ぼやけた意識の中、最初に感じ取ることができたのは、全身を支配されてしまいそうな、濃密で、神経が麻痺しそうな程の、甘い香り。
少しずつ回復する視界の中、何もない暗闇の中、真っ直ぐ前を向くと、淡く光を放つ、巨大な何かがあった。
鼻先に何か柔らかいモノが当たる。びくりとしながら指を伸ばすと、その掌にのっていたのは、桜の花びらだった。
――しんしんと、しんしんと。
物音一つない暗闇の中、しかし桜の花弁が、まるで粉雪のように舞っている。
恐ろしく幻想的で、夢のような光景だった。あるいはこれは夢――きっと、美しい夢なのかもしれない、果たしてこの思いつきは真実か、それとも錯覚か。
何も見えない足下を、何があるか分からない恐怖に抗いながら、前へと進めると、足首から波紋が広がった。今自分は、水面の中にいる。
チャプ、チャプ――ひんやりと冷たい感触に何度も足を包まれながら、巨大な何かへとゆっくりと近づいていく。
次第に明確になる輪郭。どっしりと太く逞しい木の幹、そこから無限に広がる枝、そして、強烈な香りの源である、満開の桜の花が無数に咲き誇っていた。
どれくらい見上げていただろうか、気付いた頃には、息が苦しくなって、咄嗟に深く深呼吸をしていた。魅了されていたのだ、この桜の大木に。文字通り、息を忘れてしまうほどに。
――巻き込んで、すまない。
声が聞こえた。正面からだ。
聞き覚えのない声。知らない声。慣れない警戒心を振り絞って、声の主を探す。
人影があった。桜の木の下。しかし逆光でその姿はよく見えない。
――助けてくれ。
懇願。涙をのむような声だった。悲しみを押し隠して、胸の奥から絞り出すような、悲しい声。
何を言っているのか、理解はできない。ただ、警戒を解いてしまうには十分すぎるほどの、儚い響きだった。
声の主と話がしたい、そう思い至り、声を出そうと軽く息を吸う。そして言葉を発そうとして――何も出てこなかった。何か不思議な力が働いているのか。やはり、この世界は夢なのかもしれない。
せめてその声の正体を知りたい、一度そう思ってしまえば、後は足が勝手に動き出していた。
チャプチャプ――足音の間隔は次第に短くなり、そして一定のリズムを刻む。
違和感――走っても、走っても、声の主にも、桜の大樹にも近づかない。視界が近づいてくれない。
もっと、もっと速く。乱れる呼吸を、苦しくなる横腹をできるだけ意識の外に追い遣って、足の回転を速くすることをとにかく脳で命令を下す。
自分の足が速いなどとうぬぼれたことはない。しかしいくら何でも、これだけ走っても届かないことは異常だということは理解できた。やはり、少なくとも現実ではない――そう結論づけた。
ならばここは、彼、あるいは彼女は一体――
――友を、助けてあげてくれ。
また声が聞こえた。
誰を助ければ――言葉にはならない。ならば、精一杯念じてみることにした。もしかしたら届くかもしれないと、現実味のないな期待を抱いて。それでもいい。なぜならここは、どうせ現実ではないのだから。
教えて、聞かせて――念じてみるが、次の言葉はない。
すると、代わりに帰ってきたのは、瞼を閉じてしまうほどの強い向かい風だった。
下手したら飛ばされてしまうかもしれない。風に乗って飛来し、肌に突き刺さる無数の花びら。痛い。痛い。
顔を両手の甲で覆いながら、しかし指の隙間をつくって間から向こうを見る。
相変わらず先に見える人影ははっきりしない。
一体自分に何をしてほしいのだろう。何をすべきなのだろう――脳内を疑問が駆け巡る。
――頼む。
最後に聞こえた一言。
意識が遠くなる。桜の大樹の輪郭が歪む。
向かい風の音が低く小さくなる。
肌に感じていた痛みが遠ざかる。
そして――
そして――
……
…………
……………………
◇ ◇ ◇ ◇
……………………
…………
……
脳裏に鈍い痛みを覚えて、何かに体が揺られているのを感じて、意識を取り戻す。
頬が受けている、柔らかな温もり。
ゆっくりと意識が浮上するのと平行して、少しずつ自分の身に起きたことを思い出す。
「……あ」
染井櫻花は、一人の星守に救われた。
偶然居合わせた星守――星月みきに、両足の裏が出血を伴う酷い怪我をしているのを見つけられて、彼女の背中に負ぶさっていた。どうやらその途中でまた眠りこけてしまったらしい。
「……あら、目、覚めた?」
安心しきって、ぐっすりと眠りに入ってしまった瞬間を、櫻花のかわいらしい寝息をみきは知っている。
思わず唇から笑みの吐息が零れてしまった。馬鹿にしていると思われたらどうしよう、そんな不安が、彼女を心の中で慌てさせた。
「あ、えっと、ありがとうございます」
助けてもらっておきながら、自分は他人の背中で眠りこけてしまう。ばつの悪さに思わず感謝を口にする。あるいはその頬は若干紅く照れていて。
みきもまたそれを感じ取っている。背中で意味もなく体勢を変える動き――寝顔を見られたことが、変な寝覚めを見られたことが、じっとしていられないくらいには恥ずかしかったのだろう。
やはりまだ、子供っぽい。本当に、妹を見ている気分だった。
余計なことは考えない。今はただ、この妹のようにかわいらしい少女を助け、癒やすことが優先。既に感覚としては、星守としてではなく、彼女の姉のような存在として、にすり替わってしまっていた。使命ではなく、ただのちょっとした人助け。
この世界がどれだけ荒もうとも、星月みきが善人であることには変わりない。
不思議な高揚感が、みきの足取りを速くさせる。先程まで重圧のようだった、背負っている少女が、今では温かい存在になりつつある。
彼女が背中でうたた寝してしまったその時間が、緊張の糸をほぐして消し去ってしまっていた。
軽やかな歩みが、徐々に目的地へと二人を近づける。
半壊した大きな建造物。この世界が闇に飲まれる前の雄大な姿とは打って変わって、寂寥感と虚無感の漂う廃屋と化してしまっている。
「――ここだよ」
ここは学び舎――みきたちがかつて毎日通い、そして学んで戦ってきた、思い入れの深い場所。
そして、この場所の象徴でもあった、雄々しく気高い、天を貫かんばかりの新緑は、既にここにはない。
――神樹ヶ峰女学園
荒れ果てたその姿を見て、胸を締め付けられるような苦しみを感じた。
仕方のないこのなのかもしれない、自分たちがしてきたことは、こんなモノではなかった、因果応報、これは正当な罰だ――それでも目の前の現実を、その正論を素直に受け止められるほど少女の精神は逞しくはなかった。
背中に負ぶさっている少女も、学園をの有様を見て、喉を詰まらせている。
憧れだった星守、彼女たちが理想を成すために通い続けた場所、それがこうも酷い姿を晒しているのだから。
「……これでも、星守になりたいって、言える?」
余計な問い。無意味であることも、彼女の答えも分かりきっていた。
引き返すなら、ここが最後だと自分自身が訴えていたから。自分がこの立場から逃れられる、楽になれる最後のチャンスだったから。
「なりたいです」
掠れた声。現実を目の当たりにした中で、ようやく絞り出した覚悟の声。
ならば。
みきは無言のまま、その校門をくぐり抜ける。
攻撃され、所々に穴の空いたグラウンドが視界の隅に移る。へし折れて腐りきった植木、破壊され尽くした花壇、舗装されていた通路は所々穴と罅だらけだ。
昇降口を上がる。以前ならここで上履きに履き替えていた場所。既に廊下も薄汚れ、靴を履き替える必要はなかった。
歩き慣れていたはずの廊下、変わり果てた廊下。一つとして十全に機能している窓などない。足を前に出す度に、ガラスを踏み砕く音が耳を引き裂く。
今まで気にしたこともなく、たった今真っ直ぐに進んでいる際に気がついたことだが、外装は激しく損傷しているものの、内部はそれほど荒らされてはいないらしい。
つまるところ、どういうわけか、星守を狙うレジスタンスの連中は、学園の中にまでは侵入してきていないということになる。連中の動向が気になるところではあるが、それは後に回しておく。
櫻花の足の応急処置を目的に保健室に向かったが、収納されている棚が転倒していたり、ケースのガラスが破損していたりしたものの、都合のよいことに消毒液やガーゼ、包帯などといった各種道具は十分に使えそうなものが揃っていた。
櫻花はそこで消毒液の激痛と格闘することになるが、なんとか応急処置には成功する。
続いて被服室に向かい、彼女の格好を何とかしようと考えた。あそこなら予備の制服か何か残っているかもしれない。少なくとも、ところどころ切り裂かれた布きれでは寒かろうという思いからだった。
こちらも数着残っており、ぴったりのサイズもあったが、そこで驚愕の事実が明らかになる。
「あなた、ずっとその格好だったの!?」
櫻花が着替えようとぼろ切れを脱いだ、そこにあったのは、一糸纏わぬ少女の姿だった。下着のひとつも身につけていない。
そして少女は、今の自分の姿に何の疑問も抱いていないかのようにあっけらかんとしていた。
「あーえっと、住んでた場所を追い立てられて、途中でおじさんに助けてもらってシャワー借りてたんですけど、襲われそうになって、咄嗟に逃げてきたから服全部置いて来ちゃって……」
こんな世界になっておいて、まだシャワーが機能するような住宅があったのか。いやそんなことはどうでもいい。
平然としている櫻花とは逆に、何故かみきが羞恥し慌てながらとにかく制服を着るように促す。とりあえず見かけはまともになったものの、これではいわゆる『はいてない』状態だ。
自分の下着を渡すわけにもいかない、というより体格的にもサイズが合わない。慌てながら思考を振り絞った結果――あの子に予備があったら借りよう、そう結論付いた。
櫻花には置いてあったスリッパを履かせ、共に廊下を歩く。階段を上がり、そして目に入った札。
『星守クラス』
他の学園のクラスとは趣も用途も異なる、独立したシステムの教室、だった。
学園の生徒が学び、運動している間、星守はそこにプラスして、対イロウスのための戦闘の訓練が義務づけられる。
そんな日々を思い返しながらみきは――想像しながら櫻花は、扉の前に立った。
コンコンコン――みきが扉をノックする。
「星月みきです」
名乗る。数秒後。
解錠の音がした。扉の内からそっとスライドして開かれる。
視界に鋭いエメラルド色の瞳が目に入った瞬間――布が靡く音、そして目の前にナイフの刃が突き立てられた。
その正体は、みきも十分見知った顔。相手もみきの姿をしかと確認し、そっとナイフを下ろす。――が。
「隣の、誰――!?」
下ろしかけたナイフが隣の櫻花へと突きつけられる。
「わ、わっ――!?」
急に殺気を向けられた櫻花がびっくりし、仰け反ったものの足下の瓦礫に蹴躓き、バランスを崩して尻餅をつく。
大丈夫、と声をかけて手を差し伸べるみき。ありがとうございますとその手を取って立ち上がった。
「大丈夫だよ、昴ちゃん」
緑がかった、肩まで伸びた髪を揺らし、警戒を解かない少女の名は、若葉昴。彼女もまた、みきと同じ、この世界で星守だった者だ。
得物を構えているときの威圧感はトップクラス、現役の星守の中で最強とも言える特攻隊長だ。
そんな彼女がナイフを手に無防備な少女を睨みつける。あまりの恐怖に櫻花は青ざめてしまっていた。
「この子、途中で拾ってきたの。足を怪我してたから、治療してあげなきゃって」
「レジスタンスに関わってるわけじゃ、ないんだね……?」
それはない、とみきは断言して昴を見つめ返す。
嘘のない視線に貫かれて、初めて昴は警戒を解いた。と同時に、両手をだらりと下げどっと溜息をついた。昴自身も緊張していたらしい。
「みきも無事で、よかったよ」
昴は二人を室内に入るよう促し、そして一度廊下を確認してから教室の鍵を再び閉めた。
薄暗い教室の中はある程度整理されており、掃除も行き届いているようだった。机は一部ではそろえて並べられていたり、あるいはばらついていたり。
そして見渡すと、何人か少女がいるのが視界に入った。
「あ、みきてぃ先輩、戻ったんだね」
二房の深紅のツインテールを揺らし、足早に近づいてくる少女。同じく星守の一人、蓮見うらら。
みきもただいまと挨拶を交わし、そして櫻花を彼女に紹介する。するとうららは櫻花の両手をおもむろにとった。
「うらら。蓮見うらら。よろしくね」
あまりにもフレンドリーな態度に困惑し、どう反応すればいいか分からない櫻花。
あ、えっと、と言葉に迷っている間に、他の星守が歩み寄ってきた。
みき、昴、うららを含めて七名。だた一人だけ、椅子に座ったまま項垂れ、こちらに反応を示さない少女がいた。
カーディガンを羽織った少女――天野望は彼女を心配して気にかける視線を送ったが、残念そうな面持ちのままみきたちに向き直る。
「そっとしておいてあげよう、望。今は下手に刺激すべきではない」
「ええ、私たちには、何もしてあげられない……」
と、ポニーテールが特徴的な小柄な少女と、泣きそうな顔で口元を押さえる少女。
火向井ゆりと、常磐くるみである。
とりあえずは今のところこれで全員のようだ。
みきは彼女たちに、簡単に経緯を説明する。
周辺の探索の途中で彼女を発見したこと、極限まで疲弊、衰弱しており、裸足でうろついていたこともあって足裏を怪我しており、早急な応急手当が必要であったこと、学園に戻り、手当と衣服の提供をしたこと。
彼女についての最低限ことを話す。
星守になりたいと言い出したことは――言葉にできなかった。
「――それで、その子はこの後、どうするつもりなんだい?」
核心を突く質問、当然みきも予想はしていたが、答えを用意できてはいなかった。
みきの希望を語るには、彼女が、櫻花が星守に対する危険なまでの憧憬の念と理想を抱いていることを告白しなければならなかったからだ。
それを回避して論ずることは不可能である。
言葉を選び、視線を彷徨わせた数秒――
――ガタガタガタ
背後から物音、鍵の掛かった扉が何者かによって開かれようとしていた。しかし鍵がそれを阻んでいる。
後ろからの突然の音にみきと櫻花がびくりとして咄嗟に振り返る。昴が再びナイフを構え戦闘態勢に入る。状況如何では星衣に変身することを静かに全員に伝えた。
しばらく待つが、強引に突破してくる気配はない。
緊張の糸が張り巡らされた空気。
じっとりと背中に汗が伝うのをみきは感じた。
恐れをなした望が一歩後ずさる。
心臓が早鐘を打ち、口内に溜まった唾液を喉の奥に流し込むうらら。その音は隣にいた櫻花に僅かにも聞こえた。
そして状況が動く。
「ここを開けてくださいな」
外から声が聞こえた。聞き覚えのある声。しばらく聞かなかった声。
昴は右手にナイフを持ち、空いた左手で扉の鍵に触れる。
話ができる相手と判断し、一呼吸置いて、問いを始めた。
「……名前は?」
投げかけられた問い、しばらく返事はない。向こうも名乗ることに躊躇しているのだろか。確かにこの世界の現状で星守が関わるなら、迂闊に名を名乗ることは安全ではないだろう。
向こうから衣擦れの音が聞こえた。そして意を決したのか、向こうが名乗る。
「千導院、楓ですわ」
知っている名前を耳にして、全員が息を飲んだ。
当然、警戒を怠らなかった昴でさえ、その名前に動揺を隠し切れていない。
「か、確認――教室のロッカー、先導院楓の使用できる場所は?」
「教室後ろの扉から見て奥から二列目、上から二段目のロッカーで間違いありません。……その声は昴先輩ですわね」
即答、に続き声の主を当てた。
間違いない、扉の外にいるのは星守である。そして、この世界に戻ってきて未だ確認できていない星守の生生存者の一人。
「楓で間違いないね。開けるよ、入って」
ガチャリ、解錠の音が教室に響き渡る。昴がゆっくり扉をスライドさせた。
そこには嬉しい知らせ、そして苦しい知らせが同時に待ち受けていた。
嬉しい知らせは、本来なら綺麗に整えられていたであろう、金髪のロールは乱れ放題である少女、楓が生きていると同時に、その肩にもう一人少女を抱えており、彼女もまた星守であったこと。
そして苦しい知らせとは、その少女には完全とは言えない応急手当をした後が見られており、止血はされているものの、足に巻き付けた布に滲んでいる赤の範囲が傷の深さを物語っている。
「ミミを、よろしくお願いいたしますわ」
慌てて駆け寄った望がミミと呼ばれた少女――綿木ミシェルを抱き留める。
「意識を失ってるだけですわ。止血も済んではいますし、とりあえずは大丈夫かと。それより――」
人一人を抱えてずっと歩いていたにも拘わらず、その疲れをおくびにも出さない。
そして真っ直ぐ立った楓の表情は険しかった。
その鋭い視線は、真っ直ぐに櫻花を射貫いている。
「全て外で聞いていましたわ。この方、星守ではないですし、治療も済ましているようですわね。ならばもう、ここにいる必要はないはず」
「でも、楓ちゃん――」
楓の言葉に、みきが苦し紛れの反論をしようと試みたが、視界に映った物がそれを遮った。
楓はどこからともなく、一振りのスピアを取り出し、輝かせていた。星守が星衣となって戦う時に手元に召喚する武器である。
その刃もまた、櫻花に突きつけられていた。
「それどころか、ここにいる方がかえって危険なのではなくて?」
その瞳は、一文字に結ばれた唇は彼女の覚悟と決心を語っていた。
楓が口にしたその正論に答えられる者はいない。再び教室を不穏な空気が支配する。
生存者が、仲間が増えた喜びはすぐに姿を眩ました。ただ楓の発するプレッシャーが、全員の影を縫い付ける。
櫻花は、歓迎でも、拒絶でもない、得体の知れない楓の瞳を、恐怖を抱きながら見つめていた。