エサをもらっていた猫たちが毛繕いまで済ませて去ってしまった後、裏庭には穏やかな空気が流れていた。
今日はもう急いでやるようなことはない。もちろん、明日以降にやる予定のことをいくつか前倒しでやってもいいけど、そこまで勤勉でなくても暮らしていくことはできる。
「やはり日が差していると暖かくていいですね」
気持ちよさそうに目を細めていたヴィカがそう言った。
ヴィカは雷王都市の人だから、なおさらそう思うのかもしれない。あそこはずっと雨が降ってるし。そうでない時も少しはあるけど、降ってないというだけで曇ってはいて、日が差すなんてことは滅多にない。それこそ、雷王都市に太陽の光が差すのを見られたら願いが叶う、と言われてるくらい。
それで、ヴィカはニーナからひとつ注意を受けてたな。あまり日光を浴びないようにって。雷王都市での暮らしが長い人ほど、日焼けの苦しみが重いんだそうだ。ヴィカはそれを聞き入れて、庭にできた木陰で休んでいる。
「……そういえば、ペトラを見かけないけど、どうしたんです?」
さっきからどうも穏やかだと思ったら、そういうことだった。あの子がいると俺はずーっと睨まれてるからな……。
「ニーナさんとナタリーさんに誘われて、食材を採りに行くと言っていましたよ」
そういえば……ニーナとナタリーがそうするっていうのは、朝食の席で聞いてたけど。それについていったのか。
「いいんですか? 侍女なのに傍に居なくて」
訊ねると、ヴィカはやんわりと笑った。
「ペトラは私のことをよく気にかけてくれていますけど、せっかく旅行に来たのだからあの子ももう少し気楽に羽を伸ばしたらいいのに、と思っていましたから。そこにちょうどお誘いがあって、いい機会なのではないかと思いまして。それで送り出したのです」
なるほど。確かに、早々にここに馴染んでくつろいでるヴィカと比べて、ペトラはどうも気を張ってた感じはあった。侍女にだって休暇は必要だろう。
とはいえ、ニーナやナタリーと一緒に食材を探すって。あの二人はその達人だから、ついていくのは結構大変なんじゃないかな。
俺がそんな風にペトラの心配をしていると……
ふと、ステラさんが顔を上げた。そして。
「来た」
短く、そう言った。
「何が?」
レベッカさんがそう訊いたのに対して、ステラさんの答えは、これもまた短い。
「たのもう」
レベッカさんとヴィカはいまいちピンと来ないという顔だったけど、俺は「ああ……」とため息。
それからしばらくもしないうちに、答え合わせ。
「頼もう! こちらに竜牙の勇者がお住まいと聞いて参った! それがしと勝負してもらいたい!」
前庭の方から、野太い大声が届いた。
「……時々来るな、こういう人。何人目だったかな」
吟遊詩人が俺のことを題材にした詩歌をいろんなところで披露してるのは知ってる。人間だけでなく悪竜にまで名前が知られるくらいだから、ところかまわず、というくらいなんだろう。
そして、それを聞いたうちの何人かが、俺の居場所を突き止めてまでやってくるようになった。俺を倒せたら自分の名声が高まる、ということらしい。
えーっと……多分、四人目くらいだ。まだ片手で足りるくらいか。
「どうするのですか?」
ヴィカはちょっと面白がって俺に訊いたけど……
「断ろうかと。ああいうのの相手もそろそろ飽きてきたし」
この大災厄の時代に、本人の腕前だけではまだ名前が知られていなくて、俺を倒して一発逆転だか一攫千金だかそういうのを考えるくらいの相手だから、あんまり強い人じゃない、という感じ。
今はまだ時々で済んでるけど、相手をしていたらいずれもっと増えそうな気がするし、構わないで追い返した方がすっきりするよ……とクレールが言ってて、それもそうだと思ったんだよな。
相手がクルシスくらいに強ければ、俺としても少しは面白く感じるんだろうけど……
と思っているうちにも、相手は声を張り上げている。
「それがしは魔剣王の剣技、魔閃一刀流を修め、流派の最高師範! つまりそれがしこそが魔剣王の剣技の正統な継承者!」
そこまで聞いて、俺が思ったのは……
「あ、まずい」
ということだった。
レベッカさんとヴィカが「ん?」と首を傾げる。
でも、詳しく説明している暇がない。というか、なくなった。追い返すにしろ、挑戦を受けるにしろ、すぐに行かないと。木剣は……手元にはないな。話をつけてから、必要なら用意してもらおう。
駆け出すと、レベッカさんが追いかけてきた。俺の顔を見て、ただ事ではないと思ったのかもしれない。
「いろいろ、でっちあげの嘘っぽい肩書を名乗る人は今までもいたけど、魔剣王のだけはまずいんです。止めないと」
正門に向かうまでの間に、レベッカさんに最低限の事情を説明した。
レベッカさんは少しだけ戸惑った様子だったけど。
「え。魔剣王って確か、クルシスの……」
レベッカさんのその呟きが終わる前に、俺たちは前庭に到着した。そして……
「ほう。魔剣王の剣技の正統な継承者、と?」
「いかにも!」
前庭の中央あたりで相対する、挑戦者とクルシスの姿を見付けた。
……遅かったか……。
「嘘だな」
クルシスが、嘲弄を含む声音でそう言った。それはそうだ。気持ちはわかる。
だからこそ、クルシスより先に来たかったのに……間に合わなかった。
「嘘ではない! それがしは魔剣王の剣技、魔閃一刀流の最高師範!」
挑戦者の男は、長身のクルシスよりもさらに頭ふたつくらい大きい。ヴォルフさんよりも大きいくらいで、それなりの威圧感はある。
でも、自分が魔剣王の剣技の正統な継承者だなんて、魔剣王の末裔であることに並ならぬ誇りを持ってるクルシスの前で言っちゃいけない……。
「え、なに? なにが始まるの?」
騒ぎを聞きつけて、クレールがやってきた。少し遅れて、俺を追いかけてきたステラさんとヴィカも合流。
その俺たちが見守る前で、クルシスが魔剣を抜いた。
「ひっ……!」
息を呑んだのは誰だったか。クルシスの魔剣を初めて見るヴィカかな。
そのくらいの魔性がある剣だ。鞘から解き放たれただけで、それは甲高く哭き、周囲にまるで真冬のような冷気を撒き散らした。それは白いもやになって、クルシスの足下をすうっと流れていく。
今はクルシスが味方だからいいけど……
この魔剣〈極北の魔神〉を手にした剣鬼と戦った時は、俺もものすごい恐怖を感じたな。乗り越えたと思った今でも、この魔剣が哭く声を聞くと身震いがする。
今回の挑戦者は……特に何とも感じていないみたいだ。魔剣の恐ろしさに気付いていないのか、それとも、俺の予想以上にとてつもなく強くて気にならないのか。
いや、そんなことはどうでもいい。止めないと。
そう思って一歩踏み出すと、クルシスの視線がこっちを向いた。
……うーん。
止めるな。任せておけ。心配するな。……と、そんな感じの意図を受け取った気がする、多分。
それで俺の足は止まった。
ここはクルシスを信頼するか。……もし最悪の事態になったら、レベッカさんに葬儀をお願いしよう……。
「ならば勝負。私を倒せれば、リオンへの挑戦を認めよう」
クルシスがそう言うと、相手は笑った。
「ムッハハハ! 二言はないな?」
「ない。ただし、私が勝ったら貴様には先程の肩書を名乗るのをやめてもらおう」
そう言う間もクルシスの姿勢は変わらない。まだ構えてはいない。ただ、その全身からゆらりと
「よかろう! それがしが勝つに決まっているがな! なにせそれがしこそ、魔剣王の正統な――」
「それはもういい。さっさとかかって来い」
少しうんざりした調子の声で、クルシスは相手の口上を遮った。
挑戦者は少し気分を害した様子だったけど、すぐに気を取り直して、腰から左右一振りずつの剣を抜き放ち、二刀流に構えた。
……さっき、一刀流って言ってなかった?
「では行くぞ! 魔閃一刀流奥義、魔閃両翼撃! どりゃああああぁぁぁぁ!」
大男がそう雄叫びをあげながらクルシスに向かって突進し、左右それぞれの手に持った剣を翼のように広げて跳び上がった。
結果から言うと、相手は見かけ倒しだった。
「貴様は生涯二度と魔剣王の名を口にするな。名が穢れる」
「もう聞こえてないと思うよ」
男が左右に持ってた剣はクルシスの一太刀で粉砕され、きらきらした氷の粒になって散った。続くもう一太刀で、本人は前庭から正門を越えて外までぶっとんでいった。
「……死んだ?」
クレールがそう訊くから確かめに行ったけど、どうも死んではいないみたいだ。白目を剥いて泡を吐いて失神してはいるけど。
クルシスなりに手加減したってことなのかな。魔剣の刃で直接は斬らずに、魔剣を通して冷気を帯びた
「殺すほどの価値もない」
偽物に対して、本物としての矜恃を見せつけた、ということになるのかな。