その日は朝食の後すぐから執務室で古王国語の読み書きを勉強していた。少し前からステラさんの指導で学んではいるけど、どうもまだすらすらというわけにはいかない。
今でも使われてる言葉の元になっている、という部分も多くて、それならわかりやすいかも……と思ったのは最初のうちだけで、今はよく似ているからこそ間違えてしまう、という段階。
一応、古王国語の本も少し読めるようになった。ステラさんによれば、古王国では五歳くらいの子供が読んでいた本らしいけど……。これが読めるようになっただけでも大した進歩だろう。うん。
でも、辞書を引きながら子供用の絵本を読むのに疲れたのも確かで、休憩を挟むことにした。
「ペトラちゃんすごーい!」
「きしし。そうだろー」
執務室から出ると、広間の方から何やら楽しげな声が聞こえた。
「どうしたの」
「あ! ねえねえお兄ちゃん! ペトラちゃんがすごいんだよ!」
俺が声を掛けると、ミリアちゃんが振り返った。一緒にいたペトラは得意げな顔をして、その指でペンのような細い棒をもてあそんでいる。
「ダーツ! 投げたらぜーんぶ的の真ん中に当たるの!」
ミリアちゃんからそこまで言われてようやく、広間の反対側に的があるのに気付いた。この木の板は……温室で使うフラワースタンドを作った時の余りか。三重丸が描かれていて、確かにその真ん中にダーツが三本、突き刺さってる。
「……仕事は?」
得意げな顔のペトラに、一応そう訊ねてみたところ、
「怠けてるわけじゃないぞ! 休憩中! だいたい、お前こそ暇そうだろ!」
という返事があった。
ニーナに弟子入りして以来、ペトラは精力的に仕事をこなしてはいる。俺に対して言葉遣いが悪いのは直ってないけど、ペトラはそもそも俺のことを目上だとは思ってないから無理もない。別にいいけどね。いつか自然に納得するまでは放っておこう。そんな日が来るかどうかはわからないけど。
と、ため息をついた俺の目の前で、ペトラが的に向かって手をひらめかせた。
続けざまに放たれた三本のダーツは、風を切りながら真っ直ぐに飛んで、先に刺さっていた三本とほぼ同じ位置に突き立った。
「……確かに、結構すごいな」
的までの距離は五歩分くらい。遠くはないけど、そう近いわけでもない。少なくとも普通の剣の届く距離よりは外だ。その距離をこの精度で狙えるなら、確かに、特技と言っていい。
もし戦闘用の武器として威力を競うなら俺が上かもしれないけど……競技や遊びでやるなら、ダーツで的を木っ端微塵にできるからって威張れることでもないだろう。
「せっかく的まで用意したからペネロペにも見せたかったけど、あいつ、今日はいないんだよな」
的に刺さった合計六本のダーツを引き抜きながら、ペトラが残念そうに呟いた。
「教会の屋根も直って、昼の間はあっちにいることになったらしいね」
「ふーん。まあ、聖騎士なら暇じゃないよな。後で見せればいいや」
ペネロペはまだ見習いだけどね。
ペトラはペネロペと妙に仲がいい。最初のうちに少し衝突してたけど、そのおかげでむしろ仲良くなったみたいだ。同い年らしいから、そのせいでもあるだろう。努力家だっていうのも共通点か。
「それにしても、なんでダーツ投げが得意なの」
訊くと、ペトラは呆れ顔を返してきた。
「なんでって、練習したからに決まってるだろ、変態」
うーん。そうじゃなく、どうしてダーツを練習したのかってことを知りたかったんだけど。
そこはまた後で詳しく訊くとして、気になったのは。
「この際、俺が変態かどうかは関係ないんじゃないかな」
「じゃあ変態だって別にいいってことじゃん」
いいのか? いいのか……。
ペトラからはことあるごとに変態呼ばわりされ続けてるけど、結局、深い意味はないんだろうな。
肩をすくめる俺の目の前で、ペトラはふんっと胸を張った。
「侍女たるもの、主人に危機が迫った時には対処できるようにしとかなくちゃならない。だから練習したんだ。もちろん、この場合の主人っていうのはヴィクトリア様のことだ!」
なるほど。理由はわかった。ペトラは「強い侍女になりたい」と言っていたから、それで、というわけだ。いくら強くなりたいといっても、王女の横で侍女が両手剣を構えてるわけにはいかない。掌や袖の中に隠しておける武器、となれば、ダーツは確かに候補になる。
いまいちピンときていない様子で首を傾げたのは、ミリアちゃん。
「びくとりあ様?」
「ヴィカのことだよ」
ここにいる間、ヴィカはずっと愛称で呼ばれていた。それで結びつかなかったんだろう。本名であるヴィクトリアを名乗ると、雷王都市の王女であることがすぐにバレてしまうから、そうしていた。……何人かにはあっさりバレていた気もするけど。ミリアちゃんは気付いていなかったらしい。
「そっかー。うん、ヴィカちゃんは確かに、ちょっとぼーっとしてるとこあるから、まわりの人が気を付けてあげないとねー」
この館で最年少のミリアちゃんがお姉さんぶっているのがちょっと可笑しい。ミリアちゃんからそう気遣われるほど、ヴィカがぼーっとしていたかというと、別にそんなことはない……とも言い切れない、かも……。確かにのんびり屋ではあった。
俺がヴィカのことを考えているうちに、ペトラはまた的に向き直った。
手を振り下ろして一投、返す手でまた一投……
ペトラが次々にダーツを放ると、その全てが的の中心付近に刺さった。さっきのと合わせてもう十本を越えた。さすがに偶然じゃないだろう。
「いざとなったらこれでお前のことも消すつもりだったけど、よく我慢したよな私」
そんなことを考えてたのか。……まあ、クルシスは難なく避けてたし、俺も多分平気だとは思うけど。
「他の子に迷惑だからやめてほしいな」
「余裕ぶっててむかつくなー」
そう言われてもね。
余裕ぶっているというか、実際に余裕だと思う。ダーツが飛んできても避けられる、というのと、刺さっても致命傷にはならない、というふたつの意味で。毒でも仕込んであれば別かもしれないけど、それにしたって、竜を殺せるくらいの猛毒でないと、たぶん効かない。
ともあれただのダーツでも他の子には危険なのも確かで、あまり投げつけて欲しくないところだ。
「そうだ! あれやってみせて!」
訓練の範囲に留めるよう注意しようとしたところに、ミリアちゃんが手を叩いた。
「さっき話してたあれ! 頭の上に乗せたリンゴを射貫くやつ!」
……そんなことを話してたのか。
確かに、ペトラの腕前ならリンゴを射貫くのは十分に可能だろう。でもそれが頭の上に乗っているとなると、必ずしも止まってはいないはず。
で、そのリンゴを乗せるのは誰かということになると、ミリアちゃんではないはずだし、当然、ダーツを投げるペトラでもないわけで。
……この流れでそれをやることになると、俺の眉間のあたりが心配だ。
ただ、ペトラは首を左右に振った。
「今はだめだ」
おや。ちょっと意外だ。俺をからかって怖がらせて遊ぶものだと思っていたのに。
「どうして?」
ミリアちゃんが訊ねると、ペトラは……
「リンゴは冬が旬だから、今は手に入らない」
そういう理由か。確かに、ヴィカが来る少し前くらいだったか、余っていたリンゴはニーナが全部ジャムにしてしまって、その後は少なくともリンゴの実は手に入っていない。
ユウリィさんに頼めばどこからか手に入れてきてくれるかもしれないけど、ダーツの的にするなんてとんでもない、という値段になるだろう。
「じゃあ他のものでもいいよ? とにかく、ちょっとハラハラする感じのやつ!」
ミリアちゃんがそう譲歩すると、ペトラは俺の方を少しだけ見た。
「的持たせればいっか」
よくないけどね。
でもまあ、ペトラの腕前は見た。真面目にやれば、あの的からはずすってこともないだろう。
「じゃあこれ持って、あそこに立って」
……何だか、さっきの的より二回りくらい小さいのが出てきた。
「これが的?」
一応訊ねると、ペトラは首を横に振った。
「それはコースター」
うん。俺もそう思ってた。コップの下に敷くやつだよね。
「ちゃんと加減するし、たぶん貫通はしないから安心していいぞ」
……やっぱり的なんじゃないか。
「すごーい! んっんー! これはハラハラするねっ!」
ミリアちゃんは大喜びだけど。
……うーん、仕方ないな。
そのコースターは木製で、広さは片手で持てるくらい。厚みも思ったよりはある。……それでも、掌ほどの厚みはないな。俺はそれを持ってペトラから少し離れた位置に移動して、的を頭の上に掲げた。
すると。
「もっと下」
という指示が飛んできた。
頭の上じゃないのか。指示に従って、少し下げる。眉間のあたり。ダーツがここに向かってくるとさすがにちょっと不安だな。
「もっともっと下。胸のあたりで」
ん? 思ったよりまだ下だった。言われたとおり、胸の前に的を持つ。
「もーちょい右。ちがうちがう。お前から見たら左。そう、そのへん」
妙に細かい指示で、的を持つ位置を何度か調整。
ようやく「よし」の声が返ったから、俺はそこに的を留めたまま、ペトラに質問した。
「何でこの位置?」
「真ん中がちょうどお前の心臓の真上」
真剣な顔で、ペトラが頷いた。
ペトラはこの小さい的を十分狙える技量を持っているとしても、この位置を狙いたいという気持ちには少し背筋が冷える。
殺意があるってこと、なのかな……。
「的をちゃんと持ってたらそれが盾になるから逆に安全だろ」
……そういう考え方もあるか。貫通しなければ、という条件付きではあるけど。
まあ、いざとなれば
俺がそう覚悟を決めた頃にちょうど、ペトラもダーツを構えた。
「よーし、動くなよー。動いたら安全が保証できないからな。信頼関係が大事なんだ」
……妙なことを言い出したな。
「正直、俺とペトラにはそこまでの信頼関係はないと思うけど」
一緒に死地をくぐり抜けてきたというわけでも、主従の強い絆があるわけでもない。軽蔑されてるとまでは思わないけど、尊敬されてるという気もしない。顔見知り、あるいは知人、よくて友達、という程度かな……。
という気持ちを言ったところ、ペトラも「うん」と頷いた。
「ま、そういうことを正直に言える程度はあるじゃん」
その程度でいいのか……?
どうも釈然としないけど、ペトラはもう今にも投げようという体勢だ。
「いくぞー」
いよいよか。もしペトラが内心はこの的を囮にして顔を狙ってくるつもりなら、すぐに防がないといけない。緊張が走る。
そして運命の一投――!
「ペトラー。そろそろ休憩終わりだよー」
ニーナの声が聞こえてきたのは、まさにその時。
「えっ! あっ!」
気を取られて慌てたらしい。ペトラの放ったダーツは思わぬ所へ飛んだ。でも速い。風を切って、俺に向かってくる。
「っとと……」
スコン、と音がして、ダーツは的に突き刺さった。たぶん。まだ見えてないけど、感触はあった。
「すごーい! ちゃんと真ん中に当たった!」
ミリアちゃんの歓声が聞こえた。
的とは名ばかりのコースターを胸の前に下ろして見てみると、ダーツは確かに、ど真ん中。
……俺が的を動かさなければ、俺の眉間に刺さってたところだった。
すっぽ抜けてそれっていうのは、ある意味では、名手なのかもしれないけど。
「えっーと……す、すごいだろー」
ペトラが引きつった顔のまま、胸を張って見せた。
「今のは俺が」
俺が的を動かさなかったらチャレンジ失敗だったよね。……と言おうと思ったものの、
「すごいだろ!」
ペトラはその言葉を大声で遮った。
その横で、ミリアちゃんは「すごーい!」と目を輝かせている。
「……まあ、勢いは感じる」
ミリアちゃんに免じて、ここは俺が折れておこう。
ひとまず、的の中心に刺さったのは確かだ。それが誰の手柄なのかは、ともかく。
「近いうちにもう一回挑戦するからな!」
大慌てで仕事に戻る支度をしながらペトラはそう言って、俺に指先を突きつけてきた。
……眉間って、どうやったら鍛えられるんだろうな。
そんなことを考えながら、仕事に戻るペトラを見送った。