溜めるのはよくないから。
「うわぁぁぁぁぁぁぁい!!」
「これ何これなにぃぃ!! これすごいぃぃぃ!!」
天皇賞を終え、ゴールデンウィークというお休み週間を開けた日。
チーム・アンタレスのチームルームは増えた調度品で彩りを豊かにしていた。
水道工事が行われたことで設置された全自動洗濯機にレンジに冷蔵庫、極め付けは「蹄鉄洗い機」全てが新品で置かれていたことにヘリオスとパーマーは興奮状態である。
「パーさんこれなこれ何?」
洗濯機やレンジは見慣れていても蹄鉄洗い機はみたこともないヘリオス。
そもそもあまり蹄鉄の手入れもしない彼女だが、新しいものが嫌いというわけでもない。
目の前にある四角い箱、マッシブなブラックボディだがちょっとした平置き花器のようにも見えるみれは、ウマ娘ことレースに参加するウマ娘にとって夢の一品である。
走り回って喜ぶヘリオスにバーマーは目を輝かせて教える。
「はぁぁぁぁぁぁん、これはメジロのお家にもあるやつのぉ最新モデルぅぅぅ!! ダイちゃんこれが蹄鉄洗い機シュヴァルン2号くんだよぉ」
今日までたらいや洗面器を準備して蹄鉄を洗っていたことを考えるに、蹄鉄洗い機は手間を省く夢の機械。
ベストセラーであるシュヴァルンシリーズの最新モデルは、平置きのそれに衝立を足せば温水フットマッサージャーにもなるというトップグレードモデルだ。
安くはないこれがルームにある事は夢のようで、嬉しくて走り回ってしまうのはわからなくもない。
「ねぇっねぇっねぇっねぇっねぇっ、イクノちゃん!! 師匠はぁまだ来ないのぉ? プレゼントいっぱいだよぉ!! みんなで楽しみたいよぉ!!」
いつもの2割り増しぐらいで語尾が溶けるパーマー。
ヘリオスはひっきりなしに冷蔵庫のドアを開け閉めしている。
2人のハイテンションぶりを見ながらもイクノディクタスは静かな様子だった。
「うん、ちょっと遅れてるけどすぐにくるわよ」
「ねっねっねっねっこれって蹄鉄付きで靴履いたまま入れたら、足もマッサージできて靴も洗えて蹄鉄も洗えて……」
「はいっ!! ヘリオスには使わせない事が決定しました」
この便利な機械があれば1度は誰もが試したいと思うそれだが、そんな事したら四面体の底が抜けて2度と使えなくなる。
ヘリオスのような好奇心の塊は絶対にやってからしか後悔できないタイプ、最初にガツンと言っておかないとダメ。
断と切り捨てで使用禁止を言い渡され開いた口がいつも通りふさがらないヘリオス。
「えぇぇぇぇええぇぇぇえ、できるかもしれないじゃないぃぃぃん、一回試してからでも良いのでは良いのでは」
スリスリとすり寄った上目遣いにキッと睨んだディクタスアイ。
「ダメよ、絶対に。やったら尻尾切るからね!!」
そっくり返った白目の厳しい目線のイクノディクタスから尻尾を隠してコソコソと逃げるダイタクヘリオス。
尻尾を切られるのはムリ〜であるが、イクノディクタスは怒らせたら本気で大鉈降りそうで怖いのでおとなしく下がる。
「嬉しいなぁ嬉しいなぁ、お部屋がぁ華やかにぃなってぇ嬉しいなぁ」
ふにゃふにゃのトロトロで喜ぶパーマーと、使用禁止に涙目のヘリオス。
いつも通りの騒がしい放課後は始まったばかり、少しずつ近ずく初夏の香りと梅雨の湿り気の混ざる季節の中でイクノディクタスはつぶやいていた。
「本気なのね……部長」と。
「うんうんうん、前のレースの時に比べると筋肉の凝り具合はずっと良くなっている感じよ。体をリラックスさせる方法を見つけたみたいね」
黒のアンダーリムメガネ、深い焦げ茶色のストレートヘア。
白衣とのコントラストが激して緑のワンピースを着たトレセン学園の校医であるドクタースパートは自分の前に座った小さくも強いステイヤーライスシャワーを診断していた。
小さな体に細い手足、一見すれば街に溢れる普通の女の子と変わらない体つきだが中身は抜群の性能を持つ走る鬼神。
人を超える運動能力をもつ彼女だ、人の医師による診断では体の状態は計りえない。
細く整えられた指先がゆっくりと動いて行く、脚と手、背中と診断が続く。
まず触れること、違和感は細かな振動や揺れでわかる。
少しくすぐったい触診にライスシャワーの耳はピクンと動く。
「いいわ。今回は特に良い、あれだけのレースをしたのに綺麗に力みが抜けている。明日から軽めのトレーニングを再開してもいいわよ」
優しい目が伏せていたライスシャワーの目に笑って言う。
「力の抜き方を覚えたみたいね、でも体ってのは自分が思っている以上にデリケートよ。貴女が平気と思っても体は限界に達しているかもしれない。あのサイレンススズカかそうだったように、上々と思える時こそ慎重にね」
「はい……」
素直に頷く顔。
自分ではわからない疲労、気合だ根性だでは乗り切れないのは本人ではなく体の方。
それもわかる痛みではなく、わからない細かな亀裂。
わからない小さな傷が、レースでは大きなダメージへと変化してしまうことがあると説明は続いたがドクタースパートの口調は極めて優しく柔らかかった。
「プレッシャーもすごかったでしょうね、なのに綺麗に力を抜くことができてた。今まで何度か貴女を見たけど……いつも心配だった。いつもガチガチに自分を絞めて思いつめたみたいな顔を見ていたから……よかったわね」
「はい……そうですね」
「そうよ、貴女明るくなったわ」
「そうですか」
恥ずかしそうに顔を伏せるライスシャワーはあのレース、天皇賞の後のことを思い出していた。
「ライス、新しいトレーニング方法を考えよう。これからのために」
レースが終わった日、祝勝会を兼ねた反省会でトレーナーはそう切り出した。
さすがに天皇賞、こんな大きな賞を得るのは滅多にないこととチームはお祭り騒ぎ、収穫用大型メッシュコンテナに入ったニンジンは見事に食い尽くされ、酒でもないのにニンジンジュースに溺れ部屋の中で寝転がっている。
トレーナーとライスシャワーだけの会話は、いつものように張り詰めたものではなかった。
「トレーニングのやり方を変える……ということですか?」
「そう、今までは……その……君の心を追い詰めるような厳しいメニューばかりだったと思う」
指導者としての自分を責めているようなトレーナーの姿にライスシャワーは首を振る。
「お兄様のやり方は間違っていません、ライスは……それで強くなりました」
「ああ、強くなった。でも君は思い詰めていた、……僕が君を追い詰めていた」
「違います……ライスは」
わかっていると首を振るトレーナー、悲観はしていないという顔が笑っていう。
「今までのやり方は良くない、根を詰めて君が「鬼」にならないとレースに勝てないなんて、そんな強迫観念を持たなきゃいけないようなトレーニングはお終いにしよう」
今までにない表情だった、トレーナーの明るい顔で続けた
「もっと君らしく走ろう。新しい、楽しんで素直に喜べるレースをしよう」
楽しんで喜んで、思い詰めるだけのレースはやめようという言葉に心は大きく動いていた。
あの雨の日、前のチームを後にした日から今日まで大忙しで色いなものが動いてきた。
始まりの衝撃だった「三冠」に「三連覇」、阻止して勝利する代償が笑顔を奪うものだったことをトレーナーは忘れていなかった。
そこから互いを追い詰めてしまった。
落ちていく互いの感情をとめられなかったあの日。
「お前に触って不幸にならないと勝てないのか?」とバカにした人がいた。
そこから怒涛の浮遊を得た。
ライスシャワーでも止められない、トレーナーでも止められない急転の日々が始まり、殻にこもっている暇などなかった。
毎日日替わりで自分の殻を誰かが叩く。
トレーナーの指示を聞かない脳筋集団に目を回し、退屈させない仲間を2人は初めて得ていた。
「チーム・アンタレス……は」
「米?」
開けた道、今までを顧みることができたことが自分変化だったと振り確信したとき、保健室のベッドから声がした。
差し込む白い光の中、輪郭をぼやけさせた寝ぼけ眼、いつものメガネはしていないツインターボは髪をほどいた姿でカーテンの向こう側、行儀悪くあぐらでベッドに座っていた。
チームルームに向かう校舎沿いの道、中庭の緑が淡い色合いを見せ始める季節。
暑くはないがそろそろジメッとしてくるのを風に混じった湿気が知らせる道を2人は歩いていた
「どーなんよ、なんかわりーとこあったか?」
「特にないです、ただ左脚に力が入りすぎているのか疲労が残っているそうで……ゆっくり筋トレしながら解して……走るようにと」
「そっか、まあ無理しないようにやるしかねーな」
穏やかな反応。
いつもやかましい走る騒音公害と言われるツインターボの反応に、ライスシャワーは一息。
自らの気持ちを沈めた間をおいて声をかけた。
前を歩くツインターボに、初めて自分から。
「あの……聞いて良いですか?」
「なんだよ」
「ライスはこのチームに来て色々なことを教えてもらいました」
勝負に勝ったのに失意で堕ちた天皇賞から、新しい自分に目覚めた天皇賞までの間、ライスシャワーは自分を教えてくれたのはお兄様だけではなかったと確信していた。
夢を置いていった友達のためにも、頑張って走るという気持ちを持ち続けるダイタクヘリオス。
たった1人応援してくれる人がいればそれが走る意味だと笑ったメジロパーマ。
レースでのテンションをコントロールすることを教えてくれたイクノディクタス。
すったもんだと毎日を騒がしくすごしたチーム・アンタレスは、今まで経験したことのないことをいっぱい教えてくれたチームだった。
だからこそ、今までこのチームの中で一番の苦手としてきた相手からも知りたいことがある。
「……ツインターボさん、あなたに教えてもらいたいことがあるのです」
「なんだよ改まって。まあいいぜ、可愛い写真を撮ってもらえる角度の作り方とかセクシーショットの決め方とかならなんでも聞いてくれ」
反り返るほど大いばりだが、胸は真っ平らでセクシーとは程遠い。
「……そうではなくて……その」
相変わらず高いテンション相手のペースに飲まれる。
「前にイクノさんに聞いたんです。アンタレスにライスを入れるって決めたのはツインターボさんだって。……どうして入れようと思ったんですか?」
はたと止まる脚、ツインターボはくるりと振り変えると当たり前のことを聞かれたという不思議そうな顔で答えた。
「強いからだよ、天皇賞ウマ娘を手にいれられるチャンスはそうそうないからさ」
「それだけですか?」
「おう、それだけだぞ」
いつもならここで黙ってしまうライスだったが、その先を聞きたかった。
眉をしかめ唇を噛む、話し合いをするにしては得意な相手じゃない。
息を飲み勇気を貯める、ツインターボはライスシャワーのその息を感じとり少しずつ話し始めた。
「あの時は……チームがレースに出るためにどうしても1人入れたかったというのもあるが……最大の目的は……米、お前さこないだの天皇賞の時の走りがベストだろ。前に俺と走ったレース時よりもずっとベストだったろ」
立ち止まっていたライスシャワーにズイッと近づいたツインターボ。
突然変わった話題にこわばるライスに笑顔のツインターボは人差し指を振って。
「よかったぜ、あれが本気と分かって」
「よかった?」
「そうさ、お前をチームに入れたのは俺が本気で走るためだ。お前の強さは良く聞いていたからな。頂点がどこかはしらねーけど、俺にとって天皇賞を勝つやつは強いウマ娘だ」
ツインターボはポンッと後ろに飛ぶと指をさして言った。
「お前と俺でレースをする、本気の本気で燃え尽きるようなレースをするのがお前をチームに入れた本当の理由だ」
「宝塚記念に出場するんですね」
「出られるわけねーだろ!! あれだよ……普通にトレーニンググラウンドでだよ」
次のレースは宝塚だ、ツインターボが本気でぶつかってくるというならそこしかない。
ライスシャワーも覚悟を決めようとしたが、目の前のツインターボは照れくさそうに顔を下げた。
「レースは……重賞レースにはもう出れられない。俺はもう中央トレセンにはいられないんだ」
「えっ……どうしてですか……」
まさかそんなことを聞き返されるとは思わなかった。
惚けた顔で一度口を尖らせて見せたが、目の前のライスが真剣な眼差しにうっすらとうかべた涙を見せているに態度を改めた。
しっかりと向き直って、今度はツインターボが深呼吸。
「どうしてって……そりゃお前……所謂卒業なんだよ」
卒業、春を過ぎたばかりなのにという思いの中で、あっという間に時はすぎることも知ったライス。
照れ臭そうに目を泳がすツインターボをしっかりと見た。
やかましくも自分を支えたくれた人だった、いつでも真正面からぶつかって時には物理でぶつかって自分を閉じこもった殻から引っ張り出してくれた人。
ツインターボがチームを、学園を去ろうとしていることに自然と涙がいっぱいに出てしまう。
「……うぅん……」
うまく言葉を紡げない。
下がりそうな顔のライスシャワーの肩をツインターボはつかんだ。
「レースするぞ!! お前と俺で!!」
まっすぐな目が笑えと言っている。
ツインターボの目的が自分を生かしてくれたのならば、応えるのが勤めだ。
涙でいっぱいになった目だが、唇の震えは止まっている。
大きく頷くと、自分を支えた手に答えた。
「はい……レースをしましょう」
「勝てよ宝塚!! それが終わったらやるぞ!! 俺は本気の本気で行くからな!! 秋ぐらいになガツンと一世一代の真剣勝負だ!!」
「はい!!」
珍しくライスシャワー泣きながらもきちんとした声で答え、行くぞと走るツインターボの後を追って走った。
花も飾りもない、何も置かないデスクの前で椅子座っているシリウスにホクトベガはハーブティーを用意して立っていた。
夜を照らす照明が並木道を輝かす時間、栗東とも美浦とも近くない砂場はダートグラウンドの端に静かに立っている。
2大寮から遠く、学園本校舎からも遠いこともあり、砂場の夜はとても静かだ。
もちろんホクトベガの教育が行き届いているのもある、夜の時間を騒がしく過ごすことを許さない笑みに寮生たちは黙らざる得ない。
それほどに絶対に寮長であるホクトベガは今シリウスシンボリの世話をしている。
「明日のレースを前に私から言えることは一つです、怪我のない体調及び心のコンディションを整えること、コースに入るまでそれを忘れないでください」
初歩を教える教職者のような真面目な物言いにシリウスは鋭く切り替えしていた。
「私にとってのレースは明日で終わります、その後のことなどどうでも良いことですよ。……そんなことはともかく、貴女はドバイの時の話をなぜ寮生たちに聞かせるのですか? そうすることで痛みかが薄れるからですか?」
人に聞くというには、随分と尖って質問。
トレーをローテーブルに起き対面に座ったホクトベガは、開いたドアと同時に始まった「詰問」にピクリとも動揺を見せなかった。
むしろ澄んだ瞳がゆっくりと「悪態を吐く」相手を見つめる。
「ドバイの話だけではないですよ。負けた話も勝った話もしていますよ。貴女もお話ししてください、貴女の経験はより多くの寮生を育てる糧になるのですから」
準教職者らいしセリフ、感じたままの雰囲気に鼻で笑うシリウス。
「矢張りそうですか、口に出して言えば痛みはかすれ、意味も変わる。あれは教訓だったと自分に言い聞かせることが貴女のホスピスというわけだ」
シリウスの強気な発言をホクトベガが笑って返していた。
今までにない反応だった、いつもなら柳のように受け流しそれが真実であっても反抗しない相手の笑みはシリウスの背筋を冷たくさせる。
冷えた感情の持ち主はゆっくりと立ち上がる。
「とんだ誤解ですし、貴女は結構物知らずなんですね。痛みや悲しみが消えることなんてありませんよ。私のここには痛みは残っていますから」
整えられた美しい指先、人差し指で自らの胸を指し示すホクトベガ。
反抗する鋭い瞳、シリウスの視線は相手を射殺す角度。
近寄るものを切り裂きたいという狂気が見える。
普通のウマ娘なら間違い無く恐怖に身を固まらせてしまうだろう目を前に、ホクトベガは息のかかる位置まで歩み寄っていた。
「あの痛みや悲しみは私を育てる糧になっただけです。生きているのならばこれは価値ある痛みとして永遠に心に居着くものです」
「きれいごとを」
「汚いことは言いません。貴女にとっては不変の悲痛となったのが悔しいのですか? 随分と幼いのですね、そんなものを未だにただ抱いたままとは」
座ったまま磔のシリウス、まん前に迫ったホクトベガ。
いつの間にか相手の威容に押されていたのはシリウスの方だった。
「……ホクトベガ……」
儚く優しく涼しい瞳の彼女はここにはいない、正面にいる冷たい眼差しと強者の影に怯える。
「いいですか舐めた口を聞かないでくださいね。抱いたままの痛みと悲しみに浸ったまま過ごし続ければ貴女は後悔することになりますよ」
赤い髪が風に揺れ、シリウスの黒髪に混じる位置にいる。
「走ることで何かを変えられるような時は貴女も私もとっくに越してしまっています。明日走ったとしても望む答えはでませんよ、ましてや自分の辛苦を抱え込んだまま走るのなら絶対に。必要なのは飾ることのない本心、単純明快な想い、言わなければ何も伝わりませんよ」
肩に置かれた手がトンっとシリウスを押す、あの日の意趣返しのような図の中でこれほどに怖いホクトベガを見たのは初めてだった。
G1レース宝塚記念。
芝コース2200メートル。
前日来降り続いていた雨は止み空は曇天、水を得た芝が草木の香りをレース場いっぱいに漂わせている。
グランプリレースである今日はトレセン学園からも多くの生徒が観覧に参加している。
スタンド席にはチーム・リギルの面々、シンボリルドルフにエアグルーヴ、ナリタブライアン、ヒシアマゾンにタイキシャトルの顔が見える。
平地のラチ沿いにはレースを間近で見るホクトベガ。
近場に並びに立つのはメジロマックイーンとゴールドシップ、彼女たちと共に来たミホノブルボン。
有名どころの観戦に多くの生徒が色々な思案と感情を持って今日のレースを見に来ている。
「風……うん、いい感じ」
スタンド席をバックにライスシャワーは黒の勝負服の袖を直しながら、コースを流れる風を読んでいた。
リラックスしてはいるが顔はいつものように下向き、フツフツと溜まる激情を抑え静かな時間に身を任せ手を上に指先で風を捏ねる、ゆっくりとしたコンディション。
ゲートに入るまでの間をリラックスタイムにしたおかげで、スターティングポイントから正面スタンドの景色が良く見える。
たくさんのファンが詰めかけたスタンド席、3番人気に推されここまでやってきたことに感謝する。
すでにゴールラインの向こう側にアンタレスの面々は出揃い、いつものやかまして応援を始めている。
「米!! ドーンと行け!! ここで待ってるぞ!!」
「ライスちゃーん!! ガンバ〜!!」
「後でぇお神輿よぉ!!」
「気負わずにいくのよ!!」
メンバーの変わらないけたたましくて騒がしくて良く聞こえる声に耳が踊る。
「ライス!! 遠慮はいらない中盤から向こうで全ての力を叩き込め!! 距離を縮める走りを見せればいい!!」
チームにすっかり馴染んだのか、チームの大きな声に負けない声でトレーナーの声援という指示にかすかに唇が笑みを作る。
暑くもなく寒くもない、いい日だ。
顔をあげたライスシャワーの前、シリウスシンボリは立っていた。
「約束通り、負けてあげますよ」
凛とした姿だった。
シンボリ一門の深緑の勝負服。
皇帝の華やかな服とは対照的なシリウスの勝負服、詰襟を飾る赤い1つ星が肩につながる飾緒は海外での活躍を期待された証でもある。
黒のスカートにサッシュベルト、ロングブーツ姿は「軍人」といっても良い姿。
G1を彩るに不足ない美しさを持っているシリウスシンボリの第一声にライスシャワーは静かに反応していた。
「……聞かせてください、どうしてなのですか? 負けるのは辛くないんですか?」
負けるのは辛い、それがライスシャワーの実感だった。
勝っても辛かった時期は長かったが、身心ともに満たされず思うように競えず負けてレース場を後にするのはもっと辛かった。
なのにこの人は「負けてあげる」を連呼する。
ずっと不思議に思っていたことを今日は素直に聞いた。
「ライスは勝てないのは辛いと思います、シリウスさんはどうして負けても良いなんて……思えるんですか?」
踏み込んだ質問に対してシリウスは以外な反応を見せていた。
いつもならお得意のディベートで、身長差も合わさった上から目線の見下し攻撃をするだろうに、質問したまま真っ直ぐに自分の目をみるライスシャワーを前に改まった様子で息を整えた。
「なるほど……言わないとわからないか……」
互いが目を伏せ想いに当たる。
「知りたいのです、ライスは……」
「いいですよ、理由を教えるますよ」
時間はあるようでない、刻々とスタート時間の迫る中で重いテイストを身に絡めたくはないだろう。
それでもここでそれを聞いた相手にシリウスは敬意を示した。
「かつて私はダービーを勝ったけど、そのせいでもっと勝てと高みへの試練をあたえられた。簡単にはできもしないのに、やれと引き回されて苦しんだ」
いつもよりいくぶんも穏やかな声にライスシャワーは俯くことなく聞き入った。
「頂点に立つことで苦痛を忘れられる? 本物の王者でなければ、弱者がまぐれで勝てばいつだってそういうことになってしまうんだよ。健気で弱々しくも努力する君の強さは心打つだろうが、その図を求める人によって……身勝手な応援で期待を高めておきながら落ちることも許さなくなる。君は苛まれることになるだけだ。悪くもない、ベストを尽くしている君を勝利という呪縛が苛む」
勝つことの呪縛、勝つことで苦難はやって来たという身に覚えのある言葉に目が覚めた。
シリウスは悪意で「善戦」をしろと勧めたわけではなかったと。
ファンファーレが鳴り響き、シリウスはクルリと背を向けていた。
鳴り響く音はもうすぐ残響に変わり拍手の波へと飲まれてしまう。
後戻りなどできるわけがない。
わずかに揺らぐ心を、胸を抑え目を閉じる。
まぶたの裏に映るものは……トレーナー言葉。
「アンタレスは僕とライスにとって結果的に良いチームだったよね」
応援してくれるチームの前で、レースに嘘はつけないという決意を伝えた。
「シリウスシンボリさん、それでもライスは負けません」と。
シリウスは何も答えず、ゲートへと入っていった。
「スタートしました!!」
昼までの曇天を覆し、薄いながらも太陽の日が芝生を走った時、17人のウマ娘たちは一斉にゲートから飛び出していた。
タイキブリザード、トーヨーリファール、ピンクのヘアボンネットも眩しいダンツシアトルが先行して行く。
すぐ後ろにネーハイシーザーが付け、中央バ群中より後ろ目にライスシャワーは付けていた。
シリウスシンボリはアイルトンシンボリをスクリーンに寄り外向きわずかに前を走る。
正確に計ったかのような足運び、シリウスと走れることを心待ちにしていたアイルトンには少し難しい位置取り。
中央より外ラチの側、相手を見るでも並走するでもない位置にとまどいながらも前を目指す。
「……やっぱり早い……」
ライスシャワーは後方からシリウスの足運びを見ていた。
余力のあるステップ、そういっても差し支えない走り方は皮肉にも並走に近いアイルトンシンボリの走りで浮き彫りになっていた。
「この人は負けない……負けない走りを身につけているのに……」
バ群に揉まれることで脚の回転に乱れが見えるアイルトン、一方で1ハロンを歩数で計ったかのように走るシリウスとは絵的にも対照的。
「走り方はかなり違うけど、中身はミホノブルボンさんに似ている」
走り方は個性でもある、怪鳥エルコンドルパサーは鳥のように走ると言われるが、シリウスのそれも鳥に近い。
一見では派手で見掛け倒しのようにも見えるがこのスタイルでタイムとスピードを均等に保持し続けるのは至難の技。
新人ウマ娘が真似しようものなら1000も持たずに失速し1ハロンのタイムを合わせることもでき無いだろう。
ブルボンの走りはとは似ても似つか無いスタイルだが、精密機械という意味では一緒。
平地であれ坂路であれ、状況の変化でタイムを変えないということは心身に力の入れどころトルク変化が染み付いている証拠。
姿勢正しく前を行くブルボンの背中はぶれたことがない、走者として上半身を立て腕の振りにも変化はない。
シリウスの走りは大きく上体を前傾させているが決してブレ無い。
低く構え狙い定めた走り、決して後ろを見ないスタイルで、水面を跳ねる石のように等間隔の足運びには完全に余裕を見せている
「1200まで……まだ……ギアをあげて1000で勝負」
相手は早い「負けてあげる」という相手だが、走りで負けるつもりはなく正に直線コースギリギリで歩を止めるという屈辱的な行動にとる可能性は高い、そんなレースは絶対に嫌だと心を燃やす。
想像以上にシリウスは強い、最後の直線で手を抜いた彼女を刺しても意味が無い。
「勝負をかけるのは3角、そこであの人を抜く」
2角を回ってもバ群に大きな変化はない、互いが互いを警戒する中段を無視し、走る花嫁ダンツシアトルを含む先頭集団は飛ばしていく。
シリウスシンボリは外を回りながら前を狙う、中段はジリジリと前に迫る。
固まったバ群耳に響く足音、風にまみれる砂塵と芝。
視界を奪うものたちの間を突き抜けるために踏み込む。
「……ぁっぁあ……」
脚が地面を突き抜けるような錯覚、錯覚という歪みが痛みに変わってが脳を突く。
世界は止まっている。
いや動いているのにスローなのだ。
両膝の腱を切られるたように、力が脚に伝達されていない、そのまま地面へと体が吸い寄せられる。
左に傾いている、自分が芝の目に向かって、こんなのは。
「倒れられない」
倒れたらもう追いつけない、がっちりと自分の心を支え固め黒く湧き上がっていく鬼の魂。
通じない力の通わない脚を、意思が戦おうとした叩いた時。
「その時は空を見ろ」
歯を食いしばり踏ん張るような真似はするな。
木漏れ陽の下で彼女は笑ってそう言っていた。
そうだその時にはもう……でもまだ……。
緩やかに落ちるせめぎあいの感覚が転倒を否とし足掻く体から力を流し去る。
「神様……もう少しだけ……」
ライスシャワーは転倒した。
「ライスシャワーどうした!! ライスシャワー転倒!!」
3角の坂を登る途中、それは突然起こっていた。
前のウマ娘を追走していたライスシャワーが前のめりに倒れ砂埃に消えたのだ。
レース場全体に響き渡る悲鳴の波、誰もが目を疑い時は止まり、絶叫がこだまする
「米ぇぇぇぇ!!!」
飛び出したのはツインターボ。
後ろには短歌と救命用具を背負った馬鹿コンビ、イクノディクタスは隣にいた妹に指示をとばしていた。
「エミノ!! 一番近い通用口に救急車を!! 部長!! 先ずはアイシングよ!! 体を揺すったりしないで!!」
ラチを飛びツインターボはまっしぐらに走っていく、続くメジロパーマーの顔はいつもの緩みはない、厳しく唇を噛んだまま折りたたみ担架を背負い走る。
一方でダイタクヘリオスは半分泣いていた、泣きながらもアイスパックと固定用テーピングを持って走る。
「米ぇぇぇ!! テメェ!!! なんでだよ!!!」
応援席から担架を持って走るチーム・アンタレスの面々。
場内でレスキューとして働くウマ娘たちも2角の詰所から飛び出していた。
「チームの方は下がって!!」
レースはまだ続いている最後のストレートを走るダンツシアトル、タイキブリザード、エアダブリンたちは後ろで起こった事故などまだしらないのだから。
大波乱の中、もう1つの星もまた脚を止めていた。
「どうしたことか……シリウスシンボリが停止している」
場内アナウンスは2局にわかれレースを実況する声と、転倒の後を追う声がレース場の中に交錯していた。
4角に入りストレートとゴールに殺到する群れの中から櫛の歯が抜け落ちるように走るのをやめて立ち止まるシリウスの姿に。
「何かあったのか? シリウスシンボリ競争停止?」
すでにライスシャワー転倒という大惨事に観衆の中には心配や不安が渦捲いている状況だ。
シリウスの競争停止にも悲鳴が上がるのも無理はない。
この事態にいてもたってもいられなかったのはシンボリルドルフだった。
「シリウス!!」
昨日までレース会場に行くか行かないかを悩んだ、悩んだ末の「少しで近くで活躍を応援したい」という気持ち1つを持ってやってきた。
もちろんホクトベガにもその旨は話を通してある。
否定はされなかった。
「応援は無償の愛ですからね」と軽く往なされた感はあったが、久しぶりに直に見る妹分の走りに心を踊らせていた矢先の競技停止に黙っていることなどできなかった。
「シリウス!!」
「待ってくれ!!」
先走る思い、熱くなったルドルフを止めたのはヒシアマゾンだった。
「行かせられないんだよ」
八重歯の唇に苦痛が見えるが、意思は強く眼差しは本気。
いつもならこんな事態に助けとしてはしるものを止めたりしないヒシアマゾンだが、今度ばかりはそれを許すことはできなかった。
「彼女を止めて……」
敬愛する姉の願いを胸に、覚悟の形相でシンボリルドルフを止める。
スタンド席から下に降りる細い通路で両手を開いて。
「頼むぜ会長……約束を守ってくれ、姉さんに任せるって言ったんだろ!! こいつは魂のタイマンなんだぜ!!」
「アマさん……」
ナリタブライアンは、人情に厚いヒシアマゾンの行動に驚きながらも止めようとはしなかった。
自分のあずかり知らぬ約束に割り込む余地はないからだ。
動揺広がるスタンド席、レースはダンツシアトルの勝利が確定したところだ。
走る花嫁である彼女を応援していた観客は飛び上がり、一方で事故の不安も混ざり合う混乱の中で乗り出したシンボリルドルフは最初の一歩目で硬直していた。
妹分に何かが起こっている、今こそ自分が必要なのではという思いの前で約束を守れとは。
苦痛の息を飲んで、感情を殺した超えはヒシアマゾンに告げた。
「そうだホクトベガに……任せる。約束を、守ろう」
ルドルフの目は見ていた、内ラチを越えてコースをいくホクトベガの姿を。
4角の途中、シリウスシンボリは走るのをやめ立ち尽くしていた。
3角途中ライスシャワーのレスキューに集まるアンタレスの面々と、救護班のウマ娘たちが見えたが自ら近寄ろうとはしなかった。
わかっていたからだ、後ろを走るライスシャワーの足音が異常をきたして何度か乱れたその後に崩れるのを聞き取っていた。
芝とはいえ大きな音だった、体という物質が不意に支えを失ない倒れるのだから。
時速60キロ、左から斜めに崩れた体は何回転も芝を転がり砂煙りの中で止まった。
彼女の息は聞こえなかった、恐ろしいことだ。
ほんの一瞬で、何かが分かたれたという傷に塩を擦り付けられる激痛。
倒れた彼女のところには行けない、見られない。
トボトボと離れるのが精一杯だった。
「こんなこと……こんな結果を望んだわけじゃないのに、私のせいなの?」
うなだれ顔を落とす、涙は芝に降り注ぐ。
止まらない悲しみの頬にホクトベガの手が包むように触れていた。
「シリウス、誰にも、どうにもならない時があるのですよ。貴女のせいじゃない」
掻き毟るように乱れた感情を抱くことも捨てることもできないシリウスは崩れ、ホクトベガは優しく抱きしめる。
言葉を尽くしても何にも報いられない時が2人の間に流れていた。
「パーマー!!」
通用口でライスシャワーを乗せた救急車を見送ったパーマーにメジロライアンが駆け寄っていた。
後ろにはマックイーンとミホノブルボンもいる。
「リャイアンぅぅぅん……ライスちゃんがぁぁぁぁぁ」
転倒したライスシャワーの体を固定、アイシングと緊急処置を施したのはパーマーだった。
レースには日頃から持ち歩いていた備品が役に立ったが、物は揃っても心は追いつけない焦りの中にあった。
学園におけるメジロ家代表格でもあるライアンは、一門の仲間であるパーマーをしっかりと抱きしめていた。
「君はしっかりやったんだよ。彼女もきっと……きっと無事だよ」
何もわからない、担架に乗せられたライスシャワーは顔も体もすすけ傷だらけの状態だった。
大丈夫なのか、どうなのかなど計りえないが仲間を精一杯励ました。
「きっと……きっとね……大丈夫だから……」
「ライスちゃんがぁぁぁぁ」
隣では大号泣のヘリオス。
馬鹿コンビ2人がいつもやってきたウマ娘攫いがここでは大きな役に立った。
担架を肩に固定したライスシャワーをいち早く病院に運ぶため、緊急車両がレース場からすぐに公道につながる通用口まで全速力で走った。
走って走ってレスキュー隊員にバトンタッチしたところで脱力し涙を止められなくなった。
「ルビーちゃんライスちゃんが……ライスちゃんが……」
「ヘリオス……」
座り込み泣き続けるヘリオスに駆け寄ったのはダイイチルビーだった。
友達のレースを見に来ただけだったが、大惨事になった第10レースも見ていた。
転倒直後に全力で救護に走っていくヘリオスを見つけ、今ここに駆けつけていた。
仲間思いのヘリオスが泣き崩れる姿は辛すぎる。
ましてや同じ思いを2度するなど、考えるだけでルビーの膝も揺れ恐怖を覚えていた。
「ヘリオス、ヘリオスぅ……」
ダイイチルビーはそっと肩を抱く事しかできることはなかった。
「お姉ちゃん……」
ライス転倒から全ての指示を出し、ここまでやったイクノディクタスの元に妹のエミノディクタスが心配そうに寄り添っていた。
涙は見せない姉だが、心配に顔は歪む。
「大丈夫よエミノ、私たちもこれから病院に向かうわ」
そうだただ救急車に乗せ見送るだけでは終われない、チームの要はここでまだ泣けないのだ。
「部長!! タクシー拾って……」
病院へ、そう言おうとしたイクノの前ツインターボは吐血していた。
「部長……口切ったの?」
あれだけの騒動だ、ここまでライスを運ぶ間でツインターボが怪我をしていても不思議ではなかった。
実際歯を食いしばった怒りの顔は震え一点を見つめている。
トレーナーから預かったあの巾着を、その中身の蹄鉄をツインターボは手に持ち握りしめて怒鳴り声を上げていた。
「こんなの……絶対に許さないぞ!!! 米を……米を勝手に連れて行くな!! 連れて行くなら俺と勝負しろ!!」
はあ?
イクノは一瞬呆れた。
いつものツインターボ特有の激発的意味不明な発言だとおもったからだ。
「部長……こんな時に……部長!!」
きっとテンパっていると誤解したイクノの前、ツインターボは倒れていた。
まるでつっかい棒を失った案山子のように前のめりに。
誰も反応できず、雑踏の中でパタリと倒れた音だけ、イクノディクタスでさえ何も言えない衝撃を受けていた。
「部長、何やってるのよ」
ゆっくりと膝をついて、目を開けたまま倒れているツインターボに触れるイクノは首振った。
「やめてよ……こんなの……もう無理……」
張り詰めた糸が断ち切れその場に崩れるイクノ、アンタレスの面々は誰も動けなかった。
何が起こったのかを理解したくないという顔だけが並んでいた。
大波乱の宝塚記念は終わった。
ライスシャワーの救急車に乗ったトレーナーは翌日姿を消していた。