勇太郎、楓、十五歳。
東京都文京区内の中学校で平凡な生活を送っていた二人の転機は、彼らが初めて出会った時と同じく蒸し暑い八月の事だった。
紆余曲折あったものの普通の中学生としての暮らしを謳歌していた勇太郎は所属するサッカー部の夏休み特訓を終え、少し自主練習を加えてから帰路に就く。ボランティア部の課外活動を終えた楓を付近で待たせ更衣室へ向かう。
「……」
扉を開いた瞬間広がった目の前の光景に勇太郎は言葉が出なかった。
同級生らが一人の後輩へ恐喝を行っている様子が視界を埋めた。
「勇太郎! コイツ一番下手なのに一番最初に帰りの準備始めやがったんだよ。ムカつかね? 流石に俺らが練習した分だけ金貰わねーとだわ」
「コイツん家金持ちだからさー、俺達全員にジュース代出す位は全然気にしねーんだよ。な?」
後輩は強張った表情で頷くが、彼の財布から差し出される金額はジュース代という割には紙幣ばかりだった。
勇太郎はしばらく自主練習を続けており更衣室へ来る頃には部員が誰も残っていない事は日常茶飯事であった。まさか自分がいない間にこの様な事が何度も起こっていたのでは無いか? 勇太郎は自分がこれまでの悪事に気付けなかった悔しさを噛み締めると共に、親友の事を思い出す。
(楓はあの時俺を助けてくれた…あの時の勇気と強さ、分けてくれよ)
「お前ら、これは犯罪だ!
勇太郎は勇気を振り絞って言い放つが、周りにいた同級生らが睨みを利かせながら勇太郎を取り囲む。
「…だから勇太郎のいねー時にやってた時に、何で今日に限ってモタついてやがんだよッ!?」
後輩に詰め寄っていた勇太郎の同級生が後輩の後ろにある壁を勢い良く蹴ると、後輩の襟を掴む。
「今日こそはって…ずっと、思ってたから……」
「何で先輩の言う事が聞けねーんだよ、お前がダラダラ練習して、誰よりも早く戻ってってのがやる気ねーっつってんだよ! やる気が無いなら部活やめるか誠意を見せてここにいさせてもらう位の事はしねーといけねーんじゃねーのか!? ああ!?」
「やめろ! サッカーは誰だってやって良いスポーツな筈だろ! 続けるのに不当な金の取引なんてしなくて良いいんじゃねぇのかよ―――」
その瞬間、勇太郎の頬に激痛が走った。同級生の一人が彼を殴ったのだ。
奥歯が引き抜かれる様な強引かつ大雑把な顎の痛みが彼の神経を刺激し、じわじわと口内の出血と裂傷を自覚させる。
「うぜーんだよ、コイツが金を払えば部にいられるし俺達は金が貰える。それの何が悪いんだよ」
「ガ…鴨原くんがッ…嫌がってんだろ」
顔面の痛みに悶えながらも勇太郎は立ち上がる。彼の勇姿は寄ってたかって人を痛めつけている同級生らの罪悪感を強めると共に、反抗的な態度に嗜虐心をも強めた。
「嫌がってるからどうした!」
勇太郎がロッカーに勢い良く叩き付けられる。
「コイツが金を払ってくれれば全部丸く収まんだろうがッ!!」
「お前らがっ! 金なんか取らずに…部に入れてやれば良いだろーが」
呼吸すら途切れ途切れの勇太郎に正論を突かれ逆上した同級生らは地に這っている状態の勇太郎を蹴りつけ続ける。その痛みによる苦悶の叫びは、外にいる楓にも聞こえて来た。
「勇太郎? さっきから何か聞こえてたけど、今の声は―――」
楓がその凄惨な光景を見た時の重たい空気を、勇太郎は今でも覚えている。
彼が敵視した相手に向けられる憎悪、人の中にある逆鱗、琴線とも言われる様な怒りの発露する起点。
後輩と勇太郎を傷付けた同級生らはそれに触れてしまったのだ。
「殴られたら痛い」
「あ?」
「当たり前の事なんだ、知らないとは言わせない」
「そう言うの良いから、お前も痛い目見たくなかったらさっさと出てってくれよ」
「殴られたら…」
「痛いッ!」
楓がそう叫ぶ頃には同級生の顔面は楓の拳を真っ向から食らい、鼻血を吹き出しながら倒れていった。
「~~~!?」
悶える同級生をよそに、他の連中の動揺を突いて楓は次々と急所を狙って暴力を繰り返す。
目を叩き、股間を蹴り、膝裏を押して頭を壁に押し付ける。
負けじと大勢で覆い被さり殴り掛かる同級生らによって楓も傷付けられる。
お互いの体を破壊しながら続いたその争いは、騒ぎを聞きつけた教職員複数人が止めに入るまで続いた。
結果的に勇太郎と後輩以外の当事者は全員救急搬送される事となり、事情を話した勇太郎によって同級生らの悪事と楓の行動が正当である事が周知された。
しばらくして病院へ駆け付けた勇太郎は車椅子に乗った痛々しい姿の楓へと駆け寄る。
「楓!」
「勇太郎、体は平気なの?」
「俺は平気だ、それよりも楓…どうしてこんなバカやっちまったんだよッ!」
しばらくの沈黙の後、楓は語った。
「人の痛みを知って欲しかったんだ」
「他人だって自分と同じ様に痛みを感じるんだって事を知らない無責任な人が許せなかったんだ」
そう言うと、楓は勇太郎の無事に安堵する様に笑った。
「楓……」
その時勇太郎は、自分の為に楓はこんな無茶をしたのだと痛感し、彼の勇気に再び感謝すると共に自分の弱さを悔い、以来勇太郎は楓が傷付かない様に己の身体と頭脳を鍛え上げた。
だが、勇太郎自身の努力で結果が良くなる訳では無かった。
楓の暴力による制裁を恐れて生徒達は彼から距離を置く様になってしまった。廊下では陰口を言われ、目を合わせれば皆即座に立ち去ってしまう。居心地の悪くなった楓は学校へ行かなくなった。
「ごめんじゃ済まされないな、楓……受験だって時に、俺は…」
「気にしてないよ勇太郎。でも、先生からは勇太郎と別の高校へ行けって言われちゃったよ、寂しいけど、無理も無いかな」
暴行の経歴が付いてしまった楓は内申点の都合、高校受験において不利になってしまった。学力的に充分であったとしても良い高校に行けなくなった事実に楓は家族への申し訳無さを覚えていた。
だが彼の家族は楓の努力と勇気を評価した上で諭した。
「楓。お前がみんなを助けようとした事は分かっている。その勇気を誇りなさい。僕も母さんも、楓がどこの学校へ行っても構わないと思っている。どんな所へ行ってもそのままの勇気と誠実さを持った楓でいてくれると信じているからね」
「しかし、人に暴力を振るった事はいけない事だった。勇太郎くんと後輩くんを連れて逃げるだけで良かったんだよ」
「…ごめんなさい」
「楓、誰かを倒す人間になるんじゃない。誰かを守る人間になるんだ」
それから楓は時間を取りやすい通信制高校に通い、日々の時間を勉強に当てる様になった。勇太郎も同じ高校に入学しようとしていたが楓に止められ、都立高校で初めて楓と過ごさない学校生活を送った。
そして今年の春。3年間勉強に勤しんだ楓は晴れて国内上位の優秀な国立大学である東城大学に合格したのだった。
かつて楓と勇太郎が乗用していたバイクはそれを祝しての両親からのプレゼントだった。
楓と勇太郎、親友同士でまた同じ学び舎へ行ける事は、楓の心の傷を確かに癒していた。
「―――その筈だったんですけどね」
「俺達はラフムに殺されてしまった、と」
過去を語り終えた勇太郎は溜息の混ざった声で呟くと座っていたソファの背もたれに深く寄り掛かった。
「何でこんな事になっちまったのかな……」