3月29日、午前8時55分、東京都葛飾区小菅1-35-1、東京拘置所。
B練6階に黒靴の音が鳴ったその瞬間、空間は静寂に包まれた。
野球談話に花を咲かせていた者、神に朝の祈りを捧げていた者、精神を病み独り言を呟く者、誰もが身を潜め足音に耳を傾ける。そして彼らは思う。
「『お迎え』が来たのだろう。」
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刑法第11条
第1項 死刑は、刑事施設内において、絞首して執行する。
第2項 死刑の言渡しを受けた者は、その執行に至るまで刑事施設に拘置する。
現在日本には死刑制度が置かれている。刑事裁判で死刑判決を受け、裁判が確定した場合その者は日本各地の拘置所へ移送、拘置され、確定死刑囚として刑の執行を待つ身となる。拘置所において死刑囚は定められたタイムスケジュールに従い、規則正しい生活を送ることになる。同じ時間に起き、同じ時間に食事を摂り、同じ時間に寝る。その繰り返し。
居住空間は確保され、毎日三食食べることができ、病気になれば無料で治療を受けることができる。衣食住に苦労する人々が増えている現代において、死刑囚にとって拘置所は一種の「楽園」と呼べるものなのかもしれない。
「死刑執行」その一点を除いて。
死刑の執行は、午前中に行われることが習わしとなっている。そして、刑の執行が本人に伝えられるのは執行当日の朝である。半世紀ほど前までは、執行前日或いは3日前に執行する旨を伝えられていた。ある拘置所では、3日前に本人に知らせ、家族との面会や同じ収容者との宴会等を行い、死刑囚の精神を落ち着かせて刑に臨ませていた。
しかし現在ではそのような慣習は存在しない。当日の朝9時頃に死刑囚は刑務官らの手により独居房から連れ出され、少なくとも1時間後には刑場の露と消える運命となる。
そのため、死刑囚らは午前9時の前後15分間、独居房の外の音に神経を尖らせる。その時間帯に刑務官の靴の音が聞こえなければ後1日、金曜日の場合は執行が行われない土日を含めて3日生き永らえる。万が一靴の音が聞こえた場合は、せめて自分のところに来ないでくれと祈るのみである。
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コツ、コツ、コツと黒靴の音が響き合う。刑務官3名と警備隊2名は無表情のまま収容練の廊下を歩く。これから行う重要な「任務」を前に、足が竦みそうになる。
刑務官の一人、猪俣淳が独居房を一瞥すると、1人の死刑囚と目が合った。
「殺さないでくれ・・・・・殺さないでくれ・・・・・・」彼ー1207番は呟く。1207番は確か、勤め先の社長の住居を放火し社長とその妻、その子供3人を焼き殺したはずだ。「殺さないでくれ」とはよく言えたものだ。「殺さないでくれ」と願ったのは、社長家族の方だろう。
猪俣達は1207番の房を通り過ぎる。安堵する声が背後から聞こえた気がするが、まあいい。今回用があるのはその2つ隣にいる死刑囚だからだ。
ひと呼吸つき、極めて冷静に告げる。「1209番、津崎守。出房だ。」
津崎守と呼ばれた男は、その声の方に対しこう言った。
「一足早いエイプリルフール、ってわけじゃないですよね。」猪俣らは表情を崩さず、じっと見つめる。
「分かりましたよ。出ます。わざわざありがとうございます。」
津崎は読みかけていた兵法書を独居房の机に置き、外に出た。津崎は猪俣を除いた4人に囲まれる。
「津崎、行くぞ。」猪俣が先頭を切り、収容練の廊下を歩きだした。収容練は未だ静寂に包まれたままである。
猪俣と津崎ら6人は、収容練を抜け、エレベーターの中に入った。このエレベーターまでの道程では、5メートル毎に刑務官が立っていた。刑場に行く間に死刑囚が暴れ、連れ戻しに来た刑務官や警備隊だけでは手に負えない場合に取り押さえるためである。
そして、今6人が乗っているエレベーターは、刑場がある地下と連結している。地下に降りて10メートルほど歩けば、刑場は目の前である。
6人が全員エレベーターに乗ったことを確認すると、刑務官の一人が刑場のある地下1階------ではなく地上12階のボタンを押した。直後、津崎の顔に困惑の表情が広がる。
「あれ?猪俣さん、僕を吊らないんですか?」猪俣は無視する。
ポーン、という音がした後、エレベーターの扉が開く。12階だ。
「歩け。」と猪俣が言い、納得しない表情のまま津崎はエレベーターの外に出る。再び津崎を4人が囲み、猪俣は再び歩き出す。
エレベーターを出で直進し、角を左に曲がり、さらに直進すると突き当りに大きな扉と「東京拘置所 所長室」の札が掲げられていた。猪俣が扉を2回ノックし、告げる。「看守部長、猪俣淳です。」「入れ。」扉の奥から芯の通る声が聞こえる。
扉を開けると、そこには厳格な雰囲気が漂っていた。大理石でできた横長の机、一面の朱色の絨毯、壁の四面には本棚が設置され、古今東西様々な種類の書物が整然と並べられている。そして、机には一人の男が手を前に組んで座っている。
「久しぶりだね、津崎君。君と会ったのは、ここに来た時以来かな。」東京拘置所長、有村勤は言った。
「おかしいですよ所長。本当なら僕は今頃、仏壇の前にある饅頭を食べながらお坊さんの話を聞いてるんです。」
津崎は慇懃無礼な態度で言った。「貴様、所長に向かって何を!?「小林、待つんだ。」」小林と呼ばれた警備隊の一人を猪俣が宥める。
「ハハ、君は本当にマイペースだね。他の死刑囚も君のような態度をとってくれればいいんだけどな。まあ、津崎君をここに呼んだのは、あることを お願い したいからなんだよ。」
「お願い」という語を強調した所長の声に一瞬びくりとした津崎は「お願いとは何でしょう?」と返す。
「君は、艦娘(かんむす)を知っているかな。」
刹那、津崎は血相を変え、所長に掴みかかる。津崎と所長の距離は僅か2メートルであり、やろうと思えば所長を殴り倒すことは可能だった。しかし、できなかった。猪俣が津崎を組み伏せたからである。
「お前らのせいであいつらは、、、、俺は!!!!!」
「落ち着け!所長は関係ない。」
津崎は怒り叫び、猪俣は耳元で呟く。
「おやおや。ホントは順を追って説明したかったんだけど、津崎君がこのような様子だから端的に言うよ。
1209番、確定死刑囚津崎守。
3月29日付で、上の者を特例により日本国海軍少佐に任命し、ラバウル基地第684鎮守府勤務を命ずる。」
(続く)
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