勇太郎は、夢を見ていた。
かつて親友と出会った時の夢だった。
七年前の八月三日。
その日勇太郎は宗教に深く入信していた両親に連れられ勧誘を行っていた。炎天下の中で黒いローブを纏って行動するのは子供にはひどく暑苦しかったが、親はそれを脱ぐ事を許さない。
行く場所の殆どで親の存在は罵倒され、自分を引き合いに出しては文句を言う人もいた。だが、そうした人々が自分を助ける事は無かった。きっと本当は関わりたく無いのだろう。
喉が渇いた。辺りを見回すと公園があり、蛇口を見つけたのでそこで今すぐにでも水分を摂りたかった。が、母親の手は強く握られ、そこへ向かう力も無くただ見つめるだけだった。
きっとこのまま干からびてしまえば死ねる。そうすればこの生き地獄から脱出出来るのだろうか。
自分が死ねばこの両親は少しでも悲しんでくれるだろうか。自分を道具として扱った事を反省してくれるだろうか。いや、死んでしまえばどうでも良いのだろうか…。
「―――君、喉渇いてない?」
遠のく意識の中で男の子の声が聴こえた。それが自分に対してぶつけられた言葉である事に気付いたのは、母親が返事をした時だった。
「ごめんね、ボク。私達の教えでは
教えについて羅列した小冊子を渡された男の子は少し読んでから肩に掛けていたバッグに仕舞った。
「でも、その子死んじゃう…死んじゃったら何にも出来なくなっちゃいますから」
「……」
「例え誰かの教えでも、自分の命だけはあげちゃダメだと思います」
そう言うと、男の子はバッグの中に入っていたペットボトルの水を差し出した。その時、思わず勇太郎は一息に水を飲み干した。
両親はきっと教えを破った我が子の姿に顔を歪めただろうが、彼らの顔など伺わなかった。
勇太郎にとっては、水を飲んで安全を確認出来た事に胸を撫で下ろす彼の笑顔だけが全てだった。
「ありがとう」
初めて心から出た感謝の言葉。それが言えただけで勇太郎の人生に悔いは無かった。
「何がありがとうなのよッ!!」
火島一家が
「やめなさい、我らが王は怒りを哀しむ。叱るならば愛を以て、大切に叱りなさい」
「そうだったわね…勇太郎、これは愛による叱りよ。教えを守らなかったあなたには…罰が必要なのよッ!」
「教の二十七、”罰は血族にて下す、血は痛みを分かち合う”。故にこの罰は僕達が家族である証なんだ」
傍から聞いていても滅茶苦茶な理論だが、それは誰かの言葉に踊らされていった結果の意見だと思うと酷く不憫に見えた。自分を殴って気が済むのなら、殴れば良い。勇太郎は母からの暴力に身を委ねた。
痛みも、空腹も、喉の渇きも、親を満足させられるファクターになるのなら、それで良いと思えた。
しかし、一つだけ死ねない理由が出来てしまった。あの時の男の子にもう一度会いたいと勇太郎は願った。
――
八月三十一日。八月が終わるものの未だ暑さは残り、外出は酷く辛かった。だが、暑さを吹き飛ばす様な出来事がそこで起きた。
あの時の男の子が目の前にいた。
それに気付いた勇太郎は、何も考えず一目散に走り出していた。
「あ…あの…」
「父さん、この子だよ!」
勇太郎の姿を見つけた途端男の子はそう叫んで父親を呼んだ。その声に反応し彼の父親であろう人物が近くの家から飛び出して来た。
「おお、君か…息子から話を聞いて、ずっと心配していたんだ。君の名前は?」
「…勇太郎」
男の子の父親である男性の優しい声色に困惑しながら勇太郎は答えると、微笑みながら男性は頷くと、ここで息子と待つ様に伝えて勇太郎の両親の元へと向かう。
「君は勇太郎君、って言うんだね。僕は霧島楓」
「楓…?」
「そう、楓。よろしく」
自分を助けてくれた男の子―――楓は自己紹介を済ませると遅れて出て来た母に事情を説明する。家族から暴力を振るわれた事など無さそうな彼がどうして自分を助けたのか。その辛さに気付けたのだろうか。
「どうして俺を助けたの?」
「? 困ってそうだったから」
「…そんだけの理由で、助けるのか?」
「うん、良く分からないけど、誰かを助けるのが当たり前の事だと思うんだ」
「それで…何で俺が困ってそうだと思ったんだ?」
「僕が辛い時と同じ顔をしてたから。もし聞いてみて困ってなかったらそれで良かったと思うし」
勇太郎は呆気に取られてしまった。お人好しだとか優しい奴だとかじゃなくて、彼はきっと、感覚で人助けをしてしまう人なのだろう。だとしたら、その先は危険だ。
自ら危険に飛び込む人の行く先は地獄だ。簡単に命を懸ける人間がいつでも生きて帰れる保証など無い。ましてや、この霧島家は宗教組織に手を出してしまった。それがどれほど危険であるのか、同年代の子供よりも鋭く賢かった勇太郎は、容易くその末路を想定してしまった。
現代まで多くの宗教が殺人事件を引き起こして来た。それは裏切りや接触…理由は何であれ、ただ”逆鱗に触れた”だけで信じる者の名の下に凶刃を振るうのだ。
「怖がらないで、大丈夫よ」
優しい声で勇太郎にそう告げたのは、楓の母であった。
「勇太郎くんのパパとママ、怖い?」
「…だってみんな死んじゃうかも知れないんだ」
「大丈夫よ、心は力なんかに負けないって、楓も、あの人も知ってるから」
そう言うと彼女は自らの夫を見ると、少し微笑んだ。
「まぁ本当の事を言うとね、うちのパパも怖い人なのよ」
「え?」
「実は結構凄い記者さんでね、色んな業界を渡り過ぎて危ないからって護衛の人がいるのよ」
現実離れした事実に勇太郎は驚愕するが、まるでその反応を知っていた様に楓の母は笑っていた。
「あなたも、あなたの家族も、悪い様にはしないわ。だけど、あなたがもう誰かに助けを求めなくても良いようにしたいの」
「母さん、子供と一緒に逃げてッ!!」
楓の父の絶叫が聞こえた。その方向を見ると、話し合いの末に業を煮やした勇太郎の両親が楓の父を押し倒して勇太郎を奪い返そうと迫って来た。
咄嗟に楓と勇太郎を連れて逃げようとした楓の母だったが、力づくで勇太郎を奪われてしまった。
護衛がいると先程言っていたが、夜襲に備えての配備だった為昼の時間帯である今はいない。
「クソ、まさかこんな強硬手段を使ってくるとは…とにかく警察と児相を呼んでるから追跡して貰うよ」
楓の父がそう言って妻と息子を落ち着かせると、次の手を考える。
「彼らが行きそうな所は集会所か自宅だが……」
「多分家だと思う」
そう呟いた楓に父はその理由を問う。
「前に貰った冊子に書いてあったんだけど、罰は血の繋がった人が下すモノとあの宗教では教えていたんだ」
「だったら勇太郎を連れ去った後に行くなら家なのかな、って」
「…良い考えだ」
そう言うと楓の父は良く出来た息子の頭を撫でる。
――
「何を考えているのよッ!」
そう叫ぶと勇太郎の母は不出来な息子の頭を殴る。
「アンタのせいで面倒な奴らに足が付いちゃったじゃない……これで私達の
「よしなさい母さん。幸いここはバレていない。ここで終焉の契りを果たす定めなのかも知れない」
「王の血より生まれし我ら愚かな人類は、運命の流転を経てその肉体を返還するんだ。その時が来たんだ」
勇太郎には父の言っている意味が良く分からなかったが、”終焉の契り”と言う謎の言葉が出てから両親の顔色が変わり、何かの準備を進めている様子を見て嫌な予感がした。
動物的直感が勇太郎の逃避を後押しする。考える間も無く勇太郎は玄関へと走り出すが、母にカッターでふくらはぎを切られた。
「痛あああああ!」
「ごめんね、勇太郎。でも母さんも痛いのよ。血は痛みを分かち合うのよ。そう、だから、魂も共に、王へと還る時が来たのよ」
勇太郎の心臓が聞こえて来そうな程に脈打つ。それはまるで、もうじき止まってしまう故に最後の足掻きを見せている様だった。
父が散乱していた袋にライターで火を付ける。袋に詰め込まれた腐乱したゴミは勢い良く燃え広がり、部屋が、家全体が、炎に飲まれていく。
「一緒に王へと魂を還そう」
「一緒に王へと魂を還しましょう」
「勇太郎」