ある日の午後……。
中庭の方から言い争うような声が聞こえて、駆けつけた。
ような、と言ったのは、声を聞いただけだともしかしたら一人で騒いでいるだけかもしれなかったからだ。
「どうしてわかってくれないんですか?」
一方がそう言うと、もう一方も負けじと言い返した。
「マリアさんこそ……横暴です……」
マリアさんとマーシャ。
同じ声を持つ二人が、テーブルを挟んで言い争っていた。
マーシャはこことは違う異界の出身で、マリアさんと同じ魂を持っている一方、年齢的にはまだ幼い。見た目には姉妹のようで、実際、ほとんどそんな感じで普段を過ごしている。俺が見ている限りでは、仲も良かったはずだ。少なくとも、今日までにこんな言い争いは見たことがない。
二人の様子に驚いたのは俺だけじゃなく、俺とは反対側から駆けつけてきたミリアちゃんも、二人のただならぬ雰囲気に戸惑っている。
「どうしたの? なにかあった?」
ミリアちゃんがそう訊ねたけど、マリアさんは首を左右に振る。
「何でもないの。何でも……」
マーシャは何も答えずに、しばらく無言でマリアさんに睨むような強い視線を向けてから、ため息。
「……少し、外を歩いてきます」
もう話すべきことはない、という態度。それを見たマリアさんも、大きくため息をついて席を立ち、マーシャとは反対側に向かっていった。
……心根の穏やかな二人がこんな風になるなんて……。
「ふたりとも、どうしたんだろ?」
俺の考えとまったく同じ事を、ミリアちゃんが呟いた。
俺とミリアちゃんはもう言い争いも終わる頃にようやくここに来たから、かなり出遅れていて、どうしてこんなことになったのかわけがわからない。
でもとにかく、このまま放っておいていいとは思えない。
「俺はマリアさんを追いかけてみるよ。ミリアちゃんにはマーシャのことを頼んでいい?」
「いいよ! あたしはマーシャのお姉ちゃんだもん!」
というわけで、この件はひとまず二人が二手に分かれて追ってみることになった。
マリアさんは裏庭の、温室に近いベンチに座ってうなだれていた。
あまり驚かせないように少しばかりわざとらしく足音をたてながら近付いてみると、マリアさんも俺が追ってきたことに気付いたみたいで、顔を上げて力なく笑いかけてきた。
「お見苦しいところを……」
細い声でそう言うマリアさんの隣に座った。
夏の昼間だけど、このあたりは風が通るから暑すぎるってことはない。空も青く晴れていて、嫌な湿気も感じない。
でも、マリアさんの気持ちは、この空のように晴れ渡ってはいないみたいだ。
「マリアさんがけんかなんて、珍しいですね」
どう声をかけようか迷ったけど、迂遠な物言いができるほど気の利いた性格じゃないから、思ったことをそのまま伝えた。マリアさんはそれに苦笑を返す。
「それは……リオンさんが見ているところでは、そうですね……」
「見てないところでは」
「まあ、それなりに……」
そうだったのか。気付かなかったな。あまり他人と争わない性格だと思ってた。
確かに俺はマリアさんのことをずっと見張ってるわけではないから、まだ知らない面もたくさんあるんだろう。
それでも、とにかく、俺が見ているところでけんかをするのが珍しいのは本人も認めた事実だ。それほどのことがあったんだろう。
「何があったんです? いや、話したくないなら、無理にとは言いませんけど」
正直、俺からすると何の前触れもなかった。昨日まで、どころか、今朝まで仲が良かった二人が急に言い争いになった……という感じに見えた。
俺から見えないところで、何かが積もり積もっていたんだろうか。
「私が悪いんです」
マリアさんはまず、それだけを言った。そして、黙った。
どういうことなのか、詳しくはわからない。でも、無理に聞き出そうとはしないと言った手前、俺から言えることはもうない。
俺も黙ったまま、ただ二人でベンチに座って空を見た。
「……リオンさんは、後悔してることって、ありませんか……?」
やがて、ぽつりと、マリアさんがそう言った。
「故郷の村のことを思い出す時には、いろんな後悔がありますよ。友達のことや、両親のこと……」
俺の故郷の村は、もうない。
雷王都市の北東にあった、地図にも載らないような田舎村。そこが外からどんな名前で呼ばれていたのかも俺は知らない。そのくらい、俺にとっては世界の全てだった場所。
剣鬼に滅ぼされて、なくなった。
あの頃の俺は弱くて、ただじっと息を潜めていることしかできなかった。
俺以外に生き残りがいたとは聞かない。
……誰も救えなかった。その後悔は、今も俺の中にある。
「私にも、たくさんあります……それで、だから……」
マリアさんが、うつむいたまま続けた。
「あの頃の私にもっと知識があったら。経験があったら。ちからがあったら。……大事な……とても大事な、たった一言を、言う勇気があったら。そうしたら何かを変えられたんじゃないかって」
それと同じような経験は、俺にもある。
あの頃の俺に、今の俺のちからがあれば。今の俺なら、あの日……故郷の村の最後の日。あの時の剣鬼にだって勝てる。
もちろん、そんなのはあり得ないことだ。
マリアさんの後悔の多くも、そうだろう。今さらどうしようもない。だからこそ後悔している。
だけど……マリアさんの目の前には、昔の自分を思い出させるマーシャが現れてしまった。
それで、か。
「マーシャを変えれば、自分の過去も変えられるんじゃないか、って?」
俺の問いに、マリアさんは力なく頷いた。珍しく苦笑すらもなく、ただただ沈痛な顔。
「あの子の可能性は、私の結果とは関係ない。でも、もしかしたら。……そういうことが、頭の中をぐるぐると回っているんです……」
マリアさんの気持ちはわかる。無益なことだと頭ではわかっていても、心はすがってしまう。後悔が大きければ大きいほど。
それをマーシャにぶつけてしまったのはよくなかったけど、マリアさんもそれは自分で気付いてる。ここで俺が責め立てる意味はない。
「なかなか、割り切れないですよね」
俺がそう言うと、マリアさんは無言で肩を震わせた。
少し……落ち着くのを待とう。
風が吹いた方を見やると、何も遮るもののない、夏の海の青い空が広がっている。
故郷の空はこうじゃなかったな。山や林に囲まれていて、もっと狭かった。それが普通だったから、その頃には何とも思っていなかったけど。
思い返すと……。
故郷にいた頃は、今考えればとても些細なことでけんかをした。同じ年頃の子と見せ合った石のどっちが格好いいかなんて、なんでそんなことで殴り合いのけんかにまでなったのか。もうよく覚えていない。
ただ、それがきっかけでその子とは何だか疎遠になって、結局そのままになってしまった。
そういう小さな後悔なら、それこそいくらでもある。
それを全部ひとつひとつ取り上げて、幼い自分にあれはダメこれもダメと言い聞かせたら、言われた方はうんざりするだろうな、とは、思う。
マリアさんがそれをわからないはずはないから、それでも言ってしまうくらい、自分でも止められない衝動だったんだろう。
「ごめんなさい……こんなこと、話すつもりじゃなかったのに……」
涙をぬぐったマリアさんが、少しだけ顔を上げてそう言った。
「俺は聞けてよかったですよ。マリアさんはそういうことをあまり話してくれないので」
何か困っていることがあったら遠慮なく言って欲しいし、俺が手伝えることがあれば手伝いたい。俺はそう思っているけど、戦いのことじゃないから、あまり頼りにされていないのかもしれない。
そんな風に考えていると、俺の方を向いたマリアさんが、微笑んだ。
「だって……リオンさんは優しいので、話すと絶対、甘えてしまうんです……」
マリアさんはそれを自分の弱さだと感じてしまうのかもしれない。
それについて、俺がもう少し何か気の利いたことを言おうと思った、その時。
「お姉ちゃん! お兄ちゃん!」
マーシャを追いかけたはずのミリアちゃんが、大慌てでやってきた。
そして――
「マーシャが……マーシャが、たおれちゃったの!」
焦りのこもった声で、そう言った。