神託の霊峰から竜牙の村に戻ってすでに数日が経った。留守にしていた間に溜まっていたあれやこれやもようやくだいたい片付いたな。
ユリアとステラさんが言い出した一夫多妻の件、館に戻ったらすぐにみんなにも話すんじゃないかって恐々としていたけど、今のところその様子はない。ただ、二人で何やらこそこそと相談している姿は見かける。油断は禁物、というところだ……。
村の自警団からは報告も受けた。俺が出かけている間に現れて自警団に退治された魔獣のことだ。その内の一匹がシザービートルで、ちょっと苦笑。自警団のみんなも成長してる。
その日は雨。天気が良ければみんなで海水浴をする予定になっていたけど、延期になった。前の晩から水着を着てたっていうナタリーは特に残念がってたな。そんなに早く準備してたって、朝風呂の時にはどうせ脱ぐと思うんだけど。
「そうだ! 海に入ったら結局濡れるですから、雨が降ってても気にせず海水浴してもいいのではないですかっ? 特級いい考えです!」
ナタリーはそう主張したけど、受け容れられなかった。
「せっかくリオンと遊べると思ったのにひどいです!」
そう言われてもね……俺が雨を降らせたわけじゃないし。
「海水浴は無理でも、館の中でなら遊べるよ。急ぎの用事は、今日は入れてないはずだし」
俺の予定を管理してくれているステラさんに視線を向けてみても、そのことは確かみたいだ。
「じゃあアルカナ札で遊ぶです!」
「あたしもやる!」
ナタリーに続いて、ミリアちゃんも手を挙げた。これにクレールとユリアも加わって、五人。ハスターもついてきたけど、スペースハムスターの手じゃさすがにカードを使った遊びには参加できないだろう……。
一応、勝ち点を記録して遊んだけど、午前中いっぱいではミリアちゃんがトップで、俺は最下位。
「んふ。リオンはねー、手札がすぐ顔に出るから負けちゃうんだよ」
とはクレールの指摘。自分ではなるべく出さないようにしてるつもりなんだけど……
「出さないようにしてるのがわかっちゃうから、それで、きっとピンチなんだろうなーって」
……なるほど。
昼を過ぎると、雨はだいぶおさまった。ただ、これから海水浴をしようって気にならない程度には降ってる。
それなら今度は
「……リオン!」
俺を呼ぶ声が聞こえた。エントランスの方からだと思う。
見回すと、みんなもその声に気付いた様子だった。幻聴ではないらしい。
でも今の声は……
不思議に思ってともかくエントランスに向かうと、そこに雨に濡れた人影があった。
白い鎧、青い外套、聖騎士の身分を示すはちがね、そして長い金髪。
「……レベッカさん?」
「リオン! ああ、よかった。ようやく会えた……」
この村の教会を再建する話のために天命都市へ行っていた、聖騎士のレベッカさんだった。
騒ぎを聞いて駆けつけたニーナが差し出したコップの水を、レベッカさんは一気に飲み干して、大きく息をついた。
様子がおかしい、という気はする。
まずそもそも、天命都市での用事を済ませて戻ってくるのは夏の終わり頃になるだろうと言っていたはずだ。戻ってくるのが、予定よりかなり早い。
そして、それだけじゃない。
「ペネロペは? 一緒じゃないんですか?」
そう。レベッカさんの後輩で聖騎士見習いのペネロペがいない。一人前に認められるまではレベッカさんが指導することになっていたはずだけど。
何かあったんだろうか。
心配する俺たちに、レベッカさんは言った。
「今は、村のはずれにある魔女の店にいるわ。マリアさんがついてくれてる」
魔女の店。マリアさんが手伝いに行っているそこは、教会が機能していない今、村に唯一の診療所だ。
そこに、ペネロペが? なぜ?
俺のその疑問に、肩を落としたレベッカさんが、沈痛な面持ちで答えた。
「……意識を失ったまま、目を覚まさないの」
レベッカさんの白馬に同乗して、俺はみんなより一足先に魔女の店に向かった。
魔女の『おばさま』は俺たちの姿を見ると、奥の扉を示した。そこにペネロペが寝かされているようだ。
「雨に打たれて身体は少し冷えていますけど、生命活動はほぼ正常です。呼吸も心拍も十分安定しています。ただ、それなのに意識がないというのは、逆に危険な状態である可能性もありますね……」
というのがマリアさんの診断だった。
原因は怪我か、病気か、魔法か、毒か、呪いか……いろいろな可能性があって、これから詳しく調べることになるそうだ。
枕の上にストロベリーブロンドの髪を広げて、ペネロペは眠っている。その顔には苦痛は見えないけど、楽しい夢を見ている様子でもない。
「何があったんですか」
説明を求めて声を掛ける。その相手は、ペネロペではもちろんなくて、レベッカさんだ。
レベッカさんは、ベッドで眠るペネロペの髪を撫で、ひとつため息をついてから、俺に説明してくれた。
ここから天命都市への船旅は波乱もなく快速で、予定よりも早く着いたそうだ。
村の教会の再建についても、後任の司祭の候補者名簿は大教会がすでに用意してくれていたという。その中から顔見知りの女性司祭を指名して、聖意物のことも含めた再建のための書類を提出したら、その翌朝にはもう、再建を許可する勅許状が出来上がっていた、と。……妙にあっさりしている。
「きっと〈聖女〉なんてのが大教会で大きな顔をしないよう外に追い払っておきたかったんでしょうけど、そのおかげで煩雑な手続きが簡単に済むなら願ったり叶ったりよね」
それで、その後任の人の準備ができてから出発するつもりだったらしいけど……
「ペネロペが、妙なことを言い出したの。リオンに危機が迫っているから、すぐに戻らないといけないって。夢でそうお告げを受けたんだそうよ。ちょうど夏至の頃だったと思うわ」
危機って何のことだろう……と考えてみると、夏至の頃だったらあれか、シードラゴンか。俺にとってはそんなに危機でもなかったけどね……。
ともかくそれで、後任の司祭のことは聖騎士団に道中の護衛を出してもらうよう頼み込んで、取り急ぎ、レベッカさんとペネロペの二人だけで天命都市を出てきたんだという。
「この南にある迷香の街まで船で来て、そこから街道を北上してきたの。その途中に、ほら、西に砦が見えるでしょう。あれを過ぎたあたりで……」
砦か。確かに、ある。
昔は北にある荒水の町と南の迷香の街が相当はげしく喧嘩していたそうで、砦は二つの町のちょうど中間あたり。五十年ほど前に迷香の街がその砦を建設して、今も管理している。最近は戦争の気配はないから、行き来する旅人から街道警備費の名目で通行税を取る拠点でしかないけど。
「その砦で何かトラブルが?」
訊ねると、それにはレベッカさんは「いえ」と首を左右に振った。
「砦とは関係ない……と思うけど、正直、何が起きたのかは私もよくわからないの。突然、濃い霧の中に入ったみたいに視界が悪くなって……隣にいるはずのペネロペも見えないくらい。少し前まで激しく降っていた雨の音も全く聞こえなくて、ただ真っ白なだけの無音の世界になった。私は馬を止めて、ペネロペを呼んだけど返事がなくて……」
レベッカさんはその時のことを思い出したのか、右手で自分の頭を押さえた。
「霧はすぐに晴れたけれど、ペネロペは意識を失っていたの。最初は、馬から落ちたせいだと思っていたけど、それにしては様子がおかしくて……ともかくそれで、まずはここに連れてきたの」
「そう判断してくれてよかったです。ここならお薬も調合できますし、検査のための道具もありますから」
意識を失ったままのペネロペを見つめるレベッカさんの肩に、マリアさんがそっと手を置いて、そう声を掛けた。
「ミリアにも来てもらって、法術での治療も試してみましょう。それで治るといいんですが……」
その頃になって、館からも何人か魔女の店にやってきた。その中の一人、ペトラは館からタオルや着替えを持ってきてくれている。
「ペネロペ、まさか死んだりしないよな?」
お互いにライバルと認め合っている仲でもあって、ペトラはペネロペのことを心配そうに見つめている。
「顔色は悪くないな。そろそろ目を覚まして『まあ、皆さん大げさですわね』とか言うんじゃないか?」
と、それは希望的な見方にしても、確かに今すぐにも命を落とすというような様子には見えない。実際にどうなのかは、俺にはよくわからないけど。
「俺にもできることがあればしてあげたいけど……」
得意なことといえば戦うことくらいだ。こういう時にどうしてあげたらいいか、よくわからない。もっと詳しい人が身近にいるし、出番はないかもしれない。
そう思っていると、部屋に入りきれずに廊下にいたクレールが一言。
「頭でも撫でてあげたら?」
なるほど。そのくらいなら俺にもできる。
そう納得して、ペネロペの額に左手を添えると……
「わっ、な、なんだ! なんだこれっ!」
突然の変化に、ペトラが慌てた。
その原因は俺の左手。ペネロペの額に添えたその手の甲に、正三角形の紋章が浮かび上がって、強い光を放っている。
「おい変態! 大丈夫なのかそれ!」
俺は慌てて手を引っ込めようとするけど、何か不思議な力で押さえつけられている……いや、吸い寄せられている感じで、ペネロペから手を離すことができない!
そうしているうちにも紋章の光はさらに強くなっていき、俺の視界を真っ白に塗りつぶしていった。