急に景色が変わった。さっきまでは暗い地下道にいたのに、扉をくぐるとそこは見覚えのないどこかの町、しかも大通りの真ん中だった。
振り返ると、確かに通ってきたはずの扉がない。扉どころか建物すらない。
やっぱりこれは現実ではない気がする。まぼろしか、あるいは夢か……。
ただ、これまでのことを考えると、ここでの行動は現実の俺やペネロペにもきっと影響がある。どうせ夢だから、なんて油断はしていられない。
気を取り直して、改めて周囲を見回す。
そこそこ大きい町に見える。いま俺たちが立っているここも、大きな街道の一部だろう。
ただ、人の気配がない。そこかしこについさっきまで人がいたような生活感があるのに、人が誰もいない。そのせいで地下道の無音よりも不気味にすら感じる……。
「どなたか! どなたかいらっしゃいませんか!」
ペネロペが声を張り上げても、どこからも返事はない。ペネロペの狼……ガルムも、案内に立たずにペネロペの横にいる。
どうしたものかな。
「ペネロペ、ここはどこか知っている場所?」
「いえ、見たことがない……と思いますわ」
以前に遭遇した悪夢の霧と同じ現象なら、この町のどこかに俺かペネロペに繋がる場所があると思ったんだけど、手がかりは無しか。こうなれば全ての建物をひとつひとつ調べていくしかない……
ため息をついた時だった。
「リオンさん……?」
誰かに名前を呼ばれた。ペネロペからじゃない。だけど聞き覚えのある声。
声のした方へ視線を向けると、路地から大通りへ、女の子が顔を出していた。
少し赤みがかった金髪。背は低くて、歳は十歳くらい。
知っている子だ。だけど……
あれ?
「リオン様のお知り合いですか? ……私もどこかでお会いしたような気もしますけれど……」
ペネロペが首を傾げる。確かに、ペネロペとこの子も会ったことがある……と言えなくもないな。
何がどうしてこうなったのかはともかく、知っている子で間違いない。顔見知りどころか、俺の冒険の仲間だったこともある子だ。
「マリアちゃん」
名前を呼ぶと、女の子はぱっと顔を明るくして頷いた。
「はい……お久しぶりです」
確かに久しぶりだ。俺もそう思うから、マリアちゃんにはなおさらだろう。
ペネロペは不思議そうな顔をしているけど、どう説明したものか少し迷うな。
「この子は……まあ、前に手伝ってもらったことがあるんだ」
それは間違いない。ただ、事情はちょっと複雑だ。
マリアちゃんは、マリアさんが幼い頃はこうだったんだろうなっていう感じの子だ。外見だけでなく、内面もそう。ある意味、当然だけど。
なにしろ、俺の冒険の仲間であるマリアさんと、たぶん、同一人物。
違う現れ方をしただけで魂が同じ、とかなんとか……〈
簡単に言えば『異界のマリアさん』ということだ。
その異界では『姉のミリアさん』と『妹のマリアちゃん』の姉妹が揃って俺を手伝ってくれた。
当時の俺は元々の記憶を封印されていたから違和感がなかったけど、記憶も完全に戻ったいまでは、やっぱり少しややこしい。
「どうしてここに? ミリアさんは一緒じゃないの?」
訊ねると、マリアちゃんは首を横に振った。
「さっきまでは姉と一緒だったんですけど、急に霧が出てきて、はぐれてしまったんです……」
また、霧か。
やっぱりそれがこの現象を引き起こしていると考えられそうだ。
「もしかして、マリアちゃんはこの町に見覚えがある?」
この質問には「はい」と肯定が返った。
「以前、住んでいました。母が亡くなるまで」
なるほど。マリアちゃんに繋がる場所だったか。それで俺とペネロペには見覚えがなかったんだな。
「あの、いったい何が起きたんでしょうか。どうして私はここにいて、どうしてリオンさんがここにいるんでしょう」
もっともな疑問だけど、説明は難しい。俺だってよくわかってないから。
「俺も詳しいわけじゃないけど」
マリアちゃんもそれはわかっていると思うけど一応、前置きして……
「夢の世界、というところかな。ただ、夢といっても悪夢かもしれない」
この後、どんな危険があるのかわからない。危険があるなら、それは俺がかつて神託の霊峰で経験したときのように、過去の恐怖や絶望を形にしたものになるかもしれない。そのことを、覚悟しておいてもらわないといけない。
言うと、マリアちゃんは笑った。
「悪夢ってことは、ないと思います」
それは何か根拠があるんだろうか。だとしたら心強いけど。
「だって、リオンさんに会えました。悪い夢のはずないです」
……期待を裏切らないように、がんばらないとな。
ペネロペとマリアちゃんもお互いに自己紹介をして、三人と一匹でマリアちゃんの家へと向かう。かつて母親と一緒に暮らした家だ。この町で何かあるならそこだろう、というわけだ。
「あの後、一緒にいたみなさんと連絡をとろうと思ったんです」
道中、マリアちゃんが口を開いた。
あの後……俺が異界に封じられていた偽神〈
異界での仲間たちとは、そこで別れた。偽神の異界が消滅したから、それぞれ本来いるべき世界に帰ったんだと説明されたけど、別れの挨拶もできなかったのは心残りだったな。
マリアちゃんもそれは同じだったんだろう。
「でも、お会いできたのは雷王都市にいたニーナさんだけで……」
ん。ニーナには会えたのか。少し意外だ。俺が異界に行った時の仲間はそれぞれが別の異界から集まっていたと思ってたけど、繋がってるところもあったのか。
「はい。でもリオンさんは行方がわからないままだって、そう言われて……」
その異界の俺は、どうなったんだろう。
確か、ニーナ……異界のニーナは剣鬼に村を襲われて行方不明になったいとこを探していた。それは、異界の俺のことなんだと思うけど、その後も見付かっていないとなると……。
もう生きてはいないかもしれないな……。
俺自身、いつそうなってもおかしくなかった。剣鬼が村を襲ったあの日、両親と一緒に死んでいた可能性は、確かに俺のすぐ近くに横たわっていた。
「ニーナさん、心配していましたよ?」
それはこの俺のことではないとはいえ、『俺』のことなので申し訳ない……という、妙な気分だ。
「ニーナさんは竜牙館にいるはずでは……?」
ペネロペの認識としてはそれで間違っていない。
一方で、マリアちゃんの認識も間違ってはいない。
二人ともが納得するように話したいけど、今の俺にはちゃんと説明できる自信がない……。
「……いずれ、会いに行けたらいいけどね」
マリアちゃんとはこうしてまた会えたし、異界のニーナとも、もしかしたらどこかで会うことがあるかもしれない。
マリアちゃんの家には、何もなかった。入口の扉を開けると、中は真っ黒だった。
真っ暗、ではなく、真っ黒、だ。
「どうしたことでしょう、これは」
ペネロペが不安げな声をあげる横で、マリアちゃんはふらついて、ついには足下にへたりこんでしまった。とっさに支えなかったら倒れていたかもしれない。
「……思い出しました」
マリアちゃんが、青ざめた顔で呟いた。
「母がいなくなった後のことを思い出せない、ということを、思い出しました……」
そのマリアちゃんには、母親のいない家がどうなっているのかわからない。それで、黒く塗り潰されてるってわけか。
異様な感じではあるけど、いつまでも外から眺めていたってしょうがない。
マリアちゃんをペネロペに預けて、俺はその家の中に一歩踏み込む。……まるで見えないけど、床はある。
「リオンさん……!」
マリアちゃんの声が俺の背中に向けられた。俺はそれに片手を挙げるだけで応えて、さらに進む。
と、手探りの先に硬いものが当たった。壁……ではないな。扉だ。
腕に力を込めると、その扉はきしんだ音を立てて開いた。黒一色の中に切れ目ができて、その境界の向こうは、今度は真っ白か。
この先に何が待ち受けているかはわからないけど、まあ、進むこと自体はできそうだ。
「行こう」
振り返って声をかける。するとまずはガルムが、黒く塗り潰された部屋の中を悠然と歩いてきた。
「マリアさん、立てますか?」
ペネロペがマリアちゃんを支えて立たせる。だけど、マリアちゃんはそこから家の中へと踏み込むことはできないでいる。
これがマリアちゃんの悪夢か。幼い頃に経験した母親の死を、今もまだ受けいれられていないことが。
でも……
「今は俺がいるから心配ないよ」
俺にだって、そう声をかけてあげることくらいはできる。
顔を上げて俺を見たマリアちゃんの方へ、俺は手を伸ばす。
「おいで」
マリアちゃんがその手をとるのに、そう長い時間は必要なかった。