その日は午後から陳情受付をする予定になっていた。そして、ヴィカがそれを見学したいと言ってきたから、許可した。
こういう時に限って陳情がない。
いつもはさすがに一件くらいは……うーん、まあ、ある。あったはずだ。いや、三、四回に一回くらいは何もないこともあるかな……。
ともかくそれが今日でなくてもいいじゃないか、という感じ。
「誰も来ませんね」
ヴィカがそう呟く隣で、ペトラは大きなあくびをしていた。口元を隠してもいない。
俺の隣に立ってるクレールも退屈そう。
「この村は今、平和なんだよ」
「それはいいことですね」
なんだか前にもこんな会話をしたような気がするな。
言ってることは、確かにそうなんだろうけどね。陳情がある日にしても、家庭内のけんかの仲裁をしてくれ、ってあたりがせいぜいだし。自警団の活動が順調な結果でもあると思う。
それにしても、ヴィカは壁際にある硬い長椅子に座ってるのに、俺が一番上等な椅子に座ってるのは、何となく居心地が悪い。
クレールもそうだけど、本来の地位は俺より上なのに身分を隠してるから、見た目の扱いをわざわざ雑にしないといけなくて心苦しいというか。
本人たちがそれでいいって言ってるんだから俺の気持ちの問題ではあるけど、ペトラからの視線は痛い。
やがて誰も来ないのに飽きたクレールが椅子を引っ張り出して来て座ると、それに倣ってステラさんも座り、ペトラもヴィカの隣に腰を下ろした。
「田舎変態貴族は人望がないから誰も陳情に来ない。きしし」
俺を小馬鹿にした調子でペトラがそう言って、すぐにヴィカから窘められていた。
まあ、これもペトラなりに打ち解けてきたからなんじゃないかな、と思うと腹も立たない。
ただ、俺だって人望がないわけじゃない、ってことはそのうち証明したい。
本当に人望がなかったら、クレールやステラさんほどの子がいつまでも手伝ってくれたりはしないはずだし。
……それに見合うだけのものを返せてるかどうかは、最近はちょっと自信ないけど。
「もう少ししたら夏だね」
クレールがそう言うのは、ここから見える中庭が暖かな陽気に包まれてるのと無関係ではないと思う。他に話題がないから、そうすると天気や季節の話になりがち。
「……夏は苦手。日差しが強い」
ステラさんは、そうだろう。ニーナに言われて日差しに気を付けてるヴィカよりも、ステラさんの肌の方がさらに白い。白いを通り越して青白いというくらい。これで夏の日差しを浴びても大丈夫なのかどうか、俺としても少し心配だな。
「オリーブ油を肌に塗ると日焼け止めの効果があるそうですよ。マリアさんがそう仰っていました」
その言葉はヴィカから。
「初耳。検討に値する情報」
マリアさんはこの館では一番、薬に詳しい。ステラさんもそれは認めてる。そのマリアさんが言うことなら、何か根拠のある話なんだろう。
これでステラさんの夏が少しでも過ごしやすくなるといいけどね。
「僕ねー、夏になったらやってみたいことがあるんだー」
クレールが行儀悪く足をぶらぶらさせながら、そんなことを言った。
やってみたいこと、か。
改めて考えてみると、俺自身にはあんまりそういうのないな。誰かが何かをやろうとしてたら、それを手助けしたいって気持ちはあるけど。
「やる気があるのはいいことだと思うよ。それで、何をやりたいの」
「海水浴!」
訊ねられるのを待っていましたというくらいの、即答。
「……海で泳ぐって、大丈夫なの?」
確かに、海はすぐ近くにあるし、春祭りの後くらいからは村の漁師たちも舟で出るだけでなく海に潜ってるけど。牡蠣が食卓に並ぶのもそのおかげだし。
でも、俺はもちろん、クレールも生まれは内陸の土地のはず。少なくとも俺は、海を自由に泳げる自信はないな。クレールもそうなんじゃないかと思うけど……。
「あれ、言ってなかったっけ。館の北側に斜面を下る道があってね、その先はきれいな砂浜なんだよ。陸側からだとこの館を通らないと入れないから、庭の一部ってとこかな。ちょっとくらいはしゃいでも村の人の迷惑になるようなことはないんじゃない?」
「そう思う」
クレールの言葉にステラさんが頷いた。
……俺が心配してるのはそこじゃないけどね。
それにしても、館の北に砂浜? そんなのあったかな……と思い返して。
「ああ、思い出した。前の領主を追い詰めた時に行った所か。桟橋の小舟で逃げようとしたんだよな」
前の領主が、自分の遊興のためだけでなく、この館の防衛機能のひとつとしていざという時の脱出経路に使えるよう用意していたわけだ。
それで俺はとっさに、
……あの頃は
ともかく。
これまであんまり意識したことがなかったけど、自由に使える砂浜があるのはいいな。泳ぎの練習をしようと思ったとき、泳ぎに慣れた村の人たちに無様な姿を見せなくて済むし。一応、川では泳げるんだけどね。でも海だと勝手が違うんじゃないかと思う。
「人目を気にせず海で泳げるなんて素敵ですね。楽しそうです。少し前と比べると随分暖かくなったと思いますけど、まだ海には入れないのですか?」
ヴィカの声は大きな期待を含んでいた。
普段のヴィカが暮らす雷王都市も海に面してはいるけど、あそこはほとんどが港だし、砂浜は覚えがない。それにずっと雨が降ってる土地だから、海の雰囲気も暗い。海水浴の気分は盛り上がらないよな。
それで、ここでの海水浴に興味を惹かれてるんだと思うけど……。
「親方によると、僕たちはもう少し暖かくなってからの方がいいって。村の人たちは慣れてるからもう平気らしいんだけどねー」
クレールの返答は、ヴィカの期待に沿うものではなかったみたいだ。
村の人たちはずっとここに住んでて海が生活の一部だから、慣れてるのも当然。俺もここに数年住んだらそういう身体になるのかもしれないけどね。
「そうなのですか。泳げるようになる頃まで滞在できたらいいのですが……」
ヴィカは大いに残念そうに呟いた。
彼女が雷王都市からここへ来てすでに数日。あとどのくらい滞在することになるのか、はっきりとしたことは結局まだ聞いていないけど、最初の話ではそう長い間ではなさそうだった。夏までは滞在しないだろう。
でも……。
「気が済むまで滞在していいですよ」
今の俺はそう思ってる。ヴィカも微笑を浮かべながら「ありがとうございます」と言ったから、それなりにここを気に入ったんだと思う。
ただ、ヴィカは雷王都市での立場もあるし、本人が長期の滞在を望んだとしても必ずしも思い通りにはならないだろう……というのは俺にもわかる。
そう考えると、王族には王族なりの悩みがあるものなんだな、という感じ。
「水着持ってないなら作った方がいいとも言ってたなあ。見た目では下着とあんまり変わらない気もするけど、違いはどこなんだろ」
クレールが疑問を口にすると、ステラさんが答えた。
「水着とされるものは、濡れた時に肌が透けない。主に生地の厚みによってその差が生じる」
「あー、なるほどね。それは大事かも」
そう言ったクレールの視線は俺に向いている。
……まあ、俺としてはそりゃ、気にならないはずがない。そりゃあね。
「変態がにやついてる……」
ペトラがそう言ったのが聞こえて、顔を引き締める。
……そんなに緩んでいたかな。ここには鏡もないし、自分じゃよくわからない。
うーん。でも俺も男なんだし、そういう気持ちがあるのはおかしいことじゃないわけで、ことさらに言い訳をする必要性は感じないな。……っていう言い訳を、口には出さずに呑み込むことにした。
ばたばたと複数の足音が近付いてきたのはそんな時だ。
もしかしたら、誰かが陳情に来たのかもしれない……と思った次の瞬間。
バーン! と、勢いよく扉が開け放たれた。