昨日の夕食の席でナタリーたちに科した罰がなぜか他の子の間でも流行してしまって、朝はあちこちでニャーニャーうるさかった。
その朝も終わり……。
「雲ひとつ無い、綺麗な青空ですね」
俺はヴィカと二人で館の屋上に出ていた。
屋根の上に見える見張り台が、ヴィカは前々から気になっていたらしい。
俺の部屋の前にある小さな階段を上れば、この東西一対の見張り台がある屋上に出ることができる。普段はあまり使わないから施錠してるけど、今回はニーナから鍵を借りてきた。
俺もここには滅多に来ないな。ヴィカがいる間の警護をヴォルフさんが引き受けてくれなかったら、夜をここで過ごすことになってたかもしれないけど。
そのヴォルフさんは、今は正門の外に立ってるのが見えるな。
ヴォルフさんの部下の騎士たちと村の自警団の人たちが、荒い息を吐きながら館への坂を登ってきている。
「まだ三往復だぞ! あと七往復!」
相当厳しい訓練らしい。ただ上り下りするだけでも大変な坂を、自警団の人たちは右手に銛、左手に盾を持っているし、騎士の人たちは加えてさらに金属鎧。
ヴォルフさんが将来を見込んでる若者ばかりだと言ってたから、それで特別に厳しいのかもしれない。彼らにとってはこの村での共同訓練なんて休暇みたいなもの、って『誰か』が言ってた気がしたんだけどな。
ここでのんびりしてるのが心苦しくなるような光景だ……。
ヴィカが軽く手を振ると、それに気付いた騎士たちが胸の前に槍を構えて敬礼した。それで気が付いたらしいヴォルフさんも、振り返って敬礼。
雷王都市ではヴィカの人気はかなり高い、ってニーナが言っていた。雷王都市の若い騎士たちには、ヴィカの笑顔は一服の清涼剤ってところかな。
と同時に、今そのヴィカの隣にいる俺には嫉妬の視線が向けられているような……考えすぎかな。
ちなみにいつもヴィカの傍にいるペトラは、今日はニーナの手伝いに行った。凄腕の侍女を自称してるペトラからもニーナの仕事量は異常に見えるらしく、その秘密を盗みたいと言っていた。
ニーナも多分、俺が魔獣を倒すのに付き合ってたせいで疲れ知らずの体力を身に付けたんだろうけど……それにしても、家事をこなす速度や、同じ事を繰り返しても平気な精神力はすごいと思う。
ともかくそれでペトラがいなくて、手すりから危なっかしく身を乗り出すヴィカを止めるのは俺の役目。
「雷王都市はどちらの方角でしょう」
ああ。それで身を乗り出してたのか。
屋上の床には、東西南北を示す模様が描かれてる。南にある正門から館の真ん中を通る線が、ちょうどまっすぐ南北。西には荒れ地があって、東には調和の海が広がっている。
それで、雷王都市は……。
「ここからだと北東、いや、東北東になるかな……。あっちの方ですね」
北東にしろ、東北東にしろ、海の方角なのは変わりない。
「見えませんね、ここからでは」
俺が指差した方を、ヴィカは手で作ったひさしの下から眺めて、そう呟いた。
ここからだと雷王都市は、馬車で陸路を辿るなら五日、天気次第では七日かひょっとすると十日くらいかかる。海の上をまっすぐ船で移動できればもっと早いだろうけど、それにしたって、肉眼で見える距離ではないかな。
そもそも、ここからは島のひとつも見えない。時折、比較的沿岸を航行する船は見えるけど、この村には停泊しない。通り過ぎていくだけだ。
なんとも、のどかと言えば聞こえはいいけど、雷王都市と比べたら退屈、とも言えるかな。
「雷王都市が恋しくなりましたか」
「そうですね……」
その返事に慌てたのは、むしろヴィカの方。
「ああ、ええっと、気を悪くされたならすみません……。こちらでの暮らしに不満があるわけではないのです」
俺は苦笑。別に、意地悪で訊いたわけじゃないしね。
「誰だって、故郷は特別なんじゃないですか」
言うと、ヴィカはまた海の方に目を向けながら「そうですね」と頷いた。
海の方から来る風は、意識するとやっぱり潮の香りがする。長い髪がそれに揺れて、ヴィカは少し煩わしそうに髪を手で抑えた。
「ああ、ですが、帰るのは少し憂鬱です……」
言って、ヴィカは海から視線を外し、手すりを背にして座り込んでしまった。
「リオン様もお聞き及びのことと思いますが、実は私、お父様と少々けんかをしておりまして……」
「それは、ええ、確かに。理由までは、聞いていませんけど」
ヴォルフさんの話だと確か、けんかはしたけど王様はそんなに怒ってなくて、ただすぐに謝るのは威厳がない……という感じで、特に深刻そうな話ではなかった。
だから、ヴィカがどうしてそんなに憂鬱そうにするのか、と少し不思議ではある。
そんな考えを俺の顔から読み取ったのか、ヴィカは少し悲しげに笑った。
「あれからもう二年も経ったのだから、そろそろ……と、そう言われました」
二年、っていうのは、何だろう。何の話だ?
その疑問を俺が口にするより先に、ヴィカが続けた。
「――だからそろそろ、私の新しい許嫁を選ぶ、と」
許嫁。……許嫁か。
つまり、要するに、親同士が決めた婚約者、というわけだ。
数日ですっかりここに馴染んだのもあって忘れがちだったけど、ヴィカは貴族の中の貴族、王族だ。許嫁がいてもおかしくない。
「ええ、私には許嫁がおりました。ですが二年前に、西の巡礼塔の警備を指揮してらした時に、塔が魔獣に襲われて……」
西の巡礼塔。またも意外な言葉が出て、一瞬、思考が止まった。
「居合わせた民間人を逃がすために、まさに決死の戦いをされたそうです。……後に、その時の魔獣を倒して仇を取ってくださったのが貴方だということでした。それで私は貴方に興味を持ったのです」
「はい、覚えています。あの塔のことは……」
それは、雷王都市の西にある古い時代の塔だ。
確か、支配と束縛の暗黒神を退けた大教会の英雄を記念して建てられたものだ、とニーナが言ってた。
建てられてからの長い年月の間に、そこには多くの書物が保管されていて、自由と光の教団の信者だけでなく、書物の知識を求める人たちもよく訪れる場所だったそうだ。
呼び名が、西の巡礼塔。あるいは、雷王都市では単に西の塔と言えば通じる。そのくらい有名な場所だ。
そこが、魔獣に襲われた。
俺がそこを訪れたのは、襲撃からはずいぶん経ってからのことだった。荒れ果てた塔の中で、その塔に居着いた魔獣を討伐しようとするレベッカさんと知り合ったんだ。
その上で、それでも、その時の俺たちでは獅子と竜と山羊の頭を持つ三つ首の魔獣キマイラには歯が立たず、荷物を放り出しまでしてようやく何とか逃げ切ったというありさまで、討伐できたのはもっと力を付けてからだった。
そんな強力な魔獣が塔を襲った時、ちょうどそこにいた人たちがどうなったのか、想像はできる。つらい想像になるけど。
その時、他の人たちを逃がすために自分の身を挺して戦ったというその人は、確かに、雷王都市の王女の許嫁に相応しい立派な人だったんだろう。
「あの方とは特別に好き合っていたわけではありませんでしたが、幼い頃から許嫁として接していましたので、いずれは自然とそうなるのだろうと思っていました。誕生日にはいつも贈り物をくださって……そうですね、兄のような感じ、でしょうか」
ヴィカは昔を懐かしむように目を細めて、空を見上げた。
「あの方が亡くなって、そうすると、心に穴が空いたような、そんな気持ちになりまして。そこに他のどなたかを入れるというのが、私にはまだ、うまくできそうにないのです」
自分の生を振り返ってみると、その人との思い出が意外と多いことに気付く……。
そういうのって、よくあることだと思う。
そして、その存在の大きさに気付くのは失ってから、ってことも少なくない。
「お父様はもう二年経った、と言うのですが、私としてはまだ二年しか経っていない、という気持ちなのです。……それなのに帰ればまたその話をされるのかと思うと、憂鬱になっても仕方がないと思いませんか?」
強く同意を求められて……まあ、それは確かに。
「何となく、わかります。俺もまだこの一、二年のこと、整理が付いていないことも多いです」
剣鬼の襲撃で故郷の村が滅びたこと、完全に受け止め切れてるわけじゃない。仇を討って区切りはつけたつもりだけど、それでも、村があった場所へは戻れていない。
過去の自分の弱さを、見せつけられる気がして。
そして、きっと今も、心までもが強くなったわけじゃないから。
だから……
「ゆっくりでいいんじゃないでしょうか」
そう言ったのは、半分は自分に対してだ。
「もし王様が考えを変えないなら、いつまでだって、ここに滞在していいですよ。もちろん、仲直りできるならその方がいいですけど」
それは現実逃避ってやつなのかもしれない。
だけど、身体と同じように心も疲れる。だから、心にだって休息の時間は必要だ。……と、思う。
「ありがとうございます。次のお相手も、リオン様のようにお優しい方だといいのですけど」
そう呟いたヴィカは、膝を抱いて大きなため息を吐いた。
――ああ、このことだったのか。
と、急に納得した。
ヴィカのことをヴォルフさんから頼まれた俺が、雷王都市の王女ヴィクトリアについて「よく知らない」と言った時のこと。その時、ヴォルフさんとニーナが何だか俺に気を遣っているように感じたんだ。
でも、事情を知った今、それが俺の勘違いだったことがわかった。
一年半くらい前、俺が雷王都市に流れ着いた頃。
……西の塔の襲撃からは、まだ半年。
二年経った今のヴィカでさえ、こんな感じだ。当時のヴィカはまだ心に大きな哀しみを抱えていたんだろう。そして多分、あまり人前に姿を見せていなかった。
ニーナたちはそのことを思い出して、俺がヴィカのことをよく知らなくても無理もない、って理解したんだな。
最初は、雷王都市のお姫様がどうしてこんなところに、なんて思ったけど。
雷王都市が見えないくらい、遠く。家族や友人知人もほとんどいなくて、少し心細い反面、自由で……
あとは、空が青い。
ずっと雨が降ってる雷王都市よりは、ここの方が気も晴れるかな。
やがて……
ため息をつくのにも飽きた様子でヴィカがふと顔を上げて、かと思うと、その視線がじっと俺の顔に向けられた。
「……そういえば、父ははっきりとは口にしませんでしたが、貴方のことも私の許嫁の候補にしているものと……」
「ああ……」
ヴォルフさんもそんなことを言ってたな。婿候補にならないかって。しかもそれが王様からの伝言って。
言われたその時はすぐに断ったけど、ヴィカの事情を知った後だと、何とかしてあげたいという気持ちはあるな。……まあ、俺が婿候補になる以外の方法で。
「リオン様には、心に決めた方が?」
ヴィカがそう訊ねてきたのは、冗談なのか本気なのか……。
「俺はまだそういう気持ちにはなれないので……」
前にクレールから似たようなことを聞かれた時にも、似たような感じの言葉を返したと思う。
「ふふっ。身近に魅力的な女性が多くて、一人に決めきれないのですね?」
いたずらっぽく笑って、ヴィカはそんな指摘をしてきた。
「それは否定できないところですが……」
実際、みんなそれぞれ違った魅力がある。一人だけ選べ、と言われたら決めきれないだろう。そもそも俺に選択権があるのかどうかは、また別の話だけど。
俺が抱えてる問題は、今のところは、そこじゃない。
「……みんなにはまだ秘密にしてますけど、激しい戦いが原因で健康上の不安があって。それで今は断っているんです」
ヴィカが言ってるのは多分冗談だろうと思いつつも、雷王都市のお姫様との縁談を断るとなれば、それなりの説明をする責任があるだろう。
聞いたヴィカは「えっ」と声を漏らした。
「ご病気なのですか。気が付きませんでした。法術では治らないのですか?」
今のところ、身体に目立った異常があるわけじゃないから、気付かなくても当然だ。悪竜の言葉がわかるようになったことなんかは、むしろ便利だと思う人もいるだろうし。
いずれにせよ、身体が竜に近付いてる、なんて症状が法術で治るとは思わないな。
「神託の霊峰の聖竜によれば、戦いから離れていれば改善するだろうと。いずれにしても今日明日にどうなるというものではないので、あまりお気になさらず」
あの竜は、見ているものが俺と違いすぎていまいち参考にならないところもあるけど……多分、一応は、適切な助言をしてくれているはず。
「そうなのですか。それなら、良いのですが……」
ヴィカはそう言って立ち上がり、俺の手を取って、それを両手で包み込むように握った。
「お体、大切にされてくださいね。万が一の時、残される者はつらいですから」
重い実感のこもった言葉だった。
それについて、俺が何か言葉をかけようとした時……
「ヴィカ様ー! ただいま戻りましたー!」
中庭から、ペトラの声がした。見ればニーナと一緒に、洗濯物のカゴを抱えていた。村の洗濯場から帰ってきたところらしい。
「そろそろ降りましょうか」
言って微笑むヴィカの手を俺は軽く握って、階段を下るのに付き添った。
「ありがとうございます。……少し、気が紛れました」
悲しい記憶にどう区切りを付けるのが一番いいのか、俺にはよくわからない。
きっと、誰でもに効く薬みたいなのは、ないんだろう。
ただ……ここでの休暇が何かの助けになればいいな、とは、思った。