クレールは夕食も右手だけで済ませた。
「このままじゃお風呂にも入れないから、そろそろ出来上がって欲しいね」
疲れが溜まってきたのか、そんなことも言っていた。
窓の外を見れば、満月。
個人的には、満月にはあんまりいい印象ないけどね。まあ、見るだけならきれいではある。
ステラさんからは、包丁から煙が出たら完成、と聞いてる。刃物に文様を描いていた塗料が役目を終えて燃え尽きる時に発生するものらしい。そうなるように調整されてるそうだ。
ステラさんが事前に計算した通りなら、そろそろのはず。
「さすがに飽きたよね」
クレールが言うと、近くにいたニーナが苦笑していた。ニーナだったらこれ、二日間やらないといけなかったんだよな。大変そうだ。
「儀式魔法には、より大変なものもある。魔法には忍耐も必要」
ステラさんの解説に、クレールは「うへえ」って感じの顔をした。
「父様はそういうの苦にしない性格だったけど、僕には無理だなー」
クレールのお父さんは……確かに、そういうの黙々とやりそうな人だ。時間に対する意識が俺たちとは違うせいかもしれないけど。
それにしても……聞けば聞くほど、魔法も便利なばかりじゃなさそうだな。
そんな雑談で時間をつぶしていると、夕食の後片付けも終わり。マリアさんはまだ魔女の店から帰ってきてないから、ナタリーがミリアちゃんを連れてお風呂に行った。
残りの四人で、魔包丁の完成を待つ。
そこに、ニーナがお茶とお菓子を用意してくれた。リンゴのタルトはニーナが得意としているお菓子で、ニーナ自身の好物でもあるらしい。他のお菓子の時より、ニーナ自身の取り分が多いのはそのせいだろう。
「多くない?」
クレールが訊ねると、ニーナは笑った。
「これは、私が食べたくて作ったのを他の人にも分けてあげてるだけだから。食べてもらうために作ったお菓子とは違うの」
「えぇー。僕、これだけじゃ足りないよー」
そう言いながら、こっちにチラッと視線を送ってくるクレール。
……俺の分を狙ってるな……?
こういう時は、取られる前に食べてしまうに限る。
「非常に美味」
ステラさんも同じ判断をしたようで、口をもぐもぐさせている。
「ぐぬぬ……」
クレールはほとんど睨むようにこっちを見ているけど、ちゃんと同じだけは食べたんだから、こっちも文句を言われる筋合いはないな。
そしてさすがのクレールも、ナタリーとミリアちゃんのために残してある分に手を付けるほど大人げなくはない。……未練がましく見てはいるけどね。
それからさらにしばらく経った頃。
「あ、なんか熱くなってきた気がする!」
クレールが声を上げた。見ると、包丁を持っている左手のあたりから、うっすらと煙が立ち上っていた。それは見ているうちにもだんだんと濃くなっていって……やがて止まった。
「……できたのかな?」
「できた」
クレールが訊ねて、ステラさんが頷いた。
ニーナとクレールが笑顔になった。きっと俺も同じだろう。
「開けてみていいのかな?」
「構わない」
ステラさんの返答を受けて、クレールの左手を包丁ごと覆っていた布が取り払われる。
姿を現したニーナの包丁は、まだ魔法の残滓である燐光をまとって輝いていた。始める前に描き込まれていた文様はすっかり消えていて、もう不気味さは感じない。むしろ、何か聖なる力が宿ったようにすら見える。
「た、試し切りしないと!」
クレールが言うと、ニーナが台所からまな板とキャベツを持ってきた。
ニーナに包丁を手渡そうとしたクレールは、凝り固まった左手の指をなかなか開けなくて苦労していたけど、俺とニーナが手伝ったらほどなく外れた。
包丁を手渡されたニーナは、清潔な布で刃を拭ってから、その包丁でキャベツをサクリ……。
「わっ、すごい切れ味……刃を入れても全然抵抗ない。断面もきれい。わー」
キャベツはそのままあっという間に千切りになった。
横で見てたクレールも「すごいっ!」と驚いている。
俺には、包丁の切れ味のせいなのか、それともニーナの技量のせいなのか、どっちとも判断できないけどね。ともかくすごい速さだったのだけはわかった。
ニーナ自身も驚いてるから、包丁の切れ味がすごいのは確かなんだろう。
「これは間違いないね」
クレールが言って、他の三人も顔を見合わせて頷いた。
「やったー! 魔包丁の完成だー! おめでとー!」
クレールが喜びの声を上げて、俺と一緒に拍手。
ニーナは包丁を手にしてにっこりと……うん、ちょっと怖い。
そしてステラさんは。
「その認識は誤り」
「ん?」
何が違うんだろう。
よくわからないままの俺たちは、ステラさんの次の言葉を待った。
「通常の
「つまり……?」
俺たちは「ゴクリ……」と息を呑み。
ステラさんは厳かに告げた。
「……それは聖包丁」
「聖包丁……!」
何かすごい話になったな。
クレールは訳あって、普通の人には扱えないとされる
確かにこの包丁、そう言われてみれば、何となく神々しさのようなものは感じる。
しかし、こういうこともできるのか。ステラさんは何でも知ってるな。
「そういえば僕の
「えぇ?」
クレールが自分の胸のあたりを撫でながら、そんな風に呟いた。
胸が特別減ってるようには見えない。というか元々そんなに大きくは……ああ、うん。まあ、それは今はいい。
「なんてね。特に何ともないよ」
なんだ、冗談か。
残念だな。もしそれが本当なら、俺の
「それにしても聖包丁だなんて、何だかすごそうだけど、魔包丁とは性能が違うの?」
まな板の上に横たえられた魔包丁――いや、聖包丁を、指でつんつんとつつきながら、クレールが訊ねた。ステラさんは少し黙考して、それから、返答。
「……おそらく、通常の武器で傷付かない妖魔や亡霊も斬れる」
「それ、包丁には要らない機能だよね? 食べないよね?」
クレールが即座にツッコんだ。
うーん……。妖魔はもしかしたら、ぎりぎりの極限状態だったら仕方なく調理する可能性があるかもしれないけど。
亡霊はないだろうなあ……。腐ってるか、そもそも実体がないかだと思うし……。
どっちも、食べたいとは全く思わないな。
「今後改めて武器を作ることになれば、今回の経験がきっと役に立つ。……必要なこと」
ステラさんはもっともらしい理屈を並べたけど、俺とニーナは苦笑。
「でも包丁には要らない機能だよね?」
クレールが追い打ちをかけると、ステラさんは、すっ、と目を逸らして。
「…………おそらく、そう」
と負けを認めた。
まあ、単にそんな要素が付け足されただけならいいかな。あったら困るって機能じゃないし。
ひとしきり感心した後で、さっき試し切りで千切りにしたキャベツを、ニーナがちょっとしたサラダに整えた。といっても、オリーブ油、ワインビネガー、塩を適量入れて混ぜ合わせただけだけど。これはこれで美味しい。
「これも、数百年したら
タルトが物足りなかったらしいクレールが、キャベツをもっしゃもっしゃと食べながら、合間にそんなことを言った。
「そんなに長持ちする?」
ニーナが訊ねると、ステラさんが頷いた。
「可能性はある」
「そうなんだ。すごいね」
いくつかの材料は近いもので置き換えたとはいえ、古王国時代に書かれた本の通りに作ったわけだから、他の古王国時代の魔剣と同じように長持ちする可能性はあるわけだ。魔剣ほど戦いで荒っぽく使わない分、むしろ長持ちかもしれないし。
まあ、これがどのくらい長持ちするのかなんて、それが百年を超えるんだったら、俺たちがどう論じてもね。きっと俺の方が先に死んでる。ニーナがその包丁をずっと使える程度に長持ちすれば十分だろう。
……でも、本当にそんなに長持ちなら、子供に受け継ぐとか、あるかもしれないのか。
ニーナが、ニーナのお母さんからそうしてもらったように。
そう考えると、より長持ちであることに越したことはないな。
「それじゃあさー、銘ってわけじゃないけど、何か名前付けちゃう?」
クレールの提案に、ニーナは「えぇ……」と呻いた。
「普通、包丁に個別の名前は付けないような……そもそも元にしたのはお母さんが使ってた包丁だから、伝説になるような逸話はないと思うよ」
「えっとー、ということはー……」
ニーナが渋っているのをほぼ無視して、クレールが案を練る。
少しの沈黙の後で「ひらめいた!」という感じの得意顔を見せたクレールに、ニーナと俺は不安を隠せない。
「聖母の包丁!」
そう言い切ったクレールは「どうだ、まいったか」と胸を反らしている。
なんだか、うん。安直だな……。
「ええぇ……それって『聖』を付けるところ違わない?」
ニーナの指摘ももっともだ。
あとはステラさんが鋭い指摘を入れれば、クレールも諦めるはず。
三人から視線を受けて、ステラさんが口を開いた。
「……良いと思う。伝説や伝承は、後からついてくる」
あれ?
ステラさんはクレールの案を支持するのか……。
「後からって、それ、捏造なんじゃ……?」
「これからニーナが伝説になるということ。問題ない」
「ええぇ……」
結局そのまま押し切られて、包丁の名前は『聖母の包丁』に決まった。