夜中に一度起きたせいで少し眠気が重かったけど、それでも身体はいつもの頃合に起き出して、いつもの通りに裏庭で朝の日課である鍛錬を済ませた。
この頃はさすがに、日の出が早くなってきたことを感じるようになった。
もう春だから当たり前か。
裏庭の門から敷地の外に出ると、ここが高台なのもあって、東には調和の海がよく見える。
雲ひとつない空。今日もいい天気になりそうだ。
フューリスさんが西にある赤塞都市に向かって旅立つにあたって、なかなか、悪くない日だと思う。
先に浴場を使っていたクレールとナタリーが出た後に、俺も鍛錬の汗を洗い流す。
そうしてから、朝食のために食堂へ。
テーブルにはもうパンの入った籠は用意されていて、ナタリーがその籠に熱烈な視線を送ってる。ナタリーほどではないけど、ミリアちゃんも同じようにしているし、最近はそれにペネロペも加わった。一応、じっと見ているだけでつまみ食いはしていないみたいだけど。
「あれ。フューリスさんは?」
食堂に姿が見えないから、少し心配になった。
……もしかして、もう出発してしまったんだろうか。
誰にともなく尋ねた言葉に、クレールから返答があった。
「さっきニコルがフューリスを呼びに来たんだよ。今は表で何か話してるみたいだね」
ニコルくんがわざわざ館まで、こんな朝早くから来るのは、何かよほど大事な用事だろう。
そういえばフューリスさんは、ユウリィさんに用があるって言ってたな。ユウリィさんがいないから、ニコルくんに伝言を頼んだはずだけど……話ってそのことかな。
「早く戻ってきてほしいです。特級お腹が空いたです!」
「先に食べてていいって言ってたよ!」
ナタリーとミリアちゃんはそう言ってるけど、台所からちょっとだけ食堂を覗いたニーナがパン以外を運んでこないのは、フューリスさんが戻るのを待つっていう意思表示だろう。この空間では領主の俺より、さらに言うと侯爵位があるクレールよりも、ニーナの方が実質的な立場は上だ。
とはいえ、それから間もなくフューリスさんは戻ってきた。
「すまないね、待たせてしまって。さて、みんなに少しだけ言わなければならないことがあるけれど……それは食べながらにしようか」
フューリスさんがそう言ったのは、もちろん、今日このあとにはもう出発する、という話だろう。
せっかく来たんだからもう少しゆっくりしていけばいいのに、とは思うけど、大事な目的がある旅の途中だ。引き留めるわけにはいかない。
そこに、ニーナが朝のスープを運んできた。そしてそれと一緒に……。
「フューリスさん。今日出発するんですよね? お弁当、用意しておいたから持って行ってください。それとこっちは、少し日持ちする塩漬け肉の燻製」
手抜かりなく、用意してあった。
そうだな。引き留めるわけにはいかないんだから、こうして快く送り出すのが、やっぱり一番いいんだろう。
「ああ、ありがとう、ニーナ。しかしね、うん。そうまでしてもらって、実に言いにくいことではあるのだけれど……」
……ん?
その言葉が気になって目をやると、フューリスさんは苦笑……微笑? その中間みたいな、微妙な表情を浮かべていた。
「実はね、出発を……うん、少しばかり延期することにしたいのだよ。いつまでとは、まだはっきりしないけれど。構わないかな?」
「あれ、そうなんですか」
みんなもどうやら初耳で、軽い驚きの表情を浮かべている。
「俺は歓迎しますよ。でも、急にどうしたんです?」
「それがね……いや、まずは朝食にしよう。私も空腹を感じているからね。ああ、けれど、決して悪い理由での延期でないことは、先に承知してくれるかい」
その前置きには少し安心した。そして、空腹なのも確かに。俺だけじゃなく、多分みんなもだ。フューリスさんがちゃんと話してくれるまで疑問は残るけど、ともあれ席につく。ナタリーも限界が近そうだし。
ニーナが用意した朝食は、今日も美味しい。白いスープには旬の野菜が盛り込まれていて、冬にはなかった味。こんなところにも季節を感じるな。
ただ、ニーナには申し訳ないけど、フューリスさんの話が気になって、なかなか素直に楽しめないでいる。
「さて。……言っておいたとおり、私自身も今日のうちにここを発つつもりでいたのだけれどね」
ナタリーの食欲が他人の声を聞ける程度までおさまった頃、フューリスさんは話を再開した。
「ついさっき、ニコルが私のところに来てこう言ったのだよ。頼まれた品は必ず用意するから少しだけ待って欲しい……とね。あの店に頼んでおいたのは相当に稀少な品だから、私としてもいずれ手に入ればいいという程度に思っていたのだけれどね。ニコルがわざわざそう言いに来たのは、何らかの目処が付いたからだろう。さてそれで、だ」
一旦言葉を止めて、フューリスさんは他のみんなを見渡した。
「それならば、品が届くまでの間はここで気ままに暮らすのも悪くない。……と、まあ、そういうことなのだよ」
その顔には苦笑が浮かんでいる。
「その……捜し物のことは、いいんですか?」
俺が言ったのはもちろん、太陽の聖石のこと。フューリスさんが忘れてるはずないとは思いつつ、それでも念のため。
「うん。有力な情報は得られたし、ここまでだって長い時間をかけてきたからね。今さら半年なり一年なり足踏みしたところで大きな違いはないだろう、と思っているのだよ」
それは……そうなのかもしれない。フューリスさんがここまで歩んできた時間は、俺のこれまでの人生よりもはるかに長い。一年の長さの感じ方が違っても無理はない。
「でも、気が急いたりしないんですか」
「それはもちろん、そういう気持ちはあるよ。私には誤差でしかない時間だとしても、捜し物を持っている相手はその間にまた移動してしまうだろう。けれども、それならそれをまた追いかければいい……とも思っているのだよ。そうすればいつかは追いつけるからね」
気の長い話だ……。でも、フューリスさんならやり遂げる気はする。俺があまり心配しても仕方ないかな。
「それにね」
と、フューリスさんは続けた。
「拙速に目的を達したとしてもその後の予定をまだ決めていない、というのもあるよ。となれば、あまり急いでも仕方がない。さてそういうわけで、頼んでいる品が届くまで待って欲しいというニコルの要請は、もうしばらくここでみんなと過ごすのにちょうどいい理由だった……というところかな? 私も本音では、すぐにここを離れてしまうのは惜しいと思っていたからね」
「いいと思うよ。今ここは平和だし、春になって季候も穏やかだからね。ちょっと休憩して人生を見つめ直すにはもってこいだよ」
すぐに応えたのはクレールだったけど、みんなだいたい同じ意見だろう。フューリスさんが滞在を延長するのに誰からも異論は出なかった。
その様子を見回したフューリスさんは、その顔に微笑を浮かべた。
「……けれど、お弁当まで用意してくれたのに申し訳ないね」
そういえば確かに、出かけないならお弁当は要らないな。ナタリーが手を挙げて自分に寄越せとアピールしているけど、口いっぱいにパンを頬張っているから声はない。
「お弁当は朝食や昼食の下準備ともまとめて作っちゃうから、見た目の印象ほどには、手間はかかってないですよ」
ニーナの言い分に、フューリスさんは「そうなのかい?」と驚いた顔。
すぐ傍でそれを聞いてたマリアさんは、苦笑しながら首を左右に振っていたけど。魔女の店の手伝いに行く時はいつもお弁当を用意してもらっているマリアさんは、それが片手間にできるようなものでないのわかってるんだろう。何でもないことのように言うニーナに素直に賛成できないらしい。
フューリスさんもそれは承知した様子で続けた。
「私は自分でもわりと何でもできる方だとは思っているのだけれど、料理に関してはニーナには敵いそうもないね。雷王都市で別れてからのほんの短い間にもかなり腕を上げたようだし。正直に言うと……つまり、ねえ、これはお世辞ではない、ということなのだけれど、そこいらの食堂はもちろん貴族たちの晩餐会でもこれほどのものは滅多に食べられるものではない、という――」
「あはは。それはさすがにお世辞でしょう?」
フューリスさんがさらなる美辞麗句を紡ごうとするのを、ニーナは笑い飛ばした。
「やれやれ。どう言葉を尽くせばこの賞賛の心が伝わるのか。難しいものだね」
そう言って肩をすくめたフューリスさん。
そこに、口の中のパンを呑み込み終えたナタリーが元気な声で主張をぶつけた。
「特級おいしい! でいいのですよ!」
その物言いに、フューリスさんは苦笑を深めて……。
「ああ、なるほど。言葉を飾れば飾るほどに真実は遠のく、というものかもしれないね」