フューリスさんの旅立ちを明日に控えた、深夜。
少し冷えると思って目を開くと、カーテンが揺れていた。湯上がりの身体を冷ますために開けていた窓を、閉め忘れてたらしい……。
ベッドから起き上がって窓を閉めに行くと、月明かりが差し込んできた。
と……。
視線を下ろすと、中庭にフューリスさんが見えた。
何をしてるんだろう?
少し気になって、俺も二階の自室から出て階段を降り、中庭に出た。
「眠れないのかい?」
俺が来るのに気付いていたのか、俺が声を掛けるよりも早く、フューリスさんがそう言った。
「フューリスさんこそ」
「ふふ。せっかく良い月が出ているから、寝てしまうのがもったいなくてね」
確かに、きれいな月だ。俺自身は、月にはあまりいい思い出はないけど。
フューリスさんがいるテーブルには旅の荷物らしきものが並べられていた。月明かりの下で、その手入れでもしてたんだろう。
それと、小瓶があるな。中の液体は半分より少ない、といったところ。
「私の飲みかけだけれど、飲むかい?」
差し出されたコップの中身は、まあ、想像通りのものだろう。
「じゃあ少しだけ」
葡萄酒の香りを少しだけ吸ってから、軽く、ひとくち。思っていたより喉が渇いてたみたいで、呑み込んだそれがすーっと身体に染み込んでいくのがわかった。
「夜はいいね。太陽の顔を見なくて済む。沈まない太陽なんてものがあったら、うざったいことこの上ない。君もそう思うだろう?」
「はは……」
俺としては苦笑するしかない。
フューリスさんがかつて遠い土地で〈沈まぬ太陽の女神〉と呼ばれてたことを知ってるから、そうなってしまう。
その事実を共有できる間柄だからちょっと自虐的な冗談にしてみたってとこだろうけど、どのくらい笑っていい話なのかは悩むな……。こういうとき、うまい返しができるといいんだけど。
月の光を浴びながら同じテーブルについて、しばらく、二人とも無言。
……静かだな。
ハスターも今はいないみたいで、回し車は止まったまま。
聞こえてくるのは、ごく控えめな虫の音と風の音くらいだ。
「……ようやく、最後のひとつだ」
ぽつりと、フューリスさんが呟いた。それは、もちろん……
「聖石のこと……ですよね」
「そう。ひとつでも面倒くさいものが全部で三つもあると知った時にはどうなることかと思ったけれど、意外と何とかなるものだね」
力の強い魔導器とはいえ、手のひらに乗る程度の石。それをこの大陸のどこかから見つけ出す、という旅がいったいどれほど困難なものになるのか、俺には想像もできない。
でも、フューリスさんはそれをもう少しでやりとげるところまで来ている。
それは、何だろう……。
使命感? 責任感? あるいは、贖罪……?
そのいずれにしても、楽しいばかりの旅じゃなかったはずだ。
「一応、念のために訊いておきますけど」
俺が口を開くと、フューリスさんは「うん?」と首を傾げた。
「聖石で……以前の力を取り戻したいとは思わないんですか?」
フューリスさんがそれを望んでいないのは、知ってる。
知ってて尋ねるのも馬鹿げたことかもしれないけど。
でも、今の俺にとって、改めて訊いておきたい事柄だった。
つまり……要するに……。
それまで使えていた力を使えなくなるっていうこと。
それに対して、フューリスさんはどう思ってるのか。
俺は剣鬼に故郷の村を滅ぼされて、生きるために強くなりたいと願って、強くはなったけど。
そんな今の俺に、フューリスさんの経験が道しるべになってくれるかもしれない。
「君が戦いに明け暮れていた頃には、そうだね、もうちょっとだけ力があれば君の助けになれるのに、と思ったことはあるよ」
そう言って、フューリスさんは薄く笑った。
「けれど、その時ももう過ぎた。そうだろう?」
確かに、今の俺は平穏に暮らしてる。以前のように、戦いに明け暮れてはいない。時々、自警団で手に負えないような魔獣を追い払う程度。それも、他の誰かがやるのを後ろから見てるだけってことが多いな。
「望めばきりがないことだよ。だからね、他人から大事なものを奪われない程度の力があれば十分。多くを持ちすぎると、それを維持していくのには大変な労力が必要になるからね。大切なのは、自分にとって本当に大事なものとは何か、それを見失わないことだよ」
「本当に大事なもの、ですか」
フューリスさんにとって、それは何だったんだろう。
俺にとって、それは何だろう。
「私はね、それというのはきっと、両腕で抱えられる程度の大きさだと思っているのだよ」
フューリスさんは具体的に何かを思い浮かべているかもしれないけど、それが何かは、俺にはわからない。
ただ、両腕で抱えられる程度の大きさ、か。
やけに小さいな、とは、思った。
フューリスさんはそんな俺の顔を見て、ふっ、と笑った。
「私が大事に思っていたものはそのくらいの大きさで、そして――『大事に思うべきだと思っていたもの』は、もっともっと大きくて、私の両肩にのしかかってきた。それはね、私には重すぎたのだよ」
かつて〈沈まぬ太陽の女神〉は渇きの都の民を率いて〈北の魔剣王〉と大戦争を演じた。そして魔剣王が勝って、渇きの都は負けた。歴史書にはそう書いてあるけど……。
その時代のことについて、フューリスさんが話してくれたことは多くはない。
「本当に大事なものを見失ったまま、私は生きた。生きたいという気持ちはあまりなかったけれど、生まれ育った土地を見捨ててしまうのも気が引けてね。とはいえ、最後には結局、何もかもが嫌になって全部を放り出してしまったけれど」
そこまで言ってしまうと、フューリスさんはしばらく無言になって、小瓶の中に残っている液体を見つめた。
「……私はその器ではなかった、ということだね。身の程を知るというのは大事だよ。ああ、もっと早い段階でそれに気付いていれば、私よりうまくやれる誰かを見付けられていたかもしれないのに……」
静かにそう言った後には微笑を浮かべていたから、途中からは冗談だったのかもしれないけど。
フューリスさんは、大きな力を得た後のことを楽しげには語らない。そして、その強大な力を失ったことを嘆いてもいない。
むしろ、今の姿の方が自分の在りようとして正しいと、そう言っている。
聖石の力とそれに対する周囲の期待が、フューリスさんにとってどれほど重荷だったかわかるな。
力を望んだか、望まなかったか。
最初の感情が違うから、俺はフューリスさんと同じ心持ちにはなれないかもしれないけど……フューリスさんの選択は尊重したい。そう思う。
でも、ひとつだけ。
「最後の聖石を見付けたら、どうするんです?」
「もちろん、その力をもう誰も使うことがないように――」
「その、後です」
言葉を遮られたフューリスさんは、少し怪訝な顔で俺を見て、やがて「ああ」と呟いた。
「もしかしたら君は、石を処分し終えた私が人生の大きな目標を失って、その時には自らの命を絶つかもしれない……と、少しばかり心配しているのかもしれないけれど。それについては、どうか安心しておくれ。私にはその気はないよ」
「それなら、いいんですが」
俺がそう思ってしまうのは、フューリスさんの気配が、やっぱり他の人とは違うからだと思う。
こんなに近くにいて、目に見えているし、息づかいも感じるし、手を伸ばせば触れることだってできるはずなのに。
まるで、幻影を前にしているような……
「大丈夫だよ」
と、フューリスさんは微笑んだ。
「今の私には、本当に大事なものがあるからね。もちろん、それは両腕で抱えられるくらいに収まっているから、気を揉む必要はない。それならば、ねえ。最後の石を探す旅にも、快く送り出せるというものだろう?」
たぶん、俺が心配しすぎなだけなんだろう。もしかして、酔いが回ったのかな。大した量は飲んでいないつもりだけど。
「とはいえ確かに、人生を掛けた大仕事だから、終わった後のことはまだよく考えてはいない、というのもその通りではあるけれどね。そろそろ考えようとは思っているのだよ。こう見えてもね」
冗談めかしたしぐさを交えつつだから、どこまで信じたものかな。
「……君はどうなんだい? あの戦いを乗り越えて、今、君は幸せかな?」
唐突に、そう訊かれた。
いや。唐突……でもないのかな。フューリスさんの探索行も、俺の邪神との戦いも、大仕事という点では同じようなものか。
少しだけ考える。
あれからもいろいろあったけど、そうだな……。
「幸せですよ」
そこはそう言って差し支えないと思う。不満がないこともないけど、まあ、些細なことだ。
すると、それを聞いたフューリスさんは、くすりと笑った。
「ふふ。そう言い切れるのが、君の強さなのかもしれないね。私もそうありたいものだよ」
フューリスさんのそれが本気なのかはわからないけど、茶化しているという感じでもない。お世辞、というあたりかな。
「でも幸せっていうのは確かに、上を見ればきりがないものだと思います」
それも俺の本心。
「そうだね、本当に」
一度落ちたところが酷かったから、幸せ、というもののの基準が下がってる感じはするな。ナタリーもそういえば、毎日食べるものがあるだけで幸せ、なんて話をしていた。
とはいえ、少し基準を上げても、今が不幸だという気はしない。
衣食住は十分に満たされてるし、普通に暮らしていけるだけの蓄えもあるし、心配事も多くない。
なにより、何かあれば一緒に力を尽くしてくれる仲間に恵まれてる。
「この幸せがずっと長く続けばいいと思うのは、欲張りでしょうか」
試しに尋ねてみると、フューリスさんは少し考えてから、頷いた。
「そうかもしれないね。世の中は必ずしも思い通りにはならない。望外の幸運で大きなものを得ることもあるし、その逆に、予期せぬ不運に見舞われることもある。その天秤が気まぐれに揺れ動く中で永遠を望むのは、本当に大変なことだと思うよ」
一度手にしたものはもう手放したくないと思ってしまうから、その全てを守りたいと思った時には動きが鈍ってしまう。そして結局は守り切れなくなって、こぼれ落ち失ったものの大きさを悔やむことになる。
それが嫌だと、フューリスさんは言ってるんだろう。
俺も今は戦うことを自分に禁じているから、何かあったらと思うと心配にはなる。
「けれどね」
と、フューリスさんが呟いた。
「それでも、だ。明日の平穏を望む程度のことは許されるべきだと、そう思うよ。そして、その明日を終えるときに、さらに次の日の平穏を望むこともね。だからそれは、そう願い続ける限りは、小さな願いの積み重ねであって、決して欲張りではない……とまあ、そんなところかな?」
……なるほど。
「確かにそれは、永遠を願うよりは、ずっと小さな願い事ですね」
「もちろん、他の人には他の人なりの考え方があると思うけれどね」
言って、フューリスさんは小瓶の中身をぐいっと飲み干した。
フューリスさんは少し名残惜しそうに、空になったその瓶を振ってみせたけど、俺が預かったコップももう空だ。
「やれやれ。用意した飲み物も尽きてしまったようだね? しかしまあ、ちょうどいい頃合いではある。そろそろ部屋に戻って休むとしようか」
「そうですね」
それぞれ自分の部屋に戻る別れ際……。
「願わくば、明日も良い日でありますように」
フューリスさんは、そう言って微笑んだ。