ここ数日、日差しが明らかに強くなって、外に出ると日陰が恋しい気持ちになる。
季節は夏に入った。
それで少し、故郷のことを思い出した。
故郷は森を切り開いて作った村で、雷王都市みたいな都会と比べたら本当に何もなかったけど、涼しい木陰はたくさんあった。川と畑を往復して水を運ぶのは当時の俺には重労働で、そこでよく休憩したな。
二年前は、そうやって暮らしていた。
……遠く離れた海沿いの村で領主をやることになるなんて、その頃は思いもしなかった。
今の俺が住んでいる『竜牙の村』の方にはいくつかの変化があった。
一番は、港の整備が始まったことだ。それに先だって、作業を担当する人や、そのための資材が集まった。そのことでトラブルも少しあったけど、現場の揉め事のほとんどは親方が対応してくれてる。あの人はそういうのが得意だし、好きでもあるようで、俺としては楽だ。
整備は数年をかける計画で、この夏には大型の船が停泊できる桟橋を新設する予定になってる。
大きな船が入れるってことは、干潮の時にも底を擦らないくらいに深さがあるってことだ。村の漁師たちが使ってる桟橋より、かなり大きくて長い物を作ることになる。話を聞く限り、資材さえあれば技術的には可能らしいから、俺が下手に手を出すよりは任せてしまった方がいいだろう。
それから、何人かの移住希望者もやってきた。
ほとんどは家業を継げない次男三男という人たちだそうだ。念のため確認したけど、この村まで手配書が来てるような悪党は混ざってなかった。
目を引いたのは、この村で鍛冶をしたいという女性。故郷の街では女性だと鍛冶屋の組合に所属できず鍛冶場を持つことができなかったそうだ。この村には鍛冶屋はひとつしかなくてしかももうそろそろ引退を考える歳、ということもあって、受け入れが決まった。
親方の後押しもあった。その理由のひとつには、この村の男女比の問題もある……。
まあ、本人はどうやら「よりどりみどりじゃないですか!」という気持ちらしいから、それなら俺からとやかく言うこともない。好みは『はち切れんばかりの筋肉がある男』だそうで、俺は候補者になっていない。
比べると、館の方には特に変化はない。ただ、変化がなさ過ぎるのも少し心配になるところではある。
特に気になるのは、クルシスのことだ。
ヴィカよりも先にこの館に来て、フューリスさんのように目的がある旅の途中のはずだ。となれば、滞在はほんの数日……と思っていたのに、いまだに旅立ちをためらっている。
俺はその理由にまったく心当たりがなくて、どうにもしようがない。
それで今朝、思い切って直接訊ねてみた。
「もしかして何かあった?」
曖昧な尋ね方だけど、そうとしか訊きようもなかった。
俺のその問いに、クルシスが神妙な顔で返してきたのは……
「……つまり、旅に出ると食事が不味い、と」
少し意外だけど、切実な事情ではある……かな。
「あんなものは人間の食事ではなく、家畜の餌だ。最大限に譲歩した表現で、人間の餌だ」
そういえばクルシスはここに来た当初から、他で食べた料理には厳しい評価をしてたな。
「それに比べて、昨日食べた……あの赤い果実の」
あれか。ニーナ自身が好きでときどき焼いてるお菓子。
「確か、ストロベリータルトだ」
それ用に作った生地をお皿みたいにして、バターや特製のクリーム、それにたくさんのイチゴを乗せて焼いてあった。前はリンゴを使って作ってたけど、ちょうど手に入る物を使うことにしてるらしい。甘さの中にイチゴの爽やかな酸味が効いてて美味しかったな。ニーナが作る料理はだいたい美味しいけど。
クルシスは昨日食べたその味を思い出すように目を細めた。
「あれは天上の美味だ」
その言葉は少し大げさに聞こえるかもしれないけど、実際に食べたらそう言いたくなる気持ちはわかる。
ただ、そのおかげで――
そのせいで、と言うべきか。
クルシスとしては、粗末な料理を身体よりは心が受け付けなくなって、それで出発をためらっているらしい。
元々の腕に加えて魔包丁にも慣れたニーナの料理は、いまやそういう魔性を持っている……。
「だが、それを振り切ってでも出発するつもりも、最初は、あった……」
次の目的地がひとまずは天命都市だから、目的地が同じレベッカさんとペネロペが出発するのに合わせるつもりだったらしい。
誤算だったのは、その二人の方も教会の修繕に手間取っていて、出発の気配がないこと。聖意物についてステラさんの師匠である〈西の導師〉に訊ねた返事を待ってる、という事情もあるけど。
それでクルシスもずるずると滞在を引き延ばしていたわけだ……。
数日分なら、保存が利く食材で作ったお弁当をニーナが持たせてくれると思うけど、その先はどうするのか、というのはやっぱり問題だ。
そのことを夕食の席で誰とはなしに相談したら、「それなら」という助言があった。
クルシスと二人で村の酒場を訪ねたのは翌日の午前中のこと。
ここにいる、ある人物に会うためだ。
「ああ、はい。わかりますよ、各地の美味しいお店」
傭兵の
組合が発行している『傭兵組合詳報』には美味しいお店の情報も載ると、そういえば最初の取材の時に言ってたな。
会う時はだいたい半々くらいの確率でぐでんぐでんに酔っているけど、どうやら今日はまだ酔ってないらしい。昼前に来て正解だった。
酒場には他の客はいない。港の整備の作業に来ている人には朝のスープを無料で提供してるけど、それも済んだ後だそうだ。マスターはその片付けをしている。
ネスケさんは鞄をごそごそとかき回したかと思うと、そこから一冊の本を取り出した。きれいな装丁で厚みのある本だ。
「これはおよそ二年に一回発行してる飲食店ガイド本で、去年の終わり頃に発行された最新の版です。私の読み古しですけど、これで良ければ」
「そういうのもあるのか」
クルシスが感心したように声を漏らした。確かに俺も、紙面の一部に少し載っているだけかと思ってた。こんな本になるほどの量だとは……。
「各地を旅する傭兵の間では美味しいお店の情報が求められていますから!」
傭兵って何となく粗食にも耐える印象があるけど、こんな本ができるってことは、そういう人たちばかりでもないんだろう。むしろ、体が資本の稼業だからこそ、食べ物に気をつかうのかもしれない。
「この酒場の料理も格付けを?」
クルシスが尋ねた。そういえば、ここの料理は平気だったよな。
確かに美味しい店だ。この村の新鮮な食材を使ってるし、何より、先々代の領主の下で家令だったという店主の腕が熟練の域。味付けは少し酒飲み向けだけど、クルシスならそこは問題にならない。
この店の評価がどのくらいかがわかれば、本に載っている他の店の味を推し量る基準になるな。
ただ、ネスケさんの返答は、残念ながら。
「あー、いえ、私はグルメ担当ではないので、すみません……」
そういえば、美食記事の担当記者は、正体を隠して取材をしているとかなんとか言ってたな。
で、ネスケさんは対談記事の担当だと。
……うん、まあそれもそうか。
正直に言うと、ネスケさんには悪いけど、飲食店の質について厳正な格付けができる人じゃないよな。主にあの、酒癖の悪さのせいで。
「でも他の店でも食べたことがある私の個人的な印象では、星三つ……いや四つは堅いですね。ちなみに最高点は星五つです」
まあ、個人的な感想、ということならいくらか参考にはできる。
それにしても、ここですら最高点じゃないのは意外だな。というのは、俺がこの村の領主だから、ひいき目ってのもあるかもしれないけど。