夜が明けた。
今日の夕方までには、マーシャはこの館を出ていく。
あまり深刻な話にはしたくない、というマーシャの要望で、みんなには単に「姉が心配しているので帰る」とだけ伝えることになった。これも決して嘘ではない。
朝食の席でそのことが伝えられて、みんなそれぞれに別れを惜しむ言葉をかけたけど、マーシャはちょっと困ったような笑顔で応じた。
「落ち着いたら戻ってきますから……」
それも嘘ではないし、マーシャ自身、そのつもりでいるんだろう。
でも、それがいつになるかはわからない。異界の神の眷属たちがこの世界に向けている警戒を解かないことには。
戦って全部倒してしまえたらいいのかもしれないけど、デュークの話しぶりだとかなりの強さと数で、一度倒したとしてもすぐにまた湧いてくる不死のものたちらしい。いくらなんでも多勢に無勢か。あまり刺激しない方がよさそうだ。もちろん、向こうから攻めてきたら話は別だけど。
「荷物は持って行ける?」
そう訊ねたのはクレール。
マーシャの旅立ちは、今朝に言い出して今夜にはもういないという慌ただしさだけど、それ自体はみんな納得してる。旅に生きていればそういうこともあるとわかってる。それでも……いや、だからこそか。お土産くらいは持たせてあげようというわけだ。
「基本的には持って行けない。マリア君にとってここでのことは夢の出来事になる。だが、オホン、私が持てる程度の荷物なら、私が預かっておけば消えないぞ」
デュークはうっかりそう言ってしまったせいで、かなりの大荷物を背負わされることが確実になった。
マーシャのことと同じくらい気にかかるのは、マリアさんのことだ。
二人は昨日、けんかをした。その後、マーシャが急に倒れて、もちろんマリアさんもすぐに駆けつけたし心配そうだったけど、二人の仲はまだぎくしゃくしたままだ。
ただ、今朝早く……まだ日も昇らないうちに、マリアさんが俺を訪ねてきて、
「今から魔女の店に行ってきます。マーシャが出発するまでには必ず戻りますから、心配しないでください」
と言ってきた。気にならないわけじゃないけど、マーシャのために何かしようとしているんだろうってのは想像できる。俺としては信じて見守るしかないのかもしれない。
「私が様子を見てきましょうか? ほら、四姉妹なので」
ユリアがそう言ってくれたから、お願いした。マリアさんは一人だとこういう時には頑張りすぎてしてしまう人だけど、ユリアならそのあたりをうまく緩めてくれるはずだ。
「それじゃあ、貸しひとつってことですね?」
……ちょっと高くついたかな。
朝食の席での騒動がひとしきり落ち着くと、ひとまず解散の運びになって、普段ならのんびり過ごしているミリアちゃんやナタリーも、マーシャにあげるお土産を探しに慌ただしく飛び出していった。
*
俺はマーシャに誘われて、砂浜を二人で歩いた。
頬を撫でる風、穏やかな波の音、砂を踏みしめる感触。
肌に刺さる陽光はまだ夏のものだけど、季節がうつろう気配も感じる。
でも、次の季節には、マーシャはもういない。
「みなさんには心配しないでって言いましたけど、やっぱり寂しいです。こんなに急にここを離れることになるなんて……」
「そうだね」
軽く砂を蹴って不満を表すマーシャに、俺も頷いた。
「もっともっと、やりたいこと、たくさんありました」
マーシャは元の世界には戻らないつもりでいたから、思い描く未来は当然、館にいるみんなと行く先にあった。
それが突然、断たれてしまう。
いつかは戻ってこられる一時的な別れだとデュークは言った。その『いつか』まで、俺やデュークはなんとなく過ごしてしまえるかもしれないけど、マーシャにとってはきっと、もっと長く感じられるだろう。
マーシャが立ち止まって、空を見上げた。
「私はまだ霧の中にいます。深い、悪夢の中に……」
俺も一緒に見上げた空は、晴れている。
霧はマーシャの心にかかっているものだ。きっと、あの可能性の世界からずっと。
あの時に見たマーシャの悪夢は、母親を亡くしたあとの心にわだかまっていた虚無感だった。それを、俺がマーシャの手を引いて乗り越えた。
そのはずなのに。
マーシャはまだ悪夢の中にいると言う。
「やっとわかりました。私の悪夢の正体……」
「それは?」
訊ねると、マーシャは俺に視線を向けて、困ったような顔を見せた。
「私の……本当の私の近くには、リオンさんがいないということ」
寂しさと諦めが入り交じる、乾いた笑顔。
「宝物を手に入れる夢が、一夜限りのまぼろしではなくて、だから、ここで過ごす時間が幸せであればあるほど、この宝石がいつ夢になってしまうのか怖くなって、失うことが、怖くなって……」
それ以上は言葉を続けられず、マーシャは俺から顔を背け、砂浜にしゃがみ込んだ。
かけるべき言葉が見つからない。何と言っても陳腐になりそうで。だから、ただ無言で隣に立った。
マーシャが手で砂をすくい上げる。それはさらさらと指の間から落ちていく。
しばらくはそうして過ごした。近くには他に人もいなくて、ただ潮騒だけが響いている。
「……リオンさん」
ふと、マーシャが、うつむいたまま俺の名前を呼んだ。
「一緒に行きませんか?」
その問いかけは、もちろん、散歩のことじゃない。マーシャはこれから、元いた世界に渡る。そのときのことだ。
「いいよ。行こう」
俺の返事に、マーシャはパッと顔を上げて、そして、大きな溜息を吐いてまたうつむいた。
「……そういう人ですよね、リオンさんは……」
そう言われてもね。
「この村のことはどうするんですか?」
「確かに俺はここを気に入ってるし、村のみんなも俺を立ててくれてるけど、本当は親方さえいればこの村はもう大丈夫なんだよ。前の領主を追い払ってもう一年になるし」
「館のみなさんのことは?」
「みんな自分の人生があるわけだから、俺の都合でいつまでもここに留めておけないとは、思ってるんだ」
言ったことはどれも嘘じゃない。村も、みんなも、もう俺がいなくたって平気だろうし、それどころか、俺が構い過ぎてるんじゃないかとすら思ってるくらいだ。
だから、いい機会かもしれない。
マーシャと一緒に向こうに渡って、かつて一緒に冒険した向こうのミリアさんやニーナたちに会って、それから……向こうの世界にもいたはずの『俺』がどうなったのか、調べてみたい気持ちもある。
異界神と戦う、なんてのよりは、よほど現実味のある話だろう。
でも、マーシャの評価は厳しかった。
「……リオンさんは、自分勝手です」
「そうかな」
「はい。……私も、そうですけど」
そう言ったマーシャは立ち上がり、濡れた頬を手の甲でぬぐってから、俺に向き直った。
「ごめんなさい。試したんです、リオンさんの心を」
まあ、本気じゃないだろうとは思ってた。
でも……完全に冗談でもなかった。
マーシャだけじゃない。俺も、そうだ。
「嬉しかったです。一緒に行くって言ってくれて。でも、やっぱり……忘れてください。リオンさんは、まだここに必要な人です。……それに……」
途切れがちに、だけど一生懸命に、マーシャは喋った。
「それに、わかってるんです。リオンさんは私とずっと一緒にはいてくれないってこと。今は私が困ってるから、一緒にいてくれますけど……私よりももっと困っている人を見付けたら、きっとその人を助けに行ってしまう。そういう人ですよね」
それは……他の人からもたまに言われるな。クレールなんかはもっと辛辣に「リオンは困ってる女の子が好き」なんて言うくらいだ。俺としては女の子に限ってるつもりはないんだけど。
……それはともかく。
お節介かもしれないけど、俺が手を伸ばせば助けられる人がいたら、俺は手を差し出したいと思ってる。これまでそうしてきたように、これからも。
「そこがリオンさんのいいところで、欠点でもあって……私は……」
マーシャの目の端に、また、涙が大きな粒を作った。
だけどマーシャは、それでも、泣きはしなかった。
「私は、ずっと困ったままでいられるほど強くないので」
俺の顔を真っ直ぐに見て、そして――
「だから……心配しないでください」
マーシャは、笑った。