龍田を逃してしまった後、私たちはセーフハウスで二日間の休みを取ることにした。精神的なショックが大きかったのもあるが、龍田の家で見つけた情報の詳細な分析や、紙媒体の電子化を行わなければならなかったからだ。だから休みと言っても純粋な休養ではなかったが、打ち込むべき仕事が目の前にあるとやはり気が紛れるもので、一日目の夜には既に心の切り替えも大半の部分で済んでしまっていた。むしろ私より、初月の方が引きずっていたほどである。龍田に組み敷かれた際に、私を撃ってしまったのを気にしているようだった。
こちらが何とも思っていないことをいつまでも気にされるというのは、そこそこ苛立つものだ。戦争中には、深海棲艦から撃たれたことだってある。しかも拳銃なんか比じゃない威力の大砲でだ。ほとんどは外れたが、時には当てられもした。撃たれずに一人前になった艦娘なんて、滅多にはいない。たとえ体の何処かを欠損しても、ドックで入渠を済ませれば元通りになるしぶとさが、私たち艦娘の強みでもある。心臓や脳に当たったのでもないし、済んだことは済んだことなのだ。龍田を逃がしてしまったことも含めて。
それにしても苛立つと言えば、あの“瑞鶴”である。彼女の行動の一つ一つに引っ掻き回されて、混乱させられるのもむかつくが、何よりも翔鶴姉を撃ったのが彼女だということが、艦娘「瑞鶴」としての私を怒りに満ちさせていた。彼女は私と同じ顔で、翔鶴姉を殺したのだ。これが証拠のない妄想であることは認めるが、私のふりをして、不意打ちを仕掛けたのかもしれない。翔鶴姉は自分がどれだけ危険な深みに足を突っ込んでいるか、理解していた筈だ。無防備だったとは思えない。もし私が瑞鶴ではなかったら、まだ私の旗艦は生きていたような気がしてならなかった。
翔鶴姉が生きていて、ここにいたら、私にどう声を掛けてくれるだろう。そんな罪のない想像を、作業の片手間に頭の隅で広げる。まず心配されるのは確実だ。彼女は心配性で、私をいつも四つか五つの小さな妹みたいに扱う悪癖があった。何度も一緒に海へ出て、互いを守りながら深海棲艦と戦ったのに、どれだけ改善を要求してもそこは変わらなかった。任務の最中は流石にわきまえていてくれるので、彼女に対等に扱って欲しかった私は、時として出撃を待ち望むことさえあったほどだ。
胸が痛んだ。翔鶴姉が永遠にいなくなって以来ずっと、そこは私に鋭い痛みを与えてくる。お世辞にも心地よいものではないが、その痛みの強さが、翔鶴姉の死を自分がどれだけ悼んでいるか明かしてくれるようで、何となく嬉しかった。それに、彼女が味わった苦痛の欠片を、共有できているようにも思えた。おこがましい話ではある。死のもたらす苦しみは、きっと私に耐えられるような、軟弱なものではない。大体、共有できたからって何になる? 翔鶴姉は死んでしまったのだ。三日過ぎても、復活する兆候はなかった。これから先もそうだろう。
休養二日目の昼前に相応しい過ごし方として、ダイニングテーブルに書類を広げていた私は、右手をそっと胸の上に当てた。引きつったような痛みが、ややマシになる。隣の席で同じ仕事をしていた初月が、無関心を取り繕った表情でこちらを見た。撃たれた場所が痛むのか、と聞きたいのだろう。この時は、私の心に湧いたのは煩わしさではなく、愉快さだった。弾が当たったのは腹だ。胸じゃない。口の悪い戦友たちの中には、瑞鶴の胸と腹は見分けがつかない、などと言う者もいたが、それは余計なお世話というものだ。
初月の気を逸らしてやることにして、私は手元にあった書類を一枚取り、彼女に見せた。移動の指示書だ。重要な部分は黒塗りで消されていたが、それなりに大きな動きがあったらしい。作り物の表情が初月の顔から剥がれ落ち、思案を巡らせる冷静な捜査官の面構えになる。私はほっとした。こっちの方が、見ていて気が楽だ。初月は小さな声で呟き出した。
「十九世紀以降、大規模な移動には鉄道を使うのが常道だ。しかし、動かしたのが人員にしては、書類の日付が少し古すぎる。人は
「装備じゃないかしら? ほら、深海棲艦が日本国内で身を隠すには、砲や艤装を取り外したり破壊して、融和派のふりをするのが一番でしょ」
「だが取り外したものはともかく、破壊した装備の代替品を手に入れようとしたら、融和派たちから掠め取るしかないぞ。奴らも馬鹿じゃない、厳重に管理している筈だ……いや、ちょっと待てよ」
自分で自分の言葉を止めるや否や、初月は彼女のパソコンで調べごとをする為に、自室に戻ってしまった。取り残された私は、一休みがてら紅茶を淹れながら彼女を待った。カップの半分ほど飲み終わったところで、初月の部屋の方から「やっぱりそうだ!」と聞こえてくる。勝手に一人で納得していないで、是非私にも何がやっぱりそうなのか教えて欲しいものだ。
残りの半分も飲み終わり、二杯目を注ごうとした頃になってやっと、彼女は小走りで帰ってきた。元の席に飛び込むように座ると、「何だ、自分だけ休憩か?」とこちらの非常識さを責めるトーンで言ってくる。「これが休憩に見える? 紅茶を飲むのにすごく忙しいんだけど」すかさず言い返すと、彼女は口の端を吊り上げて笑った。嬉しいことに、調子が戻ってきたようだ。初月はまず、事前知識の確認から入った。
「融和派のリーダーの艦娘を知ってるか?」
「そういう政治的な話題には興味がなくってね。でも、艦娘なの? 深海棲艦じゃなくて?」
「融和派の深海棲艦を率いるリーダーになら深海棲艦が適役かもしれないが、人間社会に深海棲艦への融和思想を説くグループのリーダーは、人間か艦娘じゃないと務まらないだろう。ともかく、リーダーは正規空母艦娘「
人類の裏切り者から終戦の英雄への大変身か。その話は寝物語によさそうだったが、幾ら面白そうな話をしてくれそうだとしても、布団の中にまで初月を連れ込む気にはなれなかった。余計な口を挟まずに、頷いて続きを求める。
「彼女には右腕と呼べる人材として、駆逐艦「
佐世保で五十鈴から聞いた話は、まだ記憶に残っている。龍田がこもった島には深海棲艦も来たらしい、と彼女は言っていた。不確定な情報だったこともあって深く気にかけていなかったが、ここで電の政治的状況と関係してくるなら、態度を変えるべきだろう。軍警にいた初月なら、電の左遷の理由も知っているかもしれない。というか、もったいぶった態度で話し始めたんだから、それぐらいの情報は持っていてくれないとがっかりだ。
「聞いた話じゃ、彼女は海軍の要請に応じて、武装した深海棲艦の一隊を、しかるべき許可を取らず秘密裏に動かしたそうだ。で、誰かがそれを密告した。彼女の上司と、組織の上層部全体にな。電を処分しなかったら、赤城は指導者としての資質を疑われかねなかった。まあそれ自体はよくある政争話だが、電は腐っても赤城の右腕だった。彼女が組織運営の中枢から外れた結果、グループの
「装備の管理体制に綻びが生じた、と?」
「または綻びがより大きくなるのを、ごまかす余裕ができたか、だな。当初から融和派の中にはスパイが忍び込んでいて、電が目を光らせている間は動けなかったが、彼女が失脚したことで活動できるようになった、なんて筋も考えられるだろう?」
なら、深海棲艦融和派にもコンタクトを取り、彼女たちの装備が紛失されていないかや、不正に運び出されたりしていないか調べさせられないだろうか。龍田の目的が何だとしても、その手段は暴力と不和の創出である。手を取り合いつつある人と深海棲艦の関係性を、再び戦争時代の、敵意と憎悪にまみれたそれへと巻き戻すものだ。己の血を流しながら停戦・終戦を実現した融和派たちにとっては、これまでの努力を無に帰する蛮行そのものだろう。知れば絶対に止めたくなる。
けれどもここで重要なのが、どうやって知らせるか、だ。彼女たちが設けている電話相談・質問窓口は二十四時間態勢だが、そこに電話を掛けて「こんにちは! 元お仲間の残党がテロを計画してるみたいなんだけど、調査を手伝ってくれない?」と持ちかけるのは、最高のアイデアではないだろう。本気にして貰うには、もっと別の方法を取らなければならない。深海棲艦嫌いの初月には業腹かもしれないが、と、彼女の顔色を伺うように一瞥する。すると、時に思いがけないことを口にするこの相棒は、私がつい今しがた脳内で却下した考え、つまり電話を持ち出してきた。
頭から否定して掛かるのは、愚かな行為だ。詳しく話を聞いてみる。上の人間を引っ張り出し、そいつに私たちが得た情報を見せて信用させるのだと初月は言った。まあ、不可能ではないだろう。どうやって上の人間とやらを引っ張り出すのか知りたいが、そこがどうにかなれば、残りの部分は何とでもなる。私たちが龍田の部屋で見つけたものには、それだけの力があった。
今いるこの部屋で電話を掛けるものと思っていたが、初月はまたしても自分の部屋に去っていった。そのことを少し不満に思う。今更、私に聞かせられない話があるのか? 短い付き合いの中でだが、色々なことを共にやったつもりだ。他人の家に押し入ったり、誰かと殴り合ったり、龍田を尋問したり、一般的な艦娘たちがしないような体験を、私たちは分かち合ってきた。それなのに、私には電話の内容一つ教えて貰えないのだ。ふん、と鼻息を鳴らし、二杯目の紅茶を注ぐ。ぬるくなっていたが、構わなかった。
長い話し合いになったらしく、私の薄情なパートナーが居間に戻ったのは四十分ほど後のことだった。ことが望み通りに運ばなかったのか、不快げな表情をしている。彼女の場合は平静にしていても不機嫌そうに見えるが、翔鶴姉の死の真相を暴く旅路の間に彼女の様々な表情を見たことで、私にはこの初月の表情の見分けがつくようになっていた。他の初月でもできるかどうかは未知数だけれども、秋月型駆逐艦は駆逐艦娘の中では少数派に属する。更にその中の一人に絞るとなれば、これから先、私が新たに出会うということもないだろう。
「幸い、話はついた」
何が幸いなものか、という顔で、初月はそう言った。そのむかっ腹が深海棲艦嫌いに起因するものなら、私にできることはない。戦争は大なり小なり人を変えるが、一度焼いた肉を生に戻すことができないように、変わってしまった後でそれを元に戻すのはほとんどの場合、不可能であるからだ。より悪い可能性として、戦争は彼女を変えなかったという仮定だってある。影響を受ける前から嫌いなら、もう本当にどうしようもない。
「行くぞ。あっちはなるべく早く会いたいそうだ」
声を掛けられて、きょとんとする。今からか? それは何とも、フットワークの軽いことだ。組織というのはややもすると硬直しがちで、腰が重いものだが、そういった常識的なイメージに反するこの軽快さは、敬意に値する。不可能と見なされていた深海棲艦と人類間の対話と友好を成し遂げた人々は、その業績に恥じない能力を持っているということか。
休日返上に否やはない。書類の相手にもうんざりしていたのだ。私は鏡で服装をチェックし、染めた髪の根元を見て問題がないことを確かめると、部屋を出て駐車場に向かい、車に乗った。初月が呼び出すことに成功した人物の具体的な居所は知らないが、この近所に住んでいるという偶然はないだろう。私は長時間のドライブになることを覚悟していた。ところが車は十分少々で駐車場に停まった。最寄の鉄道駅の有料駐車場である。そこからターミナル駅まで電車で移動し、更に一時間ばかり新幹線に揺られた先の駅が、向こうの指定した合流地点だった。
駅構内の喫茶店に入り、案内された四人席に腰を下ろす。従業員ではない誰かが近寄ってくる気配はない。待ち合わせ場所を選んだ癖に、私たちより後から来るつもりのようだ。これ幸いとばかりに、私は昼食を注文した。駅弁もいいが、こういう構内の店で食べるのも嫌いではない。最もボリュームがありそうなのはとメニューを見てみると、オムライスが目に留まり、甘酸っぱいケチャップの味が思い出された。迷いなくそれを頼み、飲み物にはジンジャーエールを選ぶ。初月はそこまで食欲が出ないようで、サンドイッチとコーヒーの軽食セットを頼んだ。
注文した品物が来るのを待ちながら、小さめの声で会話をして時間を潰す。初めはどうでもいいようなことを話題にしていたが、気づくと海軍時代の話になっていた。初月が自分の艦隊について多くを話したがらないので、話の八割は私の思い出話になってしまったが、それなりに面白く聞けたようだ。私たちの昼食が来る頃には、電話を済ませてからの不機嫌面が、柔らかいものになっていた。食欲も出てきたのか、サンドイッチに手をつける前から、運んできた店員に追加注文をし始める。食べたいと思えるのはいいことだ。私はひとまず安心した。
オムライスをスプーンで口に運ぼうとして、髪の毛が乗っているのを見つける。うわっ、と思ったが、よく見れば自分の髪らしかった。長さや、根元に染め残しがほんの僅かに残っているところから、それと分かった。紙ナプキンに包んでいると、初月が不意に話し始めた。「頭を撃たれたことってあるか?」直撃ではないが、と答える。その時の記憶をよみがえらせてしまって、嫌な気分になった。
誓って言うが、あれは気持ちのいいものではない。比喩的な話ではなく、砲弾が頭やその付近を掠めていくと、脳を揺さぶられるのだ。ひ弱だったり無防備な者だと、それだけで失神を起こすこともある。そうでなくても気分が悪くなり、吐き気を催す。「砲弾が掠めると、髪の毛を持って行かれるだろう」私は頷いた。自分を含め、艦娘「瑞鶴」の大半が常の髪型として採用しているツインテールだが、私はその片一方をもぎ取られたこともあった。結果として正規空母「加賀」めいたサイドテールになってしまい、何だか笑えたので基地に帰ってから写真を撮ったのを覚えている。
もちろん、笑えたのは取り返しがつく要素だったからだ。放っておいても生えてくるし、余りに大量の髪の毛を失ってひどい見た目になってしまったなら、入渠してもいい。入渠は艦娘の髪の毛まで修復してしまうのである。初月は喉を鳴らして笑いながら、珍しく彼女の艦隊の話をした。「結構前だけどな、知り合いの「
「その時の僕は長い戦闘の後で、もう倒れる以外に何をする気力もないくらいへとへとだったんだが、それを見て何だかいても立ってもいられなくなった。それで、ダッシュで基地の酒保から剃刀とシェービングジェルを買ってくると、雲龍の頭を丸っきり剃ってしまったんだ。剃り終わって、僕が奇妙な満足感を覚えていると、彼女は起きた──そして一瞬で全てを把握すると、猛烈にキレ始めた。僕は慌てて高速修復材をぶっ掛けたよ」
彼女の言葉が区切られる前から、既に私は抑えきれずに声を出して笑っていた。つるつるの頭で顔を真っ赤にして怒る雲龍の姿を想像すると、どうしても笑わずにはいられなかった。笑いの発作の合間合間に呼吸を挟み、それで得た貴重な酸素を使って、短い問いを発する。「何で?」これは複数の問いを内包していた。どうしてそんなことをしたのか? 何の意味がそこにあったのか? わざわざ剃刀やジェルを買ってまでそうする理由があったのか? 初月は思ってもみなかったことを聞かれた、という顔で答えた。
「え? バケツでだが」
余計に私は吹き出した。この話が始まる前に飲み物を口に含んでいなかったのは、瑞鶴に幸運の女神がついているということの証明だろう。そうでなければ、私は今頃炭酸飲料に喉と鼻の内側を焼き尽くされていた筈だ。笑いまくりの私が落ち着くまで、初月はトークを中断してくれた。荒い息を吐きながら、発作を押さえ込み、乾いた喉と上昇した体温の為に冷たいジンジャーエールを飲み下した。それが口の中から食道を通って胃の中へと流れてから、「それで?」続きを求める。初月は短い表現で答えた。
「すごい勢いで生えてきた」
「んふっ」
声が漏れる。淡々とした表現なのに、どうしてか彼女の言葉は私の笑いのツボを突いていた。私を笑わせるのが楽しくなってきたのか、初月は意地の悪い笑みで追い討ちを掛けてきた。「擬音で表現すると……」悪い予感しかしないが、止める為に声を掛けようとしても、その為の酸素が足りなかった。「もっさー! って感じだったな」頭を振り下ろし、テーブルの何も置いていないところにぶち当てる。ごん、と鈍い音。痛みは小さい。私は笑い声を抑えようと、必死で努力した。ここは自分の家ではないのだ。頭をテーブルにつけたまま、腹筋に力を入れ、歯を食いしばる。ひひひひ、とでも表現するしかない、引きつった笑い声が出た。
短いながらも時間を費やして、精神を復調させていく。かすかに思い出し笑いをしながら、私はゆっくりと顔を上げた。話が受けたのが余程楽しかったのか、向かいの席に座った初月はニヤニヤしていた。だが私は彼女の後ろ、店の入り口側を見ていた。初月が私の視線の行き場に気づいたのか、振り返る。そこには駆逐艦娘「電」が立っていた。彼女は私たちを見ていた。そして明らかに困惑していた。彼女は言った。
「あの……頭、大丈夫なのです?」
どうだろう?
* * *
礼儀を優先するなら、私は食べるのをひとまず止め、初月と共にこの電と膝を突き合わせて話をするべきだったのだろう。だが、温かい状態で出てきた料理は、温かい内に食べるのが最もよい食べ方だ。世間には冷めてしまってからでもおいしい料理があるが、そんな料理でもわざと冷やす者はいないだろう。それはその冷えた料理があくまで冷めたにしてはおいしいだけであって、本来の、より優れた味わいを失っているからである。
それに、食事は日常の行為だ。決して、融和派リーダーの元右腕と会うような、非日常の行為ではない。食べることは、私を落ち着かせてくれる。私は初月と話す電の姿を見ながら、黙ってオムライスを食べ続けた。待ち人の到来によって空気が変わってしまったせいか、その味は少し前に感じたよりも衰えたものになっていたが、それでもマズくはない。内心で嘆息しつつ、食べ終えたらどうやってこの場で過ごすか考える。
電が来るとは聞いていなかった。左遷された彼女に、どうやって初月は連絡を取ったのだ? 電話相談窓口で彼女の転属先を聞きだしたのか? 深海棲艦の犯罪にも目を光らせる必要のある軍警にいたから、融和派たちの動向に詳しくなるのは分かる。だがそれで得られる見識は、組織外部から見た、融和派全体としての大きな動きについてのものであろう。内部の人事という細かい情報まで握れるのは、奇妙に思える。
彼女は何かを隠しているのかもしれない。私は初月に対して、そんな疑いを持った。無論、悪意ある疑いではない。彼女が私の味方であり、翔鶴姉の味方であることは、今までの行いがこれ以上なく証明してくれている。初月は何度も心の中で言及した通り、性悪の捻くれ者だが、信頼できる艦娘だ。その彼女が何かを隠している。電を呼び出す為の電話だって、その内容を私に聞かせなかったではないか。
これについては、きちんと覚えておくべきだろう。暴き立ててやろうとは思わない。私たちがどんな関係を結んでいたとしても、お互い相手に何もかも隠さず話してしまう義務はないからだ。隠した方が物事が上手く運ぶのだと初月が信じているなら、そうさせてやろう。どうせ彼女には隠すことしかできないのだ。私がそれに関して折々の機会に考察や推察を加えるのを、止める力はない。
私を放置して進む、二人の艦娘たちの内緒話に耳をそばだてる。電は半信半疑の様相で、初月の説明と要望を聞いている。私としては有力な証拠を揃えたつもりだったのだが、未だに信じて貰えないところを見ると、そうでもなかったのだろうか。あるいは電が、二度目の失敗で今度こそ立場を完全に失うことを恐れる余り、事なかれ主義的な臆病風に吹かれているのか。彼女の肩書きが内調関連のものでなければ、私たちが頼んでいることは筋違いの話だ。赤城から見れば、不安因子に対して決定的な処分を下す、いい機会になる。
だが電にとっても、これは決して旨味のない話ではない。ここで要領よく立ち回ることができれば、彼女は融和派の救世主にもなれるのだ。そうともなれば、赤城は彼女を右腕としてもう一度、脇に控えさせるしかなくなる。華麗なる復活という訳だ。一回処分した部下を手元に戻さなければならないというのは、部下にとっても上司にとっても不幸な展開になりそうだが、そこは私たちのあずかり知らぬところである。
熱意ある初月の説得と、龍田が深海棲艦融和派に敵対的な形で暗躍していることを示す物的な証拠群は、長い思案の時を経て、ついに電の意志を固めさせた。「し、仕方ないのです。電にできる範囲で、協力させて貰うのです」いい感じじゃない、と評する。全面的に協力して貰えるとは、私も思っていない。初月も多分その筈だ。今は電の力が及ぶ限りの協力でいい。それで新しい証拠などが出てくれば、しめたものである。
融和派が動くとしたら、それは外部の者から一方的に与えられた情報に基づいて、ではない。彼女たちが自分で見つけた──あるいは見つけたと信じる──情報に基づいてだ。それなら、彼女たちに見つけさせてやればいい。失脚した電が関わっていることがマイナスに影響することは考えられるが、これは気にしてもしょうがないことだ。精々私たちは、組織の指導者である赤城の右腕とまで呼ばれた彼女の影響力が、その失墜の際に全て失われていないことを願うだけである。
データや書類のコピーを電に渡すと、彼女はそれを一瞥してから初月と短く謎の会話を交わした。「それで、彼女は?」「悪いな、嘘だ」「はあ、だと思ったのです」そのまま、そそくさとこの店を立ち去っていく。彼女が店の外に消えるのを見送った後で、初月が私をじろりと見て言った。
「僕が話をしている間、お前は食事をかなり楽しんでいたようだな」
「あんたは今から私と一緒に食べられるじゃない、ほら、お喋りとかしながらね。私はあんたと同じテーブルに座ってたのに、一人っきりで食べなきゃいけなかったのよ」
「ああ、僕らの大事な目的なんかどうでもいいよな。お腹が減ってて、目の前に食事がある時には特にそうだ。お前、少しは我慢できなかったのか?」
「質問を返すようで悪いんだけどさ、じゃ、あんたは嫌味ったらしい皮肉屋でいることを我慢した試しがあるって訳?」
近くの席でこの言葉の応酬だけを聞いていた人がいたら、きっとその人は私と初月が険悪な調子で口喧嘩をしていると思っただろう。実際には、初月は追加注文したドリアを頬張っていたし、顔にはからかいの表情があった。また私の方でも、唇と唇の間から歯が覗くほどの笑いを浮かべていたから、当然このやり取りは喧嘩などではなく、他人には通じづらいコミュニケーションの、一つの形だった。
食べ終えて、心地よい満腹感を抱えて店を出る。私たちが学生か何かなら、このまま遊んで帰ってもよかっただろう。しかし、幾ら休日と決めていたとしても、そこまで気を抜くつもりにはなれなかった。それに、やり掛けの仕事が残っている。私たちは簡単で短い会話の後、セーフハウスに戻ることを決めた。帰りの新幹線が来る前に、駅構内の土産物売り場で見つけた、味のよさそうなチーズケーキを買っておく。糖分は頭脳労働に必須の栄養素だ。疲れた時にもいい。そうでなくとも、私は甘いものが好きだ。それだけで買うには十分な理由だった。
「まだ食べる気なのか? 正規空母というのは全く、呆れた燃費だな」
初月はケーキを見ると勘違いしてそう言ったが、私は相手にしなかった。どうせ彼女も、私が食べる時になればきっと「僕の分はないのか」と言い出すに決まっているのだ。何か言い返してやるなら、そのタイミングが最適だろう。さっき、ここに来る時に見た風景を逆回しにもう一度眺めながら、私たちは隠れ家へと戻り始めた。行きに比べると会話は少なかったが、それはお互いに考えなければならないことがあったからだ。それは次の動き、すなわち軍警司令への接触についてだった。
龍田の部屋で多くの情報を得たことで、軍警司令に協力を要請する為の条件の一つは満たすことができた。融和派の一部が動いているということも、場合によっては交渉材料になるだろう。軍警司令は融和派との協力によって戦争を終わりへと導いたが、今となっては、彼女たちは利害を対立させることの方が多い関係である。仮に軍警司令が私たちを信じられなくても、融和派連中だけにいい思いをさせてしまうかも、という懸念が、彼女を動かしてくれる。
接触さえすれば、こちらの目的は達成したも同然なのだ。けれど最大の問題は、彼女への接触をどうやって成し遂げるかということだった。あの“瑞鶴”が証明したように、軍警の一部はこちらの敵だ。それはまだ楽観的な表現というもので、一部ではなく大半ということも考えられる。私たちには、軍警内の何処までが敵勢力なのか、分からないのだ。つまり何とかして直接、軍警司令に話をしなければならない。だけれども、どうやって? 彼女は国家の重要人物だ。会いたいと思って訪ねていける人ではない。
今日の電のように誘い出すか? それこそどうやって、だ! 軍警本部庁舎への爆破予告でもすれば、彼女を外に出させられるだろうが、それではもっと警備の厳重な場所に移られるだけだ。彼女が乗った車が移動中にこちらも車で割り込んで止めさせて、などと思い描いて、護衛に蜂の巣にされる未来を幻視する。護衛対象に迫った危険に気が立っている、武装した兵士や艦娘の前に突然姿を現すのは、手軽な自殺の方法だろう。それは、私が求めているものではない。
そんな風に新幹線の中で悩んでいると、マナーモードに設定されていた初月の携帯電話が、震え出した。画面には「最上」と書いてある。私たちは席を立って、デッキに出た。画面上で初月の指が滑り、通話が繋がる。緊急の連絡であることを想定してか、彼女はまず最上の用事を聞くことにしたようだった。「どうした」と生真面目そうな声で訊ねる。耳を澄ませると、携帯から最上の声が聞こえてきた。小さいが、聞き取れないほどではない。
「進捗があったんで報告しようかと思ったんだけど、移動中かい?」
「新幹線の中だ。大体……残り一時間ちょっとで家に着く。話はその後でも構わないか?」
「ボクとしては、二度とこの電話が繋がらなくても構わないよ。それじゃ、また後で」
相棒と頷き合って、席に戻る。私は感心していた。最上が協力するようになってから、四日ほど経っている。そう、ほんの四日だ。その間に、彼女は軍の研究所が暗号化したファイルの解析において、一定の進捗を得たというのだ。一体どうやったらそんなことが可能になるのか、私にはさっぱり分からなかった。大体、いわゆる情報技術というのが私にはよく分からない。パソコンでネットサーフィンをすることはできる。アプリをダウンロードして遊んだり、電子掲示板に下らない書き込みをすることだってできる。一方でその仕組みについては、皆目見当もつかないのだ。
まあ、恥じることではないだろう。世間の人々の九分九厘は、私と同じようなものだと思う。だからこそ最上みたいに、きちんとそれを理解して扱うことのできる者を見ると、私は敬意を払いたくなるのだ。私にはできないことをする人は、誰だって敬意に値する。例外は初月だけで、彼女は私にはできないほどひどいことを言ったりやったりするので、軽蔑の対象になる。尊敬なんかしてやらない。
最上の話を聞くのが楽しみになってきて、軍警司令のことを忘れそうになる。これではいけない。私の個人的な興味や関心と目的の為の思索では、後者を優先してしかるべきだ。気を取り直して、どうやって彼女とコンタクトを取るか、という難題に意識を向ける。本部庁舎に入って話をするのは、容易いことではない。こちらから働きかけて彼女を特定の場所に誘導するのも、一筋縄では行かないだろう。それにその方法だと、相手に私たちへの不信感を与える恐れがある。
残ったのは、軍警司令が彼女本人の予定として本部を離れる機会を待つ、という案だった。でも、それだけでは何もしないのと変わらない。そんな機会が近々あるのかさえ、私は知らないのだ。だが“当て”程度の考えなら、一つあった。佐世保で五十鈴を待っている間に耳にした、海軍記念館の開館記念式典だ。活躍の場を変えたとしても、軍警司令がかつて海軍で艦娘を指揮する提督だったという事実は消えない。組織同士の仲も悪化していないなら、招待しないのは変だ。
私の携帯電話をいじり、式典について調べる。日程や、式典が行われる場所を知らなければならない。佐世保に行ったのは一昨日のことだから、まだ式典は行われていないと思うが、もし終わっていれば別の手立てを考える必要が出てくる。自分の頭では「別の手立て」なんてものを考えつくとは信じられないので、記念館のオープンが先の話であることを祈るばかりだ。と言って、龍田が蜂起を済ませてしまうほど先の話であって貰っても困るが……さて、これについての思考はこの辺で打ち切ってもいいだろう。後はぼんやりと由無しごとを思いつつ、家路を行くとしよう。
初月の見立てはやや悲観的なものだったようで、私たちがセーフハウスのリビングで落ち着いたのは、それから四十分ほど後のことだった。休憩がてら、自室のベッドで寝転がってきたいところだが、うっかりするとすやすや夜まで眠ってしまいそうだ。夜戦の予定がないのなら、変な時間に睡眠を取るべきではない。翌朝、強い眠気を感じてストレスと危険性を高めることになるのは、自分なのだ。うたた寝をしないよう、私たちは最上に早速電話を掛けることにした。
三コール目で出たので、彼女はこちらのことを待っていたのだろう。ダイニングテーブルの真ん中に置いた携帯電話が最上と繋がると、初月は椅子に座ったまま手を伸ばし、画面にタッチしてスピーカーをオンにした。元艦隊員の声が流れ出す。「もしもし?」「僕だ。さっきの話をしよう」「分かった。そこに瑞鶴はいるかい?」不良捜査官が一瞥をこちらに寄越す。それから通話の相手には見える訳のない頷きを一度して、言った。
「ああ、いるぞ。何か言いたいことがあるなら、先に言っておくといい」
「うん、そうしよう。馬鹿瑞鶴! ツ級に艦載機全部やられちゃえ!」
出し抜けに罵られたのに、私は笑ってしまった。声は出なかったが、息が漏れた。それは私に戦中時代を回想させる決まり文句、懐かしい呪いの言葉だった。返礼に温かい感情を込めて、彼女へ言い返してやる。「あんたの航空甲板が毎日台無しになりますように、最上!」初月が白けた顔でこちらを見やっているが、気にはしない。自分と違った慣習を持つ人々は、どうしても奇妙に見えるものだ。それを責めるのは良心がない。
挨拶が終わったので、私たちは本題に入ることにした。私の元戦友は、実戦経験豊かな艦娘らしく、まず伝えるべき結論から話を始めた。「復号用のプログラムを手に入れたよ」初月の表情が驚きに染められ、私はにんまりと笑う。彼女が驚かされた時の顔は、怒った顔の次に魅力的だ。どちらも、何度でも見たくなる。「何処からそんなものを?」しかし初月は素早く立ち直ったので、その質問を発した時には既に、彼女の顔から感情の気配は消えていた。退屈なことだ。
「サーバールームからに決まってるだろ? 案外簡単だったよ。軽く変装してゴミ収拾業者のふりをしたら、誰もボクだって気づかないし、話しかけもしないんだもん。監視カメラは前から掌握済みだったし、回収したゴミから取った指紋で認証を抜けて、バックドアツール入りのごく小さな
「スパイ映画顔負けだな。それじゃあもっといい話を期待して質問させて貰いたいんだが、復号はどの程度進んでいる? 半分は行ったか?」
「あのさあ、これって本当なら、サーバールーム一個分の演算能力を活用して走らせるプログラムなんだよ? それを今、ボクのパソコン一台で動かしてるんだ。折角バックドアまで仕掛けたんだし、一応、バレない程度にサーバーも使ってるけどさ。そんなすぐに復号できたら苦労しないよ。分かる?」
私には、最上がまさに今感じているのがどんなものであるかということを、直感的に理解することができた。専門家が無知な素人から馬鹿げた質問を受けた際に覚える、あの苛立たしさだ。あれは御しがたいものである。戦後組の艦娘たちと話していると、しょっちゅう経験するので私にも分かる。最上は根が温厚な方なので、私と比べて沈静も早かった。ものの数秒で機嫌を直した彼女は、一つ気になることがあるんだ、と話を切り出した。
「復号プログラムを探してる最中に発見があってね。研究所のサーバーを通って、外部にアクセスできるようになってたんだ。偽装してあったから、正規の
いきなり、初月が椅子を蹴立てて立ち上がった。「アクセスしたのか」声には恐怖が混じっている。私は困惑して、彼女を見つめた。演技には見えないし、私の目が節穴なだけだったとしても、演じる理由が見当たらない。「したから接続先が分かったんじゃないか。さっきちらっと見ただけだけど、面白そうなファイルの山だったよ」能天気な声の返事からすると、電話越しに話しているせいか、最上は初月の変化に気づいていないようだ。彼女は顔色を変えたまま、口を閉じた。沈黙した初月に代わり、私が口を開く。軍警のサーバーとは、私もよくよくツイているみたいだ。幸運の女神は、やっぱり瑞鶴に力を貸してくれているのだろう。
「最上、軍警司令の予定表なんか見つけられない? お願い」
「やれやれ。ボクの仕事は、暗号化されたデータの復号だけだと思ってたんだけど? それにそんなもの、わざわざサーバーに保存するかなあ? まあ、やってみようか。時間は掛からないと思うよ、何分か待ってて」
最上はパソコンの操作を始めたようだった。キーボードを叩く音やマウスのクリック音が、鼻歌交じりに聞こえてくる。私の近くに寄ってきた初月が、最上に聞こえないように小声で言った。「予定表なんか何に使うんだ、やめさせた方がいい」そういえば軍警司令とどう接触するか、彼女に相談していなかった。電を誘い出す為の電話で私を抜きにしたことを、心の何処かで不満に思っていて、それで同じことをやり返したくなっていたのかもしれない。子供っぽい感情だ、捨てるべきだろう。
考えを説明すると、初月は最低限の納得はしてくれた。私がパパラッチに転向しようとしているのではなく、必要があって最上に探させているのだと、彼女は分かってくれたのである。ただしそれは私の動機を認めてくれただけであって、行為の是非については、依然として対立があった。私はあえてそれを解消させなかった。最上が数分待ってくれと言ったからだ。捜索作業が終わってしまえば文句こそ言えても、やめさせることはできない。
「ようし、見つけた!」
スピーカーから響いたこの言葉で、私は己の勝利を胸に感じた。早速、予定を確認して貰う。海軍記念館の開館記念式典に参加しないのなら、別の機会を予定表の中に見つけなければいけない。緊張し、息をすることを忘れて最上の言葉を待つ。それは数秒で訪れた。「最近の予定だと、式典出席と記念館の観覧が予定されてるみたいだ。明後日だね」よし! 私は右の拳を強く握った。これで、こっちの予定も固まった。最上が感心したように呟く。
「軍警司令ってのは多忙なんだねえ。数ヶ月先までびっしり──あれ?」
胸騒ぎがした。私と初月は恐らく、それを共有していた。焦燥感で乾いた最上の声が、淡々と事実を告げる。
「……ごめん。このアクセス、探知されちゃってる」