殺生院キアラは幸せな一生を送り、笑みを浮かべながら死にました。 作:赤目のカワズ
生き残った男の子。
早くに両親を亡くしたからか。或いは、大災害に巻き込まれた影響からか。
エミヤシロウという男は、何かに焦っているように見えた。周囲の死が、彼の心に何らかの影響を与えたことは間違いない。
もっとも、初めて会った時にはもう随分と人間性を回復させていた。恐らくこれは衛宮翁の影響が大きいだろう。
翁といっても、年を重ねた老人だった訳ではない。白髪でなければ、禿頭でもなかった。ただ、人生の重みを感じさせるような老け方をしていたのは確かだ。エミヤシロウにならってじいさんと呼んでいたのは、寿命を磨り減らした出で立ちに恐れを覚えたからであった。
ともかく、衛宮翁の存在はエミヤシロウにとって大きな役割を持っていた。血の繋がりがあった訳ではないようだが、それでも二人は家族だった。
しかし、親代わりだった衛宮翁もまた、中学生になる頃にはあっさりと早逝してしまった。
俺にとっても、身近な人の死とはこれが初めてである。しかし、大きな衝撃を受けた俺とは違い、エミヤシロウは平静を保っているように思えた。
初めは、彼を取り囲む境遇ゆえと考えた。
エミヤシロウの人生は幼くして、死に彩られている。しかし、赤い目を擦る俺に対して、エミヤシロウは小さく笑みを浮かべた。
「じいさんとは、ちょっとした約束があるからな」
彼はその約束を、理想の生き方、あるいは夢と称した。
新聞は大見出しで、先日起こった大規模テロについて報道している。
いわゆる西欧財閥への反抗テロといった所か。死傷者数もかなりの数にのぼっているようだ。
「酷い世の中だ……」
飲み込んだコーヒーの味は苦い。
空の様子をうかがえばどんよりとした曇天で、今にでも雨が降ってきそうだ。
カフェテラスは閑散としていて、男一人というのは何ともさもしい。
だが、閑古鳥が鳴いているのは天気のせいでも、この店の味が悪い訳でもない。
この島国を取り巻く情勢の悪化が原因であった。恐らく、十数年後には国そのものが消失しているに違いない。それほどまでに日本は追い詰められており、西欧財閥は圧倒的だった。
暗い趨勢に釣られてか、俺も気分が悪い。ありきたりに言えば――そう、苛苛している。無性に腹が立つ。
カウンターの方を振り返れば、年老いたマスターが暇そうにしながら立っている。ここのマスターとも古い付き合いだが、次に来る頃にはも抜けの殻になっているに違いない。確信に近い予感があった。
「お尋ね者同士が話をするには、いささか開放的過ぎる気がするがね」
「いいじゃないか。俺はここのコーヒーの味が気に入ってるんだからな」
ふらりと現れた男は、空いていた席に腰を落ち着かせる。
同い年とは思えないほどに、若々しい男だった。日本人離れした褐色の肌に白髪と、奇妙なテクスチャで上書きされているにも関わらず、浮かべる笑みは昔のままだ。
エミヤシロウは昔のまま、理想に向かって走り続けているのだろう。
「久しぶりだなシロウ。変わらないようで何よりだよ」
「君もな。だが……ここは随分と変わってしまったらしい。やれやれ、まさか母国を失う事になるとはね」
「まだ終わっちゃいないさ。時間の問題ってのは確かだが」
おっさん二人には何ともお似合いの話題だ。夢もなければ希望もない。
近頃のエミヤは中東に身を寄せているようであった。西欧財閥の影響を考えれば、自然な流れだ。
「彼は元気か?」
「ああ、元気なものさ。今は別件で動いてもらっているから、ここにはいないがね」
話題に上がった『彼』とも、もう随分と長い付き合いだ。
エミヤシロウのマネジメントを一手に担うその手腕は中々のもので、エミヤの道のりはその助力無くしては立ち行かない。
実質、『彼』こそがエミヤシロウ最大の理解者と言っていい。エミヤシロウの理想は孤高ではあるが、孤独ではないのだ。
かつて、その道のりはエミヤ一人だけのものだった。しかし、彼の理想への道のりは、今や人々との繋がりで舗装されている。
その轍は後に続く者の希望となるに違いない。私は、今もそう信じて疑わないようにしている。
「しかしエミヤ。お互い年を取ったと思わないか。お前もまだまだ若作りだが、実際は四十を超えたおっさんだろう? どうだ、ここらへんで若い者に後を託すってのは。奥さん……いや、籍は入れてなかったか。ともかく、お前がそれじゃあの人もおちおち寝てられんだろう」
私の冗談めいた発言は、しかしその実、悲鳴を上げる縄梯子であった。
どうか、私の言葉にうんと頷いてくれ。さもなくば、この縄梯子はぷつんと切れて、私を奈落へと叩き落す。
しかし、エミヤは笑みを浮かべるばかりだ。ああ、風貌が変わってしまっても、時折見せるこの表情は、あの頃のままだ。
瞬間、時が遡る。赤毛の少年が夢を語り始めるのを、俺は憧れと共に見つめている。その時、俺は、俺は――
俺は。
「……いや、忘れてくれ。お前は年を理由に、前に進むのをやめる人間じゃない」
「悪いが、まだまだ私は現役のつもりだ。君にも迷惑をかける事になるがね」
「迷惑なんざ、今更だよ。全く、お前についていく度こっちは命がけだ。正義の味方は勿論だが、俺の味方も兼任してほしいくらいだよ」
「これでも君を全力で守っているつもりさ。何、次こそは無傷で生還させると約束しよう」
「どうだか……ま、ほどほどに期待しておくよ」
その歩く道は、常人が選べるものではない。上っ面だけで語る事が出来たのは、それこそ子供の時だけだ。その道のりは血飛沫に塗れ、死に彩られている。
本当なら――数年も経たない内に、エミヤの道は絶たれていた筈なのだ。
だが、何かが――何かが上手く組み合って、ここまで来てしまった。
今やエミヤの名は世界中に響き渡っている。戦が人殺しを英雄に昇華させるというのは、真の話らしい。
「久しぶりの日本だが、じいさんへの挨拶は済ませたのか?」
「いや――これでも多忙の身でね」
「親不孝もんめが。まあ、俺も人の事言えるわけじゃないがよ……っと、すいません、おかわ、りを……」
マスターの方を振り返ると、その視線を遮るようにしてウェイトレスが立っていた。
確か、ここはマスターが一人で切り盛りしている筈だった。それに、まるで立ち聞きをしていたかのようだ。
その錯覚に気味の悪さを覚えつつも、顔の方に視線を向ける。
「――――かしこまりましたわ、センセイ♪」
そこには、キアラ君がいた。
長い髪を一束に纏めて、短いスカートが売りであろう制服を見事に着こなしている。
まるでウェイトレスをやるために生まれてきたかのような造形美だ。いや、違う。待て待て俺。
「き、き、キアラ君? い、一体どうしてここに!?」
「まあ、センセイったら。私とあなた様はもはや一心同体以心伝心ツーと言えばカーでございます」
「それとこれとは話がちが、いやいやそういう事ではなく!!」
私の混乱はその時頂点に達した。
何故、ここに。
何かもっともらしい、理論づけて説明を求めたくなるも、言葉が出てこない。
「ふふふ……どうしてか、気になりますか?」
「っ……」
「私の事が、気になっているのでしょう」
その時私は、彼女に深淵を垣間見た。錯覚に違いない。だが、確かに得体の知れない何かを、感じ取った気がしたのだ。
私が何も言い出せないでいると、キアラ君はぱっと花の咲いたかのような笑みを浮かべた。
「……ふ、ふふふ、センセイったら、おかしな人」
「ど、どういう意味かね」
「あは、あはははっ。そんなに警戒なさらないでくださいませ。単なる偶然なのですから」
「ぐ、偶然? それにしてはあまりにも……」
「いえ、本当に―――単なる偶然でございます。私はここのマスターと知己の関係にあり、ご多忙の時に限って、ちょっとしたお手伝いをさせていただいているのです」
「そ、そうなのか……」
閑散としたカフェテラスに、聖女を思わせる笑い声が木霊する。その笑みは閑古鳥さえ魅了すると言っていい。
だが、おかしな話だ。もっと深く考えるべきなのだ。単なる偶然で終わらせるには、キアラ君の出現はあまりに唐突で奇妙だ。
しかし、彼女の天女を思わせる微笑を前にして、何も言い出せなくなってしまう。
……今思えば、とっくの昔に俺のココロは囚われていたのだ。
女神の如き彼女に。
殺生院キアラに。
何も言い出せなくなった俺を良いことに、それまで蚊帳の外に放逐されていたエミヤが、皮肉げに顔を緩ませる。
「ふっ……君もスミにおけないな」
「お……おいおいおい。ははは、茶化してくれるなよ。彼女はただの患者だ。随分昔だが、お前にも相談した事があっただろう。ほら、とある山奥の……」
「何? ……ああ、じゃあ、彼女が例の……」
エミヤにはかつて、キアラ君を救い出すにあたっていくつかの相談をした事があった。
それこそキアラ君が成人する前の話だ。霞に映りこんだ影のような話に、初めこそエミヤは首を傾げたが、やがて得心したように目を瞬かせる。
「お初にお見えかかります。私、殺生院キアラと申します。……といっても、エミヤ様のお話は何度かセンセイから伺っておりますが」
「これはどうもご丁寧に。エミヤシロウだ」
「ふふふ……エミヤ様には、色々とお話を聞かせて頂きたい所でございます。センセイはつれないお方ですから、何もご自身の事を話してくださらないんですもの」
「ほう……やはり、スミにおけないな、君も」
「勘弁してくれ……」
誰の影響を受けたのか、エミヤの皮肉屋ぶりは収まるところをしらない。
今度は俺が、蚊帳の外に捨て置かれる番だった。
ここぞとばかりにある事ない事を根堀葉堀聞き出そうとするキアラ君とエミヤによる夢のタッグマッチである。二千万パワーズを前にして俺は目の前が真っ暗になる気分だった。
「センセイったら、ご趣味さえ一向に話してくれませんから、私悲しくて悲しくて……」
「彼は昔から登山が好きでね」
「まあ、登山でございますか。他には?」
「ああ、そういえば……」
「おいおいエミヤ、お前そんなキャラだったか!?」
堪らず声を張り上げた私だが、エミヤ&キアラという世紀のタッグの前とあっては、何も意味をなさない。
さながら張子の虎もいいところで、とうとう私はなすがまま弄ばれるに至る。
ようやく嵐が過ぎ去ったのは、満足げな笑みを携えたキアラ君が、注文をとってキッチンに戻っての事だった。どっと疲れが出て、椅子に預けていた尻がずるずると下がる。
「まったく、酷い目に遭った……」
「良い子じゃないか。そう邪険にする必要もあるまいに」
「年を考えろ年を。といっても、お前にそれは無理な相談だったか」
「ふっ……まだまだ若い者には負けんさ」
どういう意味で若い者には負けないのか。そこを詮索するほど俺も野暮ではない。お熱い事は結構だが、周りとしてみれば勘弁してもらいたいものだ。
その視線がキアラ君の後姿に向けられているような気がして、思わず私は体を起こす。決して嫉妬ではない。
「おいおいおい……ほんとに年を考えろよな。というか俺の元患者だぞ」
「いや、特に他意はない。ただ、彼女のように若い子がこれから生きていくには、この国は脆いと思ってね」
「ああ、そっちか……」
エミヤの言葉に我に返る。しばらくこの地を離れていたとはいえ――いや、だからこそか。外から見たからこそ、エミヤはこの国の行く末を探り当てていた。
正に恐慌一歩手前だ。穏やかに見える風景も、一度何かのタイミングで弾ければ、元には戻らない。
或いは、国民が危機意識に麻痺しているのかもしれない。まるでモルヒネを打たれた患者だ。末期にも関わらず、その心身はどこか落ち着きを取り戻している。
いくらエミヤとて、国一つを救うなど出来やしない。
そんな事が出来るのは――ああ。童話の王子様ぐらいのものだろう。
「お前の言うとおりだ。後何十年後……いや、何年後の話かもしれない。ともかく、もうこの国は終わりだ。予後をどうにかこうにか繕ってみせたが、崩壊を止める事は出来ない。西欧財閥様様という奴だよ、全く」
「君はこれからどうするつもりだ?」
「さて、お前に同行して正義の味方をやるのもいいが……まだ考え中だよ。答えは早い方がいいが」
「そうか。私としても、君が同行してくれるなら助かる。ただ……」
珍しく言葉を濁すエミヤ。昔ならいざ知らず、最近の彼はとんとこうした表情を見せない。
どうしたものかと続きを促すと、とんでもない事を言い出すではないか。
「彼女はどうする?」
「彼女? 誰の事だ」
「何をいまさら。先ほど自己紹介してくれたばかりだろう。殺生院キアラ君の事だよ」
昔とは似ても似つかない鷹の目が、真っ直ぐにこちらを射抜く。
まるで詰問するかのような眼差しに、俺は思わず閉口した。全く、何故かは知らないが話が妙な方向に向かっている気がする。
エミヤの鋭い双眸に煽られてか、心臓までもが声高な主張を繰り返し始めた。
「おいおいおいおい、止してくれ。彼女は本当にただの元患者だ。来るなら拒まないが、積極的に連れていこうなんて考えてもないさ。それに、彼女ならどこにいったって幸せに暮らせるさ、こんな暗い御時世だろうとね。こんな老い先短いおっさんに付き合わせるなんて罰があたる」
「君がそういうならあえて否定はしないが……当のご本人は納得していないように見えるがね」
「は?」
エミヤの思わせぶりな視線の先を追うと、そこにはキアラ君が立っていた。
手にはコーヒーを載せたソーサラー。タイミングの悪い事に、彼女はとっくの昔にこちらに戻ってきていたらしい。
「おかわり、お持ちいたしました。センセイ」
「あ、ああ……ありがとう」
「いいえ」
「……ちなみに、何時から私たちのかい、わ、を……」
私はこの時不思議と、毒蛇に睨まれる蛙の気分を味わった。
飲み込んだコーヒーの味は、熱く、苦い。きゅっと喉元を締め付けられるかのような苦さに、私は堪らず声を上げた。
「は、ははは、随分と苦いな」
「ふふふ。そちら、実は私が淹れたものでございます」
彼女の声が、頭上から降ってくる。
「そ、そうなのか。確かにマスターが淹れたのとは違う気がするな。あー、深みがある気がして……うん、旨い! 旨いぞ!」
「センセイのために――――隠し味を入れましたから。そちらのお陰かもしれませんわ」
「そ、そうなのか!」
「ええ」
「あー、美味しいな! 本当に美味しい! そうそう、君も知っての通り、ここのケーキは絶品でね! これまたコーヒーよく合うんだ!」
「まあ、そうとはつゆも知らず……では、スイーツの方もお持ち致しましょうか?」
「ああ、頼むよ!」
「では、暫くお待ちくださいませ」
再度、彼女の背中を見送る俺とエミヤ。
冷や汗が止まらない俺を尻目に、エミヤは我関せずと言った表情だ。
「よくもまあ、そんなツラ出来るな……妙な話の流れになったのは、大部分お前のせいだぞ」
「ふっ……そう口にする割には、随分機嫌が良さそうじゃないか」
「何?」
エミヤの言葉に、首を傾げる。
その意味を図りかねていると、エミヤは意外な事実を告げてみせた。
「自覚がないのか。後で鏡でも見てきたらどうだ? 先ほどまで、いや、顔を合わせてからずっとか。どこか苛立ちを隠せない顔をしていたが――――彼女と言葉を交わしてからというものの、上機嫌で気味が悪いくらいだ」
その言葉を受けて、ふと自分の口を触ってみる。
俺は――――笑っていた。
エミヤと別れた後、俺はカフェに居座り続けた。
本来であれば俺もまた、別の用事に足を運ぶ予定だった。エミヤと共に。そもそもエミヤがわざわざこんな島国に来たのは、その用事のためだ。
俺は何杯目かになるコーヒーに舌鼓を打ちながら、日が暮れるのを待っている。
ビルの群れが太陽を吸い込み、輝かしい陽の光が御隠れになるまで、どれだけ待っただろうか。結局、閑古鳥はカフェを憩いの場として選んだ。
寒気が身を突き刺し、暗い夜空が天を満たす。星一つない真っ黒な天井は、俺の未来を悲観しているかのようだった。
「…………寒い」
闇夜を前に、誰かが返事を返してくれる訳もない。
思わず店内に目を向けるも、彼女が姿を現す気配はない。
「…………」
彼女が姿を現したのは、日が暮れてからだいぶ時間が経っての事だ。
「……? あら、センセイ。どうなさいましたか」
きょとんとしたキアラ君の顔に、何も思わない訳ではない。
しかし、感情を律する事が出来るからこそ大人なのだ。私は努めて冷静さを保とうとする。
今思えば、何と滑稽な……何と滑稽な事をしていたのだろう。そもそも冷静さなんて持ち合わせてなどいない。半ばきつい口調になっていたのが、自分でも分かった。
「どうなさいましたかとは酷い言い草じゃないか、キアラ君」
「…………?」
首を傾げるキアラ君。
畳み掛けるように私の言葉が続く。
「まさかこんな夜遅くまでバイトをするだなんて……夜は危険だと言っていただろうに」
「まあ……もしや、私を待っていたのですか? 一言声をかけてくださればよかったのに」
「ん、あ、ああ。いや……仕事中の君に声を掛けるのも、どうかと思ってね」
「ふふ……お客様なんて、エミヤ様を除けば、センセイ以外一人もおりませんのに? 暇が明いた私をただ見ているだけだなんて……ああ、でも何度かセンセイと目が合いましたわ。ふふ、私も先生を見つめていましたから、これでお相子……ふふふ」
「あ、ああ、そう、だな……」
エミヤの言葉が脳を行き交う。
笑っている。確かに笑っていた。いや、それは正しい感情の筈だ。元患者の元気な姿を見て、喜ばない医者はいない。
だから………………エミヤと別れてまでここにいるのは、正しい選択の筈だ。
「それにしても、宜しかったのですか? エミヤ様と、何か大事な用事があったとお見受けいたしますが」
「あ、ああ……だが、キアラ君、君がいるんだ……。君は何かと危なっかしい。目の届く範囲にいる限りは、見守っていたいというのは、医者として当然の事ではないかね?」
さも正論ぶった言い回しだ。ここぞとばかりに医者然とする事で、私は平静を保とうとする。
しかし、欺瞞の積み重ねはあっけなく崩される事になった。他でもない、キアラ君自身の手によって。
「ふふふ。センセイのお心遣い、大変嬉しく思っております――――ですが、センセイ」
「どうか、したかい」
彼女の笑みは正に天女のそれだ。
しかし、彼女の唇が紡ぐ言葉は――俺の存在を否定していた。
「私は一言も…………待っていてくれとは、申し上げておりませんが?」
その言葉に、私は愕然とするしかなかった。
さて、俺は、なんと言ってエミヤと別れた? 親友は、旧友は重要な任を帯びてこの島国に来ていた。勿論、俺も助力ながら手を貸す筈手取りだった。
それを、どのようにして断った? 何故断った? 何のために断った?
全く、思い出せない。
いや、きっと、全く気にしていなかったのだ。誰しも大事の前の小事など、気に留めなどしまい。
いや、おかしくないか? キアラ君は確かに大切だが、大切であるが、だからといって優先させる順位としては……駄目だ、思考の空白が、思考の空白がある。どうしてキアラ君を優先したのか、頭がぼーっとして思い出せない。
思考の空白が、俺を殺していく。
頭がおかしくなりそうだった。
「…………そう、だな。君は、一言も待ってくれだなんて…………。す、すまない……私は……どうか、していたようだ」
「ふふふ、謝る必要はありませんわ、センセイ。だって、センセイのお心遣いを、確かに感じておりますもの」
「そ、そうか……だ、だが、危険なのは確かだ。家まで送らせてくれ」
「あら、私の家をご存知で?」
「何を言っているんだ。君が教えてくれたんじゃないか」
キアラ君を家まで送り届けた私は、急ぎエミヤを追った。今ならまだ間に合う筈だ。
踵を返して一路エミヤの元へ駆け出した私は――それでもふと気になって、振り返る。
キアラ君が、こちらを見つめている。