、最早一点の曇りもない真実と見てよいのだろう。そのように信じられるというだけで、私の彼女への感情はそれなりに緩和された。便器に頭を突っ込まれたのも、指を折られたのも、車ではねられたのも、今は脇に置いといてもいいかな、という気分になってくる。

 

 電子レンジのベルが鳴る。「僕の分は?」と初月が言う。ないものと思っているのだろう。が、彼女が当てこすってくるタイミングには、いささか分かりやすいところがある。よって既に私は、この性悪な駆逐艦娘に適応し始めていた。だからこそ二つ温めたのだ。黙って二皿のドリアとスプーン、コップを持っていく。部屋の中央にはダイニングテーブルがあったので、そこに配膳した。キッチンに引き返し、水のペットボトルを持ってきて、コップに注ぐ。そこまでやった辺りでむすっとした初月がやってきて、私たちは食卓についた。お互い「いただきます」の一言もなしに、食べ始める。何口か食べると空腹が落ち着いてきて、喋る気にもなった。

 

「あんた、翔鶴姉にもそういう態度だったの?」

「初めて会った頃にはな。お前と違って感情が揺らがないから、面白くなかった。それとは関係ないけど、今は割と楽しんでいられるよ、瑞鶴。脱走兵を匿う対価としては、ちょっと割に合わないが」

「自分だって命令違反してる癖に。それで、ねえ、明日はどうする?」

「命令違反と脱走は全然違う」

 

 軽いジャブ程度の嫌味を互いにぶつけ合い、合間に次の行動について尋ねる。初月は一呼吸分の間だけスプーンを止めて顔を上げ、瞳を宙に迷わせると、また食事に目をやって答えた。

 

「まずは浦風だ。少し遠いから、僕が車を出す。話を聞ければそれでいいが、もし聞けなかったら、別のことをしよう」

 

 特別深く考えた答えではなかったんだろう、初月はぼんやりと『別のこと』という表現を使った。そこを見逃してやる優しさは、当然ながら私の心の中にも存在した。が、その“優しさ”に貼り付けたラベルを見てみると、それは全部翔鶴姉や他の友人たちの為のものとして予約されており、初月の為にキープされている分は存在しなかった。

 

「つまり最初に浦風に当たって、ダメだったら行き当たりばったりで、ってことかあ。プランがないのはいいけど、せめて車の免許はあるんでしょうね?」

「そうだな、免許はあるが、分別を失くしそうだ。ところで、あの閲覧できないファイルをどうするべきかな。僕はああいうの、あんまり得意じゃないんだ」

 

 メモリーカードの中にあった、もう一つの手掛かりについて、初月は素直に降参の態度を示した。私も追随して両手を上げたかったが、彼女の前で弱気に振る舞うのは気に入らなかった。と言って、突然私が電子の女王に生まれ変われる訳もない。私は電子的には全くの無力なのだ。けれど、そのことを恥じる理由はないだろう。どんな形式かすら分からないファイルを開く方法なんて、私が深海棲艦と戦っている間には必要としなかったのだから。それに私は無力でも、私の知人全員までがそうだとは限らないのだ。

 

「一人、詳しそうな艦娘を知ってる。まあ、私に手を貸してくれるかどうかは分からないけど、翔鶴姉の為だったらやってくれるでしょ」

「僕とお前の二人でも多すぎるのに、三人目を加えるのか。いいアイデアじゃないが、他に手がないならそれで行くしかないだろうな。で、誰だ」

最上(もがみ)。私と翔鶴姉の元艦隊員のね。最後に会った時に、海軍で電子戦についてあれこれ研究してるって言ってた」

 

 臆さずに認めよう。電子戦なる戦いがどういうものか、私は詳しくない。戦争当時、そういう業務に携わっていた軍の連中から、世間話ついでに聞いた知識がある程度だ。私は高校で文系を選択したが、その私に電子が何か分からないということは、それはきっと現国や日本史の時間には教わらないものだったに違いない。私が日常でそうと意識して触れることのある電子関連の物品は、今食べているものを温めてくれた便利な機械だけである。これは多分、かなりひどい水準の理解なのだろうが、初月も私と同程度の意見しか持っていないようだった。

 

「なら、僕らよりは詳しそうだ。念の為に聞くんだが、その最上の正確な所属先は?」

 

 私は自分たちの科学的貧困に一抹の悲しみを覚えながら、溜息を吐いてその質問に応じた。

 

「軍警なら、あんたも名前は知ってるでしょ……第二特殊戦技研究所よ」

 

 私の言葉を聞いて初月は渋面を作った。これについては責められない。仕方のないことだ。それというのも、現在の軍警察総司令官を務めている女傑が、彼女の伝説的キャリアの多くをこの研究所で過ごしたからである。第二特殊戦技研究所は艦娘を用いた戦術理論の考案・構築や、最新の軍事技術に関する実践的な試験を行う組織であり、その必要性から鎮守府や泊地ではないにも関わらず、艦娘によって構成された艦隊の所有を認められている。言うまでもなくその指揮を執るのは提督であって、終戦の実現に一役買った功績を受けて栄転するまで、軍警司令殿はその職務を果たしていた、という訳だ。

 

 初月はきっと、軍警司令の古巣に足を踏み入れることで、余計なものを刺激したくないのだろう。軍警だって組織だ。一枚岩の組織などというものの実在は、極めて疑わしい。司令の政敵が、部下に彼女の古巣を漁らせて弱味の一つでも握ろうとしている、と勘繰られて、司令派閥のお偉方にまで連絡が回ってしまうのを恐れているのかもしれない。私は生来の性格のお陰か、正直なところ復讐さえできれば後はどうとでも、という気がしているが、初月はそうではなさそうだ。この後の人生にまで考えを及ばせて渋るのも、当たり前と言える。

 

 私だって、本音の部分では、行きたい場所ではないのだ。最上に会うのは気が引ける。彼女は翔鶴姉について、私のことを責めるだろう。言葉にしてか、それとも態度でか、行動によってか……分からないが、最上が私を暖かく迎え入れてくれるということだけは起こるまい。私は翔鶴姉の葬式にすら行かなかったのだから、それが相応の扱いというものだ。言い訳をすることはできる──提督といがみあっていたせいで外出許可が下りなかったんだとか、何とか。でもそれは、余計に最上を怒らせるだけに終わる。彼女は言うだろう。「君がちゃんとしてれば、そうはならなかったってことじゃないか!」そして、私はそれに反論する為の言葉を持っていない。その通りだからだ。

 

 最上は私を、二度と友達とは認めてくれないだろう。かつて艦隊員だったことさえも、認めたがらないかもしれない。だが、それでもよかった。彼女が戦友として今も翔鶴姉のことを愛してくれているなら、それで十分だった。仮に彼女の愛情が、死んだ相手の為に何かする気になれないほどのものだったとしても、その時にはその時なりに、取れる手段というものがある。翔鶴姉が生きていたら、絶対に許さなかった類の手段だ。

 

 初月が難しい顔で黙ってしまったので、私も言葉を発さないまま、わびしい夕食を食べ終わった。プラスチックの皿とスプーン、コップを取って立ち上がり、踵を返してシンクに向かう。軽く洗って、とっとと寝てしまおう。そう考えていると、初月が私に声を掛けた。「寝る前に、僕の物資をもう一つ二つ使って、明日の為の用意をしておいた方がいいぞ」カラーコンタクトを使い、髪を黒染めした上で私服を着ておけば、艦娘とは気づかれにくくなる、と彼女は言った。もっともな意見だった。世の中の大半の人は、艦娘が変装するなんて考えない。髪形を変えた黒髪黒目の私を見て「瑞鶴」だと気づく者がいたら、それは海軍関係者か、筋金入りの艦娘マニアか、でなければ私とは別の瑞鶴だろう。

 

 私と同じく食べ終わった性悪駆逐に連れられて、今夜過ごすことになる寝室に向かう。初月はその部屋のクローゼットを開けると、中に置かれていた箪笥から無造作に染髪料とコンタクトの箱を取り出し、こちらに放り投げた。それらを受け取るついでに、クローゼットから適切な大きさの寝間着を見つけ、拝借しておく。明日の外出時に着ることができそうな服もあったので、それにも目をつけておいた。初月には適合しないサイズだから、翔鶴姉の為にでも用意されていたのだろうか。その疑問の答えを知っている少女姿の捻くれ者は、私が無断で服を取ったことに対して驚き失望している、という嘘を平坦な声で義務的に口にしてから、クローゼットを閉めた。

 

 そのまま彼女が出て行こうとするのを呼び止める。初月は上機嫌とは言えない態度で振り返り、「まだ何かあるのか?」と私の発言を拒むような気配を込めて訊ねた。その言葉には、艦娘でも初年兵や、そこいらの泊地の中堅辺りまでなら脅せるほどの威圧感があった。幸い、私はその区分に含まれていない自覚があるので、気にせずに率直な要求を述べることができた。「自分で染髪すると()()ができそうだから、やってくれない?」初月は本心からのものだと確信することのできる、深く疲れた様子の溜息を吐き出すと、呟くように言った。

 

「あの時、お前を便器に沈めたままにしておけばよかった」

 

 お生憎様だ。

 

*   *   *

 

 翌朝、私はベッドから出て着替えを済ませた後、洗面所で簡単に身支度を整えながら、自分が今や黒髪黒目の、民間人みたいな姿になっていることに慣れようと努めた。鏡に映った歯ブラシを口に突っ込んでいる私は、一ヶ月前の同じ時間帯の自分と比べて、たった二つの要素が違うだけだった。だが明らかに、それは見た者に与える印象を、極端に大きく変えてしまっていた。鏡に映る、瑞鶴によく似た私の姿に半ば嫌悪感を抱きつつも、それが今の自分であることを理性的に受け止めようとする。でも私は艦娘「瑞鶴」になる前から、感情に流されやすいタイプだった。洗面所から居間に出てきた私の眉根が寄っていることに、初月は一目見てすぐさま気づいたことだろう。彼女が反応しなかったのは、そんなことよりも重要な問題があるからにすぎない。つまり、朝食である。

 

 テーブルの上の皿には、またしても冷凍食品と思われるパスタが盛られていた。一皿は初月のものであり、もう一皿は私の為に用意されたものらしかった。初月なりに、互いの間に存在する摩擦を緩和しようと試みているのかもしれない。なら、昨日までよりはマシな関係を築けるだろうか。席に座り、皿の横に置かれていたフォークを取って、麺を一巻き口に運ぶ。伸びていた。初月の皿を見る。こちらのものと同じ様子には見えない。私は口の端がぴくりと動くのを感じた。何が摩擦の緩和だ。これは嫌がらせだ。昨夜、染髪をさせたことへの仕返しだろう。それにしても、何というつまらない仕返しだろうか。こんな下らない嫌がらせは戦争が終わって以来、ずっとご無沙汰だった。

 

 懐かしささえ覚えながら、伸びきった麺を胃に押し込んでいると、先に食べ終わった初月が席を立ち、キッチンカウンターの上に置いてあった眼鏡用のケースと、二枚の紙を持って戻ってきた。彼女はそれらを机の上に置くと、「ん」と小さく唸るように声を出して、私の方へ押しやった。食べる手を止めて、紙切れを見る。一枚は退役証明の書類だった。私ではない瑞鶴の写真が貼られており、その瑞鶴は終戦直前に退役したことになっていた。興味深い内容だ。その書類を置いて、もう一枚を見てみる。そちらは医師の診断書のようで、彼の患者が、戦闘中に目を負傷した際、不運にも感染症に罹患(りかん)して失明したことが書かれていた。私は浅はかさに対する軽蔑の笑いを漏らした。

 

「この紙二枚見れば、その眼鏡ケースの中身も分かるってものよね」

「眼鏡ケースだからな、眼鏡に決まってるだろう。お前は自信満々に何を言ってるんだ?」

 

 もしこの時私の右手がフォークを握っていなければ、初月は半笑いの顔で(くだん)のケースを受け止めることになっていただろう。左手で投げてもよかったが、私は右利きだった。コントロールに欠ける側の手で投げても、みっともない暴投になって恥を晒しかねない。それなら、ここは我慢する方がいい。初月の顔を見ないようにしながら左手だけでケースを開けると、予想と言葉通りのものが入っていた。サングラスだ。かなり濃い黒のレンズがはめられている。私に視覚障害者のふりをさせるつもりなのは、これで確定した。

 

 基地や研究所の検問を通る時に、そういう設定を使うんだろう。元艦娘で、浦風/最上のいた艦隊に命を救われたが、視覚を失って退役。終戦から数年経ってふと思い立ち、お礼参りにやってきた。少しありきたりだが、ありそうな話ではある。白杖がないのは、初月にその役割を負わせる為だ。それなら、私の介助を名目にして二人揃って中に入れる。まあ白杖を持っていたところで、視覚障害者の同行者にだけ進入許可を出さない警備兵なんて、そうそういるものではないとは思うが。視線を上げてケースの中身から初月の顔に焦点を合わせると、彼女は命令口調で言った。

 

「お前はそのサングラスを掛けて、黙っていろ」

 

 私は言われた通り、サングラスを掛けた。初月は続けて言った。

 

「門衛には僕が話をつける。何か言われても、反応しないでいい。ただ口を閉じているんだ。分かったな?」

 

 そのまま、ぼんやりと虚空を眺める。「おい、聞いているのか?」と性悪駆逐が焦れたように言う。でも彼女もじきに気づいて、にやりと笑うと腕を組んで頷いた。「何だ、完璧じゃないか。いいぞ、その調子だ」私はサングラスを外し、ケースに片付けた。いつもの癖で懐に収めようとして、そもそも今の服装に“懐”が存在しないことを思い出す。私は無地のTシャツにジーンズを身に着けていた。そんないい加減な格好を最後にしたのは、民間人だった頃ではないだろうか。戦中は休暇中を除き、私室外での私服着用が禁止だったから、どうせ禁を破って着るならばと、もっとお洒落と好みを追求した服を身に着けていたのだ。

 

 数年ぶりどころではない簡易な装いに感慨深いものを覚えながら、私はケースを無理やりジーンズのポケットに押し込んだ。違和感の大きさに、むずむずしてくる。車を降りる時には、ケースだけ車内に残していくとしよう。食後の短い休憩の後で、私たちは出発することにした。が、玄関口で早速立ち止まる。後ろの初月が、私の背中を軽く押してさっさと進むよう促した。でも、止まったのには理由があるのだ。「靴……」と私はばつの悪い気分で呟いた。翔鶴姉の家から逃げる時、私は靴を脱いだまま外に飛び出した。そこから初月の車でここまで来たのだ。靴は証拠物件か何かとして押収されていなければ、今も翔鶴姉の家の玄関に転がっている筈である。

 

 と、初月が私の体をぐいと押しのけて横から出てきた。先に外へ出るつもりなのかと思ったが、彼女は靴箱の下の隙間を指差した。一足の靴がそこには置かれている。つくづくこの初月は、性格が悪い割に用意のいい艦娘だ。きっと海軍時代にいた艦隊で長い間、二番艦を務めていたんだろう。誰かをサポートするという行為が、骨の髄まで染み付いているかのようだ。これでもう少しだけ友好的な性格をしていれば、今頃は大勢の友達に囲まれていたことだろう。靴を引っ張り出して履こうとし、そこで止まる。マジックテープ式の、白くて野暮ったいスニーカーだった。小学生でなければ、八十代の老人が履く靴だ。はっきり言って履きたくなかった。けれども、視覚障害者が履く靴としては、紐式より扱いやすいマジックテープ式という選択は理に適っている。

 

 仕方なく私はそれを履いた。エレベーターで下り、駐車場に向かう。初月の車はミニバンタイプの軽自動車で、昨夜の私の推測通り、ハイブリッド車だった。運転席に乗り込む初月の姿は何処か堂に入っていたが、中学生程度にも見える彼女がミニバンの運転席に座っているのはちぐはぐに感じられた。また、艦娘としての制服をきっちりと着込んだ彼女のかもし出す、涼やかな格好良さとでも言うべきものは、軽ミニバンという所帯じみた車によって見事に台無しにされていた。彼女が後部座席に座っていて、運転席に壮年の男性が乗っていたら、親子にも見えるだろう。

 

 私が助手席に座り、車が走り出すと、やることがなくなった。カーステレオをいじってもよかったが、音楽やラジオに耳を傾けたい気分ではなかった。結局、私は初月が持ってきていたノートパソコンを開いて、翔鶴姉の捜査資料を眺めることにした。普通の人間なら車酔いになるところだが、私は艦娘だ。しかも実戦を長く経験してきた。従って私の三半規管は海の波や、砲火を回避する為の不規則な運動に鍛えられている。酔うことへの心配は一切していなかった。モニターを見ながら、浦風に聞くべきことを整理することにした。質問というのは、何を訊ねたいかきちんと理解している者から問われてこそのものだ。

 

 まず何よりも、浦風のいた艦隊や、同じ提督の下にいた第四艦隊の艦娘たちの失踪について聞かなければいけない。思い当たることはないか、何か知らないか……きっと彼女は翔鶴姉がこの件を調べるより前にも、それについて聞かれているだろうが、私たちは知らないのだ。浦風も失踪した艦隊員たちも、転属しているという点だって不思議だ。普通、艦娘は艦隊に愛着を持つ。その艦隊が余程ひどいところでなければ、その艦隊の所属であるということへの誇りを感じるようにもなる。転属を望むことなど「艦隊が自分を除いて全滅した」などの例外を省けば、滅多にない。今時の艦娘ならどうか知らないが、私や浦風は戦争を経験し、そこを戦友と共に生き延びてきた艦娘だ。これについては、同じように考えるだろう。

 

 これで二つ目の質問は決まった。第三・第四艦隊の艦娘たちの転属理由は何なのか、だ。三つ目は、唯一翔鶴姉のリストになかった第四艦隊の旗艦についての質問になるだろう。彼女の艦名や現在の所属(もしまだ海軍にいるならだが)、動向なんかを聞けば、リストに載らなかった理由が分かるかもしれない。翔鶴姉が除外しているなら、そこを詳しく突っつく必要はないと考えることもできるが、知っておいて悪いこともないだろう。もしかしたら、もしかしたらだが、翔鶴姉の除外こそが間違っていて、真実に迫る手掛かりになることだってあり得るのだ。

 

 朝と早朝の境目ぐらいにセーフハウスを出たお陰で、車の数は少なめだった。初月はすいすいと危なげなく車を走らせていく。私は彼女が運転免許取得の為に、民間の教習所で講習を受けている時の姿を想像しようとした。教官もさぞやりづらかっただろう。相手は可愛らしい女の子に見えるのに、実際は殺し合いを何度も経験した兵士なのだ。力だって強い。しかも軍や軍警に在籍している艦娘が民間人を殴ったりすると、大変な罰を食らいこむことになるが、それが何処までの抑止力になるか、殴られる危険性のある当の民間人たちには分からないのである。仮に分かったとしても、殴られて頭がトマトピューレになった後では、下手人がどんな目に遭ったって、被害者にとっては何の慰めにもならないだろう。

 

 考え事のせいで手が止まっているのに気づく。足元からは、眠気も這い上がりつつあった。会話もなく、音楽もなく、資料から新しい発見があったのでもなければ、そうなるのも納得の話だった。睡眠欲を抑えようと試みるが、中々上手くいかない。意識が数秒消滅しては、車が曲がったり、止まったりした勢いで目を覚ます。どうにかしなければ、と考えていると、横の初月が前を向いたまま言った。「眠っていていい」彼女の感情というものが読み取れない横顔に目を向けて、その短い言葉に続きはないのかと言外に訊ねる。初月は肩を軽くすくめて、私の要求に応じた。

 

「横でうつらうつらされると気が散るんだ。寝ててくれた方がいっそありがたい」

「私がいびきを()くのを聞けば、その考えも変わるでしょうね。横でうとうとされたくないって言うなら、どうして簡単で気安い、ちょっとした会話みたいなものを試してみようとしないの?」

 

 初月は笑ったが、その笑いが生まれた理由が、私の言葉を何か大変に面白いものとして受け取ったからではないことは、その「はっ」という短い発声によって明白だった。気の立っている時の私なら、このくらいの嫌味でも頭に血が昇っていただろう。でも今の私は、彼女のその不愉快な笑いを聞き流してやる心理的な余裕があった。

 

「おい、今なんて言った? 会話だって? お前と僕とがか。ふうん、試してみてもいいだろうな……何回か言葉のキャッチボールを済ませた後で、お前を助手席から蹴り出す自分の姿がまぶたに浮かぶよ」

「駆逐艦に正規空母が蹴り出せるかしらね」

「さあ、自信はないな。叩きのめせるってことは証明済みだが」

 

 そろそろ、トイレで洗顔させられた話を含めて、私たちの初めての出会いに関する冗談は陳腐化し、つまらなくなり始めていた。初月もそれを認めていたのか、今言った以上のことは付け加えなかった。退屈な静けさが戻ってくるのが嫌だったので、私は尋ねた。「戦争中は何処にいたの?」すると彼女は、ぴしゃりと音が立ちそうなほど頑なな態度で言い返した。「ここは退役軍人会館じゃない。お前と違って、僕は思い出話をするにはまだ若すぎる」話したがらないということは、僻地にでもいたのだろう。それこそ単冠湾や幌筵(ぱらむしる)、または国外ならトラック、パラオ、ブイン辺りかもしれない。戦中に誰かから聞いた噂では、パラオには何処かしら()()()()艦娘が集まる傾向があったということなので、パラオ泊地所属説が濃厚だ。

 

 切り口を変えてみよう。私は彼女の艦隊について訊ねた。初月は答えなかった。旗艦についてならどうだろう? 誰でも艦娘なら、長く付き合った艦隊旗艦に対して一つ二つ思うところだとか、誰かに話さずにはいられないエピソードがあるものだ。私にだってそれはある。翔鶴姉とは、艦隊員としては比較的短期間の付き合いだったが、その分濃厚な時間を過ごした。たとえば私は、翔鶴姉がごく短い時期、趣味にしていた文通をやめた切っ掛けを知っている。彼女は私の知らない誰か、多分男と、他愛のない手紙を送りあっていた。初め、届いた手紙は艦隊員みんなの読み物として扱われていた。でもすぐに、翔鶴姉はそれを隠すようになった。何故かは知らない。卑猥なことでも書くようになったのだろうか。だとすれば隠すのも当然だ。

 

 さて、その頃には既に、翔鶴姉の“隠し場所”は私の知るところとなっていた。だが私は、手紙を勝手に読むような真似はしなかった。真実を言うなら、できなかったのである。それはこういう風にして起こった。私は翔鶴姉の目を盗んで手紙を読むつもりで、彼女の部屋を訪れた。翔鶴姉は優しく微笑み、悪巧みをしている私の為に温かい飲み物を作ろうとした。ところがお茶を切らしていて、あるのは朝食代わりのシリアルに掛けて使う為の、低脂肪ミルクだけだった。翔鶴姉はせめて温かさをと思って、マグカップにそれを注ぎ、何も考えずに電子レンジへセットし、ボタンを押した。私たちはテーブルにつくと、姉妹同士の打ち解けた話を楽しんだ──電子レンジが甲高い警告音を立てて止まるまで。翔鶴姉は首を傾げながら立ち上がり、電子レンジの扉の分厚いガラス越しに、もうもうと立ち込める黒煙を見た。そうして全てを理解した時、彼女の膝は自然と床に叩きつけられていたのであった。

 

 以降、翔鶴姉は手紙のやり取りをやめた。彼女が費やしてきた時間や、その中で培った関係を証明する何枚かの紙が、この世から永遠に消え去ってしまった時、何かが同時に彼女の中から消え去ってしまったのだろう。それが手紙の向こう側にいた男に対する情熱だったのか、もっと違うものだったのか、それは今となっては永遠に分からない。翔鶴姉は死んでしまったし、文通相手の男については何も知らない。いつか私が地獄に落ちたら、天国に向けて手紙でも書いて、聞いてみてもいいだろう。

 

 以上のような、翔鶴姉がいかにうっかりしたところのある人だったか、というテーマの話は、初月にもそれなりの同意を以って迎えられた。彼女は戦闘時にはとても頼りになる人だったが、海から上がると危なっかしい感じが抜けない人だった。賢明だが、変に世間ずれしていない、嫌味なところもない人だった。「あんたとは大違いでね」と私は初月に言った。彼女は小さく鼻で笑った。それから、私が話したのに自分が何も言わないのが不公平な振る舞いだとでも思ったのか、思い出したくもない記憶を掘り起こしている最中の人間に固有の、眉を寄せて目を鋭くした表情を浮かべながら、短い言葉で話を始めた。

 

「僕の旗艦は最低のクソ女だったよ。多分、艦隊の誰にも好かれてなかったんじゃないか」

「なんか、想像つくかも」

「その想像の千倍はひどかったさ。何がひどかったかなんて、一々挙げられないぐらいにな。でも一番気に入らないのは、僕が確かに彼女の影響を強く受けてるってことだ。話し方も、考え方も、些細な癖まで」

 

 初月は右手をハンドルから離して、アメリカの大統領が聖書に手を置いて宣誓をする時みたいに、肩の高さに挙げた。それからその手を、ハンドルに打ちつけるように戻した。彼女は言った。

 

「どんなことか分かるか? 自分が、自分の心底嫌いな人間の、縮小コピー版でいるというのが」

 

 正直に、分からないと答える。私にも嫌いな人間や苦手な相手はいるが、そういう連中に不可逆的な影響を受けた経験はない。初月の話し方は真摯だったので、知ったかぶりをする気にもならなかった。彼女は呟いた。

 

「それは、自分を好きでいられなくなるってことだ。あんまり健康的なことじゃない」

 

 沈黙が訪れたが、この時は私もそれを払拭しようとは思わなかった。私は膝の上に開かれたまま乗っていたノートパソコンを閉じると、頭を窓にもたれ掛からせた。呉鎮守府に着くには、まだ暫く掛かりそうだ。聞いてもいなかったのに、「昼前には着く」と初月が請け負った。

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