風が吹く。
やや湿った、冷たさを持った風だ。
低空を撫でるように通り過ぎる風にあわせ、露に濡れた植物が身を揺らす。
そこは、広大な湿原だった。
視界の限りを深緑の絨毯が覆い尽くし、その上を薄い灰色をした雲が覆っている。
五百年か、千年か、あるいはそれ以上前。悠久といえる時間を、この場所は形を変えずに過ごしてきたという。
湿原が出来てから、ずっと変わっていないであろう湿った風に、衣服をなびかせる男がいた。
複雑な意匠の長い杖を持った、長身の人影。一見細いが、纏った布から伸ばされた腕は、それが男性であることを示していた。ローブのような布で隠れた頭からわずかに覗く緑の髪が、植物と共に揺れる。
男は、何かを求めるように空を見上げていた。
「光明は未だ見えず、か」
小さな動きで紡がれた言葉は、突然吹いた風に解けていく。
今までとは違う、冷たさのない、包み込むような暖かさを持った風だ。男は、背後に声を投げた。
「――ウィンダ」
「お父上」
直前にはなかった人影が、男の背後にあった。男と似た髪の色の少女だ。男の胸辺りにある肩に、丸い飾りをかけた深緑の羽の鳥を乗せている。
彼女は男と同じようなローブを片手で脱ぎながら近寄ってくる。ローブの下から現れた、後ろでまとめられた長い髪が動作と風に揺れる。
お父上、と少女はもう一度言った。
「またここだったのね」
「探させたか」
「うん。ムストさん――神官様がお呼びだよ」
そうか、と呟き、男はローブをかぶりなおした。そのまま草の絨毯の中をゆっくりと歩き出す。一歩遅れたウィンダも、小走りでそれに続いた。振り落とされかけた鳥が、一度飛びあがってから再び肩に降り立つ。
「わざわざお前を遣いにしなくてもよいものを。巫女としての務めはどうした」
「今日の御勤めは終わったから。それに、私が一番見つけるのが上手いからって」
「そうか」
男が言葉を切る。ウィンダが足を速め、隣に着く。
「父上は、たいていここにいるからね。お気に入り?」
「さあ――そうだな。そうかもしれない」
「ふぅん。私も好きだよ」
そう言って、ウィンダは視線を巡らせる。
「父上の、父上の、そのまた父上よりも昔から、この湿原はあったんだって。大昔、私たちのご先祖様がここに住んでたのはきっと、この湿原の緑色が綺麗だったからだと思う。だって、私は大好きだもの、この色が。父上と母上と、おじい様とおばあ様と、みんな同じ、綺麗な髪の色」
その場で軽い身のこなしでステップを踏み、一回転。ゆっくりと舞いあがった後ろ髪が、薄い雲からわずかに注ぐ陽光に輝いく。
その時、ひょう、と強く風が吹いた。
冷たい風が身を切り、ウィンダと肩の鳥がわずかに身ぶるいする。
「冷たっ。……なんか、最近の風は変じゃない?」
「変――とは?」
男がわずかに眉を上げてウィンダを見た。ウィンダは、俯いた顎に手を当てて考えながら話すようにゆっくりと言葉を放つ。
「なんて言うか――今みたいな冷たい風。あれ、氷結界の方から吹く風なんだろうけど、前はこんなに冷たくなかったような気がするんだよね。それに、雲の動きも変。遅かったり速かったり、まるでどこかで風が淀んでいるみたい」
「異変か……」
「そんな大層なものじゃないけど――うーん、やっぱり変なんだよね」
顔を下に向けたまま、時折吹く風に耳をすませるウィンダは気付かなかった。父親の顔に、わずかに影がさしたことに。
男はウィンダから見えないように顔を上げ、言った。
「――ムストが呼んでいるんだったな。急ぐか」
天上に向けて杖を持った右手を上げる。すると、どこかから風を切る音がした。だんだんと近く、こちらに向かってくる。
そして、突風が巻き起こる。
思わず顔を腕で隠したウィンダの髪を大きく揺らしながら、暴風と呼ぶべき風を纏って、巨大な影が舞い降りてくる。
それは、深い翠の翼を持つ怪鳥だった。広げた翼の端から端までに、ウィンダが二人は横になれるだろう。頭から生えた鶏冠のような毛を揺らし、鋭いくちばしと視線をこちらに向けながら、怪鳥は二人の眼前に降り立った。
「先に行く」
そう告げると、男はなれた動作で怪鳥の背に乗り、くちばしの端から伸びた手綱を握る。
怪鳥が羽をゆっくりと動かした。緩慢にすら見えるその動きは羽の内側にゆっくりと空気を集め――そして一気に開放する。
瞬間、暴風を超え、爆風とすら言える風が周囲を薙ぎ払った。ウィンダは髪と顔を抑えながら背中を見せ、肩の鳥は必死に爪を立てて風の圧力に耐える。湿原の植物が何本か、根を持ったまま宙を舞った。
数秒を経た後。ウィンダが顔を上げると、そこには風の余波に揺れる植物と我関せずと流れる雲、そして遠く彼方の空に小さくなっていく緑色の影があった。