朝早くから、正門の外には豪華な馬車が停まっていた。もちろん、ヴィカがここに来た時に乗っていたものだ。荷物のほとんどはすでに積み込まれた後で、後はヴィカとペトラが乗り込めば出発できる、という状態。
ヴォルフさんはその馬車の御者と一緒に、外で待っている。あまり急がなくてもいいとは言ってたけど、日が出ているうちに今日の宿がある隣町まで行くとなれば、あまり出発が遅くても問題だろう。
朝食が済めば、ヴィカとペトラは帰ってしまう。
それをみんな知ってるからか、今日は誰も朝食に遅れはしなかった。
すでに食卓に並べられているのは、朝食にしては豪華な料理の数々。ナタリーなんかは「朝からこんなに食べていいんですか!」と喜んでる。その上で、朝から重いな、みたいなのはひとつもなくて、どれもすんなりと身体に入っていきそうなものばかりだ。
ニーナはそれらを早朝から一人で作った。いや、昨晩から仕込んでたらしいものもあるな。いずれにしろ、かなり手間がかかってるのは確かだ。
そういえば、このスープは確か……フューリスさんが出発する予定にしてた朝にもあったな。きっと何か、旅立ちに向けて力が出るような、そういう素材のスープだ。
そして、そう。よく見れば、ありきたりないわゆる『高級食材』ではなくて、この土地のものがたくさん使われてる。
ニーナなりの、旅立ちの日の料理。
「こんなに心のこもった料理でお見送りしていただけるなんて、感激です。本当にありがとうございます」
朝食の前にヴィカがそう挨拶した。ペトラもその後ろに立っている。
「ここに滞在している間、皆様にもとてもよくしていただいて、感謝の念に堪えません。私は今日これにてここを去りますが、いつかまたお会いできましたら、その時はどうぞ変わらぬご友誼を――ああ、ええっと、その……皆さんさえよろしければ、これからもずっとお友達でいてください」
公式行事での挨拶みたいな堅苦しい感じになってたのを、途中で無理矢理修正したな……。まあ、雷王都市の王女ヴィクトリアでなく、ヴィカとしてなら、その方が自然か。
みんなから口々に「もちろん」と声を掛けられて、ヴィカは笑った。
うん、いい笑顔だ。
ヴィカは、雷王都市に帰ればおそらく大きな問題に直面することになる。ヴィカ自身もそれをわかってる。でも、こんな風に笑えるならきっと、乗り越えていけるんじゃないかな。
ここでの思い出と、いつも一緒にいるペトラが、ヴィカを助けてくれるはずだ。
「それで、あの……少々、申し上げにくいことなのですが、ひとつお願いがありまして……」
……うん? 何だろう。俺には心当たりがないな。ニーナも何も聞いてない様子で、こっちに視線を送ってきた。結局、お互い何もわからないってことがわかっただけだったけど。見回すと、みんなもそうらしい。
「……いったい、どうしたんです?」
代表して俺が訊ねると、ヴィカが「実は」と切り出した。
「ペトラを、もうしばらくこちらで預かっていただきたいのです」
みんなの視線がペトラに集中する。
注目されたペトラは、ヴィカの隣に一歩進み出て丁寧に頭を下げた後、ぎこちなく笑った。精一杯の笑顔らしいけど、さっきのヴィカや、昨晩のペトラ自身の笑顔と比べると、ひどいものだ。
「……一緒に帰るんじゃなかったんですか」
まさか、何かの罰で居残りになったんじゃないだろうな……。
「昨晩、改めてよく話し合いまして。私としては、ペトラの意思を尊重することにしました。もちろん、皆さんの許可をいただけたら、ですが」
ヴィカがそう補足した。ペトラ自身の希望なのはわかったけど、その詳しい理由はわからない。
「ちゃんとペトラの口から理由を訊いてからかな」
俺より先に、クレールがそこを指摘した。
「何が気になるの? もしかして……」
そういぶかるクレールだけでなく、何人かが俺の方にちらっと視線を向けた。
もしかして、俺がペトラをたぶらかしたと思われてる……?
「私、私は……」
ペトラは緊張した面持ちで、視点が定まらない。その中で、俺の方にも視線を向けた瞬間はあったけど、何か意味がある視線だったかどうかは、はっきりしない。
ただいずれにしろ、ペトラがここまで言いにくそうにするとは、よほどの理由があるんだろう。
……たっぷり二十ほど呼吸する間をあけてからようやく。
ペトラが深呼吸をした。そして、顔をまっすぐに上げて……
「ニーナ!」
と、名前を呼んだ。
「は、はいっ?」
いきなり巻き込まれた、という様子で、ニーナが慌てて姿勢を正した。
クレールが拍子抜けしたような声で「あれ、そっち?」と呟いた。……正直、俺も似たような気持ちだ。
そんな俺たちのことはお構いなく、ペトラは言葉を続けた。
「私、ニーナの料理の腕、掃除洗濯の手際、館の隅々まで把握している気配り、そして住人たちを等しく包み込む母のような愛……そういうのに本当に感動して……ここでもっと修行したいと、そう思うようになった。より強い侍女になるために……!」
……強い侍女? よくわからない用語が出てきたぞ。
ともあれ、何やら熱意があるのは伝わってくる。
「ぜひ学ばせてほしい、ニーナ……いや、師匠!」
「えぇ?」
ニーナのところまで駆け寄ったペトラがその手を取って懇願したけど、ニーナは困惑顔……。
とはいえ結局、ペトラを受け入れること自体は賛成多数になった。
ニーナの負担が今まで以上に大きくなるのか、それとも手が増えて楽になるのかは、まだわからない。
「よかったですね、ペトラ。しっかり学んできてくださいね」
ヴィカにそう激励されて、ペトラは「はい!」と元気に頷いていた。やる気は十分にありそうだ。
「それじゃ、もうしばらくよろしくな、変態領主!」
……こうなると、昨日の夜ペトラに「あの程度の悪口は気にしてない」なんて言ったのは、早まったかな。まあ、今更ペトラから『リオン様』なんて呼ばれても逆に落ち着かないかもしれないけど。
*
ヴィカの乗る馬車をみんなで見送って、それが解散になっても、ペトラはまだその場を動かずにいた。馬車が見えなくなるまではいいか、と、俺も付き添う。
止まない雨の降る雷王都市とは違う、真っ青な空。
ペトラはしばらくの間、ヴィカとは違う空の下で自分を鍛える決断をした。それ自体は、応援してあげたいところだ。……あとは暴言が減ってくれると、なおいい。
そんな風に考えながら立っていると、ニーナが声を掛けてきた。
「それじゃ、私は食堂の片付けに戻るから。リオン、しばらくペトラのことお願いしていい?」
俺は今日のところは暇……んん、ではなく、急いでやるべきことは全て済んでる状態だから、そのくらいは構わない。
「あ、私もやる! 片付け!」
ペトラが手を挙げたけど、ニーナは首を横に振る。
「気が済むまで見送ってからでいいよ。今日はもともと一人でやるつもりだったし。明日からはしっかり手伝ってもらうけどね」
そう言われたペトラの顔は、不満半分、感謝半分。仕事は頑張りたいけど、ヴィカと離れた寂しさは大きい……ってところか。
しばらくこの子を任された身としては、何か声を掛けてあげたいところだけど……
「あ、でもひとつだけ」
と、食堂に戻りかけていたニーナが振り返った。
「ひとつだけ、今日のペトラにやってもらいたい仕事があるの。えーっと……はい、これ」
ニーナが懐から取り出してペトラに手渡したのは、ひとつの鍵。
「これは?」
「使用人部屋の鍵。西側の、謁見室と応接間の間にあるから、そこの掃除をお願いね。場所がよくわからなかったら、リオンに案内してもらって」
渡された鍵を見て最初は少し戸惑っていたペトラも、その鍵とニーナの顔との間で視線を往復させるうちに、意味を理解したらしい。
まあ……いつまでも客室を使われたら困るよな。
「もうお客さんじゃないんだから、自分の部屋は自分できちんとすること。いい?」
ペトラはその鍵を両手で握りしめて……
「うん! もちろん、そうする!」
と、元気な返事をした。