水。まず、最初に意識したのは水だった。膨大な泡と揺らぐ景色。動こうにも動けない、重い水。まるで、夢の中でプールの中にいるようにのろのろとした動きしかできないような、そんな感覚。
まさしく、俺は水の中にいた。プールの中などではありえない、上も下も区別のつかない青と白の重い世界。気がついた時にはごぼりと俺の口から大量の泡が上がるところだった。慌てて口を閉じる。
俺はパニックから力の限りに手足を振り回し、そしてふと、海難事故の要救助者を助けに行くときは後ろからが鉄則だというのはこういうことなのだなと考えた。なるほど、近くにあるものがあれば、それにしがみ付こうとするだろう。今の俺がまさしくそうだった。だが残念な事に、俺の近くには掴めそうな一片の藁もなく、むしろ水面がどこかさえもわからない。
息苦しさは頂点まで達しようとしていた。溺死が一番苦しいと聞く。なるほど、苦しいものだった。このまま溺れ死ぬしかないのかと必死にもがきながら、俺は何かを掴んだ。硬い棒のようなものだった。俺は必死にそれを掴んだ。激しい水流にただ押し流される俺の身体が、瞬間すごい力で引っ張りあげられる。
水しぶきが間欠泉のように吹き上がる。水中から一転、俺の身体は光の中にあった。否、外だ。水面上、地上だ。酸素の充満した、人間の生存可能な空間だ。空は高く、差す光に緑がキラキラと揺れ、鳥ののどかな鳴き声がしたかと思うと次の瞬間一斉に群れが飛び立っていく。
俺は、空中に投げ出されていた。下には、巨大な滝壷。あと竜。強いて言うなら長い胴体に、ふさふさと鬣を生やし、漫画昔話アニメなどで子供がのっかってる、アレによく似ていた。
「え」
竜は俺を見た。巨大な竜だった。眼が4つほどついていて、背中に西洋竜のような巨大な羽根がたくさんついていて、昔話に出てくる龍よりは凶悪なツラをしていた。こいつを見る限り、俺は随分と高く投げ出されたようだった。落ちる俺。下で牙をむく竜。どうやっても、死ぬ以外の選択肢が見つからない。
溺死の恐怖にパニックになっていた脳はもう動いてなくて、判断力などとっくに停止してて、俺が出来ることといったら竜の口の中に落ちる以外何もなくて。
「……」
だから、小さく聞こえた声に気がついたのは奇跡だったかもしれない。悲鳴ですらない小さな嗚咽は、竜の下のほうから聞こえた。水面からそびえ立つ竜の長い胴体、その途中に、巨大な鍵爪に掴まれた影が見えた。人影に見えた。白っぽい服を着た白っぽい女の子に見えた。さらにいうなら、白髪だか銀髪長髪で白っぽい着物を着た美少女に見えた。頭には髪の毛と同色のケモミミがついていた。涙を浮かべたその顔は正直可愛かった。その子は俺に向って、助けて、と言った。ように見えた。
一瞬の目視から得た膨大な情報を俺の脳は一瞬で処理した。これは、現実ではない。妄想とか、夢とか、なんかそんな俺に都合のいいそれだ。そうでなければ俺の好みの二次元美少女(銀髪ケモミミ)がこんなところにいるはずはない。多分彼女は俺の好みに従って貧乳(超大切であり最重要事項)であり、日々それに落胆を覚え、悲しみを堪えてるに違いなかった。尻からはふさふさとした尻尾も生えていることだろう。
そうだ、これは夢だ。
竜が吠えた。ゴジラの咆哮にも似た、大音量の衝撃が空気を叩く。俺は落ちながら、手にした獲物を握り直した。夢なので非常に都合よく、それは武器だった。大太刀だ。鞘から引き抜くと、落ちながらもまっすぐに竜に向ってそれを振り下ろした。それは飛び掛ってきた竜の鼻先を切り裂き、竜は弾かれるように顔をのけぞらせて悲鳴をあげた。
夢だけあって、俺の身体は非常に思い通りに動いた。俺は空中で一回転すると、竜のうねる身体を蹴り、奴の頭に向って再度飛び掛った。のけぞった喉に刃を付きたてる。ズグリと皮を割り開きながら、肉と骨を押し破る嫌な感覚が手に返る。生暖かな血が飛び散った。
アクションゲームを思い出す。巨大な敵と戦うゲームだ。現実であればこんな巨大な生物(ビル何階分だか検討もつかない)が暴れることはないだろうし、人間がそれと対等に戦うこともありえない。だがゲームであればどうだろう。人間がビル何階分までも飛び上がれ、一太刀で相手の身体を切り裂けるとしたら。これはまさにゲームそのものだった。そして、俺はアクションゲームは得意だった。
俺は竜に太刀を突き刺したまま、竜が首を振り、もがきながら暴れまわるのに付き合った。アトラクション並みの大揺れは俺に現実の衝撃を与えない。3Dアトラクションのような現実感のなさがますます俺にこの出来事が夢だと確信を与える。俺は空中で大きく首を振り上げた竜の勢いを利用し、太刀を引き抜いた。また最初のように上空へ跳ね上がった俺は、今度こそ狙いをつけて竜の頭の上へ太刀を突き出した。喉を突き刺した時とは段違いの衝撃が両手に来るが、俺はしっかりと柄を握ったまま、それを奥へと付きたてた。
ヒギャァアアアアアアアアアア!!!
人のような悲鳴を上げながら、竜が激しくヘッドバンキングする。俺はめちゃめちゃに振り回されながら、柄を握りしめ続けた。竜の脳まで付き立てられた太刀はひどく熱くなっていた。手を火傷するのではないかと思うほどに熱かった。
永遠にも思えたロデオは、数分もかからなかっただろう。ガクンと竜が頭を落とし、あ、と思ったときは俺も一緒に落下していった。また盛大に泡が立ち、水中に落ちる。今度はパニックにならずに、冷静に竜の頭から太刀の刃を抜いた。そのまま水面へ上がる前に、さきほどの女の子だ。水中は、竜から吹き上がる血で斑になっていた。竜の身体にそって下のほうへ潜っていくと、ぐったりと力なく揺れる白い着物があった。うむ、ケモミミ。
慎重に後ろから抱きかかえると、俺は彼女を抱えながら一気に水面へと浮上した。その時になって、初めてわあわあと人の声が響いているのに気がついた。ナイアガラの滝のような非常に巨大な滝。とその滝壷。浮かぶ竜の死体の一部。周囲の岸には、数十人の人影。皆、白い着物を着ていた。ズボンらしきものを履いているので、江戸時代というよりは平安時代に近いような格好に見える。よくわからん。
その連中は、俺を見ると、「姫様!」「姫様!!」と口々に叫びながら手を振った。多分このケモミミ少女のことだろう。何人かは滝壷に飛び込もうとしている。俺はゲームキャラばりの速力で岸まで泳いだ。少女を見る時にズームアップされていた視力はまだ機能していて、俺には連中の毛の一本一本まではっきり見えた。ふさふさの白い毛。頭のてっぺんから飛び出した三角形の二つの耳。尻からゆったりと生えているふさふさの長い尻尾。ケモ耳っていうか、動物だった。猫や犬ではない。多分、狐とかイタチとかそういう感じの種族だった。っていうか、そういう種族かよ。まさかこのケモミミ少女も正体が動物ってんじゃないだろうか。ケモミミで止めていただきたい。男は動物頭、女はケモミミ。それぐらいがちょうどいい。っていうか俺の夢なんだからそうであれ。
岸近くまでたどり着くと、連中はわあわあと騒ぎながら俺ごと彼女を岸へひっぱりあげてきて、俺が彼女を下へ横たえると、治療の為かさすったり、背中を叩いて水を吐かせようとした。俺が人工呼吸を申し込む前に、彼女は何度か咳き込み、自力蘇生してしまった。
「嗚呼、姫様、ご無事で……!!」
「楽になさってください、姫様! 今からお運び致しますので!」
ケモミミ少女を甲斐甲斐しく世話する狐男達の姿は、なかなかにメルヘンなものだった。ぼんやりとそのもふもふ光景を見ていると、一人が俺に寄ってきて、着ていた上着を脱ぎ、差し出した。作務衣とか甚平とか、そういう感じの上着のようだった。
「あの、恩人様に大変に差し出がましいのですが、お召し物がないようなので、粗衣ですがよければこちらを」
そう言われて、初めて俺は自分が全裸なのに気がついた。水で濡れネズミだったし、違和感とか感じてなかったとか言い訳をする前に、多分、彼女の前で全裸フルチンでヒャッハー!してた事に思い当たる。おい俺。どういう内容だ俺。夢にその人間の本心が出るっていうけど、これが俺の本心だとでも言うのか俺の無意識。ケモミミ少女の前で全裸アクションゲーム一狩り行っちゃう内容って。
「…………マジか…………」
死にそうになりながら、俺は受け取った白衣を腰に巻きつけた。狐男達は小柄で、どう見ても子供サイズだ。
「ど、どうも……」
「……あのぅ、そちらだけでよろしいので?」
「へ?」
狐男は、俺がぺこぺこ頭を下げると、実に怪訝そうな顔をした。動物の顔がここまで怪訝そうな顔を浮かべるのを、初めて見た。
「その……お胸はよろしいのでしょうか」
「はい?」
俺は自分を見た。平らなはずの俺の胸に、見慣れないものがあった。こんもりと盛り上がり、水で濡れ、柔らかそうに上下し、少し鳥肌を浮かべているそれ。御椀型のあきらかに標準より大きなそれの先端は綺麗なピンク色で、ついでに言うなら黒く長い髪が肩口から胸まで垂れていた。やはり水で濡れている。
「よろしければこちらも」
近くにいた他の男が、やはり上衣を差し出してくる。固まったままの俺は、それを受け取ったがそのまま固まっていた。
「あ、あの……!」
どん、と腹に何かぶつかった。ケモミミ少女だった。白銀の髪で、頭からは三角形のピンと立った獣耳。涙を浮かべた大きな眼は赤く、その瞳孔は猫のように縦長に走っていた。綺麗な顔立ちはリアル系CGで描かれたゲームキャラのようだ。彼女は俺にぎゅう、と抱きつき、「ありがとうございます、私、助けて頂かなかったらあのまま……!」と恐怖に身を強張らせ、そして涙を溜めたまま笑顔を浮かべた。ぎこちない笑顔だったが、綺麗な、笑顔だった。
抱きつかれて、俺は呆然としたまま、もしかしたら、これは、俺にとって都合のいい夢などではないのではないだろうかと、うすうす、思った。俺の望みなどではない証拠が、確実にそこにあった。
彼女の身体は、俺にしっかりと密着していた。彼女はびしょぬれだったので、着物を通しても余計にはっきりとわかった。
彼女は、巨乳だった。貧乳を愛する者には唾棄すべきものでしかない、豊穣さだった。