なんとなく目が覚めて、トイレに行こうかと布団から顔を出す。夜中だろう。静かだった。庭に面した廊下に出ようと部屋の障子を開けると、空が、赤かった。
一瞬、もう朝かと思ったが、それにしちゃおかしかった。暗い空の下だけが、赤い。日が差すような赤ではなく、黒い煙がもうもうと立ち込める、不吉すぎるオレンジがかった赤。里全体が、その赤に染まっていた。赤は揺らいでいた。ゆらゆらと揺らぎながら、燃え立っていた。炎。
まさかと思った。里全体が、炎に包まれていた。
「……なんだよ、おい……!」
俺はとっさに部屋に戻り、枕元においてあった太刀を掴んだ。冷えた金属がずしりと手の中に納まる。寝巻き代わりの浴衣のまま、俺は部屋を飛び出した。廊下には誰も居ない。俺の寝泊りしてる部屋は離れの客間で、母屋の方もその不吉なオレンジがかった赤に染まっていた。パチパチと爆ぜる音がする。黒い煙が、廊下の向こうから流れだしていた。
「おい誰か!! 誰かいないのか!!」
里の方へ消火活動に行ったのか? 叫べども誰も出てこない。狐人なんてあんなもふもふ、火がついたら危ないだろう。もしかしたら皆避難してしまったのかも。俺も起こしたつもりで、案外今頃山の中でイチ様はどこに?とかやってるかもしれない。
俺は片袖を破いて口に当てながら、なるべく身を低くして廊下を進んだ。焼け死ぬよりも、確か煙を吸って死ぬ方が多いんだっけか。
「ニキさん! 佐吉、平賀さん、大路さん!! 誰かいませんか!!」
小間使いや庭師、使用人達の名前を叫びながら廊下を走る。暗い中だったので、何かに躓いて転びそうになった。
何が転がっているのかと振り向いたところで、俺は固まった。人が倒れていた。顔はわからないが、屋敷の誰かだろう。走っていた俺に蹴飛ばされたのに、その人は何も反応しなかった。
「ちょ、ごめん、大丈……」
大丈夫ですか。そう聞く前に、その人が大丈夫じゃないのがはっきりわかった。頭がなかった。いや、あった。頭だけ、真っ黒だった。それは、真っ黒で、厨房のかまどで燃える炭みたいな塊だった。狐人の小柄な身体も、着ていた服も、異常はなかった。ただ、頭だけが真っ黒に炭化していた。焦げ臭い嫌な匂いが、その時初めて鼻についた。首から下の毛皮には焼けた様子もなかった。だらりとはみ出した尻尾も、ふさりとした毛並みそのままに見えた。
「なんだよ……、なんだよこれ……」
火事だ。今起こってるのは火事だ。火が燃えている。里全体も、屋敷の中も、火が回っている。それはわかる。運が悪ければ死人だって出るかもしれない。だが、なんだこれ。頭だけ、焼け焦げたとか、そういう話じゃない。頭だけ、炭化している。何をどうすればそんな事ができるんだ。ましてや、生きてた人に。
薄暗い闇の中で何故か、蹴躓いた右足の先が、黒く汚れているのがわかった。頭をひっかけてしまったのだろう。吐き気がした。違う、考えるのはあとでいい。ニキだ。そして、他の人達。彼女らが無事だったら、そこで何が起きたのか聞く。
俺はこみ上げてきた胃液を飲み込み、また走り出した。母屋も静かだった。炎は外壁を舐め、庭の木々にも燃え移っていた。なのに何故か、屋敷の中は燃えていない。部屋がいくつか開いていた。その中には、倒れ付した人の身体があった。頭が皆、黒くなっていた。一部、手や肩が黒くなっているものもあった。事切れているのは検分しなくてもわかる。
小柄な身体は全部で三体。先ほどの一体と合わせて四。屋敷にいるのはニキと俺を含めて七人。狐人の中にあって人身のニキは頭一つ飛びぬけて背が高い。生き残った二人と一緒に、どこかに逃げたのだろう。
俺は尚も母屋を探し回った。あの死体は人為的としか思えない。たとえば、火炎放射器やバーナーで焼き殺したら、ああいう風になるだろうか? 保護スーツを着て、ガスボンベを背負った特殊工作兵とか。
勝手口に一人、転がっていた。ニキではない。息が上がる。サラシをまいてない胸が走るたびに暴れて痛い。切り落としたい衝動に駆られた。
例えば。水竜が居たのだから火竜もいるんじゃないか。それが里に忍び込み、火炎放射器よろしくピンポイントで火を吐きかけ、狐人を焼いていったとしたら。だが、そんな騒ぎがあるなら、何故俺は目が覚めなかった? 寝起きはいい方だった。物音がすればすぐに目が覚める。朝も早い方だったはずだ。風が強いときは、うるさくてなかなか寝付けなかった。夜中に、トイレの戸が外れて小間使いの女の子が驚いて悲鳴を上げた時も、母屋の悲鳴で離れから駆けつけた事があった。
つまり、皆が寝しずまっている間に、秘密裏に、粛々と、皆殺しにしていった。そうなのか?
厨房。狐人が一人、転がっていた。頭は同じく、真っ黒に燃え落ちていた。屋敷の狐人の、ニキを除く最後の一人だ。焦げ臭い異臭と共に、かすかに夕飯の鍋の匂いがした。数時間前、皆でわいわいと飯を食っていた。
外で火が燃えている。黒い煙が充満している。なのに、一向に屋敷内部で燃え上がる様子がない。戸口から小さくパチパチと火の爆ぜる音は聞こえてくるのに。
あまりに静か過ぎた。燃え上がる村の中からも、何も聞こえない。
苛立ち紛れに玄関に飛び出し、引き戸を開ける。そこにはニキがいた。燃え盛る人影があり、そいつに吊るしあげられていた。彼女の細い首をそいつは燃え盛る腕で掴んでいた。ニキの顔は真っ白で、目には何の光も浮かんでいなかった。口端や目じりから涙や涎などが幾筋も零れ落ちており、鼻から一筋の血が流れていた。銀髪が数本、ちりちりと燃え上がって消える。小花がちりばめられた着物の裾は大きくめくりあがり、白い足と銀の尻尾が見えた。それらは、力なく垂れ下がっていた。
「ニキ……さん……」
俺の言葉に、火がこちらを向く。火の中に黒い人影が見える。それは、屋敷内で転がっていた狐人達のように、黒く炭化しているようだった。炭化しているのに、そいつはなめらかに動いた。ニキの身体を地面に投げ捨て、俺に向って手を伸ばす。
「手前!!」
俺は無意識に引き抜いていた刀身をそいつの腕に叩きつけた。ガァンと金属を打ったような硬い音がして、そいつがよろりとよろめいた。左手に掴んでいた鞘で、そいつの首筋に渾身の力を込めて叩き込む。ジュゥと煙が上がった。鞘に巻かれていた飾り紐が、一瞬で焼けた。熱気が、鼻先を掠める。火は、よろめいた身体を後ろに逸らし、予備動作無しに俺の顔めがけて蹴りを入れる。俺はその足首を柄で打った。柄が一瞬灼熱にかがやいた。手の平に痛みが伝わってくる。熱いと思う前に痛かった。
火の妖だろうか。わからない。何故狐族の里を。わからない。何故。わからない。何故狐人達を。何故、ニキを。吐き気がする。怒りでパワーアップできたら、どんなにいいだろう。だが、隠された力が発現されることもなく、灼熱に焼かれる柄が俺の手を焼くばかりで、火人は倒れない。地面に投げ出されたニキも、動かない。
「女か」
錆びたような低音が、そいつの口から零れる。
「手前は何なんだ!! 何故この里を焼く!!」
返事はない。黒く炭化した人体の中で、目だけがぎょろりと動いた。俺を見る。黒い目。その中に映る女。壱春という名をつけられたのに、誰一人フルネームで呼ばず、皆からイチと呼ばれる、今の俺。乱れた浴衣から白い胸が、足が、手が覗く。太刀を掴む右手は指先から手のひらが真っ赤になっている。鞘を掴む左手はまだ大丈夫だ。火の粉がバラバラと降ってきて、俺の髪を幾本かすくい上げて焼いていった。髪の毛の焦げた匂いがする。
俺は痛む右手で柄を握り直した。手のひらに激痛が走る。やれるか。いや、このままじゃ無理だ。手のひらの痛みがそう答える。金属が奴に到達しても、あの業火にこちらが焼かれる。奴に触られたら、末路は多分屋敷内の皆のように炭と化す。
セオリーどうりに考えれば火属性には水だ。里の外れに貯水池がある。だが、ここで逃げたらニキはどうなる。生死は不明だが、彼女はまず、間違いなく止めをさされるだろう。
火人がゆらりと動く。考える前に、身体が動いた。踏み出すと同時に鞘に剣を収め、横薙ぎに払う。熱波で焼かれた鞘を避けた火人の身体が浮いた。同時に俺の右足に激痛が走る。軸足を捌いて足払いをかけた。案の定皮膚が焼かれる。だが、痛みを訴える足を無視し、俺は体勢を崩した奴の喉に思いっきり太刀を叩き込んだ。嫌な音を立てて金属が人体にめり込む。地面に倒れこんだそいつの喉にもう一度先端を叩き込み、さらに一撃入れようとして俺は飛びのいた。浴衣の裾がばっと燃え上がった。ふとももに痛みが走る。
避けようとした身体が地面に転がる。俺の両足に、赤い線が走っていた。倒れた奴の手のひらから炎が鞭のようにしなり、ぐるりと火人の身体に巻きついて消える。
「くそ……っ」
火の鞭に薙ぎ払われた両腿が、動かなかった。火人は二度咳き込み、それから何もなかったように立ち上がる。俺は、動かない両足を動かそうと、もがいた。ただ焼かれただけ。それだけなのに、まるで足を落とされたように動かない。火人がゆっくりと歩いてくる。構え直そうとした両手が、再度跳ね上がった炎の鞭に打たれ、灼熱の線を焼き付けられた。それで、両手も動かなくなった。
太刀が落ちる。刀を納めていた鞘が転がり、太刀が抜き身のまま転がった。火人は俺の前で鞘を拾った。一瞬、火人がまるで爆発するかのように輝く。奴の手に奪われた鞘は、まるで溶けたチョコレートのようにどろりと白くなって溶け落ちた。
ニキはボロ布のように転がっている。彼女だけでも、助けたかった。
死ぬのか。こんなわけのわからない奴に、世話になった人達を殺されて、自分が何者かも知らないまま、殺されるのか。これが俺のここでの役割なのか。ただ無意味に死ぬ、これが。
火に包まれた黒い手が伸びてくる。俺はそれを睨み付けた。焼け死ぬのはきっと痛いだろう。熱い、を通り越すと痛い。酷く、痛い。掌が、腿が、両腕が、じりじりと未だ焼け続けている。だが、手は俺の前で止まった。
「女……貴様は何だ」
「はぁ?」
「知らぬ型だ。どこの流派だ?」
「手前に関係あるのか。どうせ殺す気だろう」
右肩を掴まれた。自分が、あんな声を出すと思わなかった。悲鳴、ではなかった。絶叫。熱が、右肩を焼いた。捕まれている箇所が、ぼろぼろと崩れていくような気がした。熱い痛い痛いいたいいたい
竜の断末魔のような声を出して、俺の身体は俺の意思に反して叫び、仰け反って苦痛から逃れようとした。あっけなく放されて、自分から頭を土に打ち付け、それで自分がまだ叫び続けていたことに気がついた。息をしたい。うまく息が吸えない。ひゅぅ、と喉が鳴る。
「もう一度聞く。どこの派だ」
「ヒ……ッ、ぅ、あ………ッ……しら、な……ッ」
「知らないだと? 我流か?」
手がまた伸ばされる。情けない事に、言葉が勝手に唇から零れた。嫌だと必死に頭を振り、少しでも逃げようと這いずろうとした。みっともなく芋虫のように、動かない手足を引きずって蠢くだけで、何も出来なかった。
「きお、くが……無……」
「それで狐共に拾われたか」
火の手が伸びて、ボロボロの浴衣が燃え上がらずに、ただ引き千切られた。乳房が晒され、浴衣の残骸が腹まで引き摺り下ろされる。
「印はないようだな」
ビリビリと破かれた布が、ボッと燃え上がった。火人が手を伸ばす。今度こそ焼き殺されると思ったのに、黒い手は俺の顔をまるで人間のように掴んだ。顔が焼かれる事は無かった。
「や、め……っ」
「お前は『使え』そうだ」
何にだよ。
俺は問わず、必死に這いずった。髪の毛を掴まれ、顔を地面に叩きつけられる。溶かされて飛び散った鞘の残骸が土に奇妙な形に流れていた。目の奥に星が飛んだ。顔中がジンジンと痛みを訴え、鼻から鼻血が垂れてくる。身を捩って動こうとする。無駄な努力だと、火人は舐めきった態度で俺を組み敷いた。
俺は動かない体で、胴体ごと転がり、振り返った。火人の顔に、刃が通った。
「……あ?」
ズブリと、刃は火人の右眼球を押しつぶしながら後頭部まで貫通した。俺は咥えた金属片をさらに押し込んだ。鞘だった金属片は融けて奇妙な形に揺らぎながらも、火人の顔を貫通し、突如勢いを増した炎に巻かれてまた灼熱に輝き始めた。俺は少しばかり動くようになった足を跳ね上げ、奴の腹に蹴りを叩き込んだ。熱い。痛い。わかっちゃいたけど痛い。火人の身体が転がる。
「く、くく……ッ、女の裸に、気ィ取られる、から、だ……」
「きさ、貴様ァああああああああ」
顔を抑え、よろめきながら火人は手を伸ばす。その手から、無数の炎が鞭のように撓る。俺は避けなかった。落ちていた抜き身の太刀を足で蹴り上げる。下から真っ直ぐに、太刀は火人の顎から頭頂まで貫いた。ぎょろぎょろと動いていた目が、ぐるりと白眼になった。
次の瞬間、火人の目から、口から、鼻から、耳から、ありとあらゆるところから、炎が噴出した。至近距離の爆発は、避けられなかった。眼前が真っ白になって、俺の意識は、今度こそ刈り取られた。
光に飲まれる前に見たニキは、やはり動くことなく死体のように転がったままだった。