艦娘や、そのルーツに当たる深海棲艦にただの拳銃を向けるというのは、射手にとって危険なだけでなく、無意味でもある。一般的に拳銃弾として使われる九ミリ弾や四十五口径の弾丸などは、彼女たちの肉体を傷つけられるだけのエネルギーを有していないからだ。例外はその弾丸が目に当たったり、銃を口の中に突っ込んで発砲した場合など程度のものである。艦娘・深海棲艦をまともに殺すことができるのは、同族による砲爆撃ないし雷撃以外では、戦争末期に開発された専用の特殊弾薬のみだった。
だからもう一人の“瑞鶴”が香取に拳銃を向けているのが見えた時、私は、その拳銃に装填されているのが通常弾薬だとは思わなかったし──“瑞鶴”が引き金を引けば、香取は倒れるものと思っていた。しかし現実は少しばかり、“瑞鶴”に対して厳しかったようだ。香取が飛びつくよりも早く、彼女の敵は発砲した。けれども香取は相手が何処を狙うか、理解していたのだ。彼女は頭と心臓を左右の腕で庇い、数発の鉛弾を受けながらも肉薄に成功すると、“瑞鶴”を押し倒そうとした。敵が彼女の膝を撃ち抜いていなければ、それに成功していただろう。
体を支える力を失いつつ、それでも香取が“瑞鶴”にしがみつく。だが拳銃の
ところが生憎、私は彼女と同じ艦娘「瑞鶴」だった。つまり、私のパンチは正規空母級なのだ。彼女の油断を鼻っ柱ごとぶち折ってやるのに、力不足ということはなかった。“瑞鶴”はたたらを踏んで背後の開け放たれた窓のところまで後退すると、こちらと浦風をそれぞれ一瞥してから、踵を返して外に飛び出た。自殺でもして証拠を隠す気かと思い、窓から顔を突き出す。と、横の壁が爆ぜた。慌てて引っ込む。壁面のパイプを伝って下へと逃げ、私が顔を出したところを狙い撃ったらしい。運が悪ければ、死ぬところだった。追うのは危険だ。諦めた方がいい。
浦風の方に行こうとして止まり、倒れたままの香取を見る。彼女は手足から出血していた。一発は二の腕の動脈を破っているようで、血の出方が激しい。放っておけば、命を落とすだろう。迷う時間はなかった。うつ伏せに倒れている香取を引っくり返し、持ち物を調べる。案の定、ベテラン艦娘らしく、ポケットに収まるような小さな水筒に、工廠からちょろまかしたのだろう高速修復材が入れてあった。これで止血の心配はなくなった。
修復材を香取の傷に掛けようとして思い留まり、まず銃創をチェックする。幸運なことに、動脈を破った一発は貫通銃創だった。体の中に弾は残っていない。そこにだけ修復材を投与し、部屋の隅に寄せてあった救急カートを引っ張ってきて、中から
香取のジャケットを脱がし、それで彼女の顔を覆う。目を覚ました時に暴れないよう押さえつけると、射出口のない傷を選び、その中に鉗子の先を入れた。その瞬間に彼女が覚醒することも覚悟していたが、びくんと震えるだけで何もなかった。早く済ませてしまおう、と自分に言い聞かせながら、香取の肉の中に残った弾を探す。鉗子の先に、かつんという感触があった。それを摘み、肉をちぎらないようにしながら引き抜く。弾が取れた。先端はひしゃげているけれど、後部は無事だ。彼女のジャケットで血を拭いてから、私の服のポケットに入れ、水筒の修復材を香取に掛ける。後の治療は、弾頭の摘出を含めて、軍に任せればいい。
ドアが勢いよく開いた。そちらを向くと、肩で息をする初月がいた。「何をやってる!」鋭い声でそう言うと、彼女は倒れた香取と私の血まみれの手を見比べて、溜息を吐いた。「逃げる?」彼女に向けて、一単語の疑問文を口にする。“瑞鶴”は銃を撃った。アドレナリンの仕業か、銃声は記憶に残っていないが、聞きつけた者がここに来たら厄介なことになる。そう懸念してのことだったが、初月は首を横に振った。
「誰かが銃を撃ったようだが、発砲音は聞こえていない。消音機と、それにかなり相性のいい拳銃を使ったんだろう。人が来るには時間が掛かるさ。瑞鶴、薬莢が落ちてないか探して、拾っておけ。素手で触るなよ。僕はその間に、浦風を起こしてみよう」
言われて、私は床にはいつくばった。すぐに二つ薬莢を見つけ、服の袖でつまんで拾う。部屋にあったティッシュに包み、弾頭と同じポケットへとご案内だ。立ち上がって埃を払うと、初月が浦風のベッドの横、スタンドに吊るされた点滴袋を睨んでいた。「よくないな。麻酔薬で眠らされてる」それでは話が聞けない。点滴を止めるにしても、もう彼女の体内に入った成分が力を失うまで、どれくらい掛かるか分からない。やはり、ここは一度逃げるしかないのだろうか。判断に困って初月を見ると、彼女は視線を救急カートに移していた。
指示される前に、それを彼女のところに運んでやる。初月はカートの引き出しを乱暴に探ると、
「よし、どいてくれ。この拮抗剤が、浦風を起こしてくれる筈だ」
私が身を引くと同時に、初月はストッパーの下に付けられた、注射器を接続する為のアダプターにシリンジを差し込んだ。押し子に力を掛けて、中の薬液を浦風に注ぎ込んでいく。私はそれがどんな効果をもたらすのか、固唾を呑んで見守っていた。効果は、実に僅か一、二分で表れた。浦風が目を覚ましたのだ。
彼女は最高の気分であるようには見えなかったが、襲われて殺されかけた(それも立て続けに二回)後だということを考慮すると、悪くない顔色だった。私は彼女と初月に、さっきこの病室で何が起こったか、床に横たわったままの香取を見せたりしながら説明した。それが彼女を友好的な態度にさせるのに、最良の方法だと思ったからだ。日本でも海外でも、対深海棲艦・艦娘用の特殊弾薬を用意できる組織は少ない。海軍か軍警、どちらかがこの件にとびきり深く関わっている。それも、マズいやり方でだ。このままここにいれば、浦風が無事に退院できないのは明白だ。
私は思いつく限りの説得を並べ立てると、腕を組んで浦風を見守った。彼女が立て板に水の調子で話し出すのを待っていたのだが、聞こえるのは初月のがっかりしたような吐息一つだけだった。それを皮切りにして、浦風はようやく答えた。期待したものでなかったとしても、答えは答えだった。
「うちは、協力できん」
私は冷静にその言葉を受け止めた。香取がいつ目覚めるかも分からず、彼女の交代要員が部屋の前に誰もいないのを見て、援護と共に飛び込んでくるかもしれず、驚いている余裕がなかったのだ。それに最上が以前、こう言っていた。「驚愕なんて、無用でいい加減な感情さ。そんなものは、馬鹿か新米艦娘たちの遊び道具だよ」彼女はそう言ったことを忘れているかもしれないが、その言葉は私の記憶に不思議と残っている。
さて、これで浦風との話し合いが終わりになるようなら、私たちはとんだ大間抜けだ。喋りたくないなら、喋りたくなるようにする方法がある。肩を怒らせて詰め寄ろうとした私に、浦風はにやっと笑いかけた。その諦めたような笑い方に、毒気を抜かれる。理由を聞いてからでもいいだろう、と初月が視線で私をたしなめた。確かにその通りだ。一歩退き、一時的であれ害意を引っ込めたことを示す。それに一拍遅れて、海軍入隊から今まで見た中で一番性格の悪い秋月型は、「何故だ?」と訊ねた。
「大したことは知らんけえよ。ほいでも、多少のことなら教えちゃれる。第四艦隊のことを言うとったじゃろ?」
浦風が私に視線を投げてきたので、頷く。私は第四艦隊の旗艦であった艦娘について彼女に訊ね、とっくに死んだと答えられた。
「ありゃあ、表向きだけの話よ。殺しに来たぁ言うその“瑞鶴”も、あれの差し金じゃろ。
「彼女たちはあなたのところへ、何をしに来たの?」
「分からんけど、勧誘、かねえ。何か大仕事を手伝ってくれぇ言うとったけど、具体的なことははぐらかすばっかりじゃし、そがぁな怪しげな話、幾ら何でも無理じゃわぁて言うたら、すぱっと諦めとった。多分、あん時に頷いとったら、今頃うちも
彼女の話の末尾付近は、右から左へ抜けていった。私は一つのことを強く念じていた。
「そんなん、うちが知りたいわ。まあ、待ちんさい。そこにメモがあるじゃろ、取ってつかいや」
あごで示された場所を見ると、ベッド脇のサイドテーブルと、その上に置かれたメモ帳とペンがあった。両方を手に取り、渡してやる。さっきまで麻酔で眠らされていたにしては確かな筆圧で、浦風は何かを書き始めた。横から覗いてみる。行儀の悪い奴だ、と初月が呟くのが聞こえた。性格が悪い奴とどっちが救えないと思うか、浦風に聞いてみてもいいだろう。彼女はメモをちぎると、私に差し出した。
受け取って、紙面に目を落とす。佐世保鎮守府のある艦隊の名前がそこには書かれていた。その下に、太い字で「五十鈴」ともある。初月が私の手からメモを掠め取り、一見してから「これは?」と説明を要求した。「単冠湾で龍田が何をやったか、一、二番目によう知っとる奴よ。ちぃと変わっとるが、何かしら聞けるじゃろう」私は顔をしかめた。呉に行って、二特技研に行って、また呉に戻って、今度は佐世保か。その次は北海道にでも連れて行かれるのだろうか?
気を取り直し、礼を言っておく。手掛かりは手掛かりだ。浦風が言う通り、この五十鈴が龍田についてよく知っているなら、もしかしたら相互の連絡手段の一つぐらい持っているかもしれない。そうであれば最高だが、でなかったとしても真実に近づくことはできる。翔鶴姉の復讐を遂げるというゴールに、私は一歩一歩近づいているのだ。
ここでできることは済ませたので、香取の交代が来る前にここを去ろうということになった。言うべきかどうか迷ったが、私は浦風に尋ねた。「あんた、ここにいて大丈夫なの? また狙われたら、ヤバいでしょ」きょとんとした顔で、浦風は私を見た。それから彼女は、慈母の雰囲気さえ漂わせる微笑を形作ると、目を閉じた。それは対話の拒絶であり、私の言外の提案に対する拒絶だった。意思に反して強引に連れ去るほど親密な関係でもないので、私は彼女に別れを告げた。
すると部屋を出る前に、浦風が私たちの背中に声を掛けてきた。
「あ、行く前に香取を椅子に座らしちゃってえや。ほら、そこの隅っこのでええけえ」
私たちはそうしてやった。
* * *
病室の洗面所で香取の血が付着した手を洗ってから、私と初月はそこを出た。人の姿は少なく、私たちに気を留めているように思える者は皆無だった。足早に病室前から離れる。次の目的地が佐世保なら、飛行機で行くのがいいだろう。急ぐなら、今から最寄の空港に行って、空いている便があればそれに乗り、長崎空港を目指すということになる。そこからはバスが出ていると思うが、仮に時間が合わなくてもタクシーを使えばいいだろう。安くはないが、時間を浪費するよりはいい。
ただ、資金の問題は目を逸らすことのできないものだ。自分には、お金を合法的に手に入れる方法というものが欠けているからである。脱走前の準備段階で、私は口座にあったお金を全額引き出して来た。金の掛かる趣味なんかを持っていなかったので、覚醒以降の給与をほとんど貯蓄に回していた私は、今現在こそ多額の現金を持った日本一リッチな脱走兵だ。だが残念なことに、「多額」という言葉の持つ意味は「とても沢山」であって、「無限に湧き出てくる」ではない。収入がなければ、いつか干上がってしまう。
そうなったら初月にたかるという手もあるが、彼女が自分を見捨てないと考えられるほど、私は能天気ではなかった。最上たち、私の艦隊員たちでさえ、愛想を尽かして戦友を見捨てた。それについては誰が悪いかと言えば、言い逃れのしようもないほど私が悪いのだが、言いたいのは誰だって誰かを見捨てうるということだ。私は自分が翔鶴姉を何らかの理由で見捨てるところを想像できないが、それは単に想像力が足りないということでしかない。
警備員に止められたりすることもなく、駐車場の車まで戻り、病院を出る。話題も特段なかったので、私はカーラジオで暇潰しをすることにした。耳に心地のいい音楽が流れてくる周波数を見つけ、選局する。聞き覚えがある歌だ。何処で耳にしたのか思い出そうとして、最近のヒット曲だと気づいた。食事に出掛けたレストランの有線放送とか、基地食堂に設置されている大型テレビから流れているのを聞いたんだろう。
その曲が終わると、ぐっと古い曲が掛かった。と思うと、海軍広報部が戦争末期に生んだ最高のアイドル、那珂ちゃんのラブソングが始まり、続いてクラシック、ラップミュージックやレゲエまで流れ出す。このまとまりのない選曲はどういうことだろう? “無秩序”以外の一貫したテーマを見つけることができずに頭を悩ませていると、トークに入る。そこで疑問は氷解した。この局は、どうも深海棲艦融和派の放送局だったようだ。流れていたのは、深海棲艦たちの間での人気ランキングに沿った曲らしい。
深海棲艦融和派──基本的に、短く「融和派」と呼ばれる連中は、その名の示す通り、深海棲艦と人類間の友好を主張する人間・艦娘・深海棲艦のグループだ。彼ら彼女らは戦争初期から、幾つもの小集団としてバラバラに存在し、一まとめに弾圧されてきた。まあ、当然だろう。深海棲艦は敵だった。戦争中、私は人類に対して融和的な深海棲艦には、一度も会ったことがない。私の同期の艦娘たちも、艦隊員たちも、翔鶴姉も、別の期の艦娘たちだってほとんどがそうだろう。
そもそも奴らは、鬼・姫級などと呼ばれるごく一部の深海棲艦を除き、知性はあっても会話すらできなかったのだ。対話さえ不可能な、そんな連中と手を結ぼうと主張するのは、当時のごく一般的な感性として判断すれば、非現実的な厭戦主義者のたわごとだった。それが今では実現しているのだから、人生とは全く、つまらなくなる余地のないものだと本気で思う。そんな思索に耽っていると、「ラジオ、変えていいか?」と初月が言った。彼女は私の返事を聞く前に運転席から手を伸ばしてチューナーを摘み、周波数を変えてしまった。
形だけでも許可を求めるなら、せめて私が何と言うかを聞いてから行動して欲しいものだ。でも、私は「別にいいけど」と言うだけに留めておいた。初月とは長年の付き合いこそないものの、彼女について私が学んだ数少ない知識によれば、これは
深海棲艦と融和派には、戦中に艦娘だった者として、私にも思うところがある。不信感が微塵もないとは言えない。無視できない数の融和派グループが、戦争中には誘拐や爆破テロで世間を恐怖に陥れていた。厭戦思想を流行らせるにはいいが、他人と信頼関係を築くにはよくない手法だ。現在台頭しているグループは、そういったテロリストたちとは違い、目標達成の為に恐怖を使ったことはない、と標榜しているものの、それを頭から信じている者は少ないだろう。
初月は、特に融和派を嫌っている艦娘たちの一人なのかもしれない。私はその事実を胸に刻んでおいた。笑い話で済む地雷なら、私はその上で飛び跳ねたって気にしない。でもこれは恐らく、そうするべきではないタイプのものだ。分かっていて踏まなくてもいいだろう。彼女を怒らせて、行く当てもないのにセーフハウスから追い出されたりしても困る。
セーフハウスと言えば、道の様子を見る限り、私たちはそこに戻りつつあるようだった。運転手に、空港へは行かないのかと訊ねてみる。迅速さは時として、何よりも重要なものだ。浦風を殺しに来た“瑞鶴”が、今度こそ先回りして五十鈴を殺したら、私たちは重要な情報源を失うことになる。無論、龍田がいた頃に単冠湾に在籍していた、他の艦娘を探すことも不可能ではない。が、最善は浦風に言われたように、五十鈴から話を聞くことだ。すんなり話してくれることを願うとしよう。
「いや、今日は帰ろう。お前が回収した弾頭と薬莢を、安全な場所に保管しておきたい。あれはいい手掛かりになるぞ。弾頭の線状痕や、薬莢の指紋、撃針痕……軍警のデータベースと照合できれば、な」
「できるの?」
「できるぞ、僕が軍警の鑑識ラボまで出向けば。休職中に弾丸と空薬莢を手土産にラボを訪れる捜査官は、滅多にいないと思うがね」
彼女の話術がどれだけ巧みなものだったとしても、出所を聞かれるのは避けられないだろう。ごまかせなければ面倒なことになるし、その場ではごまかせても後でそれがバレたら厄介だ。後がどうなろうと構わない私と違い、初月にはこの後の人生も残っている。今でさえ、脱走兵を匿わせているのだ。これに加えて無理をさせることは、私にはできない。初月が休職期間を終えるか、何か上手い言い訳を思いつくまでは、弾も薬莢も寝かせておくしかあるまい。あの“瑞鶴”の身元が分かれば、一気に翔鶴姉が追っていたものを暴くことができそうなのに、歯がゆいことだ。
私をなだめるように、初月は「機を待て」と言った。頷き、別の問題に話題を変える。浦風を襲い、香取を撃ったあの“瑞鶴”のことだ。今は私が変装しているから、まだ彼女との見分けもつく。しかし同じ瑞鶴であるということは、彼女もまた、今の私のように姿を変えられるということでもある。翔鶴姉が殺された理由を探るなら、これからも私たちは彼女と遭うことになるだろう。その時、見分けがつかないと困る。間違えて撃たれたり、刺されたりしたくはない。何か、私たちの間だけで分かる符牒を決めておくべきだ。
そんな主張を聞いた運転席の駆逐艦娘は、これをもっともな意見として受け入れた。冗談も交えつつ、二人して知恵を絞って、合言葉を捻り出そうとする。これが思ったより難しかった。まず、不自然であってはいけない。日本で最も有名な合言葉は「山」「川」だろうが、これは不自然極まりないものだ。間違って全然関係ない人に合言葉を振ってしまったとしても、「知らない人が何か言ってきたな」で済むような文でないと、安心して使えない。
同様に合言葉への返答も、不自然さを可能な限り排除する必要がある。それでいて普遍的な意味を持ち、表面上は単なる世間話に聞こえるが、「偶然に正しい合言葉を返してしまった」という事態を回避できるようにしなければならないのだ。難度の高い注文だった。かなり長い時間を掛け、ああでもないこうでもないと話し合った末に、初月がうんざり顔で言った。「よし、前に僕が使ったことがある符牒にしよう」私は思わず脱力し、彼女への不平を口にする。
「最初から出しなさいよそういうの!」
「暗号や合言葉は、何度も同じのを使うべきじゃないんだ。けど、ここまで決まらないとは思わなかったから」
窓の外は、見覚えのある景色になり始めている。セーフハウスが近いのだ。朱に染まり始めた空も、時間経過を示していた。妙な話題で盛り上がってしまったなあ、と自分たちに呆れながら、私は初月を急かした。彼女が以前使っていた符牒がどんなものか、聞いてみたかった。というか軍警察でどうしてそんな符牒が入用になるのか、まるで分からない。セーフハウスにしてもそうだ。一体全体、翔鶴姉は軍警でどんな仕事をしていたのだろう。
機会があれば、初月にゆっくりその手の話をして貰うのもいいな、と考えて、頬を緩める。彼女の相棒は、私の姉でもあるのだ。職務上の秘密に当たらないことなら、話したところで胸も懐も痛むまい。お返しに、私は翔鶴姉の海軍時代のことを話してやってもいいだろう。話の相手が聞きたがるなら、話すことにやぶさかではない。ネタはそこそこあるのだ。初めての出会いから、予期せぬ別れに至るまで。
「よく聞け、まず僕がこう言う。“恐縮だが、二歩下がってくれないか?”」
「そしたら私がこう返すのね? “その面張っ倒されたいの?”」
「で、僕が撃ちまくる。少なくとも二度と、どっちの瑞鶴が味方なのか迷うことはなくなるな」
小さく笑いを挟んで、会話を仕切り直す。初月が真面目に聞いて欲しそうだったので、私も混ぜっ返すのはやめた。
「こう答えるんだ。“一歩じゃダメかな?”いいか、答えを一文字も変えるなよ。もし僕がお前に銃や砲を向けてても、焦るな。度忘れもするな。すぐ答えろ。もし表現揺れがあったら、僕は撃つ。答えに間が開いたら、動こうとしたら、とにかく僕が今やれと言ったこと以外をしようとしたら、引き金を引く」
「オーケー、覚えた」
短いフレーズで、覚えにくい要素もない。更に、自分の命が懸かっているのだ。こんなに記憶力を逞しくしてくれる要因は、他にないだろう。初月は「間違えるなよ」と念を押して言うと、口を閉じた。私たちの会話によって押しのけられていたラジオの音声が、再び車内を満たす。今は音楽パートらしく、那珂ちゃんの曲が流れていた。私はうるさくならない程度に、音量を上げた。「好きなのか」と横から声がする。私は窓の外を眺めながら、その質問に応じた。
「那珂ちゃん? うん、戦中は結構よく聴いてたから、ファンって言えるぐらいには好きかな。ライブは一度も観に行けたことないけどね」
「ああ、ライブはチケットの倍率高すぎるからな……僕は休みが不定期だから、取れても行けなかっただろうけど。毎回、ライブDVDで我慢してるよ」
「えっ、ちょっと、あんたも好きなの?」
「答えないと分からないか?」
私は右手を差し出した。初月も右手を差し出した。私たちは互いの手の平を叩き合い、次に手の甲を打ち合わせると、拳を作ってその上下を一度ずつ合わせ、それから手を開いて指を
噂話や、那珂ちゃんが持つ謎についての話も出た。たとえば、ファンの間で最も議論されているのは、ライブでどれだけ観客が増えても、埋まらない席が必ず一つあるのは何故か、ということだ。これには説が色々とあって、戦死した全ての艦娘たちの為に空けてあるのだとか、那珂ちゃんには海軍への志願前から付き合っている恋人がいて、その人の為だとか、彼女を押しも押されもせぬ大アイドルにしてくれた、ある恩人の為に用意してあるのだとか、ファンたちは思い思いに好き勝手主張している。解釈で喧嘩するようなトピックではないので、互いの細かな嗜好を探り合いながらするにはぴったりの話だった。
気づけば私たちは、セーフハウスの駐車場に車を止めたまま、下りもせずに話し込んでいた。一足先にふと我に返った初月が、顔を背けて「中に入ろう」と言った。多分、微かに赤面していたのだろう。それをからかうと、彼女は私の太ももをばしりと叩いた。結構な勢いで痛かったが、私は不思議と笑っていた。
その日は二人揃って味気ない冷凍食品の夕食で済ませ、私は早々に寝ることにした。浦風への襲撃に居合わせたことで、気疲れしていたようだ。一方の初月は運転疲れこそあったものの、食事の前に一風呂浴びたことで、それも抜けたらしい。私が寝る前に証拠品の弾頭と薬莢を受け取ると、今できることをしに自分の部屋に行ってしまった。何をするのかは聞かなかったが、分かったことがあれば教えてくれるだろう。
ベッドに入り、目を閉じる。数分もすれば眠気が私の意識を塗り潰してくれると、そう思っていた。心を落ち着かせ、それが来れば従容と受け入れられる態勢を整えておく。だが、一向に眠くならなかった。疲れはそこにあるのに、目が冴えて仕方なかった。これも、あの“瑞鶴”と一瞬の交戦を行ったことの産物なのだろうか? あの距離で戦闘を行ったのは久しぶりな上に、交戦対象が同じ艦娘だ。深海棲艦と戦う時に得るのとは別種の緊張や感情を誘発させられても、仕方ないだろう。
無理に寝ようとしても、こういう時は寝られない。気分を変えるのに外を歩くとか、まだ起きているだろう初月と話すのも、疲れのせいで億劫だ。なので、横になってぼうっと物思いに耽ることにする。脳を使う以上、これも睡眠から私を引き離すものではあるのだが、時間は大抵のことを解決する。気づいたら寝ていることだろう。翌朝が早いという話も聞いていないから、その点でも安心して、眠くなるまで起きていられる。
私は初月のことを考えた。初対面時の悪印象を忘れてはいないが、短い間にすっかり彼女にも馴染んでしまった気がする。嫌な奴だが、耐えられないほどではない。音楽の趣味も悪くない。深海棲艦嫌いが強いのも、些細なことだ。大体、表立って深海棲艦が好きだと言う艦娘こそ、どうかしている。人類は彼女たちの一部と手を組むことにしたが、それにしても奴らが理解の範疇外にある存在だということは、変えようがない。生態や思考の傾向、社会構造にも謎は山ほど残っているし、二度目の戦争が起こらない確証など、何処にもない。そんな連中を好きになれるのは、かなりの博愛主義者ぐらいのものだ。
初月が深海棲艦嫌いだとすると、軍警という道を行くのは大変なことだったのではないだろうか? 職務上、軍警の捜査官は彼女たちと接触しなければならないこともあるだろう。悪感情は好感情と同じぐらい、人の目を曇らせる。公正さを保つには、相当の自制心を用いなければならない。それは大きなストレスになると、私にも分かる。彼女の性格の形成に、そのストレスが悪影響を与えたのではないと、誰が言えようか。
けれども、と私は彼女を擁護するように、心の中で独り言を言った。初月には、確かに勇敢で、高潔なところがある。翔鶴姉を殺され、その捜査からも外されたのに、職と命を失うのを覚悟してまで、己の手で真実を明かそうとしているのだ。その危険性が分からない愚物ではないことは、これまでの彼女の姿から証されている。翔鶴姉にそんな相棒がいたことを嬉しく、またありがたく思うと同時に、私が初月の立ち位置にいなかったのが不満に感じられてくることだった。もし翔鶴姉が何の仕事をしているのか教えてくれていれば、海軍をやめて彼女のところに行っていたのに、とも思う。
ああ、しかし彼女はきっと、だからこそ言わなかったのだろう。海軍の仕事は、安全なものではない。人類に敵対的な深海棲艦は絶滅しておらず、今でも戦死者が出ることはある。世界情勢もきな臭い。艦娘保有国と非保有国の間にある溝は、深まるばかりである。艦娘を陸軍の視点から見れば、一人で数門の火砲を運用でき、燃料さえあれば水上を航行可能な歩兵なのだ。しかも通常の小火器では歯が立たず、特殊弾薬か重火器、もしくは刀剣などでの肉弾戦でなくては、傷つけることもできない。まさに陸軍が夢見た、無敵の存在である。
そんな兵士が大挙して攻め込んできたら、非保有国はひとたまりもない。保有国側が実際にやるかどうかは別として、
彼女は恐らく、私にそんな汚らしい世界と触れ合って欲しくなかったのだろう。数年を昏睡して過ごし、戦後の社会に付いていけず、友達も減った私が、これ以上ひどい目に遭わなくてもいいように、翔鶴姉は気を使ったのだ。そうしないでくれることこそ、私が望んだことだったのに、彼女は私を守ろうとしたのだ。口の中で、翔鶴姉の馬鹿、と呟く。旗艦の癖に、随伴艦を庇って沈んでしまうなんて。
寝る間際までそんなことを考えていたせいか、寝覚めは最悪だった。二度寝してしまいたかったが、我慢して起き出す。前と同じように部屋のクローゼットから着替えを拝借し、シャワーを浴びると、幾らかマシな気分になった。浴室を出て脱衣所を抜け、リビングに入ると、完璧に彼女の制服を着こなした初月が、テーブルで牛乳に浸したシリアルを食べていた。さっさと食べてしまいたかったのか、口一杯に頬張っている。ここだけ切り取れば、可愛げしかないのだが、内面を知っていると苦笑いしか出てこない。彼女は朝の挨拶代わりに、牛乳で濡れて光るスプーンを軽く掲げた。頷きを返し、私も同じものを食べる為に、キッチンから器とスプーンを持ってくる。
シリアルの箱と牛乳はまだ食卓の上に置かれたままだった。それを取って器の中で混ぜ合わせる。肘を突き、指先でスプーンの柄の端をつまむようにして混ぜていると、食べ終えた初月が話を始めた。「お前が回収したものについてだが」私が視線をやると、不快そうに口を閉じる。睨むような顔になっていたようだ。「食後のティータイムが終わるまで待った方がいいか?」「へえ、紅茶があるの?」気分が更によくなるのを感じる。この無愛想で
「昨日、ここで調べられるだけ調べてみた。まず、あれは対深海棲艦用の特殊弾薬だ」
「そしてあんたが座ってるのは椅子で、私が食べてるのは牛乳と混ぜたシリアルよ。知ってた?」
「で、お前は人の話が終わるまで待ってられないお子様だ、どうやら知らなかったみたいだが。『分かりきったことを言ってみようゲーム』は本当に楽しいよな、僕も大好きだ。……特殊弾薬の薬莢には、刻印がしてある。万が一流出した際に、追跡しやすいようにな」
薬莢とその中身と弾頭を分けて、別の薬莢に詰め直すことはできないのだろうか。初月に訊ねたかったが、三度に渡って彼女の話の腰を折るのは躊躇われた。利口げに頷き、「そうでしょうね」と相槌を返す。
「この刻印だが、三つあるんだ。特殊弾薬であることを図示するもの。どの工廠で生産されたかを表す番号。どの組織向けに供給された弾薬かを示すアルファベット。それを踏まえた上で、見てくれ。すぐに分かる」
私に向けて初月が拳を突き出し、手首側を見せてからそれを開く。彼女の黒インナーに覆われた手の上には、真鍮の薬莢が乗っていて、その尻には小さなマークや、八桁の数字、アルファベットのGが一つ打刻されていた。私は合点した。対深海棲艦用の弾薬を合法的かつ大々的に使用できるのは、現在の日本だと大きく分けて二つの組織に限られる。海軍と、軍警察だ。陸軍にも細々とだが供給されているし、補給や使用の規制を緩和しようという話はあるのだが、この弾が深海棲艦を倒す為に作られたものであるという建前が、それを阻んでいる。もっと言えば、陸軍がそれを求めているのは、国内外の艦娘に撃ち込む為ではないか、という懸念があるのだ。海軍や政治家たちが渋るのも当然だろう。
薬莢にあるアルファベットはG。英語表記から頭文字を取っていると見ていいなら、
「軍警察ね」
「そうだ。道理で翔鶴の捜査はおざなり、僕も外される訳だ!」
怒りに満ちた声と共に、初月は握り拳をテーブルに叩きつけた。私の皿が少し跳ねて、牛乳がこぼれる。テーブルの端にあったティッシュの箱に手を伸ばそうとすると、先に初月が箱ごと取ってくれた。一度感情を爆発させたからか、彼女は素早く落ち着きを取り戻したようだ。一枚抜き出し、机を拭く。「大なり小なり、軍警察が関わってる。何処まで深くかは分からないが、最悪の一歩手前ってところだ」その言葉に、拭う手が止まった。
「一歩手前? 素直に最悪って言ってもいいと思うけど」
「軍警察総司令官の助けが得られれば、そうでもないさ。もっと沢山証拠を集めて、彼女に持っていけば、絶対に動いてくれる。自分の家の柱が腐ってるのに気づいたら、誰だってそのままにはしない筈だからな。ましてや、有能な人間なら尚更だ」
なるほど、という気がした。組織の腐敗と戦うのは、私と初月の二人では荷が重い。復讐の前に、組織の力に潰されかねない。だがそこにもし軍警司令のバックアップが得られたなら、やりやすくなるだろう。何しろ彼女は戦争の英雄で、終戦の立役者の一人でもある。その威光に逆らえる者は少ない。それにこれは彼女が第二特殊戦技研究所で提督を務めていた時、隷下にいた艦娘から聞いた話だが、司令には類まれな政治力もあるという。私の脱走も揉み消して、なかったことにしたりして貰えないだろうか。高望みをしながら、最後に一つ気になったことを、私は初月に尋ねた。
「因みに、“最悪”は何なの?」
「……その時が来たら教えるよ」