暦によると、夏の終わりは近付いてきてる。
とはいえ、俺の体感ではそんなことはまるでなく、この暑い日はいったいいつまで続くのか、と半ば諦め気味の感想が漏れたりもする。
俺の故郷と比べると、とにかく日差しが強い。ただ、海の近くなのに意外と乾いた風が吹くから、それで少し救われている感じだ。
この執務室も、窓や扉を大きく開けていると、爽やかな風が吹き抜けていく。
「次はこれね」
吹き抜けた風になびいたふわふわの長い金髪を少し面倒くさそうにかきあげながら、クレールはそう言って、俺の目の前に新しい書類を広げた。
「これは?」
「葡萄の畑を作るのにリオンの土地を貸すことに関しての許可証だよ」
そういえばそんな話もあった。
館の西の荒れ地は、ナタリーが調べてくれた結果、危険な魔獣は棲息していないらしいと確認された。それで、自分たちで開墾することを条件に、村の人たちにしばらく無償で貸すことになった。この『しばらく』ってのは、植え付けた葡萄を収穫して葡萄酒にして売れるようになるまで……ということだ。ステラさんによると、短くても五年はかかる。
領地に関わることって、そんな感じの、結果が出るのに時間がかかるものが結構ある。
先見の明、というのがあれば俺も自信を持ってそういうのを進められるんだろうけど、あいにく俺はそんなにすぐれた人間じゃない。
やっぱり、戦って勝てば万事解決、って日々を懐かしく感じるな……。
「ちゃんと読んだ? 大丈夫?」
クレールの声で、俺は視線を許可証に戻した。
なんだか難しい言葉が並んでるのはわかる。その意味は、よくわからないところもあるけど。
「だいたいわかった」
「ほんとかなぁ」
疑わしげな目を向けられてるけど、真面目な顔で頷いておく。
こういう書類はだいたいクレールかステラさんが作ってくれてる。それに目を通して署名をするのは俺の仕事だ。
もし俺の隣にいるのが愚鈍な領主を隠れ蓑に私腹を肥やそうとする奸臣だったら、ここがまさに領地が傾きはじめる瞬間なのかもしれない。だけど、クレールとステラさんがそんなことをするはずはないから俺としては気楽だ。
いい葡萄酒が造れるようになるといいな、との願いを込めて、その許可証に署名。
あまり学はない俺だけど、ここに来てから署名の機会はとにかく多くて、自分の名前を書くのだけは上手くなった……と思う。
フルネームで、リオン・ドラゴンハート。
……仕方ないから慣れたけど、やっぱり『ドラゴンハート』って俺にはちょっと派手すぎるよなあ。
「次はこれ」
さらに次の書類が差し出されて、それにもサラサラと署名。……うん、よく書けてる。
「やっぱり読んでないんじゃない?」
クレールが重ねてそう訊いてきた。
「読んでる読んでる」
うん。そういうことでいいだろう。どうせ読んでもよくわからないから、それなら時間がかからない方がいいというものだ。
すると、俺が署名したばかりの書類を摘まみ上げたクレールが……
「これ、リオンの銅像のとこに大っきな石碑を建てる計画の申請書だけど、本当に読んだ?」
「えっ?」
言われて、嫌な汗が出た。
そんな、まさか?
親方がかねてからやりたいと言っていた件だ。それは知ってる。でも俺自身はあの銅像を観光地みたいにして目立たせるのは反対だから、俺のところに話が来たら領主の権限で止めるつもりだったんだ。
それが今、もうすでに通っていった?
「署名したし、読んで理解して承認したってことでいいんだよね?」
俺は腰を浮かせて手を伸ばしたけど、クレールは執務机の向こう側。届かない。
「ちょっと待って」
そう言ったけどクレールは取り合わない。
「親方、喜ぶだろうなー」
あからさまに聞こえてないふりをしながら、クレールは書類を決裁済みの箱へ収めようとしている。その箱に入れられたからといってすぐに取り出せなくなるわけじゃないけど、その箱自体の管理を任せきっている以上、いつまでも訂正が可能だとは思わない。
「それ取り消すから待って」
椅子から立ち上がり、机を回り込んでクレールの前に立つと、さすがにクレールも足を止めた。
「潔くないなあ」
大きなため息の後で、問題の書類はようやく俺の手元に戻った。
あとはさっきの署名を消せばいい。石碑の建立は却下ということで――
と、その書類を広げて、違和感。
「……これ、橋の架け替えの件だけど」
俺が言うと、クレールはすぐに「うん」と頷いた。
少し内陸にある湖から海へと繋がる川。そこに架かっている橋をもっと大きくて丈夫なものにしたいという話を、これも俺は親方から聞いていた。そうすれば船の行き来がしやすくなって、湖の方も港として活用できるようになるって。それでその建設費用が捻出できそうか、ステラさんに調べてもらっていて……
うん。だからこれは、通していい書類だ。
「石碑の申請書は?」
訊ねると、クレールはまた大きなため息をついた。
「ないよ」
「ない?」
どういうことだろう。さっき署名した書類が、もうない?
「そう言ったら真剣になるかと思って。当たりだったね? 次からはよく読んでよね。石碑の件はそのうち本当に来るからさ」
呆れ顔で、クレールはそう説明してくれた。
つまり……要するに……
石碑の件の書類はここにはない。そもそも、まだ来てもいない。
騙された! なんてクレールのせいにはできない。俺が書類をちゃんと読んでいれば、クレールが冗談を言っているのはわかったはずだ。
だから俺は、自分の行いを反省しつつ肩を落とすしかない、というわけだ。
優秀な補佐がいて助かるな、本当に……。
そうして書類を今度こそちゃんと読みながら進めていると、遠くからラッパの音が聞こえた。
「配達人じゃない?」
同じ音を聞いたクレールの予想は、たぶん合ってる。
そして、わざわざ配達人を使って荷物を送ってくる人となると、候補は限られる。きっと、雷王都市からだろう。だからそろそろ――
「おい変態! 手紙が届いたぞ!」
ペトラがそう言いながら、配達人から受け取ったらしい荷物を執務室まで持ってきてくれた。早い。お礼を言って受け取ると、思ったとおり、雷王都市にいるヴィカからの手紙だ。
ヴィカ……雷王都市のヴィクトリア王女は、しばらくこの館に滞在していた縁で、ときどきこうして手紙をくれる。
そしてこの館でそれを一番待ちわびているのが、ヴィカの侍女であるペトラ。それで、配達人のラッパの音には敏感に反応するというわけだ。
大きい包みは俺に宛てられた分……ではあるけど、実際のところ、館のみんなに宛てたものがひとまとめになっている。ここはときどき住人が入れ替わるから、そういうことになった。
小さい方の包みは……
「これはペトラに宛てられた分」
二人の主従関係は切れていないし、ペトラがヴィカに断りなく勝手に出て行くことはないから、ペトラ宛ての荷物が行先不明になることはない。加えて、ヴィカはペトラのことを単に侍女としてだけでなく友人とも思っているみたいだから、特に個別の手紙があっても驚くようなことじゃない。
ペトラの方は、失礼にならないように少し遠慮してるみたいだったけど、今はヴィカがそばにいないこともあって、口元がほころぶくらいは隠そうとしない。微笑ましいことだ。
「それと、これは返事を書くのに使ったらいいよ」
この時のために用意しておいたものを、俺は引き出しから取り出して机の上に広げる。
それを見たペトラは目を見開いた。
「真っ白な便せん!」
まさに、それだ。普段の俺たちが私的に使うにはちょっと気後れするような、高品質のもの。公的なものにしても、さっきの許可証くらいだとここまでのものは使わない。
それでも、普段のペトラの頑張りを思えば、こんな機会にちょっといいものを使うくらいは構わないだろう。
「い、いくらだ」
ペトラが震えた声で訊ねてきた。
「値段? いくらだったかな」
高品質のものとはいえ、特別に頼んで用意させたとかではなく、普通にユウリィさんの店で買ってきたものだ。そんなに高いものではなかったと思う。正確には確か、銀貨で――
「そうじゃないでしょ」
と、クレールの指摘が入って、俺は「ん?」と首を傾げることになった。
ただ、それも一瞬のこと。クレールが何を言おうとしてるのかはすぐにわかった。
「ああ……」
見ればペトラ、自分の財布を取り出してる。
この便せんの代金を払わないといけないと思ってるのか……。
律儀というか、なんというか。根は真面目な子なんだよな。
「それはペトラにあげるから、お金のことは気にしなくていいよ」
そう告げると、ペトラの顔には笑顔が戻った。
「本当か! やったー! 変態にしてはなかなか気が利くじゃん!」
うーん。余計な一言が出たな。
悪い子じゃないし、仕事はちゃんとしてくれてるんだけど、俺のことを変態呼ばわりするのだけはどうしても直らない。ペトラはヴィカのためにここで修行をしているだけだそうで、相変わらず俺のことを雇い主とは思っていない。変態呼ばわりもそのせいだろう。
でもまあ、そのくらいで一度出したプレゼントを引っ込めるのも大人げない。
小さくため息。
「ちょっと見直した! ありがとな!」
これで見直されるっていうのも、元はどれだけ低評価だったのかと思うと素直に喜べないけど。……まあ、いいか。