殺生院キアラは幸せな一生を送り、笑みを浮かべながら死にました。 作:赤目のカワズ
私は理想に溺れていた。
「その生き方、疲れない? 馬鹿じゃん」
別れ際に投げかけられた言葉を、若い頃の私は無視した。
分かっていた。だが、あえて無視した。当時から分かってはいたのだ、この生き方は、人間が出来るものではないと。
世は西欧財閥絶頂期。表立っての技術革新が失われ、最新テクノロジーが放逐された世界。
医療もまた、その進歩を闇に閉ざされた内の一つである。医療機器一つとっても、アンダーグラウンドで仕入れた方が性能が良いというのだから、世も末だ。
「ふむ……君もなかなか苦労しているようだ。お互い様だがね」
「お前ほどじゃないさ、いつの間にか髪も真っ白になりやがって。じいさんも草葉の陰で泣いてるぞ」
若い頃の私は、人を救いたいという気持ちに溢れていた。私にはそれを成す技術があったし、志も熱く燃えていた。
今をもってなお、理想に燃える友よ。君は、今の私をどう思っているのだろうか。
その答えを、私はまだ知りたくない。
「センセイ」
はて、自分は今、何をしていたのだろうか。
最近は、年を取った自覚が一にも二にも悪目立ちする。自分がつい先ほどまで何をしていたのか、失念してしまうほどだ。
「センセイ?」
しかし、何も覚えていない割には、胸いっぱいに広がるこの幸福感は何であろうか。
まるで、母の腕に抱かれているかのような安心感だ。それでいて、見目麗しい美女を抱いているかのような、快楽でもある。
「――もう、センセイったら。寝てしまわれたのでしょうか」
はっとして思考の海から帰還すると、目の前に女が座っていた。
膝元で重ねられた手の平。竹を据えたかのような、すっとした背筋。いかにも上品な佇まいだ。
「センセイ?」
「あ、ああ、すまない。少し…………ぼーっとしていたようだ」
ぼーっとするにも程度があると思うが、それ以外に言いようがない。
申し訳なさげに謝罪の言葉を口にすると、女はこれまた上品に微笑んでみせるではないか。
「いえ、気にしておりませんわ」
「そう言ってくれると助かるよ……やれやれ、最近はとんとこういう事が多くなった。思考の空白というか、なんというか……」
「ふふふ。ああ、そうそう私、センセイに申し上げたい事がございます」
「ふむ……一体何かな。私に出来る事であれば、力を尽くすが」
仮にも医者が、診察室で夢心地とは聞こえが悪い。
罪悪感と使命感を綯い交ぜにした私は、彼女の次の言葉を待った。
それは、聞くに堪えない罵倒に近いものであった。
「――センセイはインポでいらっしゃるのですね?」
「………………」
四十を数えるようになったともなれば、それなりに場数も踏む事となる。酸いも甘いも噛み分けた人生だ。
しかし、妙齢の女性に単刀直入インポテンツの疑いをかけられる経験など、なかなかないだろう。
「あー…………キアラ君?」
「なんでございましょう?」
「猥褻か否か? それを決めるのは人の感性と法律であると私は感じている。付け加えれば周囲の環境だ。年端もない女性と四十のおっさん――この関係性を鑑みれば、今の話題は非常にまずい。ああ、まずいとも。さて、キアラ君。今後は清らかな話題作りに努めてくれたまえ」
「センセイはインポで」
「どうしても勃起不全について話したいのか。分かった分かった。付き合おう」
深く息を吐く。春は卑猥な事件が多いと聞くが、キアラ君もその類なのだろうか。それまでの罪悪感が霧散したかと思えば、次に襲ってきたのは脱力感だった。
聞くところによると、殺生院キアラなる少女の評判はすこぶる良いらしい。
こんな根無し草の所にまでその名が届いてくるのだから、その人気ぶりは相当のものだ。成る程、秀麗眉目に心穏やかと来れば、世の男に限らず誰も彼もが彼女を放っておく訳がない。
それを思えば、その口が清らかなものだけを咀嚼していると考えるのは、当然の帰結である。いくら旧知の仲とはいえ、おっさんにそのような言葉を吐き出してよい筈がない。
「キアラ君、年若い少女がそのような事を言うものではないよ」
「だってそうでしょう。私、これでも自分の体の魅力は心得ております。この体に迫られたというのに、あんないけずな態度を取るだなんて……インポか何かと考える他ありませんわ」
「元患者に手を出す奴がどこにいる」
私は、人を救う術を持っていた。
最も、正規の医者ではない。若い頃の驕りが祟ってか、今や立派なお尋ね者である。おまけに顔を何度も変えたとくれば、ブラックジャック氏を笑えまい。
殺生院キアラ君は、若い頃に見た患者の一人だった。
「キアラ君、前から言っているがね。君はもう、すこぶる健康だ。健康過ぎて羨ましいぐらいだ。さて、この定期検診という名の蛇足も、もう何度目かね? というか、毎度毎度どうやって私を見つけて……まあそれは別にいい。君はまだまだ若いんだ。そろそろ若者らしく恋の一つでも」
「ああ、センセイっ。私、実は大変な病にかかってしまったのでございます」
顔を手で覆うキアラ君。
その様子に、心の臓が思わず飛び上がった。
「何っ、それを早く言いたまえ。症状は? どこかに痛みは感じるかね」
「ええ、実は胸の所がドキドキと動悸が。それと顔も熱を帯びて赤みが。症状が出る時は……センセイの事を考えている時です。ああ、特に、……こうして顔を見合わせると症状が悪化してしまいますわ」
「……成る程……」
尻がずり下がっていく。すわ一大事かと思ったが、この様子だと命に別状はないらしい。
キアラ君――殺生院キアラとの出会いは十年前に遡る。半ば軟禁状態にあった彼女を無理矢理救い出した事に後悔はないが、もっと他にも方法はあったのではと述懐する。私が最も愚かだった時代だ。
問題はここからである。彼女の病は既に完治しており、予後も問題はない。始まりこそ不運であったものの、彼女はきっと幸せな人生を送る事だろう。友人と語り合い、良き人に恵まれ――だのに、
「なんでこんなおっさんに絡んじゃうかなぁ……」
「なにかおっしゃいましたか、センセイ?」
「いや、何も。若い子の考えはよく分からんという話だ」
「まだまだセンセイもお若いのでは?」
「おっさんを煽てるのはやめてくれ……」
キアラ君の言葉はいちいち艶やかだ。声の調子、声色――それは天性の才能でもある。
時代が彼女を求めれば、殺生院キアラはすぐさま歴史にその名を刻むだろう。英雄、などと持て囃されていたかもしれない。
しかし、彼女には平和な時を過ごしてほしいというのが私の願いだ。なんやかんや彼女を追い返さないのは、その歩みを見守りたいという気持ちからでもある。
「しかし、不思議なものだよ。私は常に追われているから、心休まる場所というものがない。根無し草で、おまけに厄介者だ。だというのに、キアラ君と来たらいつの間にか私を探してみせる。こちらから顔を見せに行こうと思った時には特にね」
「毎度毎度の事でございますが……センセイを探し出すのには大変苦労いたします。何せ、いつの間にか伽藍堂になっているのですから。国内は勿論、時には海外にいらっしゃる事もありますし」
「それはそうだが……ふむ、一体どうやってこの場所を探し当てたのかな。その手段には非常に興味がある」
「ふふふ……魔法、とでも言いましょうか。女には、いくつも秘密があるものでございます」
「魔法、ね」
そんなものがあっては、医者は食いっぱぐれだ。
「魔法といえば、センセイも……一体どのようにしてこの場を?」
キアラ君が不思議がるようにして首を傾げる。その疑問は当然のものだった。
金があるからといって、そう易々とビルを間借り出来るものではない。繁雑な契約、時間、etc……、とにもかくにも、根無し草が出来る事ではない。
いくらこの島国が崩壊間近とはいえ、普通の方法ではまず借りる事は出来ないだろう。そう、普通の方法では。
「何、私も魔法を使ったまで。蛇の道には蛇をという奴さ」
「あら、それでは私たちは、似たもの同士、という事で。ふふふ、こんなに嬉しい事があるものなのですね」
「うーむ、そういう話をしたい訳ではなかったのだが……」
キアラ君がからかうような笑みを浮かべる。
おっさんとて枯れた訳ではなかったから、こういう話は妙にこそばゆい。
「あー、そういえば……キアラ君は知っているかね? 稀代の天才医師、トワイス・ピースマン氏が亡くなったらしい。交通事故、との事だった。テロは勿論だが、車にも気をつけなければね。キアラ君も、私のところに怪我が理由で来るような事だけはしてくれるなよ。ただでさえ情勢は逼迫しているんだからね」
話を変えるきっかけとしては、三文芝居も良いところだ。しかし、トワイス氏の落命はそれほど衝撃的なニュースだった。
トワイス・ピースマン。医の道に携わる者であれば、知らぬ者はいない。彼の死はそれこそ人類にとって大いなる損失と言えた。
「まあ、それはお労しい……。トワイス先生といえば、私のような一般人でもその名を伺っております。稀代の名医とて、時にあっけなくその命を散らす……ああ、なんと人の世の儚き事。明日は我が身、という事も十分ございましょう」
「えらく悲嘆的な事を言うな……」
「申し訳ございません。これもまた生来の癖というものです。何せ、センセイが救い出してくれなければ、私は永遠にあの暗がりに閉じ込められていたのですから」
菩薩の如き、慈愛に満ちた笑みだ。神の作りたもうた究極の美だ。
幼少期のキアラ君とは、全く異なる表情だ。
昔の彼女は病気がちで床に伏せており、外に出る事すら叶わない状況だった。成る程、世界に絶望した人間の顔は往々にして似通っているらしい。
暗がりの中、戯れに供えられた絵本を片手に。闇を侍る彼女の瞳は、しかして死神をも魅了するほど可憐であった。
「…………もう、何年も前になるか」
「正確には、十二年と三ヶ月飛んで十日でございます」
「そんなに経つのか。はは、道理で私も年をとる訳だ」
「ふふふ。センセイ、もっと正確を求めるなら――」
「?」
「いえ、なんでもございません。それにしても、本当に長い時が経ちました」
「ああ、そうだね。だが、目を閉じれば思い浮かぶくらいだ。昨日の事のようにも思える」
懐かしむように呟く。
今やすっかり昔の情熱は失われてしまった。若い頃の俺は、今の私をどう思うであろうか。どう、笑うであろうか。
それよりも――キアラ君自身は、私の事をどう思っているのだろうか。
今の私は――水死体だ。とっくの昔に溺れ死んだというのに、その事に気づかぬ振りをして前を向いている。かつての理想を忘れていないつもりでいる。
「お気にさわらなければ伺っても宜しいでしょうか?」
「勿論、構わないよ」
「センセイは何故、医者を志すになったのでしょう?」
キアラ君の問いに、私は即答する事が出来なかった。若さへの嫉妬か反省か。夢を語るには、私は年をとりすぎた。
しかし、自然と口は渇いていなかった。それはキアラ君がいたからである。かつての自分が、全て誤っていた訳ではない。その証が目の前にいたからこそ、私は久方ぶりに、理想を口にする事が出来た。
「正義の味方になりたかったのさ」