殺生院キアラは幸せな一生を送り、笑みを浮かべながら死にました。 作:赤目のカワズ
最近、妙にキアラ君と顔を鉢合わせる機会が多い。
「センセイっ」
「セーンセ」
「セーンーセー」
美女と野獣――アンバランスな風景を見た時、人は何かと詮索したがるものだ。ただでさえ目立ちたくないというのに、キアラ君の存在は嫌が応にも人の注目を集めてしまう。
とうとう痺れを切らした私が、彼女を叱りつけた事がある。しかし、彼女はのらりくらりと私の追及をかわすのだ。
「キアラ君、いい加減こんな男に会うのは止めたほうがいい」
「まあ、センセイったら酷い事をおっしゃる。ですが、私……あなた様に好きな時に、好きなように会いたいから、このようにしているのです。昔、病気を治してくださった時、好きなように生きろとおっしゃったのは、センセイでしょう?」
「それは、そうだが」
「ふふふ。でしたら、私の自由にさせてくださいませ。ねえ、センセイ……?」
瞳だ。
彼女の瞳に見つめられると、途端に私は何も言い出せなくなる。まるで杭で縫い付けられるかの如く、体から意思を奪い去られる。それまで高ぶった熱が急激に冷め、それでいて心の臓だけが声高に自分の存在を主張し続ける。
彼女の瞳が私は嫌いだった。
俺は、好きだった。
彼女はまるで、音もなく忍び寄る蛇のようだ。彼女の陶磁器のように美しい指が、いつの間にか私の腿に添えられている。
それを知覚した瞬間、私の腿は気が狂ったかのように熱を帯びた。その熱は一箇所に留まる事を好まず、段々と私の肉を犯し始める。足が、指が、心の臓が、脳味噌が。理性が競り勝ったのは僥倖としか言いようがない。
「っ……! や、やめたまえ。全く……」
「あら、つれないお方……」
払いのけるようにして意固地な態度を取った私に、キアラ君もそれ以上は詰め寄らなかった。
今思えばこれも、私の理性が勝利した訳ではなかった。全ては彼女の手のひらの上でしかなかった。
だが、見れば見るほど、その美しさにココロを奪われる。豊熟とした山容は、何故ここまで瑞々しい水脈との両立を保つのか? 豊満な女性美は、彼女の若々しさでは本来手に入る筈のないものだ。彼女は熟れた果実でありながら、少女のように不完全である。それが、ただただ美しかった。
「センセイ――よもや、私の事を、あの頃のままだとお思いになられているのでしょうか」
俺はずっとそう思っていたかった。だが、どうやら事実は違うらしい。
――頭がぼやける。思考の空白を縫うようにして、キアラ君は着々と俺の生活を蝕みつつあった。
しかし、決して手を出す事だけはしなかった。彼女は微笑み、佇み、そこにいるだけだ。
「ねえ、センセイ。エミヤ様とは、どういったご関係なのでしょう?」
エミヤと顔を会わせて以来、彼女は何かとエミヤとの関係を知りたがった。
「別に特別な何かがあるわけじゃないさ。子供の頃からの仲――腐れ縁とでも言っておこうか」
瞼を閉じれば、あの頃の記憶がよみがえる。無垢なままでいられた貴重なひと時だ。
あの頃の俺は、単純に夢を追えた。現実というテクスチャを知らないそれは、情熱を注ぎ込むには十分すぎる熱量を誇っていた。
エミヤシロウと衛宮翁――二人が紡ぐ夢物語に、俺も加わってみたい。ただそれだけを一心に、走り抜ける事が出来た。
淡い青春の日々を思い起こし余韻に浸っていた私は――キアラ君が目の前にいる事を一瞬忘れてしまっていた。
「…………ん。ああ、すまないキアラ君。えっと、何だったか」
「エミヤ様との事でございます、センセイ。ふふふ……それにしても、とても良い思い出だったご様子。先ほどのセンセイと来たら、私にも見せた事のない笑みを浮かべるのですから」
「そんな顔をしていたのかね、私は……」
懐かしい風景が胸の内を過ぎ去る。しかし、それは同時に俺自身を苛んだ。
俺にとって、エミヤシロウとの友情は、忘れ去りたい過去でもあったからだ。ああ、そうだ。俺は、正義の味方にはなれなかった。自分を省みず、ただただ他の人々のために尽くす――そんな存在になど、普通の人間がなれる訳ない。
そして――エミヤもまた、かつて望んだ夢をそのまま叶えた訳ではない。
食うに困り、家族のために窃盗を行うしかなかった集団を一方的に殺す事が正義か?
ウイルスに集団感染した飛行機の乗客達――それでも生にしがみついた人々を、その希望ごと撃ち落したのが正義か?
いや、違う。違う筈だ。
少なくとも。
あの時、あの頃、一緒に追いかけた夢のカタチは――断じてそういうものではなかった筈だ!
末恐ろしいのは――エミヤにそういう認識が薄い事だ。先日の再会は、それを確認するためのものでもあった。
そして、確信する。
かつての夢のカタチは、歪んでしまっている。そして、長い長い――本来なら数年で途絶えていたであろう――エミヤの道のりによって、その歪みはとてつもなく大きくなってしまっている。
誰かが止めなくてはならない。
その役割は俺にあるように思えた。かつて、共に夢を追った同志として。理想に溺れた水死体とて、何か出来る事がある筈だ。
それに、もしかしたら――二人で一緒に、また夢の続きを追う事が出来るかもしれない。
もう一度、正義の味方を目指して。
「センセイ?」
キアラ君の呼びかけに、俺はたびたび答えなかった。新たにした決意が、外界への注意を疎かにしての事だろう。
それを知ってかしらずか、キアラ君は大胆な行動に出る。彼女は突如として立ち上がったかと思うと、そのまま私の方に倒れこんできた。
しなだれかかる豊満な美肉。腕にぎゅっと押し付けられた乳房によって、心臓が飛び出るほどの衝撃が襲ってきた。
「き、きききき、キアラ君!?」
「ああ、やっとこちらに目を向けてくださいましたね。もう、本当にセンセイはいけずなんですから」
「わ、分かった分かった! 分かったから離れて……」
動揺をあらわにする私は、キアラ君の寂しげな表情に気がつくのに、しばらく時間を要した。
慌てて引き離そうとするのを止め、そのままの姿勢で呼びかける。
「……キアラ君。一体どうしたというんだ」
「……センセイは、本当に温かいお方です。こうして体と体で触れ合っていると、それを直に知る事が出来ますわ」
「こんなに密着すれば、どんな人間であろうと温かく感じるものだと思うが……?」
「ふふふ。本当に――――つれないお方。貴方様でなければ、私は何も感じませんのに」
キアラ君の寂しげな表情を――――私は、甘えと評した。
彼女は複雑な家庭環境だ。宗教と結びついた生家とは絶縁に近く、親元と呼べるものは無きに等しい。
その状況を作り出した一因は俺にもあった訳だから、出来る限りの金銭的援助やメンタルケアはしてきたつもりだ。しかし――それが彼女にとっての足枷になってしまっているのかもしれない。
彼女は、もっと羽ばたける筈なのだ。鳥のように。蝶のように。
「キアラ君……私は、よかれと思って君の甘えを許容してきた。だが……そろそろ、君は、君の人生を歩むべきなんじゃないか? さっきも言ったが、こんな所に、何時までも留まっているべきじゃない」
それは、激励のつもりだった。
「君はきっと、偉大な人物になれる。それこそ、物語や御伽噺の中の、英雄のような存在に。もし君がしたい事があるなら、いくらでも援助はするつもりだ」
それは、激励のつもりだった。
彼女は天より舞い降りた女神だ。それでいて、あらゆる者を慈しむ事が出来る天女でもあろう。その才は、こんな所で浪費されていい筈がない。
「それに、私にもやる事が出来てね。暫く君とは……」
それは、激励のつもりだった。
「……キアラ君?」
彼女は、どんな表情をしていたのだろうか。
胸元に顔を埋める彼女は、どんな気持ちで、俺の言葉を聴いていたのか。
しかし、この時のキアラ君は、あくまで私に従順であるように装ってみせた。
彼女はそれまで抱きついたいたのを止めると、姿勢を正す。そこに浮かんでいるのは聖母のような微笑だ。
「――分かりましたわ、センセイ。そこまでセンセイがおっしゃるのでしたら。そこまで、私の事を拒絶なされるのなら」
「きょ、拒絶ではない。キアラ君、私は君の事を励まそうと……」
その時、私は酷い焦燥感に襲われた。
ここで彼女を引き止めなければ――何か、取り返しのつかない事が起きる。そんな、漠然とした予感がして。
しかし、彼女の天女の如き微笑を前に、またもや俺は何も言い出せなくなってしまう。
「いいえ。いいえ。よいのです。センセイ――私も、そろそろ外の世界に目を向けるべき時でしょう。それに丁度、私にもやらなくてはならない事がございます」
「そ、そうか……」
「ええ。それではセンセイ」
診察室を出ようとするキアラ君。
背を向けたその姿が、一度だけこちらを振り返る。
「ですが、センセイ。一つだけ、お伝えしなくてはならない事がありますわ」
「……何かね」
彼女はそれを、後に運命になぞらえた。
「私は、必ず貴方様の下に帰ってまいります。ええ、必ずや」
その後、殺生院キアラなる女は消息を絶つ。
彼女と再会したのは――――エミヤの死刑が執行されて、暫く経っての事だった。