陽のほがらかな、夏のはじまりの日。
結芽は教えてもらいながら作ったクッキーを手に、高い壁に囲まれた病院の入り口に立った。
「行こう」
相楽に付き添ってもらい、三階の鍵つき扉の病棟に入った。
804号室、名前の欄に多田篠子の名前がある。
「こんにちは、しのこさん」
外を眺めていた彼女は笑顔を見せた。
「あら、いらっしゃい結芽ちゃん」
彼女が見つかった時には、言うことが虚ろでほとんどの記憶がなくなっていた。聴取では、ひたすら中学の思い出や恵実の結婚式の話ばかりし、終始明るく朗らかであったという。
「クッキーを作ったのね!恵実も料理が上手だったから、お母さん似ね。あ、お母さんに手伝ってもらったんだーぁ」
「……うん!そうだよ!」
「食べていい?」
彼女のちょっぴりいびつなクッキーは、ほんのり甘さが強かった。
「おいしい?ちょっと砂糖の分量まちがえちゃって」
「大丈夫、アレンジが効いてて私好み、ねぇ相楽先輩!」
「ああ、これからもっと良くなる」
結芽と篠子はお互いに笑いあった。
「むかし、一度友だちがいなくなって、刀使を辞めたの、でもね恵実はあの時も今も、私に笑顔だったわ。とても優しくて、どこか意地っ張り」
篠子はもう治らない下半身に手を置いた。
「治ったら、会いに行かなくちゃね」
「きっと喜ぶよ!退院の日は自慢のお料理をたんと用意してね!」
「うふふ、楽しみだわ!」
結芽は思い出して、ポケットから一通の手紙を取り出した。
「手紙は後で読んでね、あと頼まれてた写真もってきた」
それは篠子の誕生日に三人で撮った写真だった。恵実の遺品から出てきた、三枚の写真の一枚であった。
「ありがとう!恵実、彩希。わたし、一度だって二人のことを忘れたことはないんだから……」
「多田」
「ごめんなさいね……なぜかしら、涙が」
結芽は立ち上がり、篠子をそっと抱いた。笑顔にぽろぽろと流れる涙が小さな胸をしっとりと濡らした。
「いいよ、篠子さんは苦しかったんだよね。だからもう、いいんだよ」
「いいの?」
「結芽は生きてるよ、お母さんの分まで」
それから一週間後、彼女は自らノロに還った。
結芽はその知らせに一晩中泣いた。
真希の懐で泣きつかれて寝るまでずっと、ずっと泣いた。
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「行ってしまった」
「うん、数週間のことだったのにもっと長かった気がする」
「美炎も? 実はわたしも」
夏の山開き、富士山頂から火口の中心に刺さる八千剣を紗耶香と美炎は見つめていた。
「二人ともぉ! ごはん買ってきたわよぉー!」
智恵は舞衣と共に風呂敷包みに入れてごはんと飲み物を持ってきた。
富士山の広大な眺めを眼下に、四人は温かいみそ汁を一口飲んだ。
「はぁーあったまるぅ」
「行ったことない子とのんびりしたいって言ったのに、山登りをするなんて思わなかったわ」
「でもこうやって智恵さんに美炎ちゃんと一緒なのもいいと思うよ」
「うん、二人にはお世話になったから」
「サーヤ~固いよぉー」
「え、うーん、友達だからもっと一緒に居たいって思った」
「ふふ、紗耶香ちゃんらしくて好きよ」
照れ臭げにする紗耶香と笑い交えながら、四人は再び火口へと目を向けた。
「ヲノツチさんとホムラノチさんは大地に還った。そして今も私たちと一緒にいる」
「美炎ちゃん、本当にもう声は聞こえないの?」
智恵の問いに黙って首を振った。
「私たちも、御刀も、ノロも、そして精霊も、この世界を生きる命。そんな大事なことが身近にあるのに、すぐに忘れてしまう。でも私、可奈美ちゃんを信じてた。きっと可奈美ちゃんなりに答えを探し出すって信じられた。こんなにうれしいことはないよ」
「舞衣、この体にはタギツヒメの思いが残っている。私はノロと人がもっと分かりあって、一緒に生きていける世界を作りたい」
「そうだ、俺たちはまた前のように祓うだけがノロとのあり方じゃない」
と、ガタイに見合わぬ大きなリュックを背負い薫が四人の前に現れた。
「薫ちゃんも?」
「いつもトレーニングで登るんだが、見覚えのある人影があったもんだからもしかしたらと思ったら」
「偶然なのね?」
「おうよ、な、ねね」
ジャングルハットの中からねねが顔を出した。
「ねぇー!」
「そうね、私たちは新しい道を探していける」
太平洋側へ目を向けると、陽は高く、雲は足元を泳いでいる。
薫は標高を気にもとめずに叫んだ。
「初めの一歩だ! 気合入れねぇとな! あー! 給料分働いて、給料分休んでハッピーっ! だけど働くのだーりーぃーっ!」
「あきれたわ」
「でもでもー」
「いつもの薫らしい」
「ねねーっ!」
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あれから半年ほど、山里は白く包まれながら、眼下の田園も遠く、雪の世界に埋もれている。
結芽はコタツで居眠りする可奈美を右隣に挟み、正面の姫和に目を向けた。
「みかんもう一個食べていい?」
「結芽、もう幾つ目だと思っている」
「まだ六個」
「我慢しろ、明日の分もなくなるぞ」
「ええ、いいじゃん、また買ってこれば」
「そのまま食べ続けると、春になるころには燕ではなくペンギンになっているぞ。それに今年の年越しは真希さんたちと一緒じゃなくていいのか?」
「いつも一緒にいるし、親衛隊の時も一緒に年越しだったから、今年ぐらいは他のみんなとって寿々花お姉さんに薦められたの」
「そうか」
窓からしんしんと降る雪を眺めながら、結芽はあの時、自分を引っ張り出した母の姿を思い出した。
「ねぇ、ひよりねぇ」
「……なんだ」
「なんでひよりねぇはお母さんのこと知っていたの」
「それは、昔、母を頼って訪ねて来たんだ。母の後輩だった恵実さんは、自分の事をすべて話した。母には嘘はつけないと、荒魂化した人の存在も、恵実さんの話から聞き知った。母は恵実さんにはこの家を使ってくれと言ったが、あの人は翌朝に出て行ってしまった。一つの置き土産を残してな」
姫和は傍らの小さな箪笥から、細長い桜木細工の小箱を結芽のもとに差し出した。
その中には三羽の燕が彫金された、小柄が入っていた。
「娘であるお前に返す」
「ありがとう」
姫和は照れくさげに蜜柑を剥き、その半分を結芽へ渡した。
「いいの」
「半分だけだ」
「私もちょうだい、ひよりちゃん」
驚いた姫和は、可奈美がまだ眠っていることに気が付いた。
「可奈美、お前は夢の中でも蜜柑を食っているのか」
「ほんと、おかしなの」
「まったく、呆れる」
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穏やかで、どこか騒々しい彼女たちの日常が続く
どこかで、ここで、彼女たちの幸せを祈っています。
命ある限り、続いていく人生の道端で
私はいつまでもあなたの背中を見守ります。
心ある限り、あなたとともに、
あなたの大切なものとともに、いつまでも。
And I shall sleep in peace until you come to me.
(了)…