予定が書き込まれた黒板は食堂から隣の会議室に移動。誰がどこで何をしてるのか、知りたくなったらこれで確認することになる。
結局みんながいろいろと予定を入れた中、俺の午前中は空いたまま。
「昼食まではエントランスで留守番でもしておくかな」
「前庭に出た方がいいんじゃない? 今日は晴れてるし」
俺の呟きに、ニーナが提案。確かに、窓から見えるのはきれいな青空だ。
「それもそうか。そうしよう」
一年中ほとんど雨の日だという雷王都市に最近まで住んでいたから、晴れの日の景色は新鮮でもあり、故郷を思い出して懐かしくもある。見れば、冬の間は茶色だったこの丘もずいぶんと緑色が目立つようになっていた。
確かに、この中でなら穏やかな気持ちで過ごせそうだ。
「ティーポットにお茶と、籠にお菓子、用意しておいたから。あと、敷布を使うなら寝具室にあるからね。それじゃ、洗濯行ってきまーす」
出掛けにニーナがそう伝えてくれた。気が利く。お菓子は、ナタリーやクレールに見付からないうちに手元に確保しておこう。
ニーナに少し遅れて、クレールとナタリーも出かけていった。
それを見送って、ニーナが焼いてくれたビスケットを食べ、お茶を飲んで、穏やかな日差しを浴びながら、うとうと……。
という頃だった。
「寒寂の村の悪徳領主とやらは貴様かっ!」
「ん?」
目を開けると、少し離れたところに男が立っていた。村の人じゃない。見覚えがない。
武装している。剣と盾、それに革鎧。傭兵か、冒険者か、そんな感じ。
そして、闘志に燃える形相で、すでに鞘から剣を抜いている。
いくら昼の間は表門を開けているとはいえ、武装したままで入ってくるなんて。
……危ない人かもしれない。
「人違いですよ。その人はもうここにはいないし」
悪徳領主を追い出したのは俺自身だ。それ以来、姿も見ていない。
今の領主である俺を悪徳領主と言っているなら、人違いじゃないけど。
でもそれなら『寒寂の村』じゃなく『竜牙の村』の領主と言われるはずだから、やっぱり前の領主を探してるってことで、合ってるだろう。
「若い娘を何人も囲っている好色領主だということは知っている! なんとうらやま、じゃねえ、なんとけしからん奴だ! 俺はそんな悪徳領主を成敗するために来た!」
「はあ」
何か新旧混ざってるような気がするな。それとも、前の領主にもそんな噂があったんだろうか。
それにしても、一応もしかしたら、陳情の時間に早めに来てしまっただけかもしれないという可能性も考えていたんだけど。
成敗するって言われてしまったら、多分、陳情目的ではないだろう。
「今の領主は俺ですけど」
「さっきはとぼけていたが、ようやく認めたな」
別に嘘を言ったつもりはないけど、話を聞かなそうな人だから訴えても仕方ないかな。
「ならば名乗ろう! 俺は雷王都市で〈剣の王〉の称号を得た〈竜牙の勇者〉リオン!」
と、相手が、名乗った。
俺じゃなく。
「……はあ」
「くくく。驚いて声も出ないか?」
声が出ないのは確かだ。何て言えばいいんだ。
自分の偽者を見たのは初めてじゃないけど、見た目が似ても似つかない、似せる気もないというのは初めてだ。
「ハーッハッハッ! そりゃあそうだろうな。なんせ〈竜牙の勇者〉と言えば雷王都市を襲い騎士団を壊滅させたあの〈剣鬼〉をも余裕で倒した、不死身の男だからな! 怖くて恐ろしくて声も出まいよ!」
「そうなんですか」
不死身だったとは初耳だ。最近は吟遊詩人が物語を派手にするために、そういう設定を付け足してるんだろうか。俺が前に聞いたときにはそこまで事実とかけ離れてはいなかったと思うんだけど。
「貴様も名乗るがいい!」
相手が剣の切っ先をこっちに向けながら、そう叫んだ。
仕方がないから、俺も傍らに置いていた剣を片手に立ち上がる。
鞘からは抜かない。多分だけど、力量差がありすぎて、ちゃんと剣を振るうと相手の生命が危ない。この剣は鍛造の量産品だけど、それでも、だ。
相手が余裕の表情なのは何でだろう。確かに身体は俺より大きいけど。力量差がわからないのか。
……でも、俺の見立てが間違っていて、本当は達人なのかもしれない。
まあ、名乗れと言うんだから、名乗ろう。
「リオン。――〈竜牙の勇者〉」
「はっ?」
相手は驚いて声も出ないという様子。剣を取り落としそうになって、慌てて握り直していたり。
「他人の名前を騙るのはやめてくれませんか? あなたの行いが悪いと俺が迷惑するから」
穏やかな日が続けばいい……と思っていたのに、昨日の今日でこれだもんな。
「黒髪、黒目……まさか本物……いや、そんなはずはない! 本物がこんな田舎村にいるはずがない! 俺だったらその名声があれば美女に囲まれて酒池肉林で暮らすからな! 男なら皆そう願うはずだ! このぉー、俺の名を騙る悪人めぇー、成敗してやるーっ!」
「……俺の評判が落ちるのって、こういうののせいもあるのかなあ」
俺にとってひとつ幸いだったのは、闘志を燃やす必要もない程度の相手だったことだ。
これなら多分、
改めて穏やかな日差しにうとうとしていると、さっきのことは「何か変な夢を見ていたような気がするな」という程度に忘れた。
でも、うーん。まだ夢を見ているのか……?
足音が近づいてくる。それは奇妙なことに、歩くたびに、べしゃっ……べしゃっ……と、湿った音を響かせる。
これは……思い出した。聞き覚えがある。
魚人族の足音だ。こんなところに? 海が近いからか!
……と飛び起きると、そこにいたのは魚人族ではなく、ずぶ濡れのクレールだった。
全身からぽたぽたと水を滴らせて、半泣き。
「おかえり、クレール。……どうしたの、その格好は」
「転んだわけじゃないからね! それにお弁当は渡した後だったし! 歴史書には『クレールは与えられた役目を完璧にこなした』と記されるだろう!」
お弁当をちゃんと渡せたというのはいい知らせだけど、いったいどうしたらそんなにずぶ濡れになるんだろう。
「……じゃあ、どうしたの」
本人に聞くのが早い。詳しい説明を促すと、クレールは遠い目をして空を見上げた。
「ちょっと足を滑らせたら、たまたま川があっただけ。転んではいないよ」
「…………」
「…………へくち」
何かやらかすような気はしていたから、その程度ならさして驚きもない。この話を聞いたみんなも「ああ、やっぱり」くらいしか感じないだろう。
「まあ、お風呂に入って着替えたほうがいいよ」
「そうする……」
ふらふらと館の方に歩いていくクレールに俺も付き添う。棚に洗濯済みのタオルがあるから取ってこよう。
「あ、ひとつ訊きたいんだけど」
さっきから少し気になっていること、思い出したので聞いておこう。クレールは王国法に詳しいから、きっと知ってるはず。
タオルで髪の水気を拭いながら、クレールが首を傾げる。
「なーに?」
「王国法では、貴族を騙った時の刑罰についてどう決められてるの?」
俺も今は領主だから、一応、貴族ってことになる。
もしもその名を騙る人がいたら、どうなるのか。
「死刑」
クレールの返事はあっさりしていた。
「……死刑か」
今は領主が俺に変わったことの申請を出してその返事を待っているところだから、厳密には、まだ貴族ではないけれども。
そうか、死刑か。
「貴族は大きな権限がある代わりに、果たすべき義務も大きいんだよ。だから、貴族を詐称するのは、義務を果たさないままにその利益の部分だけを掠め取ろうとする卑劣な犯罪である、とされているわけ。本人がそうと言わないで周りが勘違いしてるだけならセーフだけど、本人がそう言って何らかの利益を得ようとしたならアウト」
なるほど。じゃあ、さっきのはアウトだ。
「誠実に生きてたら大丈夫だよ。あ、リオンの爵位は暫定だけど正当性あるから心配しないで。いざとなれば僕の爵位もあるし。それじゃ、お風呂行ってくるね……」
「ああ、うん。温まっておいで」
クレールを見送って、少し黙考。
もうしないと約束させた上で、騙し取ったものがあるなら謝罪して返還するように命じて、逃してやったけど。
命が助かるかどうかは、本人次第か。