~結芽錯綜記~   作:ひろつかさ(旧・白寅Ⅰ号)

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第二十八話「贋作」

 あの後の処理は至って簡単であった。

 府警と特祭隊からの事情聴取ののち、綾小路の寮に戻された。噂に聞いていた荒魂になった人間『禍人』に遭遇してしまったのだと分かったのは、学長から正式な説明があったころだ。

 

 私は仲間を見殺しにし、あまつや人を斬った。

 

 同情の声もあったが、私を恐れる声も少なからずあった。

 本物の鬼と化した私にはもはや綾小路に居場所はなかった。

 

「篠子さん、本当に行ってしまうのですか」

 寮を引き払い、御刀返上に向かう向かう私を恵実が引き留めた。

「仕方ないわよ」

「篠子さんは何も悪くない」

「知っている。でも、私は許してはいけないの、私自身がこの責を負わなければ気が済まないのよ」

「だからって」

「ごめんなさいね、私の最初で最後の我儘なの、どうか通させてちょうだい。貴女のことはずっと見守っているから」

「それは、ないじゃないの!」

「さようなら」

 

 あれから振り返りもしなかった。

 ただ、電車に乗るとき、綾小路へ向かう入り口に目を向けた。無人のホームには自分以外の人影は認められなかった。

 

 

 自宅に戻った私は地元の中学と高校で勉強し、その傍らで父のヤクザ業の仕事を手伝い始めた。父は文句を言わなかったし、私が禍人を斬ったことをどこからか聞き及んでいた。

「お前ももう戻れんな」

 父は親子ともに同じ道筋を生きることをことのほか喜んでいた。

 

 そして、青子屋は代々ノロの裏取引をつかさどってきたことも知った。

 

 殺し殺して、騙し奪っていく日々の中で殺伐とした、人の生き死に関心を示さなくなった。

 私は二十歳を越した。鑑定家業を継ぎ、ノロの能力を調査する部署の部長に任ぜられ、私は青子屋での地位を確固たるものにした。

 

「こんにちは、篠子の姐さん」

 いつからか組織の実験台としてノロを服用していた男が、鉄砲玉として敵対勢力を一掃する活躍をしていた。

 男の名は日枝金一。

 元々は恵実の実家の道場で修行していた男だが、いつの頃からか力を追い求めはじめ青子屋のノロによるドーピングを施すことを条件に、青子屋の用心棒となった。

「また、折ったのね」

「察しがいいや、新しいのが欲しいね」

「正真正銘の村正の豪刀を折るなんて、いったいどんな使い方をしたのよ」

「例の疑似写シの実験でね。丸太ほどの厚さの鉄柱を叩き斬ったんだ」

「それで」

「実験は大成功、ただし朱印村正は折れた」

 机に出された折れた刀身を観察し、私はため息をついた。

「密迹身の代償は御刀に負担を強いることね。確かにノロを単純に服用するよりも倍以上の能力を得られることが分かった。ただ、それはノロの力で珠鋼の力を無理やり引き出しているに過ぎない」

「元刀使としてはどうなんだい」

「ん」

「密迹身で刀使を殺せるのかい」

「当然よ」

 

 私たち研究部門が探し出した秘術は、かつては戦国時代までの多くの密教門徒に力を授け、江戸時代に変わるにあたって折神家と柊家が滅ぼした力だった。奈良のとある寺跡から複数の経塚を盗掘、経文の裏地に張られていた秘術の伝承を解析したことで秘術『密迹身』の再現にこぎつけた。

 

 

 私はこの成果に喜んだ。私の目的があと少しで成就する。

 

 

 季節はまだ寒さの続く十二月、まだ大店の頃であった『刀剣 青子』で鑑定をしていた私を訪ねる一人の女性があった。

 

 柊篝、元々は特務隊の副攻撃手であり、相模湾岸大災厄の折は隊の任務から離れていたと聞く。だが、しばらくの間は特祭隊の戦術指南として関西方面の討伐部隊の支援をし、引退後は結婚したと話に聞いていた。

 

 出産を控え、お腹は大きく膨らんでいた。

「ひ、柊先輩。わざわざおいでにいただかなくとも、私から参りましたのに」

 篝先輩が出産間近という時にこられれば、私としては心配せざるをえなかった。

「大丈夫、お腹の子は今静かにしてくれているから、それに私は本家のほうで出産するから、丁度良かったのよ」

「信用なりません。お帰りは店の送迎車で私自らお家までお送りしますからそのように」

「ごめんなさいね」

「それで、今日はどういった御用で」

「お腹の子のお守り刀を用意してほしいの」

「なるほど、とにかく奥の部屋にどうぞ」

 篝さんは近々関西を離れて、夫の実家である十条家に移り住むこと、その前に友人たちや世話になった先生方に挨拶すべく関西を回っていることを伝えた。私のところへ来たのもそれが理由だった。

「そういって、藤原先輩にこっぴどく叱られたのでしょうに」

「美奈都先輩も妊娠しているって聞いた?」

「え、いえ」

「じゃあ結婚した話も」

「それはうかがってます。でもお二人そろってなんてめでたいですね」

「ええ、実はもう一人結婚する子がいるのよ」

「へぇ、それは」

「恵実さんよ、今は燕って名乗っているって」

「恵実が」

「あなたがいなくなってから、二年後に刀使を引退して警察署勤務。そして署内恋愛で結婚することになったって」

「恵実が、そうなんですか」

「会いに行ってあげて、きっと喜ぶわ」

 

 篝先輩のお子さんに用意したお守り刀は私が各方面から選りすぐりの職人に頼んだ一品で、皇室に収められるそれに勝るとも劣らないものになった。短刀は銘 武州江戸越前康次。刀剣類管理局の折紙付き。

 蝋色塗りの合口拵えで、各所に縁起の良いモチーフと立身出世の鯉の目貫があつらえられた一振り。私の送れる精一杯の誠意を込めた。

 

 この仕事が終わると、篝先輩に教えられた住所を訪ねた。

 

 燕の一文字の表札を確認し、インターホンのボタンを押した。

「はい」

「あの、多田篠子です」

 慌ただしくドアを開けた恵実は、十年前よりもずっと大人びて奇麗になっていた。

 お互い話す言葉が見つからず、とにかく恵実は家の中へと私を案内した。

 あれから道場にも顔を出さず、また任務に忙殺される恵実を察して私は彼女から自然と距離を置いていた。それは恵実も同じであった。

「ごめんなさいね、連絡もよこさずに」

「ううん、私も篠子さんに手紙の一つも出さなかったから」

「結婚するって」

「うん、刀使をやめてから警察勤務に入って、それで署内恋愛で」

「篝先輩から聞いたわ」

「ふふ、意地が悪いの。来年の春には挙式を挙げるよ。相手は燕結城、神戸で刑事をしているの」

「そう、よかった。そう言えばあんた奇麗になったわ」

「ん」

「恋する乙女は何とやら、女は結婚する時が一番きれいなのよ」

「おほめにあずかって光栄だわ、篠子も鑑定業が軌道に乗っているって聞いているわ、何でも刀剣類管理局に幾振りか収めたって」

「あまりにも価値がありすぎて値段がつかないものを、手に余るからって刀剣類管理局に押し付けただけよ。私の手に収まるのは手のひらに収まるそこそこの刀だけよ」

「変わらないね」

「変わったわよ、そうじゃなければこうして恵実に会いに行けなかったもの」

 私の心中に何かがほころぶような、奇妙な感覚に襲われた。

 涙を流す恵実の手を取り、ただ静かに寄り添い続けた。

 

 

 事態は突然に動き出した。

 

 

 ノロの服用によって、たとえ男性であっても御刀の力を引き出すことができるという研究結果が、青子屋の組織内に流出したのである。

 この研究は私に任された父肝いりの研究であり、内外の抗争に力が利用されることを恐れ、一部の幹部のみが知る極秘事項だった。

 

 その日のうちに本家で会議が開かれたが、誰も自信が関わったということを明かさず、それどころかその研究を隠されていた幹部たちにとっては、父である組長への疑念の目が向けられた。

 

 とうの私は一人その喜劇の内容にほくそ笑んだ。

 

 父はこの研究を、本家筋を守る強力な鉾にしたかったに違いない。

 だが私からすれば父のそのあまりにも臆病さを嘲り、彩希を殺す原因となった彼を殺したかった。とうとうその時が来た。

 事前に父から距離を取られている地方や他人種幹部を説得。

 私が名代に立つにふさわしいことを彼らが認めたことで、『密迹身』の話はあっけなく即日に全組織を走り抜け、それどころか内外のスパイたちに青子屋の危険性を伝える伝導力になった。その最たるのが、特祭隊と密接である警察組織であった。

 

 組織にスパイに入っていた刑事に交換条件を突きつけ、その代わりに青子屋の取り締まりに関して後継者である青子屋篠子は、一切関知しない旨を約束した。

 わずか一週間のうちに父は研究組織を解散、幹部に事情を説明し対警察への協力を仰いだが、その一週間のうちに地方組織の脱退宣言。そして私が後継者に名乗りを上げる瞬間を待った。

 

 なるはずもないのに

 

 

 四月十一日、報道もなされない水面下での戦いが続くさなか、私は研究チームの主要であった数人を引き連れて本家の入り口に近づきつつあった。

 一人は日枝金一、もう一人は関東方面支部の若頭を務め、研究の被験者であり後援者でもあった田中藤次。私のお付きであり、ノロの流通管理をしていた大村喜之助。そして大村の息子であり研究の助手をしていた大村勘太。あと二人の構成員を連れ、手には刀と拳銃を持ち、ついに本家へとなだれ込んだ。

 

 女子供もいたが、残らず斬り捨てた。やがて組長の逃走用口を封じ、彼を長廊下の真ん中に追い詰めた。

「お前が何をやったか、わかっとんのか」

「ええ、これで青子屋は長い歴史に終止符を打ちます」

「かか、お前を担ぎ出すはずだった老人どももひっくるめて警察に処理させるとはよう考えたわ、でもなノロの流通を管理してこそ秩序が存在しとるんや、わしらは必要悪なんやで」

「言いたいことはそれだけか」

「は」

「私にとってあんたは死んで当然や、この皺革袋が」

 そうして父の首を切り落とした。

 時々こうしていたこともあって、青子屋の誰よりも首切りに手練れていた。だが、斬った後のこの不思議な感覚は忘れるに忘れられなかった。何度斬っても同じ感覚がよみがえってくる。

 達成感にも似た高揚感と感情の抜け落ちた罪悪感が、体を何度も行ったり来たりする。だが、彩希の顔が浮かぶたびに現実に引き戻された。

 

 

 そうして、頭目を失った組織は分裂。私は身を隠し、地方組織は互いに主導権を相争い、自滅していった。そしてノロの大量保有の疑いでついに全国の組織に手入れが入り、青子屋はついに消滅したのであった。

 そんな青子屋の事情などはよそに、『密迹身』の研究を続行。

 私自身が刀使の力を失ったこともあって、ノロを刻み込んで赤い写シと体から写シが分身として飛ぶ『写影離脱』の能力を手にした。

 

 同じころに恵実の結婚式があった。

 

 事情を知る特祭隊や管理局の現幹部からは渋い顔をされたが、事情を知らない先輩、同輩、後輩たちとのしばしの再開を喜び合った。

 

 だがやはり彼女たちは表の世界に生きている住人達、裏の世界で生きている私には違和感しかなかった。

 

 私は復讐を果たした。

 そして愛していた人を殺した。

 

 やりたいように事態を動かし、目的を達し、変わりつつある眼下の光景を見つめながら、私は自身のなすべきことを失ってしまった。

 

 何か自分のすべきことはないだろうか、私はまだ殺し足りないし、人を貶めきれていない。満たされない感情が月日を重ねるごとに沸々と湧き上がってくる。

 

 そして鬼となった自身の宿命を呪い始めていた。

 

 結婚式の日から二年半、降りかかる火の粉を振り払いながら、力を求める日々が続く中、恵実経由で私のもとに彼女の夫が訪ねてきた。

 はじめこそ二歳になる娘のためのお守り刀の注文であったが、次第に彼の顔が強ばっていった。

「あなたが青子屋甚吉さんの娘ですね」

 燕結城。本来であれば神戸署の刑事であるが、青子屋専任捜査官の一人に任命され、彼の名は仲間内から聞き知っていた。

 しかし恵実の夫であるため、心なしか捨て置いていた。

「私にお聞きしたいこととは何でしょうか」

 

「単刀直入によろしいですか」

 

 燕結城の細目は大人しさを感じさせながら、強い意志を感じさせるものがあった。

 

「ああ、父殺しことですか」

 

 私の頭がこの男を殺すことに移っていた。

 それを理解しつつ、なおも燕結城は質問を止めなかった。

 

 長く主防犯と目されていたのが私であり、彼女の周囲にいた人間たちが一斉に消えたことを不審に思い。私を探し続けていた。

 そして『刀剣 青子』という誰にも知られない場所で店を再開している胸を知った彼は、私が何をしてきたのか全て知っているようであった。

「今、貴女の殺しを実証するものは何もありません。でも、あなた自身はことの全てをひた隠しにしている」

「例えば」

「あなたが既に禍人である可能性だ」

 彼は卓上に旧式のスペクトラムファインダー計を置いた。

 わずかであるが、私に向かってノロが反応を起こしていた。

 

「どうか、妻の友人として、元刀使として、全てを明かしてくださいますことを切に願います」

 

 燕結城はスペクトラムファインダーを使って禍人のあぶり出しをしている。これは私にとって許さざるべきことであった。

 だが、彼のいうことは正しかった。すでに十分すぎる人間を殺戮の渦に巻き込み、もはや私が殺せる人間を失うほどであった。

 

 私は殺す人間を一人見つけた。そしてその人間は妻子をもち、その妻である恵実は友人である。考えもしなかった。

 

 自身が誰かの標的になり、復讐者の相手になる。

 

 きっと楽しいに相違ない。誰かの凶刃が自身を殺す瞬間を、首を長くしながら待つのである。私がするべきことはただ一つ、恵実の前で燕結城を惨殺することである。あとは長く逃亡生活を送りながら、恵実に自身の足跡を追わせ部下を殺させ、鬼と化した彼女に殺されるだけである。

 

「目が赤いぜ、篠子さん」

 計画を話していた私は笑みを浮かべながら、目を赤く輝かせていた。

「どうかしら」

「どうかしているぜ」

 最後の一本をふかすと、空になった煙草の箱を握りつぶした。

 金一は笑っていなかった。

「もっと、気の良くなる手段も加えよう」

「ほう、で」

「母子にノロを打ち込むんだ。致死量の限界まで打ち込み、禍人になった人間が若さを保ち、尚且つ刀使の力を保持し続けられるか試すんだ」

「あなたも人のことは言えないわね」

 

 金一が何を考えていたかは知らない。

 ただ、久しぶりに道場を訪れた彼が、娘を抱く恵実をその目で見たことが何かを決意させたらしかった。

「これは実験さ、誰も幼いうちからノロを打ち込んだことはないだろう。それに」

「それに、恵実が私以上の殺人鬼と化す姿が見られると」

「わかっていらっしゃる、くくく」

 

 計画は翌日にも決行されることとなり、私は夫妻に伝えたいことがあるから一人で訪れたい旨を伝えた。夕食も出すそうである。

 恐らくあの気の良い男は警護を侍らすような真似はしない。かならず夫婦で私に相対するはずである。

 

 討ち入りのための長脇差の刃や拵えを確認しているときだった。

 幼い赤子を抱く恵実が、頭の中で何度も微笑みかけてきた。

 

 やめろ。

 

 あんたがそうして私の何もかもを許したって、私はもう帰れない。彩希も、父も、みんな帰ってこない。

 私はこうして自身を背負い続ける以外に術はないんだ。

 

 と、刀の身に顔が映り込んだ。

 醜く皺を引きつり、目は丸々と見開いていた。

 

 門のインターホンを押し、玄関へと進んだ。

 その時、私は心地よい感覚に襲われた。

 罪悪感と達成感に奪われた、風が胸を透き通るような感触。

 何も考えずとも、自身と多くの死んだ人間が私を責め立てて一人にさせてくれない。でも、本当は独りぼっちなのだ。

「どうぞ上がってください。篠子さん」

 燕結城の招きに従って私は鯉口を切った。

 

 そうして玄関は赤く、赤く染まった。

 

 

 篠子の父を、恵実の夫とその両親の血を吸った刀の名は『贋作・南泉一文字』と言う。

 

 彼女からの愛着を受けない贋物の刀は、今やササラのように細くなっている。

 恵実と同田貫による強靭無比の切りつけが密迹身を貫通して刀を消耗させているのだ。十年間も戦い続けた彼女は力の源である刀を折りにかかかる。

 恵実の正確な斬撃が宙を行く赤い手を斬り捨てると、同時に篠子の腕には傷口がパックリと開いた。 

 ノロの輝きが顔を覗かせる。

 たとえ自我を失っていても、心と御刀は復讐を果たさんとする強靭さを持ち、剣技はさらに冴えわたっていた。

「篠子ぉぉぉぉっぉぉっぉ!」

「じゃあかしいんじゃああああああ」

 篠子の宙を走る合口が恵実の背中を貫くが、振り下ろされた同田貫は篠子の左足を真っ二つに砕いた。。

 恵実は深く刺し込まれる合口を気にせず、さらに近間から袈裟切を二度も浴びせつけた。

「痛いじゃない!」

 篠子は力の加減を変え、突き刺した合口を横にずらして胴から胸へと切り捌いた。溢れるノロをその身に浴びながら、恵実の目を切っ先で舐めるように切り流した。

 篠子の勝利は目前、だがその顔に余裕はない。彼女はわざとらしく強く歯ぎしりをたてた。

「まだ、まだよ」

 だが、恵実は力なく膝を突き、そのままうな垂れて動かない。

「立ちなさい恵実……私はここだ! お前の夫を殺し、娘に呪いを与え、大切な肉親を殺した仇だぞ!」

 だが、恵実は篠子を見ようともしない。恵実の呼吸はひどく落ち着いている。篠子は絶えず呼び掛けた。

「どうしたの? 早くしなさい、早く!」

 恵実はかすれかすれに言葉を発した。

「そうですね、もう時間が……ない」

 恵実の振り上げた同田貫に篠子は安心したように顔が和らいだ。だが、その切っ先は恵実の首下を貫いた。

「何を……なにをしているのよ!」

 音を立てて倒れた恵実に這い寄り、彼女の体から同田貫を引き抜ぬいた。篠子は息を荒らげながら、無理やり恵実の手に合口を握らせた。

「さぁやりなさい! あなたの手で」

「ごめん、篠子さん、ごめん」

 篠子は彼女の優しい声を13年ぶりに聞いた。

 彼女の背中に悪寒が走る。

「聞かないわよ、あなたがやらなきゃ!」

「私、私が、あの時、手を引っ張って、いれば」

「やめて!」

 恵実の手から合口が抜け落ち、篠子の手にやさしく触れた。

 篠子の手は小刻みに揺れている。

「彩希との、約束、篠子さんとの、約束、私、やぶった」

「お願い、もうやめて、私が、私のせいだから、私が逃げたんだ! 私は自分に甘えて、何もしなかった…!」

 篠子は強く恵実の手を握った。

「ごめんね……篠子さん、ごめんね……あなた、ごめんね……結芽」

「だめっ!」

 篠子が呼び掛けた時、掴んでいた手はなかった。

 足元に広がる衣服にはあふれんばかりのノロに浸っている。

 だが、篠子の手にはまだ感触がある。

 ぽろぽろと落ちる涙は、ほほを伝って落ちていった。

「なんで…なんで…!なんでいつまでも私を斬らないの? 殺さないの? ねぇ! 起きてよ! わたしが馬鹿だったから! 謝るから! だから……だから……死んじゃやだよぅ……恵実」

 

 富士の山は赤く輝く、篠子はいつまでもノロにまみれた服に縋りついていた。

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