執務室の机から、俺に宛てられた手紙が出てきた。
ステラさんの師匠である〈西の導師〉からのもので、ステラさんへ宛てた手紙の『ついで』に入っていたものだ。後で読もうと思ってすっかり忘れてた……。
他の人たちに届いた封筒に比べると薄い、とは受け取った時にも思ったけど、中身を確認して納得。紙が二枚だけだった。どうりで薄いはずだ。
ただ、内容までも薄いわけじゃないようだ。
時候の挨拶もそこそこに、話題はステラさんに関することへ。
『あの子には大魔導士となる未来が待っている。そのためにはより多くのことを経験せねばならない。そして人の生は短い。君とのことは良い経験になったと思うが、そろそろ別れの経験も必要であろう』
……ステラさんがいつまでもここに留まっていることに、あまり賛成ではないらしい。
でも、それは本人の意志だ。そして、ここでも多くのことを経験していると思う。心配するほどのことはないんじゃないか、という気はする。師匠としては、もっと厳しい環境でさらなる経験を積んで欲しい、という気持ちなんだろうけど。
と心の中で反論してみたものの、ステラさんをいつまでもここに引き留めていることに関しては、俺も悩んでないわけじゃない。ただ、俺の方の事情として、いまステラさんに抜けられるととても困るのも事実。
特に領地経営にかかるお金の問題だ。
お金自体は、ある。
問題は、それがどこに必要なのか、どのくらい必要なのか、そしてどう振り分けるべきなのか、ってことだ。ここにいずれは、徴税の件も増える。
そういう計画のほとんどを、今はステラさんが考えてくれている。
それをできる人というただそれだけなら、募集をすればどこかから誰かが来るのかもしれないけど……
信用して任せられる人、というと、今はステラさん以外には考えられない。
『我が弟子が多才にして非凡であるために、手放すのを惜しんでいるのであろうが』
〈西の導師〉からの手紙にはそんな言葉もあった。
確かに、俺はその言葉には反論できない。
お見通しというよりは、向こうが弟子かわいさに言ったことがたまたま合ってた、というところだと思うけどね……。
そんな手紙を読み終えて、気になるのがこの部分。
『いずれ挨拶に伺うが、いつになるかは気分次第。事前の通告は諸事情によりかなわぬやもしれぬ。それをよく心に刻み、決して気を緩めることなく、日々を過ごされたし』
偏屈と評判の人らしい、ちょっとした嫌がらせだ。
まあ、日常的に淫蕩にふけっているというならともかく、俺は普段から品行方正にしている……つもり、だから、抜き打ちで様子を見に来られても困ることはない……はずだ。
そもそも、自分の楽しみのために村の人たちに苦難を強いていた前の領主を懲らしめた結果として代わりに領主になった身で、同じ轍を踏むわけにはいかないだろう。
執務室を見回してみても、散らかってはいない。ニーナが定期的に片付けてくれているからではあるけど、俺自身、なるべく綺麗に使おうと思ってる。俺がまた長い旅に出ることがあれば、この館は村の人たちに返すことになるだろうから。
そういうわけで、ことさらに何か準備をするということはないにせよ……
あの〈西の導師〉のことだから、意表を突いてまさに今日訊ねてきてもおかしくない。一層、気を引き締めないとな。
と……ドアがノックされたのはその時。
まさか、とは思いつつ、さすがにそれもないだろうと気を取り直す。
「どうぞ」
そう声を掛けたけど、ドアは開かない。
首を傾げていると、またノック。
「…………開けて欲しい」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、ステラさんのか細い声。
カギはかけていないはずだけど、何かあったのかな。
怪訝に思いながらドアを開けると、ステラさんは両手いっぱいに荷物を抱えていた。それで開けられなかったのか。ノックは……頭を使って乗り切ったらしい。言葉通り。
「先に言ってくれれば俺が運んだのに」
言って、ステラさんの荷物を引き受ける。どうやら、書物と書類の山だ。ステラさんが一人で運ぶには重かっただろう。指示を受けて執務机に置く。……前が見えなくなるくらいの量だな。
「これは?」
「急ぎではないが確認すべき書類とその資料。そのはず。これを明日、なるべく多く片付けたい」
俺がした質問への答えは十分納得できるものだったけど、後半部分にはため息が出てしまう。
「明日は構わないですけど、この量は……」
古い権利書なんかは古王国語で書かれていることが多くて、俺はまだよく読めない。そういうものはいつもステラさんやクレールに読み上げてもらっている。比較的最近のものは俺でもわかる言葉で書いてあるけど、難しい言い回しが多くて、それはそれで苦戦するんだよな。
そんな俺の処理速度だと、とても一日で終わる量とは思えないけど……
訊ねた俺の言葉に、ステラさんは頷く。
「いつまでも放っておくわけにはいかないため、少しずつでも進めたい。できる限りで良い」
そういうのを後回しにしていたから、この量があること自体は不思議ではないけど。
「……だめ?」
ステラさんが小首を傾げてそう訊ねてきた。
正直に言うと、うんざりする量だけど……
やる前から諦めてしまうような態度だと、ステラさんの師匠からどんな叱責を受けるかわかったもんじゃないな。
「……頑張ってみます」
俺の言葉に、ステラさんは「うん」と頷いた。
そうしてから、紙の束を執務机に乗せた。
「これは今日の分」
……これだけでも結構ある。
「今日は多いですね」
「移住者の開業届けなどが重なった。内容はすでに私とクレールで確認して問題なかった。貴方は署名だけすれば良い」
確かに必要な書類だ。量が多いのは気が重いけど、署名だけでいいなら簡単ではあるな。
それで済むのも、ステラさんが信用できる人だからだ。
この書類を持ってきたのが例えばユウリィさんで「ここに署名だけしてくれればいいからな?」と言ったとしたら、そのまま署名して問題ないとは、俺はそこまではユウリィさんを信用してはいないな。いったいどんな書類かわかったもんじゃない。束の中にだって変な書類を紛れ込ませているかもしれない。気が休まらないと思う。
俺がペンを走らせると、署名の済んだ紙はすぐに横に除けられて、別の紙が俺の前に差し出される。たくさんあるように見えた紙の束も、ステラさんの助けを借りながらなら、見た目ほど大変な作業ではなかった。
夜までかかると思っていたのに、あまりにもあっさり終わってしまったから、夕食までもまだ時間があるくらいだ。
まあ……書類と資料が塔のように積み上がってるさまを見る限り、明日は今日と比べものにならないくらい大変そうだけど。
ため息をついても仕方がないとはいえ、出てしまうのも無理はないところだ。
「明日もよろしくお願いします、ステラさん」
ステラさんがいてくれてよかったな、というのは、こういう時には特に実感する。今日は用事で出かけているクレールも明日は手伝ってくれるだろうし、実際はこの見た目から感じるよりはずっと簡単に終わるはず……だといいな、という希望くらいは持ってもいいだろう。
今日の分の書類をまとめていたステラさんは俺の言葉に頷いて、それから……
「……師匠が言っていたことを、最近、よく思い出す」
と、口を開いた。
ステラさんの師匠、というのはもちろん〈西の導師〉のこと。
その人から送られてきた手紙の内容を思い出して苦笑しながら、俺は続きを促す。
「私がまだもう少しだけ幼い頃、あることに気付いた。それは、私が師匠を必要とするほどには師匠は私を必要としていない、ということ」
それは、そうだろう。いくらステラさんが魔術の分野では天才とはいえ、相手も相当に高名な魔導士らしいから。そもそも師と弟子。そして育ての親という相手だ。相手に求めることの大きさは当然違う。
ステラさんは昔を懐かしむ様子で、言葉を続ける。
「その時に、師匠が言った。互いに必要とする関係というものは、力の近い者同士でしか構築できない。そしてそれは、二人の力のバランスが崩れた時、あるいは、どちらかが妥協した時に終わる。そういう儚いものだと。しかしそれ故に、貴重でかけがえのないものだと」
それはステラさんの口から語られてはいるけど、その師匠の言葉。何だか、その道で並び立つ者がなくなった〈西の導師〉の寂寥を感じなくもない。
言い終わって、ステラさんは……俺を見た。
「互いを必要とする、そういう相手を、お前は見付けろと。そうも言った」
それでステラさんが見付けたのが、今その視線の先にいる男というわけだ。
「私は貴方を必要としているし、自惚れでなければ、貴方も私を必要としている。そのはず。……違う?」
その問いには、何を取り繕う必要もない。
「違ってないです。合ってますよ」
俺が正直にそう言うとステラさんは、よく見なければわからない程度に、笑った。
これがステラさんの精一杯の笑顔であることを、俺は知ってる。