今朝の早いうちに、レベッカさんとペネロペは旅立っていった。
今回は南にある迷香の街から船に乗るそうだ。雷王都市を経由して陸路を辿るよりは早い……らしい。天命都市での用事を終えたら、夏が終わる頃にはここに戻ってくる予定で、その時には、俺の男爵位について天命都市からも承認が出ているだろう、とのこと。
あとはこの村の教会の司祭がどうなるかだけ、だけど、そこはレベッカさんが村の発展に尽くしてくれる人が来るよう「いざとなれば〈聖女〉の威光を使ってでも」尽力すると言ってくれたから、問題はないだろう。
ペネロペを好敵手と認定しているペトラは、しばしの別れに少し寂しそうではあったな。とはいえ、今はニーナの仕事を追いかけるのも忙しいみたいで、あまり感傷に浸っている暇はなさそうだ。
俺も今日はいろいろと片付けないといけない書類がある。……と、ステラさんから言われていて、今は執務室にいる。準備をすると言って出て行ったステラさんが戻ってくるのを待っているところだ。
こういう時によく手伝ってくれるクレールは、今日は出かける予定らしい。手伝ってもらうつもりだったのに、あてが外れた。フューリスさんに誘われて、ナタリーやミリアちゃん、それから親方も一緒。館の北にある浜辺の方に、牡蠣を採りに行くんだとか。その浜はこの館の一部として領主の所有物で、村の人たちの漁には開放してない場所だから、手付かずのまま。きっと大漁になるぜ、とは親方の言葉。
「リオンは僕の水着姿を見るの初めてだよね? 感想は?」
風呂場の脱衣所で着替えた後で、クレールが執務室まで水着を見せに来てくれた。
ニコルくんのお店で調達したものを、マリアさんが全員分、手直ししてくれたらしい。
クレールの水着は白。胸元と下半身を覆う布は別々で、下着に似た特徴はあるにせよ、たくさんのフリルがついていることで、こう見るとだいぶ違う。
とはいえ肌の露出は多いから、執務室にいると場違いな感じは完全には拭えないかな……。
「……似合ってると思うよ」
と、嘘じゃない程度の感想を言うと、クレールは不満げに頬を膨らませた。
「反応薄いよー。もっと何かいい感じの感想が欲しいなー」
わざわざ見せに来たんだから、というその言い分は、まあ、わかるんだけど。
「それを全員分考えるのは大変なんだよ……もともと口が上手い方じゃないのに」
クレールの方も、俺の苦労はわかってくれているらしい。「うーん」と唸ったくらいで、あまりしつこく食い下がってはこない。
「じゃあ、ひとつだけきくけどー」
そう言ったクレールは、ちょっと体を捻って、腰のあたりを示してみせた。
「ここに紐があるでしょ? これ、引っ張ってみたいと思う?」
その紐は、水着のだよな。引っ張るとこれ、ほどけるのか。……うーむ。
「……俺をからかうのはやめて、もう行ってきなよ。みんな待ってると思うよ」
俺は明確な返事はしなかったけど、クレールは何だか満足したようで「んふ」と笑って執務室を出て行った。……まったく。
クレールとほとんど入れ替わりに、準備を終えたらしいステラさんが執務室に入ってきた。
……昨日運び込まれた書類と資料だけでも相当な量だったのに、まだあった。
どん、と目の前に置かれた古い紙の束。これは――と訊ねるよりも早く、ステラさんの解説が入った。
「未整理のまま残っていた勅許状。私はすでに確認したが、領主であるあなたの確認も必要。そのはず」
それは、まあ、そうだろう。
勅許状というのは、王様や大教会から発行された証書。内容は様々だけど……
今回ステラさんが用意してくれたものは、その中でも領主の権利に関する書類らしい。
以前に見たものには、塩や酒の取引の権利、漁業権、徴税権に関する物があったな。そのあたりは特に重要だからと早いうちに確認した覚えがある。
そういうわけで、急ぎのものは終わってるわけだから、残りを今日やらなくてもいいと思うんだけど。
というのは、俺もみんなと行く牡蠣採りに興味があったのと、この公式の書類を見るのは気が重いから。こういう公式の文書ってだいたい、古王国語で書かれているから、俺はなかなか理解できないんだよな……。
いつまでも逃げてはいられないってのも、そうだけど。
と書類に向かってみたけど、すらすら読めるわけじゃないから、ほとんどはステラさんからの音読と解説をもらうことになる。ステラさんは本当に頼りになるな……。
今回の分で目を惹いたのは、
「……温泉の権利?」
「館に引かれている温泉。その源泉の利用に関する権利。権利を持たない者による盗水、盗掘を処罰する権利も含む」
「そういうのもあるんですね」
よく考えれば当たり前か。水源の権利はどこでだって重要なもので、時にはそれが原因で争いになることもある。噴き出すのが温水だってそれは同じ、というわけだ。
「あれ。これも温泉の権利?」
別の紙にも同じものがあって少し困惑したけど、ステラさんの解説によると、さっきのは新王国時代のもので、こっちは古王国時代のもの……らしい。
「支配者が変わるごとに古い勅許状は無効になる。ただし、古い時代からの権利であることを主張するための材料になるため、過去の勅許状も可能な限り保管するのが原則。現代のこの地域で最も強い効力を持つのは、雷王都市の勅許状。次いで天命都市、帝麟都市のものが続く」
その三つの都市は俺の爵位の申請をしたところでもあって、なるほど、そういう事情があったわけだ。
そんな感じで、二人がかりで書類の分類を進めていると……
「あれ」
ふと、何かが引っかかって、俺は手を止めた。
何だろう。花の香りがする。ニーナが花瓶に飾ってくれてる花とは違う……。
すん、と香りを吸い込んだ時、一瞬だけど冬のことを思い出した。
冬の花の香り……?
そう意識してしばらくすると、その香りがどうやらステラさんが動く時に漂っているらしい、ということに気付いた。
「……何?」
俺の視線に気付いたのか、ステラさんが首を傾げる。
その顔も、よく見ればいつもと少し違って見える。血色がいいというか、顔色が明るい。いつものステラさんの顔が青白すぎるというのは、あるにしても。
「ステラさん、今日は何か少し、普段と雰囲気が違いますね」
俺が思ったままを口にすると……
ステラさんはふいと目を逸らし、手にしていた本で口元を隠した。
そのしぐさも、何だかいつもと違う気がする。気のせい、ではないはず。
「……うん」
小さく頷いて、ステラさんの赤い瞳がまた俺の方へと向いた。
「化粧、してみた。……どう」
なるほど、それがさっきから感じていた引っかかりの正体か。
ステラさんは俺に向き直って、顔を隠していた本も下げてくれたから、今はその顔がよく見える。
化粧とは言っても、よく見れば、というくらいのごく自然なものだ。普段からステラさんを間近に見ていなかったら気付かなかっただろう。
「頬が明るいからか、普段より少し快活な感じがします」
それだけじゃないな。目元もいつもより柔らかい感じがする。あとは――
「口紅もしている」
というステラさんの自己申告の通り、唇にも普段と違う色が入っていた。
「そうですね。ほんのりと赤みがあって……」
つやがあって、柔らかそうで……。
……じっと見ていると、どうもいけないな。
ステラさんは俺より年下なこともあって、女性らしさという点では他の子より何歩か後ろだと思っていたけど……。
「どう?」
ステラさんはじっと俺を見つめていて、たぶん……下手な嘘を言ったらすぐに見破られてしまうだろう。そんな気がする。
「可愛らしいと思います。俺は好きだな」
俺がそう言うと、ステラさんはほんの少しだけ、本当に少しだけ、表情を緩めた。
「……そう。それなら、良い」
思えば、ステラさんと初めて会ってからもう随分経つ。まだ二年は経ってないけど、一年半くらいは過ぎた。
その間、俺が成長しているように、ステラさんも成長している。
そういう当たり前のことに今さらながら気付いた、というところ……。
近くにいて親しくしているからこそ、気付くのが遅れたのかもしれないけど。
「ひとつ、気になることがある」
ステラさんの呟きが届いて、俺は意識を戻した。
「気になること?」
訊き返すと、ステラさんは無言のまま俺を見て、小さく頷く。
「…………」
でも、続く言葉はなくて、かといって視線を逸らすわけでもなく。
見えない天使が通りすがりでもしたかのような、沈黙の時間があった。
「――ステラさん?」
俺がそれに我慢できなくなって名前を呼ぶと、「うん」と頷いていた。聞こえていないわけではないらしい。
何だか落ち着かない時間はそのまましばらく過ぎて……
「……あなたは、もしかしたら」
ようやく、ステラさんが言葉を続けた。
「もしかしたら……私を年上だと思っている……?」
「え?」
急に、なんだろう。話が見えなくて、言葉を繋げられないでいると……
「ニーナ、ミリア、ナタリー、クレール、ペネロペ、ペトラ」
六人分の名前を、ステラさんは斜め上を見ながら列挙していった。
それが済んでから俺に視線を向けて……
「あなたが同年代ないし年下だと思っている者、そう扱っている者を列挙した」
そう続けてから、くい、と首を傾げた。
「私はそうと思われていないように感じる。違う?」
それは……どうだろう……。
ステラさんが年下なのは知っているし、そう思っているつもりだ。
でも、改めて考えてみると、直前に列挙された子たちのようには、扱ってはいない気もする……。
「私の方があなたより年下。あなたは十六歳で、私は十五歳。そのはず」
それは、たぶんその通りだ。ステラさんは背が低いから、見た目ではもう少し下に見えなくもないけど。
「他の者と同様の扱いを希望する」
そう言われて、俺は唸った。
同様の扱い……と言われても、元々さほど違う扱いをしてるつもりがない。
でも、うーん。
指摘されれば確かに、ステラさんを『年上組の最年少』くらいの距離に感じてるところはあったかもしれない。
もう少し気安く接して欲しい、ということかな……。
「じゃあ、えーっと……ステラ?」
ニーナを呼ぶ時くらいの気持ちで名前を呼んでみると、ステラさんは「うん」と頷いた。
「他の人と同様にって、こういう感じで?」
「それで良い」
俺の問いに、ステラさんは満足げな返事をした。
とはいえ、俺の中では違和感がある。急に言われたからでもあるけど……
「そもそも年上みたいな扱いになったのは、ステラが大人びてるからじゃないかと」
ステラさんはその言葉に反応して、ぴくりと眉を動かした。
「……そうだろうか」
「ステラさんは何でも知っているし、話し方も姿勢も落ち着いていて、年下とは思えない信頼感があります」
そうなのだ。そしてそれを感じてるのは俺だけじゃなくて、他のみんなもそのはずだ。
ステラさんはしばらく黙っていたけど、すぐに反論してこないあたり、思い返せば自分でも納得できる、というところか。
「……幼い頃は、自分が何もできない子供であることがもどかしく、早く大人になりたかった。それは事実」
そんな風に思う子は、決して少なくはないだろう。俺自身も、子供のままでいたいって気持ちよりは、大人になりたい気持ちの方が強かった。
ステラさんもそう思って、努力して、もう何もできない子供じゃない。誇っていいことのはずだ。
「……改善策を検討する……します?」
年下らしさというやつをどうにか口調に取り入れようとしているみたいだけど、正直、うまくいってるとは言いがたい。そもそも使ってる単語が難しいから口調以前の問題だし……。
「無理に変えなくてもいいんじゃないかと。お互いに」
俺の言葉に、ステラさんは少し不満げだけど……。
「他の子と同じように振る舞わなくても、ステラさんにはステラさんの魅力がありますから」
そう続けると、ステラさんは何か言いたげに一旦は開いた口を閉じて……
「……本当に」
改めて、小さな声で呟いた。
「私の魅力というものが、あなたには見えている?」
少し上目遣いにそう訊ねてくるステラさんは、いつもよりは少し自信なげに見えて、そうしているといかにも年下のか弱い女の子だ。
でも、それがステラさんの魅力の本質というわけでは、ないと思う。
「ステラさんが鏡で自分を見る回数より、俺がステラさんを見る回数の方が多いから」
ステラさんには「多分そう思う」ではなかなか通じないけど、数字の大小で説得すれば一応は納得させられる。
「一理ある」
こんな感じに。……後日になってさらに詳細な資料で反論されることはあるけど。
でももし論争になったらいくらでも……とまではいかなくても、何度か反論に耐えるくらいの材料は、持ってるつもりだ。
まあ、今のところは、ステラさんも俺を論破するつもりはないらしい。
「あなたが理解しているなら、他の誰かや私自身すら理解していなくても、大きな問題はない。……そのはず」
そう言って、手元に視線を落とした。
「……念のため、言っておかなくてはいけない」
次に処理すべき書類を俺の目の前に広げながら、ステラさんは、ほとんど囁くような小さな声を俺に向けてきた。
「あなたが鏡で自分を見る回数より、私があなたを見る回数の方が多い」
反論ってわけじゃ、ないな。
言いたいことは、さすがに、わかるつもりだ……。
「ありがとうございます、ステラさん」
言うと、ステラさんは「うん」と頷いた。