真っ白い空間をしばらく進むと、急に景色が戻ってきた。
何か大きな建物の中庭、という感じだけど、俺は初めて見る場所だ。規模の大きさや建材の質からすると、どこかの宮殿だろうか。
「天命都市の、大教会ですわね。聖女の広場という場所です。あちらの石碑が、ルクレツィア聖歌碑ですわ」
大教会か。規模が大きいのも納得だ。
とすると、ここにはペネロペの悪夢があるのか? 俺は大教会には行ったことがないし、マリアちゃんもたぶん同じだ。そう考えてちらりとペネロペの様子を窺ってみるけど……別に、恐怖や絶望を刺激された様子はない。
俺がそう思った直後。
グルルルル……。
「……ガルム?」
ペネロペが狼の名前を呼んだ。さっきのは狼の唸り声だ。何かを嗅ぎつけたのか、俺たちの前に立って行く先を警戒している。その視線の先で……
――ガサガサガサッ!
花壇の草花が大きな音をたてて揺れた。
何者かが隠れている!
そう思った瞬間にはガルムはすでに駆け出していて、さらに次の瞬間には目標に向かって飛びかかっていた。
「キシャーーーーーーーーッ!」
花壇に隠れていた何者かが悲鳴を上げた。ふたつの影がもつれ合いながらドタバタと転げ回り、よく手入れされた花壇から無残にも草花がちぎれ飛ぶ。たぶんまぼろしの世界だとはいえ、ちょっと心苦しい光景だ……。
あまりの乱闘に手を出せないでいると、やがて両者は弾かれたように距離を取った。ガルムはまだ歯をむき出しにして唸っているものの……
「フゥフゥ、いきなり何をするんだ。ひどいじゃないか」
相手の方はというと、くたびれた灰色の
かなり小柄な人物だ。俺も大きい方じゃないけど、その俺よりもまだ頭ふたつ分くらい小さい。マリアちゃんよりもまだ小さいってところだ。そのわりに老成した感じの声で……
そして、猫だ。後ろ足だけで直立している、黒い猫。
「おや、君は確か……」
その猫が、俺たちに視線を向けた。その隙にガルムがもう一度飛びかかったけど……
「ええい、やたらと噛みつこうとするんじゃない、この犬っころが」
黒猫は悪態をつきながらその突進を大慌てで避けた。ただそれだけでも、顔が猫ってだけで何だか笑える。
ペネロペがガルムの名前を呼んで自制を促すと、それでようやく、猫の方も落ち着いた。
「オホン。私のことを覚えているかね」
その黒猫はグリーンの目を俺に向けて、そんなことを言った。
俺には喋る猫の知り合いなんてほとんどいないから、記憶を探るのは難しくない。
この猫は、自称『偉大なる魔術師』で、名前はデューク。俺が探索した迷宮に住んでいた。後ろ足での二足歩行ができて、人語を喋る。くたびれた灰色のローブと猫の手を模した飾りがついた杖がお気に入りらしい。
魔獣というよりは、精霊とか妖精とかそういう生き物だと思う。
最後に会ったのは確か、そう、異界で偽神の封印殿に入るためにカギとなる魔導器を探していた時で、そのカギはこの猫が持っていたから、俺の持ち物のひとつと一時的に交換したんだ。
一時的に、というのはお互いにそう約束していたことで、封印殿の結界を解いた後には返しに行ったんだけど……
「……俺の地図を持ち逃げされたんだよな……」
なんとその頃、この猫は行方をくらましていた。どこに行ったのか誰も知らなくて、ただ書き置きに『旅に出ます。そのうち戻ります』とだけ書いてあった。そのうちっていつだよ……。
「持ち逃げとは失敬な」
デュークは憤慨した様子で目を見開いた。
「借りた地図をちょっと試してみたくなっただけで、すぐ戻っただろう。いつまでも取りに来なかったのは君の方じゃないか。私からすれば君に大事な羅針盤を持ち逃げされているんだぞ」
それをお互い様というのは何だか釈然としないところだけども。
「まあいい。こうして再会できたからには、今こそこの地図を君に返そう」
そう言った後、黒猫は背負った荷物袋から丸めた羊皮紙を取り出して、俺に差し出した。
受け取って開いてみると、いくつもの部屋や通路が細かく描かれていた。でも、それは俺の目の前でじわじわと消えていき、やがてほとんどの部分が見えなくなった。かろうじて残っている部分は……おそらく、この中庭か。
間違いなく、俺がこの猫に預けていた地図だ。
これは『夢路見の地図』というもので、歩いたことのある場所が勝手に書き込まれる不思議な地図だ。一瞬見えたのはこの猫が歩いた場所で、今は俺が歩いた場所だけが記録されている、というところだろう。
「それで、オホン、ええと……そう、ライオン君?」
うーん、惜しい。
「俺の名前はリオンなんだけど」
「大して変わらないじゃないか。細かいことは気にするな」
まあいいよ。いいけどね。言い間違えた方がそれ言うと格好悪いよな……。
デュークはそれをごまかすかのように、手で顔を洗う動作を繰り返してる。
「ともかく地図は確かに返したから、君に貸していた黒猫の羅針盤を返してくれないかね」
ようやく気を取り直した黒猫がそう言ったけど……
「羅針盤は館に保管してあるんだ。最初からこんなことになるとわかっていれば持ってきてたかもしれないけど、なにしろ急なことだったから。無事にここを脱出できたら返すよ」
以前の冒険が終わったあと、手元にあった荷物はかなり整理した。聖竜に預けただけじゃなく、商人のユウリィさんに買い取ってもらった物もある。
でも、その『黒猫の羅針盤』はいつかデュークに返す時が来ると思って、ちゃんと保管してある。
「そうなのか、しかたないな。ではその館とやらまで一緒に行くとしよう」
そういうことになった。まあ、何が起きるかわからない場所だし、仲間が多いのは心強いか。
「マリア君はお久しぶりだね。しばらくよろしく頼むよ」
デュークとマリアちゃんが挨拶を交わす。マリアちゃんは俺と一緒にいた頃にデュークには会ってる。
一方、ペネロペは初対面のはずだ。
「そちらのお嬢さんには、お初にお目にかかる。オホン。私は偉大なる魔術師デューク。といっても、最近は魔法より製図を専門にしているのだがね。もちろんかつて猫魔王と呼ばれた魔法の腕はいささかも衰えてはいない。君もいずれ私の恐るべき魔法を見ることになるだろう……」
ちなみに、デュークのその『恐るべき魔法』とやらは俺もまだ見たことがない。
ペネロペはしばらく無言のままじっとデュークを見て、何度か首を傾げた後で、ようやく口を開いた。
「ねこがしゃべった……!」
……今さらそこか。確かに珍しいことだけど。
「あなた、いま喋ってましたわよね!」
ペネロペがそう詰め寄ると、デュークは逆にさっきまでの饒舌さを失って、耳を寝かせた。変に期待されるとうまい言葉が出ない、みたいな様子で、ペネロペから視線を逸らしている。
でも、ペネロペの期待のまなざしを受け続けると、黙りこくっていることもできなくなったらしい。やがて小さく一言。
「……にゃおん」
今度はそれを聞いたペネロペが目を見開いて驚く番。
「あぁぁぁぁぁぁしゃぁべったぁぁぁぁぁぁぁ!」
……その驚き方はどうなのかと思うけど。
「にゃおんと言っただけじゃないか」
まさにデュークがぽつりと言った通りで、あのくらいなら普通の猫でも言いそうだよな……。
デュークの案内で大教会の中を進むと、礼拝堂にたどり着いた。ここだけでも村の教会の何倍もの広さがある。集まる人数の規模が全く違うから自然とそうなるんだろうけど。
デュークは灰色のローブの裾を引きずりながら祭壇へと向かい、その下に隠された空間があることを教えてくれた。これが完全に猫サイズだったら危ないところだったけど、人間が入れる程度の広さはある。人間だけでなく、狼のガルムも何とか通れそうだ。
「この中だ」
デュークがその入口へ杖の先を向けて言った。でも、率先して入っていこうとはしない。
「ここは?」
「聖意物を収めておく場所だと思いますわ」
俺の問いにはペネロペが答えてくれた。
そんなところに勝手に入っていいんだろうか。そもそも、デュークはどうしてここに案内してきたんだろう。
みんなの視線が集中すると、デュークは「オホン」と咳払いをした。
「かつてこの中を探検した時のことは忘れられない。あれは一生の不覚というやつだった。暗がりへと臆することなく進んでいく私の背後で扉が閉まって、閉じ込められてしまったのだ。昔の教会なら猫が通れる程度の隙間は常に開けていてくれたものだが、いつ頃からだろう、ぴったり閉めてしまうのが美徳とされるようになってしまっていたのだ……」
……迷い込んだのは、デュークの悪夢だったか。