初月は言ったことを
すると電話越しの短いやり取りの後、浦風の知り合いだという駆逐艦娘「
陽炎は電話に出た友人に簡単な挨拶をすると、駆逐艦娘らしい単刀直入な、好感の持てる切り口で用件を話し始めた。電話先にいる浦風の声は聞こえなかったが、陽炎の受け答えからすると、悪い感触ではなさそうだった。じきに陽炎は電話を切り、また明るい笑みを顔一杯に広げると、右手の親指と人差し指で
呉鎮守府を去り、浦風の家へ向かう。聞いた住所に近づくにつれて、町並みに変化が現れる。アパートやマンションが少なくなり、一軒家が増え始めたのだ。それらはどれも最近建てられたものと見える新しさで、家屋自体の大きさや庭の広さから見て、そこそこ裕福な層の人々が住んでいる区域と思われた。浦風も彼らと同じで、小金持ちなのだろう。その理由は想像がつく。戦中組の艦娘で、給料に対してのスタンスが中庸だった者は余りいない。死ぬ前に使い切ってしまえとばかりに、入ったら入っただけ使ってしまうか、戦後が来るという大穴に賭けて溜め込むかのどちらかだった。浦風はその賭けに勝った側の艦娘だったのだと思う。羨ましいことだ。
そういった無邪気な羨望を捨て、初月に声を掛ける。浦風の家に着く前に、決めておきたいことがあった。彼女は私たちが礼を言いに来たと思っているだろう。それなのにいきなり彼女の単冠湾時代の話だとか、失踪した艦隊員たちの話を切り出したら、不審この上ないではないか。聞きたいことを聞く為に、どう話を持っていけばいいか、私たちは考えておくべきである。けれど、初月の意見は私のとは異なった。「僕に任せておけ。お前は当たり障りのない相槌でも打っていればいい」むっとするが、情報を聞き出すというのは技術のいることだ。そこへ行くと、初月は軍警の捜査官だという。つまりプロフェッショナルであって、何処まで行ってもアマチュアでしかない私にはないものを、彼女は持っているのだ。従うのが賢明だろう。私は頷き、初月も満足そうに頷き返した。
浦風の家は小さめの庭が付いた、品のいい一戸建てだった。ガレージもあったが、車の代わりに原付と自転車が一台ずつ端に寄せて入れられているだけだった。シャッターが開いていたので、初月はそこに車を入れた。私は目を閉じると、彼女が車から下り、助手席のドアを開けてくれるのを待った。本物の視覚障害者の方々がこういう時どうするのか知らないが、一人でドアを開けて、初めて入ったガレージの中にひょいと下りるよりは、同行者に手伝って貰って下りた方がそれらしいだろう。必要に基づいて演技をする以上は、きちんと徹底しなければいけない。「今そっちに行く」シートベルトを外しながら、初月はそう言った。「はいはい」と適当に返す。
助手席のドアを開けて貰い、初月の手を取って下りると、玄関の扉が開く音がした。浦風がエンジン音を聞きつけて出てきたのだろう。スリッパのものと思しき、ぱたぱたという足音が近づいてきて、少し離れたところで止まった。どうするか迷うが、ここは初月に任せて私は余計な手出しを控えることにしよう。そう思っていると、先に浦風が口を開いた。「まあまあ、よう
「大変
家に入るまでに、私たちは常人の何倍かの時間を掛けた。玄関口でくるりと踵を返し、初月の手で片足ずつ靴を脱がせて貰う。丸っきり介護だ。浦風が何歩か先を歩きながら告げる。「こっちが居間になっ
浦風は自ら椅子を引いてくれ、テーブルに体をぶつけないよう気を使ってもくれた。初月に支えられながら腰を下ろし、溜息を吐く。家に入って座るだけで、一仕事し終えた気分だ。まぶたを間に挟んでいてもにこにこ顔が浮かびそうな声のトーンで、浦風は初月と雑談を交わしている。水音や、それに混じってかちゃかちゃと陶器が触れ合うような音がするので、飲み物でも用意しているのだろう。
「
浦風の気配が近づいてきて、私の前に何かが置かれる。コップか、湯飲みか……そっと触ってみると、後者だと分かった。私の為にか、中の液体はぬるめのようだ。少し息を吸い込むと、お茶のいい匂いがした。一口二口すする。ほっとする味だ。「薄うない?」家主にそう聞かれ、微笑み返して大丈夫だと答える。「ああ、そりゃ
「あんた“瑞鶴”
目を細く開けて、サングラスのレンズ越しに浦風の表情を盗み見る。私の真向かいに座った彼女は、想像していたような朗らかな笑顔など浮かべてはいなかった。どうするか、急いで考える。何か言わなければならないだろうか? その辺のことは初月に任せるとさっき決めたが、こんな展開になるとは思っていなかった。それは初月も同じだったようだ。彼女もまた、口を閉じたままだった。浦風の顔が警戒の色を濃くする。「あんたぁ
「軍警だ。ほら、これを見ろ」
前に私にも見せたIDカードを、浦風にも見せる。彼女は一瞥してから、信じていないことを態度で示した。「軍警が何で
浦風に気を使う必要はないのだが、それでも相手を欺いていたことを目の前で暴かれては、気まずい感じを抱かずにはいられなかった。ちらりと視線をやると、彼女は腕を組んで鼻を鳴らした。「それで?」初月と私を交互に睨みつけて、
「単冠湾にいた頃のあなたの戦友の多くが姿を消しているのは、知ってるわね」
知っていなかったら赤っ恥だが、私には確信を持ってこう言うことができた。戦友とは掛け替えのないものだ。それが、転属してバラバラになった後でとはいえ、十数人も消えている。こんな大事を知らないでいたなら、浦風は終戦以来ずっと、目を閉じ耳を塞いで生きてきたということになる。胡散臭い相手と話す煩わしさを払おうとしてか、彼女は手をひらひらと顔の前で振った。蚊を払うような動きだった。
「知っとる。軍警が何回かうちのところに来たのは、まさにその件についてじゃったけえね」
「改めて、その件について何か知っていることはない? 前に話したことでも、もう一度教えて欲しいの」
「そういうことなら、喜んで繰り返しちゃるわ。
私は彼女の言葉を聞き終わってから、それが挑発だったのだと気づいて奇妙な気持ちに囚われた。それを不思議に感じる理由はないのだが、私は丸くなったようだ。現在の私を本気で怒らせたいと願うならば、浦風はもっともっと心を捻じ曲げてどす黒くし、相手の本当に大事にしているものを踏みにじるような発言をしたり、日常的にしつこく絡むなどの手間を踏まないといけないだろう。
「じゃあ、消えた艦娘たちやあなたは、どうして単冠湾から転属を? 戦争中なら戦功を上げて横須賀や呉に、ってルートもあったでしょうけど、それじゃないでしょ」
「終戦後に、幌筵泊地がロシアに配慮してからのうなったじゃろう。あれほどじゃあ
筋は通っている。どうせ追い出されるならと一番いい席を狙うのは、理解できる行動だ。彼女の言葉が真実であると証明してくれる物的な証拠はないが、ただちに何らかの疑いを掛けるべきだとするいかなる理由も、私には見つけられなかった。浦風の怪しさは特に消えることもなく残っているのだが、そう感じるからというだけでは、いかに私と言えど極端な行動に出ることもできない。いっそ彼女がこちらを最初に疑った時、飛びかかって来てくれればよかったのに、と私は思った。そうしてくれていたら、物事はより単純になっていただろう。暴力ほどシンプルで、艦娘にとって根源的な概念は存在しない。今は疎遠になってしまったそれに想いを馳せていると、浦風の方から私に訊ね返してきた。
「まだ前にも言うたことしか聞かれてないんじゃけど、あんたら前任のから情報の引継ぎとかしてないん?」
答えに詰まる。前任とは翔鶴姉のことだと思うが、何故彼女から何も聞いていないのか説明しようとするのは、難しい行為だった。翔鶴姉が死んだと告げるのは悪手だろう。浦風を怯えさせることになりかねない。それで口を閉ざされてしまえば、手掛かりが一つ消えることになる。捜査がもっと進展して、どのルートから真相を目指すか迷う段階にでもなれば、それも受け入れられるだろう。だが、今はダメだ。浦風は貴重な情報源であり、私の目的を遂行する為に必要な人物なのだ。だから引継ぎが行われなかったのは何故か、ということについて、穏便かつ浦風を納得させられる説明を捻り出さなくてはいけなかった。なので、初月がいとも容易く「ああ、彼女は死んだ」と言った時には驚いた。私は感情にまぶたを引っ張られ、目を大きく開いた。
「ちょっと!」
「お前や、お前のいなくなったお友達について調べている最中のことだった。言葉を濁さずに言えば、軍警の捜査官が、捜査中に殺されたんだ。これがどういうことか分かるか?」
制止を意図して声を上げるが、初月は気に介することなく続ける。言葉が彼女の薄い唇から流れ出すに従って、その顔には嗜虐的な笑みが広がっていく。私も浦風も、彼女をぽかんとして見ていることしかできなかった。初月の傲慢さには、もう慣れていた。彼女の捻じ曲がった理性と良心についても、まあ追々順応していけそうだった。しかし、これは何だろう? 彼女は初めて会った時、私が今の状況、翔鶴姉の復讐を試みているという状況を楽しんでいることを非難した。が、今の彼女だって、そうではないのか? 楽しそうに笑い、浦風に自身の獰猛さを見せつけて、噛みついてやるぞと言わんばかりである。いや、事実として噛みついているのだ──浦風の体に歯型が残ることはないが、彼女の心には深く残ることになる筈だ。
考えるまでもなく、この精神的な攻撃に対する駆逐艦娘の反応は察することができた。反撃である。浦風は怒りで顔を歪めると、テーブルを片手で叩いて立ち上がった。「はあ
が、初月はまたしても私の予想や想像を裏切った。「そうしよう」と浦風に返事をして、席を立ったのだ。浦風からしてみれば、交戦直前まで煽り立てておいて逃げ出したように見えたろう。彼女の闘争心に宿った熱は、行き場を失くすことになる。それがまた、浦風を怒らせる。冷静さを失わせ、判断力を鈍らせる。それでも彼女は、こちらに手を出して来なかった。いらぬ失言もしなかった。これは、並の艦娘にはできないことだ。つまらない艦娘は、つまらないことで怒り、手を相手の血で汚し、口を閉じることを忘れる。浦風はそうではなかった。
彼女は失礼な客がちゃんと玄関から出て行くかどうか見張るように、私たちの後ろをついてきた。先頭の初月がドアを開けた時、私は聞いていない質問が残っていたのを思い出した。現在の浦風に質問をするのは避けたいが、諦めることはできない。私は玄関から一歩出たところで振り返り、「最後に一つだけ」と切り出した。その時点で殴られなかったので、私は質問を許されたのだと解釈して、早口で問い掛ける。
「単冠湾時代のあなたの提督が指揮していた第四艦隊なんだけど、旗艦は今、何処にいるの?」
扉が音を立てて閉まる前に、浦風はぶっきらぼうに答えた。
「ありゃあ、とうに墓の下よ」
* * *
車に乗り込み、浦風の家のガレージから出て数秒経つまで、私は我慢した。その間に初月がいつもの嫌味や当てこすりを言っていたら、運転中でも彼女の頬を張っていたかもしれない。そうならなかったのは彼女が、一線を越えるタイミングというものを見極められる人物だということを表している、と見ていいだろう。皮肉も挑発も、常に相手の心の内側に入り込む動作だ。そうでなくては皮肉はただの的外れな悪口になり、挑発は空振りして、発言者自身を辱めるものになってしまう。初月はそういう行為に慣れ親しんでいる分、推測だが、口を開いていい時と悪い時の判断に長けているのだ。それなら言う内容についての判断も正常であって欲しかったが、それは欲張り過ぎか。
数秒が過ぎれば、私の頭も冷えていた。運転手のお陰で、怒りの鎮静にはすっかり慣れてしまっていた。だが、説明を聞かずに済ませることはしない。怒りが引いた分、私の中の困惑と疑問が強まっている。「どうして翔鶴姉が死んだことを話したのよ」私がそう訊くと、初月はこちらを一瞥してから答えた。「もし浦風が潔白なら、彼女は自分だって殺されてもおかしくない、と思うだろう」そこで左手をハンドルから離して、くるくると空をかき回すようなジェスチャーを交えながら、彼女は続けた。「そして、日を改めてやってきた僕らに協力してくれる」で、もし浦風が潔白なんかじゃなく、何らかの理由で、殺される訳がないという確信があったら──私たちは彼女がそう認識していることを突き止め、それ自体を理由として、疑いを掛けることができる。
残念なことだ。軍警ではない私や、軍警を抜けてもいいと思っている初月が疑いを掛けるということが、どれだけ重い意味を持っているのかを知っていれば、浦風はその重みを恐れて、決して私たちを追い出したりはしなかったろうに。ほとんどの艦娘は勇敢だが、仲間がおらず、完全に孤独な状態で普段の勇敢さを保てる者は、海軍全体を見ても少ない。自分の能力に対する信頼から、死という未来を一顧だにしない可能性もあるが、それはそもそも過信という行為であって、戦争を生き抜いたほぼ全ての艦娘が海に捨ててきた概念だ。浦風が傲慢さを保ったまま生き延びた、数少ない例外であると見なす理由もない。
現状、こちらから何かできる相手ではない浦風について考えるのをやめ、最上のことに思いを巡らせる。翔鶴姉が死んだ時に電話を掛けてきたのは、彼女だった。熊野でも、金剛でも、叢雲でもない。最上だったのだ。それが、私への友情がまだ彼女の中に残っていることを示す、小さな証であればいいのに、と思う。そんなことは期待するべきではないと、分かってはいるのだが。私は見境なく、相手を選ばずに揉め事を起こし続けては、翔鶴姉や最上たち元艦隊員に迷惑を掛けたのだ。彼女からしてみれば、かつて確かに友人だったからこそ、私を目障りにも感じるだろう。まして、今また大それたことをしでかして、それに最上自身までを巻き込もうとしている。暖かく受け入れられる筈がない。
憂鬱さに息を吐くと、腹が鳴った。こういう時、年頃の女性なら恥ずかしがるものなのだろうか、などと益体もないことを疑問に思う。初月も空腹を感じ始めていたようで、私が何か言う前に車はコンビニの駐車場に入った。手早くお茶と弁当を買い、車の中でもそもそと食べる。鎮守府や泊地の食堂に比べると味も量も落ちるが、大規模作戦で国外に出た時の食事を思い出せば、大体何でもおいしく感じられる。冷え切ったレトルトパウチの中身を、スプーンでかき出すようにして食べたあの頃の記憶を、「今ではいい思い出ね」と言えるようになるまで、まだまだ掛かりそうだ。
意外なことに初月はコンビニの食事が気に入らないようで、しかめっ面が一段ときつくなっていた。深いしわが眉間に寄るのを見て、私はその溝に定規を差し込んで、深さを計測してみたくなった。私の下らない妄想に気づかず、初月は目と目の間を揉み解しながら言った。「研究所の近くに、知ってる店がある。早めの夕食をそこで取ろう」彼女の移動計画を聞くと、研究所への到着は夕方になるらしい。私は最上を訪ねる前に食事していくことについて、不満を言わなかった。彼女に会って、話ができればそれでいい。昼に会おうと夕方に会おうと夜に会おうと、時間帯で話の内容が変わる訳ではないのだ。代わりに、私の中にあった艦娘像との違いについて告白した。
「秋月型はみんな粗食好きの貧乏舌かと思ってたけど、違ったみたい」
「その誤りに気づいたんだから、恥じることはない。僕も少し前まで、翔鶴型はみんな気立てが良くて人好きのする性格なんだと思っていたよ。なんて馬鹿な勘違いだ、そうだろう?」
息をするように同乗者をこき下ろす初月の言葉に、私は初めて笑ってしまった。変な反応だと思ったのか、彼女はこちらに顔を向けて、表情を確認した。笑いと一くくりに呼んだとしても、そこには様々な種類がある。最上が友人だった頃に言っていた──人の良さが覗く笑いもあれば、歯が覗くだけの笑いもある。私の今回の笑いは前者でも後者でもなかったけれども、純粋におかしさを感じてのものだったことは、初月にも分かったようだった。彼女はやれやれというように軽く息を吐いて、前に向き直った。それを横から眺めながら、私は何だか、明るい気持ちになっていた。彼女との会話を途切れさせたくなくなって、話題を探す。
「研究所の近くの店ってどんなところ?」
「一言で言えばカフェだ。テラス席があって、
二十歳を過ぎて少し経つが、まだまだ私は若いと言える年頃だ。ステーキという言葉に私が感じた魅力は、五年前にその言葉に対して抱いていたそれと寸分たりとも変わらなかった。この機会にしっかり食べておくことを密かに誓い、軍を脱走してよかった、と冗談めかして考える。出撃のことを考えると、お腹一杯食べるのはどうしても難しくなるからだ。腹が膨れている状態で動くと脇腹が痛くなるとか、そういう次元の話ではない。それは生き死にに直結する問題なのだ。艦娘は戦闘を行う。被弾しないこともあれば、体中を穴だらけにされることもある。もし敵弾を受けた時、腹にこれでもかというほど赤身肉を詰めていたら、胃液やら何やらでどろどろになったそれは
希釈した修復材は傷を治すことができるが、体内に漏れ出た異物を元あった場所に戻してくれまではしない。その負傷者が生きて帰れたとして、彼女は感染症に
初月は余程その「知ってる店」に思い入れがあるようで、私が過去の拭い去れない汚点を胸の中に蘇らせている最中にも、あれやこれやと熱心に語っていた。それによれば、二種のオリーブの盛り合わせが大体どの酒とも合うらしい。アルコールか、と私は呟いて唇をちろりと舐めた。艦娘の肉体はあらゆる面において、人間のそれよりも強靭だ。肝臓もその点において例外ではない。従って艦娘は、海防艦から戦艦まで、見た目と実年齢に関わらず飲酒が黙認されている。私もその黙認に甘えて、十八で艦娘になってからというもの、アルコールとは長く健康なお付き合いをさせて頂いている。ステーキサンドを食べるなら、一杯のグラスワインを添えてもいいだろう。伝統に従って赤にするか、それとも白でよさそうなのを探すか、ロゼワインという中間的な選択肢もある。贅沢にも悩んでいると、初月が言った。
「言っておくが、アルコールは禁止だ。運転手の僕が飲めないのに、お前だけ飲むなんて気に食わないからな」
「あれ、あんたも飲める方なの?」
「そりゃあもう、ヤマタノオロチのごとくね」
彼女の問答無用の宣告に不服を申し立てるより先に疑問が口から出て、即座に初月に返される。私がこれまでに見た食べることが好きな艦娘は、多くが酒を飲まない性質だったので、彼女もそうだと私は勝手に思い込んでいた。艦娘の内臓がアルコールに対応していても、彼女の味覚が酒を拒絶するということは少なくない。特に食への傾倒によって鋭敏になった味覚は、しばしば酒類による刺激を不快なものとして捉えてしまうのだ。私の知っているそういった艦娘たちの一人は、酔っ払うのは誰よりも好きだが、お酒の味は大嫌いという難儀な子だった。彼女は結局、酔う為に独特の方法を編み出すことになった。彼女は目で飲むのである。その話をすると、初月は感心したような顔になった。
「目で飲むって、どうやって?」
「だからこう、お酒を注いだショットグラスに顔を持っていくでしょ? それで目のところにグラスの
「なるほどなあ。でも、視力に悪影響が出るんじゃないか」
「飲んだお酒の種類にもよるけど、そうね。だから飲んだ後、希釈前の高速修復材をスポイトなんかで一、二滴ほど目に垂らすの。それで万事問題なしってね。すぐ酔えるし経済的だって、その子の艦隊全員真似してたわ」
すごい子たちだった、というニュアンスを込めて語ると、何かが初月の自尊心に触れたようだった。彼女は負けじと、自分の知る“すごい艦娘”について話し始めたのだ。初月の新しい側面を見つけた風に思われて私は微笑んだが、語りに気が行っている彼女は、こちらの表情の些細な変化になど気がついていなかった。
「僕の艦隊員にも、そういう手合いがいたよ。そいつは鎮痛剤と混ぜて作ったカクテルを、皮下注射器で果物に注射してから食べるんだ。でもある時、注射済みのその果物を、艦隊旗艦が知らずに食べてしまった。僕も含めて周りにいたみんな、一目散にその場から逃げ出したよ。トリップした彼女がどうなるのか、想像もつかなかった……」
初月の何気ない言葉の中で明かされた、彼女の艦隊員の退廃的な行為について、私は努めて気づかなかったふりをした。鎮痛剤をそういう風に使うなんて、まともな艦娘のやることじゃない。目で酒を飲むのも真っ当だとは言えないが、薬物は一線を越えていると思う。それとも私が知らなかっただけで、そういった不道徳は海軍において日常的なものだったのだろうか。だとしても、私はそれに手を染めようとは思えない。人生を投げ捨てる前に、まだやるべきこともある。私が自身の人生の終わりに直面して、脳の神経が焼き切れるような快楽を抱いて地獄に落ちようと決めるまでは、私と薬物とは互いに距離を保っていた方がいいだろう。
私たちは長い間、どちらがより衝撃的な話ができるかを競い合った。もちろん、そういうものばかりでは疲れるので、合間合間には下らない話も挟むことも怠らない。心躍るような楽しさが、私の胸を満たしていた。それに影響を受けたのか、初月も表情を柔らかくしていた。彼女は思っていたよりもよく笑う艦娘らしい。私が出撃直前の工廠で、最上が着用する前の脚部艤装に数匹のムカデを忍ばせた時のことを語ると、笑いすぎてハンドル操作を誤り、車を間違ったレーンに進入させてしまった。話だけでもそれなのだ。半狂乱になった最上が、固く結ばれたブーツ型艤装の固定具を解くことを忘れ、足を振り回してのた打ち跳ね回りながら暴れる姿を直接見ていたら、どれだけ興味深い反応を見せてくれただろうか。ましてやこの話のクライマックス、パニックで正常な判断力を失った最上が連装砲を構え、自分の足と艤装、そして周囲の工廠機材ごとムカデを吹き飛ばした光景を見ていたなら、私はきっと日報に「死者一名、死因は笑い死に」と記す羽目になっていただろう。
私は自然とこみ上げてくるにやにや笑いを抑えつつ、車を元のレーンに戻そうとする初月に言っておく。「今の話は秘密よ」すると彼女は、目尻を右拳で二、三回ぐいぐいと拭い、笑いすぎた後の喉の調子を整える為に咳払いをして、それでもやはり結んだ口元を綻ばせながら答えた。
「まあな、僕だって分かってるつもりだ。今から僕らは最上を説得しに行くんであって、怒らせに行くんじゃないってことぐらいは」
「そうね。それに怒らせるつもりなら、そんな話をしなくても私が誰だか教えてやれば、それで十分キレさせられるでしょ」
この推測を聞いた初月は、口の端を上げたまま、不審そうに眉を上げた。注目に値する器用さだ。どうやら、彼女は通常の艦娘たちが艦隊で育むことのできる友情について、事実からやや外れて美化された見解を持っているらしい。だが彼女がどれほど清く美しい艦娘たちの共同体という幻想を見ていようと、残念なことに、艦隊の中で不和が生まれることは、起こり得る。そんなことも知らないとは、少し驚きだ。ああ、でも、初月は自分の艦隊が気に入らないようだった。多分それで、他の艦隊は自分のところと違って、素晴らしい人々がいる素敵な場所なんだ、とでも思っていたかったのかもしれない。
「そこまで嫌われてるのか? お前の元艦隊員なのに。正規空母と重巡なら、お前の航空隊が最上の命を助けてやったことだって、一度や二度ってことはないだろう」
「戦中に救ったのと同じだけ、戦後になって彼女を傷つけてきたのよ。最上が不義理な奴だと思ってるなら、大間違いだからね」
「何とも思っていないよ、今のところは。実際、彼女が腰抜けじゃないんなら、どうでもいいんだ。僕やお前がこれからやろうとすることを手伝うには、かなりの勇気か……適切な動機が必要になるからな」
束の間、静けさが私たちの間に広がった。エンジンとエアコンの発するものを除いて、その場に他の音は存在しなかった。真面目な雰囲気という奴だ。私はこれが、そんなに好きではなかった。一方で翔鶴姉はきちんとした人だったから、私生活の外では大抵このやりづらい空気を身にまとわせていた。そういう時は決まって、私は彼女からそれを引き剥がそうと頑張ったものだ。冗談を言ったり、じゃれついたり、プライベートな話を振ったり、手は様々だったが、翔鶴姉がそれを望んだ時でなければ、成功したことはなかった。自分の話術がどうしようもないから失敗し続けていたのか、翔鶴姉が度を越してしっかりした人だったからなのか、ずっと気になっていたが、今日ここでその答えを知ることができそうだ。私は「動機って言葉で思い出した」と前置きして、話を始めた。
初月は乗ってきた。
* * *
車の運転席に乗り込みながら、性悪女が私に向かって言った。
「おいしかっただろう?」
「ステーキサンドはね。ジェラートはマズかったけど」
そうか? と言いたげに、彼女は首を傾げる。それを見て私が「あんた、やっぱり貧乏舌ね」と呆れて言うと、期待通りに彼女も言い返した。「そしてやっぱり、お前は底意地が悪くていけ好かない方の翔鶴型だ」そう聞いて、私は誰かにこのやり取りを聞かせてやりたくなった。これこそ本物の軍隊式“会話のキャッチボール”だ。これは榛名のような優秀だが女優崩れの艦娘や、戦争が終わってから艦娘になった戦後組みたいな連中とは、交わすことのできないものである。彼女たちが何らかの点で悪いという訳ではない。ただこういったやり取りや態度が、彼女たちの内面において、自身のものとしてこなれていないのだ。
日が沈む一、二時間前に、私たちは第二特殊戦技研究所に到着した。呉鎮守府でやったように、盲目を装って門衛に接する。中に入るのは無理でも、最上を呼び出して貰えればと思っていたが、流石に研究所は軍事機密などに関わる情報も多いせいだろう。けんもほろろという具合だった。とにかく正式な許可を事前に取って出直して来い、というのが彼の意見で、私も初月もこれを打ち破ることのできる反論を知らなかった。贈賄という言葉が頭を過ぎるが、そんな怪しい真似をすれば、追い返されるだけでは済まされないだろう。計画の頓挫にどうすればいいか悩んでいると、初月は彼女らしくない潔さで、門前を去ることに決めたようだった。
何か別の考えがあるのかと思いきや、初月は裏門の門衛に頼んでみることにしたようだった。まあ、人が変われば対応も大なり小なり変わるものだが、それにしたって難しいんじゃないだろうか。初月が裏門の前で車から下り、門衛小屋の人員と話をしているのを眺めて、期待せずに車内で待つ。と、彼女たちは握手をした。交渉は成功したようだ。車に戻ってきた初月は、自慢げな流し目でこちらを見た。対抗してサングラス越しに、にらみ返してやる。彼女は言った。「先に連絡を入れて貰ったが、最上は自室で待っているそうだ」それは都合がいいことだ。人目があると、私たちのしたい話はしづらくなる。
研究所の一般人員用宿舎と見える建物から現れ、私たちのところまで駆け足でやってきた門衛の仲間の男に先導されて、駐車場に向かう。そこへ車を止めると、私たちは引き続き同じ男の案内の下で艦娘用宿舎へと歩いた。道中、初月の隣に並び、小声で訊ねる。「門衛は買収したの?」彼女は首を浅く縦に振った。どうして正門の哨兵には金を掴ませる素振りすらしなかったのに、裏ではそれをやったのか、気になった。加えて質問してみると、初月は軽く首を捻ってこちらに顔を向けた。相手の無知をからかうような色が、引きつった笑みの形に歪んだ唇ににじんでいた。何とまあ、嫌な顔だ。その表情のまま、彼女は言った。
「僕らが通ったのは工廠用資材の搬入門だ。そこの警備は大抵の場合、正門の衛兵とは所属が違う。ついでに言えば、給与額もな。だから心づけってものが効きやすい。知らなかったとは、無許可外出を企んだこともない
「馬鹿にしてくれるわね。無許可外出をする時に、門を通るって発想がなかっただけよ」
この返答はその真偽を問わず、初月に一定の評価を与えさせたようだった。お陰で、私のささやかな名誉は守られた。ぺちゃくちゃ喋って、ボロを出してはいけないので、そこからは黙して進む。最上がいる艦娘用宿舎の玄関前には、数人の艦娘たちがたむろっていた。外出許可が取れて、これから飲みにでも出かけるのだろう、どの店に行くかを話していた。ふとその中の幾人かの肩を見る。そこにはワッペンが縫いつけられていた。黒塗りにした円形の台座に、白い艦娘のシルエット。その後ろには、六つの飛行機雲をたなびかせて飛ぶ航空機群。
第五艦隊は、第二特殊戦技研究所隷下の艦隊の一つであり、戦争末期に試験運用として特別に設立されて活躍した、
最上の部屋の前まで行き、先導者だった男が部屋のベルを鳴らすと、少ししてドアが押し開かれた。扉と男の背中とに隠れて、戸口に立っているのだろう部屋の主は見えない。だが人懐っこい感じのする「ご苦労様!」という声が、隠れていても彼女の姿を私の脳裏に映し出させてくれていた。それは私を温かな気持ちにも、胸を締めつけられるような気持ちにもさせた。そこで描かれていたのは、戦中の最上そのものだったからである。しかしその最上は、現在よりも四、五歳ほど若い最上だ。艦娘が老衰する話は聞いたことがないが、事実として、経年は人を変える。たとえば私が戦友から鼻つまみ者になり、翔鶴姉が生者から死者になったように、最上も変わった。
男が脇に一歩下がって、室内への道を開ける。最上の姿は玄関口から既に消えており、その奥の部屋に引っ込んでしまったようだった。そこから発される「さあ、入って入って!」という、もう向けられることがないと思っていたあの優しい呼びかけが、私の胸を抉る。私とは知らないからこそ掛けてくれる言葉だが、それでもそれは私への言葉なのだ。初月を先に入れる気にはなれなかった。彼女を連れて玄関に足を踏み入れ、扉を閉める。盲人らしく初月に靴を脱がせて貰い、最上が待つ奥に進む。ほんの数歩で通り終わるだけの薄暗い廊下が、何十メートルにも思えた。それを渡りきって、部屋に入る。湯気を立ち上らせるマグカップが置かれたテーブルと、誰も座っていない椅子が三脚、視界に映った。最上は何処だ?
彼女を探して左右を見ようとしたその時、明かりが落ちた。反射的に体が硬直し、それに続いて横っ面を殴り飛ばされる。床に体を打ちつけ、どすんと音が立つ。初月が無言で部屋に駆け込んでくる。明かりが灯る。私は
「これが挨拶。君には会いたくなかったよ、瑞鶴」