一、
つま先から雪を踏みしめながら、きゅっと鳴る雪の音色に耳を澄ます。手編みのマフラーを巻きなおしながら、一人長い坂道を下りている。
錬府女学園は有名校ということもあり、横浜市内の高台に位置している。
しかし、学園から寮までの距離は長く、幼くして寮住まいの身であることもあって始めは彼女も困惑した。
だが、気づけば当たり前のように往還路を歩き、その道すがらで何があったのかを気に停めさえもしなくなっていた。こうして季節が冬に移ったことに気が付いたのも、道に雪が降り積もっていたからであった。
白銀の髪に幼さが滲む丸みのある顔、しかし快活とは言い難い堅く冷たげな表情。マフラーを巻いてはいるが、頬に赤みがさしている。錬府の制服から刀の懸架装置が外され、代わりに手には刀袋が握られている。
道の傍らに一体の小さな雪だるまが置かれている。
彼女はしゃがみ込んで、可愛げに赤い帽子を被る雪だるまを見て、小さく微笑んだ。
「あなたが糸見紗耶香ですね」
笑顔は消え、関心のない目が声のする方へと向けられた。
深い青を基調としたスーツを羽織り、その下には錬府の制服を着ている。
やや怒気を帯びた表情に見えたが、それを隠すように女性の穏やかな顔立ちが優しさを感じさせた。そして左手には背丈に合わない長身の御刀が握られていた。
「なぜ、鞘に納めないの」
その全長が五尺にもなる刀は、朱色の長い柄が特徴的であった。
「それはあり得ません。私は貴女を殺したいのですから」
「殺す理由がわからない」
「でしょうね。でしょうから、理由は分からぬまま死んでください」
紗耶香は御刀袋の緒を解き、紫苑色の柄を露出させた。
途端に、抜きつけた身がその長く続く刃を受け流した。
写シを張ったと同時に、上段に振り上げた切っ先が止まった。
女は写シを張らず、紗耶香の切っ先が下りるのを待っていた。
「勝負あった」
「本当に」
返された刃が瞬時に二度も紗耶香の胴を撫で斬り、そして切っ先が舐めるように紗耶香の喉前に据えられた。写シはすでに無く、それでもなお天を指す切っ先は振り下ろすことができなかった。
「ごめんなさいね」
切っ先が引いた瞬間、女は飛び込んできた影に道端へと押し倒された。
「あんた、ウチの後輩に何やってんだ」
「用があるの」
「なら、その御刀は荒魂が出る時まで納めときな」
蹴り飛ばされたのもつかの間、腰に差していた二振りの短刀を抜きはらって間合いを離した。
フード付きのパーカーを着る錬府の女学生は、無構えで大太刀の女に相対した。
「呼吹」
「よぉ、辻斬りに出くわすなんて、とんと運がないな」
「斬れるのに、斬れなかった」
「だろうよ」
大太刀の女は雪を払いながら、太刀を隠すように車の構えで二人を睨みつけた。その穏やかな顔とは裏腹に、白目をむいた凄みのある表情を見せた。
「邪魔をしなければ」
呼吹への叩き下ろしを鎬が流し、火花を散らしながら紗耶香の耳を劈いた。だが、長尺の刃が紗耶香の写シを斬り、御刀をあらぬ方へと弾いた。
「あぐっ」
「てめぇ」
両者の懐に飛び込んだ呼吹が女の腕を柄で跳ね上げ、その胴を左右から鵐で殴りつけた。
苦悶の声を聴いたと同時に、呼吹は紗耶香を伴って間合いを遠く離した。
雪に膝を突くと突き上げる痛みに唇を嚙み絞め、紗耶香は女との間に転がる村正を見つめていた。
「無茶だ、逃げよう」
「駄目」
「ばか、死にかけたんだぞ」
「御刀は、命の次に大事だから」
「なら」
突然の大太刀の女の大笑いに、呼吹は絶句した。
急所を当て、立ち上がれるはずもないと考えていた彼女の前に、切っ先を引きずりながら持ち上げる女の姿があった。
「写シなしで、下手したら骨が折れているはずなのに」
呼吹は強引に紗耶香を引っ張った。
「紗耶香」
だが、頑なに動かず。その一歩を村正の方へと進ませた。
「殺す、殺す、見たからには殺す。斬ったからには殺す」
大太刀の女は上段に振りかぶり、息を一気に吸い取った。
(まずい)
だが、女は息を吐き捨てながら歩み進め、脇を抜けて坂道を下っていった。息を殺していた呼吹が空気を一気に吸った。
「何、だったんだ」
紗耶香は村正と袋に収まったままの鞘を回収した。
「まさか、噂の禍人じゃ」
「違う」
「なら」
「禍人から出る殺意じゃない。だから、簡単にいなすことができた」
「あと、見たから殺すって言ったよな、何か見たのか」
「わからない」
「だろうな」
「でも、調べれば」
村正の鎬に走る傷を確認すると、抜き身を鞘に納めた。
大太刀の女は強く降り出した雪の中へと消えていた。
二、
「大太刀ですか」
錬府内にも対荒魂任務時用の対策室があり、前学長である高津雪那が離れてからは、学長代理が指揮所兼学長室として利用していた。
「朱色の長い柄を使っているってなりゃあ、錬府にも使い手がいるだろう」
「でもね呼吹さん、いくら大太刀使い言っても、現存して尚且つ御刀として扱われている物は多くないんや、私が知っとるだけでも十本指に入ればいいくらい、それに使い手とは全員面識があるんやで」
北海道出身の若い学長代理は、下手な関西弁もどきを喋りながら二人に向かい合っていた。
「湖衣姫学長代理、資料持ってきました」
「ありがとうね藤巻さん、特祭隊の任務表はこれやからよろしくな」
「はい、あれ、こんなに休みあっていいんですか」
「雪那さんが錬府でこだわっとった結果や、他校や本部付きにも警護任務回させたから気にせんとええんやからね。だからといって油断は禁物や」
「かしこまりました。藤巻失礼します」
「ご苦労さんなー」
軽い足取りで退出していった彼女を見送りながら、資料の表紙を叩いた。
「北條学長、私の知るところでは」
「わかっとる、この錬府に大太刀の御刀はない。書類上では錬府預かりの大太刀も全部他校の大太刀使いに預けとる。フツノミタマノツルギの写しも錬府の護り刀として社に納めてあるからな。刀使の持てる大太刀は錬府にはないんや」
短く整えられた黒髪を揺らしながら、気丈な面立ちの北條学長代理は資料を数ページめくり、ある項目を指した。
「もしかしたら、刀剣類管理局預かりの御刀リストにのっとるかもしれん」
三人は大太刀の項を丹念に見渡した。
「刃は直刃、反りは小さくて、柄は二尺前後、長さは五尺近かった」
「あの状況でよく見てたな」
「でも、見た目以上に重いはず」
「そうだな、まるで打刀を扱うような丁寧さだった。流派は」
「新陰流かも」
「え、示現流じゃねぇのか」
「あんなに近間でのいなし方は新陰流の派閥だけ」
「キューイって叫び声もなかったしな、だがよ新陰流で大太刀となりゃあ、錬府で名を知られてもいいんだけどな」
結局は二人の見た大太刀は見つからなかった。
「次はその新陰流やな、でも錬府にも陰流はいっぱいおるからな、それからはこれから調べるとして、何か他に思い当たることはあらへんか」
「写シ、張っていなかった」
「ああ、俺も気になっていたんだ。それに、俺が近間に飛び込んだ時、大太刀がひどい鍔鳴りを起こしたんだ。刀身も手入れされているとは言い難かった」
「まだ正式な登録のない御刀ならありえかもしれへん」
「紗耶香、うちらで新陰流の使い手から聞き出さないか、首を突っ込んじまったらとことんのめり込むのがあたしなもんでよ」
「でも、遊撃隊の任務もある」
「そっちは私から口添えしときましょう。刀使が襲われたとなれば、本部も遊撃隊に捜索を頼むでしょうから時間の問題ですし」
「わかりました。糸見紗耶香、大太刀使いを追います」
紗耶香と呼吹は授業と任務の合間を縫って、学園と鎌倉間を往復した。
情報の収集をしつつ、呼吹が質問しての紗耶香自身への調査も重ねられた。
そうして襲われてから三日目経っていた。
鎌倉の折神家本家を訪れた二人は、警護班の待機所を訪れた。
「綿貫さん」
「糸見さん、それに七之里も」
茶に金の刺繡の入った豪華な制服を纏う女性は、去年度錬府を卒業し獅童真希の勧めで警備隊長兼指導の任に就いていた綿貫和美であった。
その美人らしさを地で体現する彼女は、着こなしも完璧と言えるものであった。隊長を示す銀の飾り緒が輝いた。
「すまないが少し待ってくれ」
「綿貫隊長、蓮井と小池両名はこれより朱音様の付随警護に着きます」
「連絡ファイルと申請書を」
綿貫は綿密に書類内容を確認し、続いて注意項目を口頭で確認。御刀の手入れ状況と制服の着付け状態も確認して、ファイルを彼女らに手渡した。
「今日の着付けと自己検査はまぁまぁですね。でも、任務を完遂するまでが本日であることを肝に銘じ、心して任務にあたりなさい」
「はい」
「はい」
二人が退出すると、書類に名前と花押を書き記し、隊長用のファイルに書類を納めた。
「待たせたな」
「はい、聞きたいことがあってきました」
「教えられることなら何でも」
事情を話し、そのうえで綿貫へと尋ねた。
「大太刀の技も使える新陰流使いをご存じではありませんか」
「ふむ、それなら心当たりがある」
「それは誰なんですか」
「いや、さすがに名前までは知らない」
「え、どういうことなんだ」
「今の錬府高等科三年生の間で以前流行ったんだ。長い木刀が寄贈されたから、それを使って有効な間合いを研究するというものだ。後輩の話では高等一年時の警邏科C組で流行ったというのを聞いた。紗耶香に勝てなかったにしても、大太刀を軽々と扱って見せたのか、ふむ」
「それどころか紗耶香から御刀を引き剥がしているんだぜ」
「そこまでか、だが私は錬府の全生徒に通じているわけではない。だから、新陰流の大太刀技を流行らせた張本人を紹介しよう」
「そいつはありがたい」
翌日、紗耶香は御刀の手入れのために錬府内の工房を訪れた。
「ひどいわね、妙法村正にこんな傷をつけるなんて」
「ごめんなさい」
青いバンダナを巻く女砥ぎ師は大きく首を横に振った。
「いえ、違うのよ。紗耶香さんは身を守るために仕方なくそうしたんだから、忌むべきは傷をつけた荒魂よね。でもそれにしては激しい傷跡だけど、そういうことだから、謝ることなんて一つもないから」
白鞘に収まった村正を、自身の先生のもとへと持っていった。
眼鏡をかけた砥ぎ師は村正の鎬を観察し、彼女に返した。
「青砥さん、もういい頃合いだ。やってみなさい」
「わ、私が、よろしいのですか」
「私は良い、だがこの御刀の主にも聞きなさい」
紗耶香は気にしないと言い。青砥という生徒は全力を込めて砥いでみせると言い残して、自身の作業場に籠った。
その間、彼女は北條学長代理から別に御刀を借り受けることとなった。
「心配いらへんで、刀使の中には数振りの御刀に選ばれる刀使は珍しくないんや。それに実は良い反応を示しそうな御刀が一振ここに」
道場に引き出された御刀の納め箱の鍵を解き、既に赤銅色を基調とした拵えに納められた御刀が紗耶香へと手渡された。
彼女は御刀の声にこたえて、即座に写シを張った。
「あなたの二振り目の御刀、『銘 関住兼定』よ」
短めの打刀であり、村正よりも短いがそれを彼女は一切問題にしなかった。
赤銅色の柄に、重々しい金具に包まれた半太刀拵えの深い黒橡色の真新しい鞘、鍔はやや小さめでありながら、紅葉文様の小さな透かし彫りがなされている。
「少し気になる話を聞いたんやけど」
刃を鞘に納めた彼女は北條へと向き直った。
「あなたに関する噂話で、半年前に禍人と見間違えた人間を貴女が斬ったっていう話なの」
半年前の夏、糸見紗耶香は頻出していた禍人を処理するために、横浜在住のある男を斬った。しかし、ノロは流れずただの人間であることが判明、管理局はその事実をうやむやにした、という噂話であった。
「初耳です」
「私もよ、でも指揮所の子たちが私に教えてくれたのよ。そんなのはデマだけど、今回の一件に関係があるかもしれないって」
「その斬られた男と大太刀の女に関係があるかも」
「もしかしたらだけど、燕さんなら何か知っているのじゃない」
「私が聞いてきます」
「なら私は引き続き御刀の方から調査するわ」
道場に顔を出した呼吹は、紗耶香の手にある打刀に目を凝らした。
「よぅ、新しい御刀を手にしたって話を聞いたんでな」
「呼吹、行こう」
「なんだ、急かすことはないだろう」
「結芽が鎌倉に居るうちに会わなくちゃ」
そう言って、御刀を懸架装置に取り付けた。
三、
雪の積もる砂利道を歩きながら、やや急かすように足を進ませる一人の少女がいる。
鎌倉の中心街まで十分とないこともあって、余計に寒さから逃れるために急ぎ足にもなった。刀使ではあるようだが、黒く重々しい拵えの御刀を腰に急角度に差していた。
「おまたせ」
本部敷地の正門に立つ二人に少女は微笑んだ。
「結芽、ひさしぶり」
「さやかちゃんも元気そう、あと両刀使いのおねぇちゃんも」
「おう」
呼吹と握手を交わした少女は、しごく落ち着いた態度で二人に対した。
「ここじゃ冷えるから、そこの喫茶店に行こう」
かつて折神紫の親衛隊第四席として剣を振るったが、持病はノロによる延命も無下に終わらせた。だがノロ内に残っていた珠鋼の意思が彼女を生き返らせ、こうして元の刀使として遊撃隊予備役の任に就いていた。
喫茶『よりとも』は古い店であるが、昔から刀使に親しまれた店ということもあってスイーツが充実する店である。結芽の勧めるままに『ホイップタワーのパンケーキ』を人数分注文し、飲み物が来たところで話を始めた。
「真希から聞いたよ。紗耶香ちゃんが辻斬りにあったって」
「うん、そのことで大太刀使いの事を調べているの」
「でも、結芽は綾乃小路だから錬府の事は分からないよ」
「いや、私が聞きたいのは結芽の斬った禍人の事」
「え」
噂話の内容を聞いてから、深く考え事をめぐらして何度も頷いた。
「たぶん、あの正義野郎かな」
「知っているの」
「勿論、あたしが斬ったんだもん。でも、あいつは間違いなく禍人だったよ」
半年前、結芽が未だ自衛隊の部隊で任務をしていた頃に、横浜市内で目撃のあった犯罪者が次々と疾走、もしくは遺体が見つかる事件が続いた。
それは横浜市外の街にも同様の事件が発生、でも現場に残っているのは多種多様な殺し方でどれ一つとして同じ手口はなかった。愉快犯であることには間違いはなかったが、同一犯である可能性を警察は見いだせなかった。
ただ、防衛省の部隊にはスペクトラムファインダーに反応があるのにも関わらず、錬府の刀使が荒魂を見つけ出せない事態が立てつづいた。
結芽たちはそれが犯行現場に一致することを確認し、横浜市内に潜伏していた手配犯を追跡し、ついに犯人らを襲っていた禍人の正体を突き止めた。
「弓家圭太、歳は二十四。犯人に自分は正義の執行者と名乗ってノロの力を使って人を惨殺していたの、私たちは手配犯に釘付けになった奴を斬り祓った。その留めを刺したのが私」
「背丈が低く、腕の立つ刀使、顔は隠してても身体的特徴は隠せないから、噂話の種になったってわけか」
「おまたせしました」
テーブルに並べられたパンケーキにはうず高くホイップクリームが乗せられ、三人共用のシロップ類の入った籠が中央に置かれた。
「どうぞお好みでご使用ください。それではごゆっくり」
結芽はいきなりメープルシロップを零れそうなほどかけて、切り分けられた一切れのパンケーキを口に運んだ。
「おいしいーっ、結芽はこれが楽しみで鎌倉に来るんだ」
「す、すごい質量だな。これで飲み物が付いて550円は破格だぞ」
「うん、おいしい」
「話を続けるけどよ、その弓家って男と大太刀使いは関係あるのかもな」
「弓家は二人兄妹で、父親も母親も健在。今でも弓家圭太は行方不明ということで捜索願が度々出されているって」
「兄妹」
「そう兄妹。もしかしたら妹は刀使になっているかも」
「どうも、聞き込みだけじゃ足りないレベルだな」
「でも、これで一つ繋がった」
「紗耶香ちゃん、一つ忠告しておくね。相手がノロの力を依り代に写シも張らず責め立ててきた。偶然に救われても、いずれは自分の信条が自分を殺すことだってある。躊躇ったら死ぬ、斬るときは斬らないと駄目だよ」
翌夕の五時近く、大きな包みを持った錬府の少女が目の前に立つ紗耶香を見て、足を止めた。
「弓家花梨さん、ですね」
髪に隠れがちであるが優しさを感じられる。しかし感情の底が見えない。
「ははは、さすがに錬府ですから分かりますよね。口封じに来たのですか」
「違う、話すためにきた」
「何を話してくれるんですか」
包みが解かれ、大太刀がはっきりとその姿を現した。
しかし刀身は輝きを薄め、見には醜い斑点模様が散らばっていた。
「あなたのお兄さんは荒魂だったの」
「嘘、そうやって私も騙す」
「騙しっこない。だって本当のことだから」
「嘘だ」
振り下ろされる刃に抜きつけを上段から鎬を合わせ、そして切っ先をぴったりと花梨の喉先につけた。
そして紗耶香は写シを張った。
「あなたじゃ私に勝てない」
「でも斬れないじゃないの」
一歩引いて突きにかかるが、再び鎬でいなされながら切っ先を喉の前に置いた。もはや花梨の間合いは無きに等しかった。
「私の兄は正義の味方になろうとしていた。そのために何でも力にするといった。私は兄が間違えているとは思っていない」
「まさか、知っていたの」
「兄が怪しい連中から強化剤を買って、それからとんでもなく強くなった」
「それが危険だと知っていて、なぜ止めなかったの」
「お前に何が分かる」
顎を上げて柄で兼定の切っ先を叩き上げると、即座に紗耶香の写シを斬り捨てた。だが紗耶香はすぐさま間合いを離し、写シを張って切っ先をまっすぐ向ける本覚の構えで花梨の太刀に対した。
「私は強い兄が見たかった。なのに荒魂を斬れるのは御刀を扱える女である刀使だけ、機動隊に入った兄は荒魂に仲間と守るべき人たちを殺されて心をを失った。でも、兄は正義を取り戻すと決意した、なのに」
即座に間合いに入り込んだ花梨は刃の間合いを生かしながら、紗耶香に懐へ分け入らせぬよう激しく突きと払いを繰り返した。
「お前は斬った、兄の正義も、私の愛も」
紗耶香は廊下の突き当りに背を着き、身動きが取れなくなった。
「わかるか、私の兄を追うこの思いが」
紗耶香は答えなかった。
それが合図であるように、大太刀の切っ先が紗耶香の腹に突き立てられた。
写シが剝がれる前に何度も遠間から突きを繰り返し、紗耶香は写シが剥がれたと同時に力なく倒れ込んだ。そして御刀から手が離れた。
「写シの代償は、一回に受けた傷が多いほど身体への影響も大きい。勉強になったわね。糸見紗耶香」
大太刀が振りかぶられた瞬間、懐に飛び込んだ左手手が背首を掴み、右手が花梨の膝窩を持ち上げて、そのまま後ろへとひっくり返した。
「がっ」
大太刀に頭を叩かれた花梨は立ち上がることもできず、床に伏せている。
紗耶香は急いで兼定を手にし、写シを張りなおした。
白い息が吐かれるたびに、落ち着いて刀を隠すように構えた。
花梨は悶えながら立ちあがり、窓ガラスを叩き割った。
意図に気付いた紗耶香が刃を返して飛び込むが、花梨の体に写シがかかり神速の一太刀が床を裂いて動きを封じられた。
そして窓から飛び降りると写シは霧となって消え、裏の森へと姿を消した。
「待って」
紗耶香は体を駆け抜ける悪寒に意識を失った。
四、
保健室のベッドで目を覚まし、辺りを見渡した。
今日も窓の外は雪が降り積もる。暗いのにも関わらず白くやわらかに輝いている。
石油ストーブの上に置かれたやかんがコトコトと音を立てている。
「紗耶香、お目覚めかしら」
「高津先生」
紗耶香の左傍らで似合わない縫物をしながら、彼女を見やった。
「心配要らないわ、写シの後遺症で少しばかり眠っていただけ、身体には大事ないわ、それより湖衣姫が私たちにって甘酒を置いて行ってくれたから、いただきましょうか」
「あの、ずっといらしたんですか」
「ええ、あなたを見つけてからずっと」
「ご迷惑おかけしました」
雪那は縫物を隅に置き、甘酒を二杯分鍋に移した。
「いいのよ、錬府の名誉職なんていてもいなくても変わらないわ、こうして時々学園を訪れては、誰かを世話するのが好きなのよ。湖衣姫も学長にするにはまだ若いし、もう少し私が支えてあげなくちゃ」
ほどよい暖かさにすると、湯呑に注いで紗耶香へと手渡した。
「あたたかい」
「よかった」
自身も甘酒を手に傍らに座ると、窓から見える雪景色を見つめた。
体に染み渡るような甘さに、紗耶香は全身の緊張が解けたような感覚になった。
寒さこそあれ、冬の穏やかさは何にも代えがたかった。
「紗耶香、あなたは無理をして彼女を追う必要はないのよ。無理をして関わればそれこそ私たちの世代のようになってしまう。あの子のことも、禍人の事も、大人に任せなさい」
「駄目」
「それは、どうして」
「あの人は、花梨さんは、私に助けてほしいのだと思う。追いつける背中に自分を斬るようにすがった。大事なものを失って、大事なものを守れなかった自分を斬ってほしかった。でも、私が斬れるのは花梨さんの弱さだけ、きっと誰よりも色んな人を愛している人だから、自分に甘えない人だからその強さを私は守ってあげたい」
「止めても、無駄ね」
高津雪那は湯呑を置き、席を立って窓側へと向かった。
そして刀掛から一振りの御刀を持ってきた。
「妙法村正の砥ぎは終わったわ。これであなたの守るべきものを守りなさい」
「高津先生」
御刀を受け取ると、優しく微笑んだ。
「ありがとうございます」
「さ、行きなさい。既に遊撃隊が花梨の捜索に入っているわ。早く合流しなさい」
「はい」
都内も雪が降り、新宿も深夜を回れば車もなく静かなものだった。
西新宿ジャンクション下で、ナイロン布に包んだ大太刀を手に信号を待った。花梨は黄色い電灯に包まれる高速道路を見上げた。
さすがに風雨をしのぐ屋根など贅沢、今はひたすらに歩き続けることしかできない。
身の丈の小ささを改めて思い知った。
そこに上から一台の車と共に羽のついた荒魂が落ちてきた。
花梨は考えるよりも先に、車に乗っていた男女を車内から引きずり出した。
「あなた達しっかりしなさい、私は刀使よ」
「と、刀使だって、うわぁぁぁぁぁ」
巨大な荒魂に男は絶叫を上げた。
「その女性は気絶しているみたい、その人連れて早く」
起き上がった荒魂の一撃を大太刀で受け止めた。
「行きなさい、早く」
花梨の気迫に押され、男は女を抱えて歩道側へと駆けて行った。
「それでいいわ」
だが飛び上がった荒魂は羽の風と足を駆使して、花梨を寄せ付けない。
「はぁ、あなたさえいなければ、大人しく帰るつもりだったのに」
風に抵抗しながら一歩、また一歩と近づいていく、だがそれも御刀の力を得られないのでは止めを刺す力を得られない。
(やっぱり、錆刀じゃ)
突如、高架から急降下してきた荒魂に腕と胴を叩かれ、雪の中を何度も転がった。止めを刺さんと二匹が花梨へと近寄った。
「まだ、死んでは駄目」
超神速とも呼べる連続した迅移の一撃が二匹の荒魂を弾き飛ばした。
その影は即座に無線のスイッチを入れた。
「こちら紗耶香、もう一体をお願いします」
「こちら呼吹だ、もうすぐ着く」
黒い制服を着た雪のような色の髪の紗耶香は、隠剣の構えで荒魂に対した。
再び低く飛び上がった荒魂が、加速して紗耶香へと突っ込んだ。
その瞬間雄たけびとともに、荒魂が二振りの一閃によってコンクリートの地面に叩きつけられた。
「今っ」
残像さえも残さぬ一閃が何十回も荒魂に叩きつけられ、微塵切りになった荒魂は既に鳥の形を失った。そして残骸はノロとなって溶けていった。
紗耶香は血振りし、即座に納刀すると花梨のもとへと駆け寄った。
花梨の体は至る部位が四方に捻じれ、息は吸って吐くこともままならなかった。
「今、助けるから」
「結構です」
「駄目、あなたを必ず救う」
「いえ、もう体の中に色んなものが刺さって、いるのに、痛くないんです。
だから、兄の大太刀の近くに、もっと」
「紗耶香」
呼吹は紗耶香の無言の問いかけに、首を横に振った。
そして傍に転がる大太刀の柄を花梨の手元に引き寄せた。
「ありがと」
息が止まり、雪のように白くなり始めた。
紗耶香はそっと瞼を閉じてやると、雪が降る高架を見上げた。
「守れなかった」
「仕方ない。だが、こいつは刀使の本分を果たした。それでいいんだよ」
「本当にそれでいいの」
「お前が信じたんだろう。こいつは最後まで強かった。自分の大切なものを守ったんだ」
「大切なもの、でも呼吹」
「うん、俺がもっと早ければ」
「ううん、私もっと強くなるから」
呼吹は膝をつく紗耶香を袂に引き寄せた。
「ああ、もっと強くなろうぜ」
大太刀『銘 倫光作』は三十年前より行方知れずであったが、錬府女学院の故弓家花梨の手で発見され、修復し御刀としての力を取り戻したことで、正式に錬府預かりの御刀となった。
だが、糸見紗耶香は辻斬りの一件を後年も話すことはなかった。