浴場の掃除は俺とクレールの二人がかりで何とか終わった。
旅の疲れを癒やす間もなくの大掃除は、正直ちょっとつらかったけど、これで今夜からも気持ちよく使えるというもの。
クレールは早速、旅と掃除の疲れをお風呂で癒やすことにしたらしい。
一緒に入るわけにはいかないので、俺はお湯だけもらって体を拭いた。ちゃんとした風呂は、他のみんなが済んでからの一番最後かな。だいたいいつもそんな感じ。
身支度が済んだらちょうどよく夕食時。日中はわりと思い思いに過ごしている館の住人たちが、食事のときにはちゃんと食堂に集合する。
俺とクレールが食堂に入ると、すでに一人。
「……おかえり」
「ただいま、ステラさん」
言葉を交わすと、ステラさんはひとつ頷いて、食堂にまで持ち込んでいた本に視線を戻した。
ステラさん……なんとなく敬称をつけてしまうけど、確か俺よりひとつ歳下。
俺と同じ黒髪で、俺とは違って赤目。物静かで、本を読むのが好きらしい。本人は、本で得た知識を実践するのも同じくらい好きだと言ってた。
ここでは経理を担当してくれているけど、そもそもは魔術士として俺を手伝ってくれていた子。それも相当の腕前。
なんでも〈西の導師〉という大魔導士の弟子なんだそうだ。
クレールも「ステラの魔術の才能は、僕の次くらいにすごい」と褒めていた。
好きな飲み物は人の生き血……らしい。俺も首筋から吸われたことがある。美味しかったらしいけど、喜ぶべきなのかは微妙なところ。
普段は普通に食事をしているけど、その気になれば他人から血と
そういえば最近、メガネをかけているのをよく見る。手元の本を読んだりする時にはメガネが必要らしい。
相当高価なものだと思うけど、師匠からもらったものを大事に使っているのだそう。
「どうだった。……神託」
本から顔を上げないまま、ステラさんが訊ねてくる。
どう答えようか少し悩んで、ひとまず当たり障りなく、でも正直に。
「良くはないけど、悪くもない……という感じかな」
言うと、ステラさんは小さく頷いた。
「悪くないなら、構わない」
神託に関する話はそれで終わり。
でも、帰ってきて最初の質問がそれっていうことは、やっぱり心配してくれてたんだろう。
――あとでみんなにもちゃんと説明しないとな。
続いてクレールが「僕の方はねー」と話し始めたけど、ステラさんが「それは後で良い」と冷たく返したから、クレールは衝撃を受けていた。
まあ、二人もそのくらい仲がいいって話。……たぶん。
と、ステラさんが顔を上げた。
「空腹。今日の夕食は何」
「僕も聞いてないなー。リオンは手伝ったんじゃないの?」
「俺はリンゴの皮を剥いてただけだから。あれはジャムにするって言ってたし、今夜の夕食のヒントにはならないかな。でも、いい匂いがしてたよ」
「いい匂いがするって、ニーナの料理はだいたい全部そうじゃないかな?」
それはまあ、確かにそうだ。
「楽しみ」
ステラさんの表情はほとんど変わらない。
他人と話す時の語彙も少ないから、その気持ちを推し量るのには慣れが必要だ。
もっとも、これでも以前よりは自分の感情を言葉にして教えてくれるようになってるんだけど。
言葉は少ないけど正直な子だから、楽しみだというのも本当のことだろう。
「ね、ね。今日はなに読んでるの?」
クレールがステラの持っている本を覗き込んでいる。
羊皮紙が何枚も綴じられたもので、ステラさんは小柄だとは言え、両手で抱えているというくらいに、かなり大きな本だ。
返ってきたのは少し意外な答え。
「古王国時代の造船工の帳簿」
「……それって読み物なの?」
俺が思ったのとだいたい同じことを、クレールが続けて質問した。
そして、ステラさんは首を左右に振る。
「読み物ではない。帳簿と言った。興味深い」
「ステラにとってはそうなんだね……僕は遠慮しとこうかな……」
「勧めるつもりもない」
クレールも本は嫌いではないはずだけど、どんな本が好きかは、人によって違いもあるだろう。
そして、俺も正直、大昔の帳簿の面白さってよくわからない方かな……。
「リオーン。配膳手伝ってくれるー?」
と、奥からニーナの声。
「はいはい」
こういうとき、以前はニーナも「誰か手伝って」と声をかけていたけど、最近は俺を名指し。
料理を運ぶ役を買って出たクレ……誰かさんが、転んで料理をぶちまけたり、食器を破損したりという事故が多発したからだ。
俺にゆっくりしていてほしくて手を出したってことだったから、怒る気にはならないけど。
「鍋に入ってるこれは、シチュー?」
「うん。でも、ジョアンさんがくれた食材を入れてみたから、いつものとはちょっと違うよ」
見た感じ、ニンジンとタマネギと肉。香辛料の香りもある。それが薄い色のスープに浸かっていて……。
あと、これ。なんだろう。芋かな。農村育ちだけど初めて見る。
「それは悪魔の実」
「え……大丈夫なの?」
もらった食材のうち、特に脅かされたやつだ。
海の向こうの国から持ち帰ったとか。で、ジョアンさんの部下がそれを炙って食べたところ、しばらくしたら体調不良を訴えて、げえげえ吐きまくったらしい……。
「ステラが調べてくれたけど、芽や緑色になった部分を食べなければ平気なんだって。今回はちゃんといいのだけ選んで使ってるから大丈夫」
そうなのか。ステラさんは何でも知ってるな……。
「それで、味はどうなの?」
「期待してていいよ。私とナタリーでちょっとだけ味見したけど、ナタリーも絶賛してた」
「それは期待できるね。それで、ナタリーは?」
「全部食べちゃいそうな勢いだったから、マリアさんのとこにお使いに行ってもらってたんだけど……まだ帰ってきてないの?」
「さっきは見なかったな……」
「どこかで寄り道してるのかな?」
ニーナが準備した料理を一人分ずつトレイに載せて、二人で手分けして食堂に運ぶ。クレールとステラさんはもう自分の席に座って、料理が来るのを待っていた。
「クレール。ナイフとフォークを持ってはしゃがない」
クレールは食事中の作法なら一番きちんとしてるのに、食事が始まるまではわりとこういうこともある。
「えへへ。待ちきれなくってさー」
「待ちきれなくってさー」
と、クレールに続けて言ったのは、いつの間にか食堂に来ていたミリアちゃんだ。
「ミリアちゃん。こういう時のクレールは真似しちゃダメだよ。悪い見本だからね」
「ひどいっ!」
「ニーナの言い分は、事実の指摘にすぎない」
「ニーナの料理を心待ちにしてるっていう最上級の表現なのに……」
大げさに泣き真似をするクレールに、ステラさんもわりと辛辣な言葉を投げかけて、状況は一層混沌としてきた。
そんな他愛ないやり取りを見ながら、ミリアちゃんは「はーい」と返事をした。
「あたしはお兄ちゃんをお手本にする!」
「それもやめた方がいいよ」「勧められない」「そうだよ」
俺が言うより早く、ミリアちゃんは三方向から異口同音のツッコミをもらった。
……自分でも言うつもりだったけど、他人に言われるとそれはそれでちょっと悔しいな。
ミリアちゃんは俺より五つ歳下の女の子。姉のマリアさんから、ミリアちゃんの薬の材料を探してきてほしいと依頼を受けたのが、知り合ったきっかけ。
元々は姉妹で雷王都市に住んでいたけど、勉強はどこでもできるからとこっちに移ってきた。今はこの館で、帝麟都市にある大学への入学試験のための勉強をしている。
前にミリアちゃんの部屋の本棚を見せてもらったときには驚いた。子供が楽しむような絵本と、俺には全く理解できない魔法理論書が同じ棚に並んでいたから。
魔法の、特に法術の方面では天才……らしい。ステラさんは「きっと歴史に名を残す」と太鼓判だし、クレールも「ミリアちゃんの法術の才能は、僕の次くらいにすごい」と褒めていた。
将来美人になるのもほぼ間違いない。本人もそう言ってる。
さて。
配膳は済んで、もう食べられるところなんだけど。
「ナタリーたち、遅いね」
「いつもなら一番に食堂に来てるのに、どうしたんだろう?」
「それは、お使いを頼んだからだけど」
そう。予定の頃を過ぎてしばらく経つけど、ナタリーがまだ帰ってこない。
たぶんマリアさんも一緒に帰ってくるんだと思っていたけど……二人とも、姿を見せない。
こういうとき、食事は先に済ませていていいということになっているけど……。
「ちょっと心配だね」
「俺、ちょっと見てくるよ。マリアさんのとこに行ったんだよね?」
「そのはずだけど……」
「みんなは先に食べてて」
何かあると困るので一応、剣は持っていくことにした。魔剣じゃない、普通の剣だけど、大抵の相手ならこれで十分。
戦わないようにしたいから、何事もないならその方がいいんだけど。