一、
「今なんて言った」
あれから十日、禍人の捜索に躍起になっていた神尾の手が、突然止まった。
「はぁ、黒が御刀共々、消えました」
「それはだ、つまり」
「逃げました」
深いため息をつきつつ、何か小言を言いながら頭を抱えてしまった。
梅は見透かすように神尾を見下す。
「どうするんだい少佐殿」
「なんでかねぇ」
「言ってよろしいですか」
「なんなり、と」
「いくら虎の子で、しかも公に伏せなくちゃいけないとはいえ、施設の裏で荒魂が現れてから外の目から伏せるために一週間缶詰め状態。おまけに大好きな稽古もずっとお取り上げ、私と彦は慣れていても、黙って待機任務に従うタマなもんかい。監視カメラぐらい付ければよかったろうにねぇ」
「甘かった…かね」
「もう少し考えを巡らすべきでしたね、あいつは生きてることに微塵も絶望しちゃいないのだから」
「そうだな、よく似てる」
「で、その甘チャン課長に提案があります」
施設から数キロのやや大きめの街に出てきた結芽は、既に服を着替え、刀をギターケースに、アイスを片手にしながら通り行く人波を見つめている。なぜ身と御刀だけの彼女がこうしていられるかは簡単だった。
「おまたせ結芽ちゃん」
その明るく朗らかな声に結芽は自然と笑顔になった。
「一日くらいなら泊まれる場所は用意できたよ」
「ほ、本当に」
「勿論だよ、ちょっと裏技を使ったけどね」
彼女にとっては倒すことのできなかった最強の剣士にして刀使、衛藤可奈美であった。
「それにしてもこんなところで出会うなんてね」
「ねぇ、聞かないの、あたしがなぜここに居るのかを」
「うーん、それはね」
ギターケースに手を添えた可奈美が、それは御刀があるからだと言った。
「タギツヒメを封印してから、何か不思議なことが起きても、それは色々なことの積み重ねで、ちゃんと良くなるように動いていくんだって、そう思うようになったんだ。だから、燕ちゃんに何があったかは何も聞かない。でも、きっと話してくれると信じてる。
以前、最後に戦った時に燕ちゃんは正直にしか剣を振れないように思えたんだ」
「正直、私は笑いながら戦っていたんだよ」
「あなたが本気を出す寸前、私を最後の相手に選んだんだよね」
邪魔が入る寸前、結芽の顔から単純に楽しむことから、最後の一時をここで使い果たすことを決めていた。
だからこそ、あの邪魔を入れた二人に心底怒りを覚えたし、殺意を抱いて終いには剣を鈍らせてしまった。
「そうだよ、だっておねぇさん、誰よりも強いもん」
「えへへへ」
「結芽、燕結芽。まだ、名乗ってなかったでしょ」
「そうだったっけ」
「覚えてないの」
「あの時の太刀筋くらいはね」
「でもおねぇさんらしいや」
「私は衛藤可奈美」
「じゃあ、かなねぇって呼ぶね」
「じゃあ、私は結芽ちゃんって呼ぶよ」
そうして、二人は無邪気に笑いあった。
「おかしなの、剣を合わせてばかりで話なんてこれっぽっちもしたことないのに、かなねぇとはまるで」
「まるで」
「まるで」
「まるで」
「分かんないや」
「私も分からないよ、でも、刀使って時には試合で戦って、時には背中を預けるから、家族みたいなものかも」
「家族」
「そう、まいちゃんや、さやかちゃん、ひよりちゃんにエレンちゃん、薫ちゃんにネネちゃんも、刀使のみんな私の家族だよ」
「そっか…そうだね、きっとそう…だよ」
結芽は心の底から沸き起こる温かなものに、肩の荷が下りるような、落ち着いた感覚が体を包み込んだ。
可奈美は応援要請でこの街に来ていたが、荒魂を討伐したため関市に戻る前に、ある人に会うためにここへ来ていた。
「ふぅーん、なら結芽に気を取られてちゃいけないじゃないの」
「ううん、むしろ結芽ちゃんは会っておかなくちゃいけないから」
「どういうこと」
「そいつは私にも聞かせてほしいねぇ」
結芽はその聞き知った声に可奈美の背中に逃げ込んだ。
二人の頭上に大荷物を背負った、梅が立っていた。
「あの、結芽ちゃんをご存じなんですか」
「そうだよ、そいつの先輩だからね」
「先輩、つまり今結芽ちゃんをお世話している人ですね」
可奈美の真剣な面持ちが梅に嘘をつけさせなかった。
「心配しないでも怖いことはしてないよ」
「嘘つきぃ」
「嘘つきだよ、嘘つかなきゃここに来れるもんか」
やや、顔を出したことが不覚であったことに結芽は気が付いた。
「少佐から言伝、今までの働きの御褒美で一週間ほっといてやるそうだ」
「え」
「ただし黙って出ていった罰として、私が始終同行する」
「それ、保険ってやつ」
「いいや、あんたのお陰で稽古と酒飲みができる。利用させてもらった」
「私も稽古に参加していいですか」
突然、目を輝かしながら答えた可奈美を相手に、梅はいつになくたじろんでいた。
「あのね、貴女。こっちはこいつにも、あなたにもいい提案をしているの、話のコシを折らないでほしいな」
「でも、結芽ちゃんと剣を合わせたいです」
(なるほど、タギツヒメでもこいつの相手はキツイだろうわ)
「いいですか!」
「好きにして、なんか滞在先も決まっているみたいだし」
「やったー、やったね結芽ちゃん」
「う、うん、うん」
二、
梅が車で、可奈美の指示するある場所へと向かった。
そこは町から二山越えた集落にある、昔ながらの民家らしかった。
「そろそろかな」
後部席の可奈美が顔を前に乗り出させた。
「あ、ここを左にあとはこの坂をまっすぐです」
「はいよ」
窓を開けると、やや日が傾き、すでに鳴き始めているセミが、集落にその鳴き声を響かせている。
「夏なんだ、もう」
「この鳴き声は、ニィニィゼミだな。あんた、美濃関なんだろ、岐阜ならもう鳴いているんじゃないか」
「あんまし、気にしてないです」
「セミなんかいいから、早く稽古したい」
「なんだ、私を嫌がってた割にはやけに素直じゃないか」
「うるさい、結芽はまだ強くなるの」
そう言って、腹は空がらしく音を立てた。
「まずは腹ごしらえか、立派だ立派、あははははは」
赤くなった結芽は返すに返す言葉もなかった。
「梅さん、ここですよ」
ゆっくりブレーキをかけると、年月を感じさせる素朴な民家がやや高台に建っている。
「挨拶がてら、車を停める場所を聞いてきます」
「頼むよ」
ドアが閉じると、ブレーキをかけ、エンジンを止めた。
「いい友達じゃないか」
「え」
「ほら、荷物出して運んだ運んだ、相手さんに失礼のないようにな」
「はぁーい」
玄関で出迎えた長髪の少女は、その招いていない客人に顔をしかめた。
「可奈美、お友達が来るって言ったよな」
「そうだよ」
「泊まるのは二人と言ったよな」
「まぁ、友達の保護者もついてきちゃった」
「なら、お友達に自己紹介してもらっていいか」
「結芽ちゃん」
「はーい、お久しぶりですペッたんこの小鳥丸のおねぇさん。元親衛隊の燕結芽でーす」
「こんにちは、結芽の世話をしている梅と申します」
頭を抱えかけた彼女は、とにかく家に上がるように言った。
仏間に案内された三人は傍らに御刀を置いて座り、仏壇に一礼した。
面立ちのよく似通った女性の写真が、彼女の血縁者であることを結芽に気付かせた。
十条姫和、折神紫に反旗を翻し、可奈美と共に死地を潜り抜けて、最後は仲間たちと共にタギツヒメを隠世に封じた刀使である。
当然、彼女は今起きていることに何一つ納得することができなかった。
「単刀直入に聞こうか」
「ひよりちゃん」
「何も聞くなという約束だが、度台無理な話だ。なぜここに死んだはずの人間がいるのか、それを聞きたい」
(もう聞いちゃっているし)
しかし、結芽の面持ちは姫和に対して真っすぐであった。
「今は言えない。でも、いつかは全てを話す。今はただ、時間が欲しい。何もかもが突然に、せまっ苦しくて、考える暇もないくらいに怖かった。だから、少し、少しだけ居場所を貸してください。お願いします」
その彼女らしくない、あまりに毅然とした態度に周りは驚き。
結芽は静かに彼女に頭を下げた。
しばしの沈黙が、可奈美の胸をどぎまぎさせた。
「いいだろう。ただし、家事をやってもらうから、そのつもりでな」
「ありがとうございます」
可奈美は思わず安堵のため息をついた。
三、
結芽と梅が荷の片づけをしている間、姫和は外の洗い場前に来るように言った。
「おまたせ」
「ああ、そこの大根を洗ってくれないか」
「合点承知!」
割烹着を着た彼女は、料理の量を増やすべく裏から採ってきたのに気がついた。
手を動かしながら、時々聞こえてくる鳥の鳴き声に耳を傾けた。
「姫和ちゃん」
「なんだ」
「ありがとうね」
「何のことだ、元々お前は泊っていく予定だったじゃないか、あいつは自分で頭を下げたんだ。それで十分だ」
「ううん、それもあるんだけどね」
蛇口を止めると、可奈美の言葉が止まった。
「お前の考えている通りだ。あいつは少し似ている。母が亡くなってからの私に、血気に逸った私にな。でも、可奈美や多くの人たちに足止めされ、その分考えることも、見つめなおすこともした。そうして、少しずつ自分との折り合いをつけていった」
「だから、教えてあげたいんだよね」
「ああ、さぁいい夏大根が手に入ったからな、おいしいぞ」
「わぁい、姫和ちゃんの手料理、久しぶりだなぁ」
「いつも来たら食べてるじゃないか」
「だって、本当にそうなんだもん」
「こいつ…」
家事は明日からと言い置かれ、結芽は庭先に出て御刀を腰に差した。
「まずは一の太刀からだ」
梅は縁側に座りながら、結芽の基本動作の隅々に目を光らせた。
(やるな)
足さばき、腰、太刀筋、所作、十三の少女が振るにはあまりに完璧であり、幾多の戦いを乗り越えたその剣は、もはや熟達の域に達していた。そしてその衰えを知らない剣は、今だ成長を続けている。
形が終わると、梅はすぐさま木刀を手に仕太刀に入って結芽の剣を肌で感じとった。
「そこ」
二回り目の型が始まった瞬間、木刀の切っ先が御刀を弾き左腕を二回、軽く叩いた。
「相手を舐めた動きをするな、それがお前の剣を幾分も弱くしているぞ」
同じ動きを繰り返すが、三度も結芽の太刀がはじかれたり、避けられたりした。
「あともう一度、いいか、遊ぶな、お前はもう急ぐ必要はないんだ」
「はい」
可奈美はその稽古に懐かしさを抱き、そして結芽のあまりに純粋な剣が愛おしくも思えた。
その時、結芽の突きがようやく梅の弾きをいなした。
「まだだ、癖が直り切るまでみっちりしごくからな」
「はいっ」
「威勢だけはいいな」
「何だって」
「くかか、さぁ次」
だが、先ほどのように上手く太刀が入らず、隙あらば梅に転がされた。
「そいつはニッカリ青江か、違うだろ。その御刀の名は」
「…っ、ソハヤノツルギ」
「そうだ、御刀は稽古の刀や、特注の真剣でもない。お前が合わせられると信じて、お前を主人に選んだんだ。あまり下手な剣を振ると御刀はお前を振り回してくるぞ」
気づけば全ての型を複雑に組み合わせた稽古に変化していた。
それは梅が徐々に型を変質させ、結芽の体に染みついた剣術を、さらに順応させようとするものだった。
(マズい)
その瞬間、梅は写しを張っていた。
額の眼前で止まる切っ先がそこへ来たことに気が付かなかった。
可奈美も梅が腕を斬られたと錯覚していた。
そして、写しの腕がポロリと地面に落ちた。
「ようし、近づいてきたぞ」
結芽は汗を噴き出させながら、激しく呼吸を繰り返した。
「落ち着け、ゆっくり、全部息を吐け、そして一気に空気を吸うんだ」
そして、結芽は息を整えた。
「見失うな、登るというのはそういうことだ」
「はいっ」
「そろそろ飯ができるころだ、後にしよう」
「ありがとうございます」
御刀を納めると、可奈美が結芽にタオルを差し出した。
「お疲れ様」
「うん」
四、
シャクリ、その一口はやさしい温かみと味噌だれの甘辛さが、口の中に広がった。
「ほぉ、いい熱さ加減だ」
梅はお好みで添えられたからしを乗せ、走る辛みのほど良さに箸が進んだ。
旬の夏大根は、夏物のみずみずしさと食感が相まって、よい食材である。
本来なら辛みとして添え物にしてもよかったのだろうが、ボリュームや栄養分を考えた結果なのだろう。
さっぱりと煮た大根は十分に冷まされ、その変わりに甘辛の味噌だれが熱いうちにかけられる。
「やっぱり姫和ちゃんの料理が一番だよ、でもチョコミントはどうかと」
「まだ言うかこの口は、甘味くらい好きな味を食べていいだろう」
「それにしては繊細な味付けだよね」
「ほぅ、私に喧嘩を売っているのか」
「ペッタンコのおねぇさん」
「姫和だ、ぺったんはやめろ」
「うん、姫和ねぇさんは歯磨き粉の味が好きなの、じゃあデザートもチョコミントなの?」
「それはない、さすがにさっぱりとした料理に合わせるには」
「へぇ、随分と控えめだね」
「客人がいるから当然だろうに、まったく」
大根の菜を使った和え物と、切り置きしておいたごぼうを使ったゴマの和え物。
それぞれ小鉢にあり、野菜をふんだんに使った素朴な一善である。
翌日、早朝に目覚めていた結芽は庭先に立ち、刀を腰に差した。
ゆっくり息を吐き、静かに抜刀。
その時、日の出の上りと同時に、声にならぬ声が響いた。
(あなたは、今の居場所、今の剣で何を守るの、自分を救おうとして救えなかった、貴女が)
足の歩数を気にしながら、居るはずのない相手に答えた。
「それは分からない、だから今の場所で、やり残した一つ一つを確かめたい」
(その一つ、一つ、知りたいな)
「答える必要、あるの」
(貴女はきっと答えられるはず)
昨日の動作が戻った瞬間、息が荒く乱れた。
「自分のこれから、別れた仲間や先生たちのこと、紫様のこと、体内のノロのこと、二課のこと、刀使のこと、そして両親だった人たちから聞いた、お母さんのこと」
(時間はあるのかしら)
「時間は取り戻す、たとえ偽りの体でも心があれば、きっと」
と、目の前に御刀を手にした可奈美が立っていた。
「かなねぇ」
「おいで」
御刀を抜きはらった彼女は、結芽と真っすぐ対峙していた。
それに答えるように結芽は写しを張った。
「久しぶりだよね、こうして戦うの」
「うん、私ね、ずっと結芽ちゃんともう一度戦ってみたいって思ったの、全力の本気で」
「私も」
はじかれる一撃、いなされる突きに返し、踊るように動く足は考えるよりも先に、隙を見つける一寸先に飛んでいこうとする。
可奈美はずっとずっと強くなっている。
紫さまなぞ目でもないほどに強い。
だからこそ、追いつきたいと、越えていきたいと体が動く。
追い抜いたらすぐに、追いかけたらすぐに、
「私がかなねぇに勝つんだから」
お互いに同時に三段突きが入り、切っ先が両者の突きをはじいた。
(そこっ)
だが、その時足が止まり、一振りが一歩届かず避けられ、そのまま左腕の写しが叩き斬られた。
その結果に結芽はゆっくりと鞘に刀を戻した。
「やっぱり強いね、思った通りだよ」
しかし可奈美は納得のいかないといった表情であった。
「あのね、結芽ちゃん」
「馬鹿」
頭を殴られた結芽は頭を抱えた。
梅はぶっきらぼうに結芽のうしろに立っていた。
「なぜ使わなかった、お前は可奈美に一番失礼なことをしたと、分かっているのかい」
「なんで」
「躊躇ったろう、最後の突きが走った瞬間、お前は可奈美のがら空きの胴を斬れた。だが、お前は踏み出るタイミングで考えた、お前自身が負けることを」
「っ」
可奈美はそれを理解していたのか、残心を残さなかった。
結芽はいずれの自身の行動振り返り、自身が負けを望んでいたことに気が付いた。
「呆れた」
梅はそれから何も言わず、家の中へと戻っていった。
五、
結芽は縁側に寝転がりながら、外の景色を遠く遠く見ている。
名前の知らない鳥、どこからか鳴く声の聞こえるセミ、照り付ける日を受け止める簾が風に揺れ、風鈴が思い出したように音色を奏でている。
「呆れた、か」
さんざん振り回した木刀も、汗だくになった道着も、見えなかった本音が全ての辛さや苦しみを上回った。
ここに来て一日なのに、まるで何日も立ったような感覚だった。
「結芽ちゃん」
目の前に来た可奈美が、結芽の額に冷たいものを置いた。
「冷たい」
起き上がった結芽は、青く透き通った瓶を見て、その瞳を可奈美に返した。
「一緒に飲もう」
開けるのに失敗しながら、二人笑いながら一口飲んだ。
「いやーっ、もう暑いね。そこで農作業を手伝ってたんだけど、雑貨売りさんが冷えたラムネを売りに来たの」
「すごいね」
「ん、元気ないね」
「うん」
「聞くよ」
「うん、なんだかね、今までの剣が私を否定しているように思うの、進むんじゃなくて、結果であればいいんだって、そう言っているようで、それでいいような気がしちゃったの」
「ふーん、でも私は結芽ちゃんに勝ったよ」
「かなねぇ」
「いいじゃん結果でも、その結果で前に進んでいく、私は今の結芽ちゃんに勝ったけど、でも結芽ちゃんはもっともっと強くなるから、今の私じゃ負けちゃうかもしれない。だから、今度はもっと強い結芽ちゃんに勝つ」
そう笑顔で言って見せた彼女の顔を見て、涙が頬を伝った。
「いや、あの、だからね、その、これから一緒に農作業しない」
「え」
「だ、だってね、姿勢を低くして、黙々と一つ一つを丁寧に作業するんだよ。あんまりひどいと作物が痛んじゃうから、そういう心づくしが学べるんだよ。剣も自分と相手との心づくしなんだよ」
「ぷ、あはははは、ふふふ」
「そ、そんなにおかしかったかな」
「うん、とっても、でもうれしい」
涙を拭った結芽はラムネを飲み干し、勢いよく立ち上がった。
「よし、結芽も行くよ」
「うん、そうでなくっちゃ」
可奈美もラムネを飲み干したが、直後に出た曖気に涙を滲ませた。
「痛いよ~、油断した」
そんな彼女をみて結芽は、また元気よく笑った。
「疲れたぁ」
結芽がぐったりと横になると梅が軽く額を叩いた。
「ご苦労さん、日が沈んだら庭先で稽古だ」
「ええっー、今日ぐらい休ませてよ」
「ふぅーん、休みたいのか」
「っぐ、やだっ」
「ならさっさと風呂入りな、私が沸かしといたから」
姫和と入れ替わるように梅は仏間の方へ去っていった。
「ほら、着替えとタオルだ、可奈美も一緒に入ってくるといい」
「そうするよ、あと中村さんから」
大目にザルに入った茄子が新鮮な色づきをしている。
「こんなに」
「結芽ちゃんが張り切って、明日までかかる作業を今日中に終わらせちゃったから、そのお礼にだって」
「なるほど、じゃあ今夜は夏野菜たっぷりのカレーだな」
「おおーっ、カレーだ」
「ほら、二人とも早く風呂に入ってきなさい」
「はーい」
「はい、はーい」
仲良く風呂場に向かう二人を見送り、慣れた手つきで割烹着を着た。
「洗濯物は取り込みましたから、畳んでおきますね」
「お願いします、それにしても、頑なに梅と呼ばせるのはどうしてですか」
「気になる」
「ええ」
「まぁ、貴女が私の本当の名前を知っていればそれで十分よ」
「後悔しますよ」
「そうね、後悔なら何度しても変わらないわ」
そう言って、梅は表情を見せなかった。
六、
「ありがとうございました」
頭を下げる結芽を見て、姫和は照れくさそうにそっぽを向いて見せた。
「まぁ、ウチがようやく静かになると思えばひと段落できるというものだ」
「本当にありがとうございました、姫和さんには本当にお世話になりっぱなしでした。このお礼は必ずさせていただきます」
「かななぇにもよろしくね、姫和ねぇ」
「わかった、わかった、さっさと行け」
先に立っていた可奈美は結芽に別れをいう時、二つの約束をした。
「一つは必ず私と再戦する。。今度は本当に強くなった結芽ちゃんを楽しみにしているからね」
「もちろん、かならず守るよ」
「二つは結芽ちゃんがピンチの時は絶対に駆けつけるから!」
「うん、きっと呼ぶから」
そうして梅の目を盗むように、連絡先の書かれた手紙を手渡した。
車に乗りながら、遠ざかる十条家を見つめている。
「寂しいか」
「少しね」
「ふぅん、少しなのか」
「私は刀使だから、自分の運命にも、使命にも真っすぐに当たっていく、だからくよくよしていられないの」
「ふふふ、立派になっちゃって」
夕方になると雨雲が雷鳴を立てながら、雨を振り出し始めた。
季節はより暑く、より日の匂い立つ夏の盛りへと移っていく、
そんなひと時の、結芽にとって小さな出来事であった。