周囲の空気が変わった。それがはっきりとわかった。
少しひんやりしているし、なにより、周囲にいたみんなの気配が感じられない。
左手の紋章から溢れた光で白く塗りつぶされていた視界はようやく元に戻りつつあったけど、それはより困惑を深める結果にしかならなかった。
ここは……どこだろう……。
見覚えのない、石造りの小部屋だ。天井近くにある採光窓からかろうじて弱々しい光が降ってきてはいるけど、ひどく暗い。
その暗がりの先に、頑丈そうな扉があった。近付いて、その扉に手を伸ばすと……
「うっ」
思わず呻いてしまった。指先が扉に触れた途端、バチッと音がして火花が散ったからだ。
何らかの魔法によって閉ざされている、というところか。
一体、何が起きたんだろう。
俺は意識を失ったペネロペの様子を見るために、魔女の店にいたはずだ。そこでペネロペに触れたとき、急に左手の紋章が輝き始めて……気が付いたらここにいた。そういうことになる。
村のどこかではなさそうだ。もしかすると、村の外れにある遺跡か竜牙館に秘密の地下室があって……ってことはあるかもしれないけど。少なくとも俺の記憶にはない場所だ。
深く考えるには材料が少なすぎる。まずはもう少し調べてみてからだ。
そう思って部屋を見回してみると……
扉の反対側の壁際に、何者かがうずくまっている。暗くてまだよく見えないけど、たぶん、一人だ。
少し警戒しようとして、気付いた。……武器がない。魔女の店に行ってペネロペの様子を見るだけのつもりだったから、何も持ってきてなかった。こんなことになるなら短剣くらい持ってきておけばよかったな。
まあいいや。相手が一人なら、素手でも何とかなるだろう。
「そこに誰かいるのか?」
声をかけると、これまで無言でうずくまっていたその人影が顔を上げたのがわかった。
「……リオン様?」
返ったのは、聞き覚えのある声だ。
「ペネロペ?」
「はい! リオン様の愛の奴隷こと、ペネロペですわ!」
……そんな異名は知らないな。でも声だけでなく、立ち上がった姿も間違いなくペネロペだった。その服装にも見覚えがある。愛用の大盾も一緒だ。
でも、変だな。
ペネロペは意識を失って魔女の店で休んでいたはずだ。それが、見たところまったく元気そうだ。何が何だか、さっぱりわからない。
「ペネロペは、どうしてここに?」
「お姉様と共に街道を進んでいましたら、急に霧が濃くなって、はぐれてしまったのです。……そのはずなのですけど、なぜだかこの部屋に閉じ込められていて。何を言っているのかおわかりいただけないと思いますが、私にもよくわからないのです。頭がどうにかなりそう……」
途中までは、レベッカさんから聞いた話と同じだ。でも、問題はその後だな。
原因はたぶん、霧、か……。
以前、俺も神託の霊峰で深い霧に迷い込んだことがある。普通の霧じゃなかった。それは過去の不安や恐怖、後悔や絶望を暴かれる、悪夢の霧だった。
俺はそこで、かつて倒したはずの〈剣鬼〉の亡霊に襲われた。俺の故郷を滅ぼした相手。俺は確かに一度は勝っていたけど、あの時の恐怖と絶望までも乗り越えていたわけじゃなかった。闇雲に振るう剣は亡霊の身体をすり抜けるだけだった。
ペネロペが遭遇した霧が、あれと同じものだったら?
……嫌な予感がする。
「リオン様が単身私を助けに来てくださるなんて……これは夢? まぼろし? まさか現実? きゃー!」
そう言って身体をくねらせるペネロペは、今のところ、まだ悪夢に出会ったわけではなさそうだけど。
「正直に言っておくと、俺も迷い込んだ、という感じかな……」
言われたペネロペは「まあ」と驚いたけど、すぐに気を取り直した様子。
「それでも、リオン様が一緒にいてくださるのは本当に心強いですわ。一人でいるのは心細くて」
それは、そうかもしれない。戦う以外には大して取り柄がない俺でも、話し相手くらいにはなれる。
「レベッカさんもペネロペのこと心配してたよ。……どうにかして連絡できたらいいんだけど」
そうすれば少しは安心……いや、余計に不安になるだろうか。
「お姉様は無事なのですね?」
「うん。レベッカさんが意識を失ったペネロペを魔女の店に連れて行って……」
俺が知っている通りのことを説明すると、ペネロペが首を傾げた。
「私はここにいますけれど」
……確かにそうだ。でも、俺が魔女の店で見たのも間違いなくペネロペだった。
ペネロペが二人いる。
うーん。……まあ、たまにはそういうこともあるかな。
「そういえば私、不吉な夢を見まして、それでリオン様のもとへ急いでいたのです。その夢のお告げは、リオン様に危機が迫っている、というもので……」
そういえば、そんなことをレベッカさんも言ってたな。
「夏至の頃だよね? ちょうどその頃、シードラゴンと戦って倒したよ」
「もう倒してしまわれたのですか」
驚きの声を上げるペネロペに、俺は「その日のうちに」と頷く。
「リオン様のその活躍をぜひこの目で拝見したかったですけれど……無事に乗り越えられたのでしたら、それでよしとすべきなのでしょうね」
まああの時は海の中で戦ったし、船上からどのくらい見えたかはわからないけどね。活躍というなら嘆涯の海都のラムーさんの方が派手に戦っていた気がする。
「ともかく、ここから抜け出さないと」
難しいことを考えるのはその後でもいいだろう。
「はい。ですが、この部屋の扉は……」
うん。何か不思議な力で閉ざされていたな。
そう思って、改めて扉を見ると……
てのひらの形をしたくぼみが二つある。
「これは、二人で押せば開くようになってるんだと思う」
くぼみの形からすると、左には右手を、右には左手を、だ。一人では無理だけど、二人なら問題ない。
ペネロペと二人がかりで押すと、扉はすぐに開いた。
開かれた扉の先には、薄暗い地下道が続いている。
これが恐怖への入口というわけか……。
*
久しぶりの迷宮探索だけど、今のところ大した罠はない。ときどき分かれ道くらいはあるけど、その程度だ。魔獣とも出会った。ただ、いかにも肩慣らしというか……はっきり言うと、弱い。
「リオン様は本当にお強いですわね」
まあ、そう言われれば悪い気はしないけど。でも本当に相手が弱いだけなんだよな。聖騎士見習いとして訓練してるペネロペなら普通に勝てるはずだ。相手が大蜘蛛だと生理的な嫌悪感はあるかもしれないけど。
俺としては、もう少し手応えがあってもいいんじゃないかという気がする。
それでもペネロペにとっては初体験のことが多いらしくて、こんな状況だけどわりと楽しそうだ……。
幸いだったのは、ペネロペが旅の荷物の多くを持ったままだったこと。俺がいま持っている短剣はそこから借りたものだ。他にはランタンもあって、おかげでこの地下道でも視界に不自由しない。
そうして進むことしばし。
通路の先に、新たな影が現れた。シルエットは四つ足の獣。たぶん、犬が魔獣化したアタックドッグあたり……
いや、違う。
「白い狼……?」
とすれば、ダイアウルフか? 体が大きくて、これまでのやつらとは明らかに雰囲気が違う。このくらいになるとさすがにペネロペには荷が重い。
俺はペネロペを守れる位置に立って、敵が動くのを待ち構える。
彼我の間で緊張の糸が張り詰めていく。
と――
突然、俺の背後で愛用の大盾に隠れていたペネロペが「あっ」と声をあげた。
「ガルム! あなた、ガルムではないですかっ!」
その声に狼は確かに反応し、俺との睨み合いを中断した。
「ガルム?」
「私が飼っていた犬の名前ですわ! こんなに大きくなって……」
「え、犬? こいつが? ……そうかなあ……」
体が大きくてがっしりしているし、俺には狼に見えるけどな。
「まだ仔犬の頃に、猫に追い回されているのを助けたのです。私が故郷を離れる原因になった災害の後は、姿を見ていませんでしたけれど……無事だったのですね!」
そういうことなら、『仔犬』の頃は間違えても仕方ないくらいだったかもしれない。
ペネロペがしゃがんで手を伸ばすと、狼はゆっくりと寄ってきてペネロペの前に行儀良く座ってから、ペネロペの手に自分の前足を重ねた。ペネロペは感激した様子で狼に抱きつき、首周りを「よしよし!」と撫でまくった。
俺は一応、いつでも間に割って入れるように警戒していたけど、どうも本当にペネロペのかつての飼い狼らしい。こんなところでなあ。不思議なこともあるもんだ。
しばらくそうして再会を喜んだ後、狼はペネロペから離れた。奥へ向かって進み、そうして、ペネロペを振り返る。
「もしかして、案内してくれるのですか?」
ペネロペの言葉に狼は頷き、そしてまたゆっくりと奥へ進んでいく。
「行きましょう、リオン様!」
……まあ、他にあてがあるわけでもないからいいか。