既に試合開始がコールされて戦闘が始まっているというのに、お互い臨戦態勢を取らずに自然体で立つ私と男性、審判曰くボドロさん。
睨み合うどころか、私も彼も相手を見る目に敵意を滲ませることさえしていない。そこは同じだか両者の心情は違う。
私はこの距離であれば十分に対応できるからこそのことだけれど、対戦相手であるボドロさんの顔に浮かぶのは、困惑。私と戦うことに迷いを感じているらしい。
目を閉じ、僅かに逡巡した後に構えをとった彼だけど、まだその迷いを拭いきれずに口を開いた。なんでもいいけど試合中に目を閉じるの止めてください、攻撃したくなるから。
「私は女子供に向ける拳は持たぬが……致し方あるまい」
そんな甘いことを口にするボドロさん。女子供であっても彼より強い人間は割りといるけれど、別に強弱の話ではなくて気持ちの問題だろう。
彼が武術を修めた志が、そういった対象にその力を向けることを是としない。きっと彼の力は弱きを守るために修めたもの。
それは立派なんだろうけど、同時に甘い事この上ない。しかしそういうことであれば、これは利用できるんじゃないだろうか。
「じゃあ、試合に条件でもつけます? さっきの試合みたいなことにならないよう、予め合意の上で勝利条件を決めるとか」
私は微笑みを浮かべながら彼にそう提案する。条件次第では双方傷つくこともなく決着を付けられる、魅力的な提案。これで乗ってくればこっちのものだ。
きっと彼は拒まない。ハンゾーがゴンにしたように、私が降参するまで攻撃を加えることもできないし、だからといって自分がこの試合を降りるわけにもいかない。
相手が女だからといっても、彼もハンターになるために努力をしてきたのだから。最終試験の大一番で、数少ないチャンスをふいになどしたくないだろう。
故に、彼の口から出たのは私の提案を肯定する言葉。
「ふむ……悪くない提案だ。後はその条件次第だな」
そらきた。
これでもう私の勝ちは揺るがないし、さっきの試合のような面倒な事もなくなる。
私が提示するのは、きっと彼が納得できるルール。そして私が楽に勝負を決めることが出来るルール。
「お互いここまで残った者同士、私にだって武術の心得はあります。ここまできて実力以外のことで決着を付けるわけにもいかないでしょうし、格闘技みたいに3本先取なんてどうでしょう? なんなら寸止めもありでいいですよ」
まるでスポーツのように、ガードや回避をかいくぐった有効な打撃の回数を競うルール。1本先取のほうが早く終わるけれど、3本先取であればまぐれでの勝利も無くなるので、彼も受け入れやすいだろう。
武道家であろう彼にとっては願ってもない形式だろうし、さらにそこに寸止めも適用されるとあれば拒む理由はないはずだ。武術を競い、傷つける必要もない、この上なく魅力的なルール。
十中八九これで勝負のルールは決定だろう。もし駄目だったらもう普通にボコってしまえばいいし。
「なるほど……うむ、それでいいだろう。寸止めも有効が良い。負けた方は素直に”まいった”と言う、これで良いな?」
「ええ、問題ありません。攻撃が入ったかどうかは審判さん、判定してもらっていいですか?」
予想通り、私の案をボドロさんが受け入れた。微笑んだまま、しかし内心では全てが私の思い通りだとほくそ笑む。
そこからさらに判定を審判に委ねる旨を確認し、審判の人がそれに頷いた。公正中立な立場の者の判定であれば文句も出ない。
これで試合の形式は整った。ハンゾーはその手があったか、と舌を巻いている。
相手が実直な人間であるならば、こうやって事前に曖昧な勝利条件を明確なものに変えてしまえばいい。
更に相手が勝利に自信を持っている内にやるのが尚良い。その方が条件を飲みやすいし、逆に追い詰められてからだと変に意固地になって面倒になる。
私はさっきの試合で学習したのだ。ありがとうハンゾー、キミの失敗は無駄にしないよ。
しかしボドロさん、甘い甘い。あなたにとってこのルールは願ったりだろうけれど、実際はあなたのためのものではなく私のためのものなのだ。
さっさと3発綺麗に入れるか寸止めしてしまえば、彼も武道家だし、まさかその後ゴネるなんてことはないだろう。
しかも審判までちゃんとついている。ここまでやってゴネたら、もうね、ガキかと。
ボドロさんが、腰を落としただけの体勢から腕を上げ、構える。
私も構え、”纏”を解く。たとえ”纏”の状態であっても、念の使えない者をそのままぶん殴ったりしちゃったらエライことになってしまう。
両者が臨戦態勢を取ったところでボドロさんが口を開いた。
「いつでも来なさい。ちなみに私は塩ラーメン派だ」
先手をくれるのか。スタートは改めて審判にお願いしようと思ったけど、くれるって言うならもらっておこう。
どうせどちらにしろ結果は変わらないのだから。
そして私と彼は相容れない存在のようだ。3日前、面談前のハンゾーとの会話で、ハンゾーがとんこつ派、私は醤油派だったから。
そういえば確かに彼はうんうんと頷いていたようだし、私たちのやり取りしっかり聞いていたのか。
ちなみに結局ラーメンの話は両者譲らず、途中でゆで卵の話にシフトしていたので決着は着かないままだ。
「塩ですか、それは残念。では」
私はそう言った次の瞬間に浮かべていた笑みを消し、地面を蹴り真っ直ぐに高速で肉薄してボドロさんの腹に拳を突きつける。拳は彼の腹に入る直前、服に僅かに触れた辺りで停止している。
ボドロさんは構えの姿勢から動かずに、驚愕に目を見開いている。今の私の動きに反応することができていない。
せめて油断さえ無ければ、彼は今のスピードなら常であれば対処できたとは思うけれど、見た目に騙され、最終試験まで残った相手なのだということを僅かに失念していた。
その一瞬程度の意識の隙間は、私が攻撃を入れるのには十分すぎた。
予想外の結果に会場にいる半数近くの人間が硬直している中、体制を維持したまま審判に視線を投げかける。
「い、1本!」
私の視線を受けて慌ててコールをする審判。
私は腕を引いて振り向き、また先ほどの位置へと歩いて戻り、ボドロさんに視線を向ける。今度は不敵な笑みを浮かべて。
私の挑発を受けて、ボドロさんが驚愕に見開いていた目を細めて口を開いた。
「……なるほど、な。どうやら、油断ならない相手のようだ。すまなかった、全力で戦わせてもらおう」
気を取り直して構えを取りなおすボドロさんの顔は、先程までとは違い鋭い気迫をにじませている。
先ほどまであった油断や驕りはどこにもない。けれど、それがどうしたっていうんだ。
私がこの試験で出す全力は、ヌルデ戦で見せた程度のもの。アレ以上のポテンシャルをここにいるハンターたちに見せるつもりはないし、ボドロさんもそれで十分な相手。
本気になられようが、私の負けは万に1つも有り得ない。勝敗の境界線を明確化した時点で勝敗は決しているのだから。
さっきの試合のような展開になって、私が飽きて参ったを言うことのみが、私のこの試合における唯一の敗北条件。そしてその心配はもうないのだ。
「今度は、そちらからどうぞ?」
私の余裕の笑みと更なる挑発の言葉にも心乱されること無く、ボドロさんが間合いを詰めて拳を放ってきた。
それを回避し、続けて繰り出された肘を、足をいなし、反撃の蹴りを防御され、距離を取る。
彼の戦いは、まるで教科書のようで、型通りの綺麗な動きだった。何度も何度も反復練習をし、体に染み付いた体術。
多分私が彼と同程度の身体能力、動体視力だったとしたらかなり苦戦する相手だとは思う。こんな風に基礎が固められている人間には決定打を打込みにくいのだ。
けど、抑えていても能力はまだ私が上、更に彼の動きもハッキリと見えているので、型通りの動きは逆に対処しやすい。
一呼吸置いて再び距離を詰めて攻撃を再開したボドロさんに対し、今度はこちらからも攻勢に打って出る。
攻めながらも私の連撃をギリギリのところで捌く彼を、すこしずつフェイントを入れることで徐々に崩していく。
腕を弾き、足を弾き、崩す。打点をずらし、タイミングをずらし、崩す。20秒にも満たない攻防の中、時間経過とともにボドロさんの手数が減り続ける。
それに焦り、苦し紛れに放たれた正拳突きを受け流してガードの崩れた顔面へと寸止めのパンチを入れる。
「1本!」
今度は間を置かずに審判がコールをし、これで私のリーチ。
ボドロさんの表情が微かに強張る。彼が全力でぶつかった結果が、これ。
私は彼の攻撃を難なく捌き、彼は私の攻撃で追い詰められた。
そのことに今一番驚いているのは観客であるはずのレオリオと、53番。
いや、53番の人がその反応なのはわかるよ。彼にとって私はハゲ忍者と一緒に何やら変な討論してた奴だし。
だけどレオリオ、アンタ私の戦い三次試験で見てたじゃん。あの時と同じくらいの力で戦ってるのになんで今更驚くんだろう。
でも決して彼らの方は見ない。粘っこい視線がどうのこうのって言うことではなく、試合に集中したいからね。油断はいけない、うん。ああピエロうざい。
再び所定の位置に戻り、1つ深く息をついてからボドロさんが動き出して怒涛の攻撃を浴びせてきた。
この状況であっても一撃一撃はしっかりしたもので、焦りによるミスもない。さすが武道家、精神はタフだ。
それどころか、キレが増しているようにも思える。まぁ、些細な事だけど。
ボドロさんの攻撃を私は回避するのではなく、こちらから別のベクトルを与えて受け流す。
私の格闘術はジャポンの武術、合気道をメインに我流で組み立てられたものだ。
相手の体に触れ、力を受け流す、或いは利用する合気道は私の能力とも相性が良い。
彼の連撃を捌きながら、今の力の私が一撃で仕留められる隙を作らせる機会を伺う。
そして中段蹴りの足を腕で掬い上げて私の上を通過させ、大きく体勢を崩す。
そこから立ち直る前の彼の腹部に鋭い蹴りを飛ばし、当たる手前でそれを止める。
僅かの硬直の後、審判が1本のコールをした。
これで私の3本、勝負有りだ。
「……まいった。私の、負けだ」
目を閉じ、素直に負けを口にするボドロさん。
両者に大きなダメージはない。それはこの勝負が拮抗していたものでなく、片方が圧倒していた証。彼も敗北を認めざるを得ない。
スッキリと試合を終わらせることができて私は満足だ。そしてこの勝利の持つ意味は、ハンター試験の合格と、もう一つ。
私はその喜びのまま、笑顔で試合を見ていた受験生たちの方を振り返り、拳を振り上げた。今だけはこの爽快感のお陰でピエロの不快ささえ吹き飛ばせる。
「醤油の、勝ちだー!」
「……っ、無念! 塩派の皆、すまぬっ!」
ラーメン頂上決戦、醤油対塩は、醤油の勝利となった。
私の勝利宣言に、俯いた顔を悔しさに歪めて歯を食いしばって零すボドロさんと、何故かちょっとついていけていないような、キョトンとした表情の観客たち。
いやいやなんでポカンとしてんのさ、これは醤油派対塩派の代表戦でしょ? 開始前にその話をして、両派閥の代表として戦ったわけだから。ボドロさんの様子を見ても、双方そのつもりで戦っていたことは明白なのに。
しかしその中で、ハンゾーだけがその瞳に静かに闘志を燃やして私を見ていた。
私も彼に視線を返す。そういえば奴との決着もついていなかった。
来いやとんこつ、醤油こそが最強だと証明してやんよ。