視界一面が白いヴェールに包まれたようだった。あたりを覆う粒の細かい雨は、あまりの細かさに質量を感じさせない。降るというよりも包むというような雨だ。
湿原では、時折そんな雨が降る。木々が吐きだした水分が雲となり、雨を降らして大地を養うのだ。湿原には欠かせない大切な雨だが、それでもウィンダールはイグルの上で奥歯を噛んだ。
「……ひどい雨だ。まったく」
同意するようにイグルが鳴く。鼻先すら見えないような悪天候だが、風を読めば方角は解る。しかし、ゆっくりと体温を奪われることは防げない。ウィンダールはローブを首元で締め直す。
ジェムナイトの使者との会合が終わって集落に文字通り飛んで帰ると、顔面蒼白になり錯乱したようなウィンダとそれを宥めるムストから事情を聞かされ、休む間もない再びの飛翔だ。集落はムストに任せ、外出も控えさせた。それが、現状出来る限りの対応だ。
「ガスタ」への襲撃者。残っているのがカームならばある程度の相手は対処できるだろうが、確実ではない。イグルの背からも焦りが感じられた。
湖までの距離はあとわずかだが、視界の中に鏡のような湖は確認できない。それが焦りとなる。ウィンダールは逸る自分を抑えながら、慎重にイグルに方向を指示する。この雨の中で方向を間違えれば遭難は必至。そんなことで時間を喰うわけにはいかない。
「そろそろだな」
視界は悪いが、だいたいの場所は分かる。ゆっくりとイグルが高度を落としていく。
ウィンダールは眉をひそめる。風に混じる悪意は雨に流されることなく漂っている。それが、湖がゆっくりと見えてくるにつれて纏わりつくような濃度を持ち始めているのだ。
なによりも、カームの安否が気にかかった。無事だろうか、無事でいてほしいと「ガスタ」の神に祈りつつ、ウィンダールはイグルの背から飛び降り、濡れぼそって靴に張り付く砂を蹴りながら叫んだ。
「カーム! いるか!?」
叫びながら、首を左右に振る。広い湖のふちをしらみつぶしに探していては時間がかかる。リチュアと思われる者の襲撃があったことを考えると、ウィンダールも安全ではない。
霞のような雨の中、水を吸ったローブの首元を鬱陶しげに解き、辺りを見回す。変化して小さくなったイグルが追ってくる。風がわずかに歪んだ。
「こっちか……?」
振り返る原因は風だ。わずかに感じる温かみを持った風は雨中の湖にあるものではない。人肌の暖かさだ。
雨のヴェールの向こうで、黒い影が動いた。ウィンダールが駆けよる。
「カームか」
体温を維持するためだろう、膝を抱えて縮こまったカームは顔を上げる。その周りを球体を描くように風が循環し、細かい雨を受け流すようにしている。
「神官様。ご足労いただき申し訳ありません」
風を解いて、す、と立ちあがり礼をするカーム。ウィンダールは安堵にわずかに頬を緩めたが、眉をひそめた。
「ローブはどうした?」
「ガスタ」の者が着る厚手のローブは防寒具として必須だ。いくら風で受け流したといっても完全ではない。事実、カームの前髪からは水が滴り、額に張り付いている髪もある。
「……私以外に、必要な者がおりましたので」
「なに?」
カームが横に退く。その後ろに、風に守られたローブが広げられていた。
ローブは膨らみを持っている。その形は、あきらかにヒトのそれだった。
「誰だ――これは」
ウィンダールは腰を落とし、ローブをめくって顔を確認する。
「――!」
顔と、その下の衣装を見たウィンダールは、カームに視線を向ける。
「これは」
ローブに隠された影は、とても襲撃者には見えない。違います、とカームはウィンダールの言葉を切った。無表情に告げる。
「私たちを襲った敵は撃退しました。湖の中に逃げ込んだので、やはり、この湖に悪意の主がいるものと思われます」
「――それはいい。当面の問題は」
ウィンダールは雨が当たらないようにローブを戻し、立ちあがる。視線を鋭くしてカームを見た。
「これが誰か、だ。下手をすれば、争いの引き金を引きかねん」
杖を軽く振ると、イグルが巨躯を現した。ローブを中身ごと両手で持ち上げる。
「とりあえず、近くで雨宿り出来る場所にいく。そこで、今後の対策を考えねば」
カームは黙って頭を下げる。杖と、どこにあったのか水の入った桶を手にする。
「それは?」
「霊水の元です」
「さて、どうするか」
湖からさほど遠くない場所に、一本の巨木が生えている。生い茂った葉が屋根のように広がる下で、三人と一匹が雨を凌いでいた。
手近な枝に濡れたローブを吊るし、ウィンダールは連れてきた者の姿を改めて見る。
湖面のような青い髪の、まだ幼さの残る少女だ。纏うのは黒いローブだが、「ガスタ」のものとは意匠が違う。ローブの下から、つばの広い頭の垂れた三角帽子が出てくる。
「間違いなく、「ガスタ」の者ではない、な。それに、この少女にはあの悪意が纏わりついている」
苦い顔で、ウィンダールは少女の全身を眺める。見た目からは解らないが、まるで少女を包むように、風に混じっていた悪意と同じものを少女から感じるのだ。
「私たちを襲った相手からも、同じような悪意を感じました」
「それがリチュアの者だとすれば、この少女も同じくだ。そもそも、この少女は一体どうしたのだ?」
「――湖畔に倒れているのを見つけました。寄ろうとしたところで、襲撃が」
「それは、この少女を守ろうとしたのではないか?」
カームは首を振る。人形のような無表情のまま淡々と言葉を発していく。
「いえ。ならば、簡単には退かないでしょう。これは仮定ですが――たとえば、この少女を私たちが拉致した、と。後々そういった理由をつけるために湖畔においておき、さらに形だけは少女を守ったという事実を残す。知略に長けた者ならばそういった計略もあり得ます。しかし、それならば、戦っている間にもそういった素振りを見せなければおかしいはず。襲撃者は私だけを見ていましたし、引く時も彼女を気にかける素振りはありませんでした。これでは守ったという事実より襲ったという方が残ってしまいます」
ウィンダールは言葉を吟味するように一瞬顎を引いた。
「……だが、この少女を我々がここまで連れてきたのは事実。後々の癌となりはしないか」
「今からなら、湖畔に戻すことは出来ます。それに、倒れていた少女を雨中に放置する方が、道に反するというものではないでしょうか」
「ならば、どうする。雨がやむまで待ち、この少女を湖畔に戻すか」
「とりあえずは、そうすべきかと。それまでには彼女も目を覚ますでしょうし、雨がやめば調査も出来ます」
ウィンダールは熱を測るように額に手を乗せ、口元に耳を当てる。
「見る限り、外傷はない。呼吸も一定で熱もない。下手に雨の中を飛んで風邪でも引かせれば問題になりかねん。ここは、時間に任せるのが良策か」
そして祈るように顔を上げ、目を瞑った。
「願わくば、何事もないことを、だ」
少しずつ、雨の合間に雲の切れ目が顔を覗かせ始めた。それを目で見るまでもなく風で感じながら、ウィンダールはまだ湿っているローブを手に取った。もうじき雨は止むはずだ。
雨宿りをしている木の葉の間から流れる雲が見える。カームが傍らに立つ。
「あまり、時間はありません。早急にご判断を」
わかっている、とウィンダールは頷き、ところどころに木の根が飛び出た黒い土に目をやる。大木に寄り添われるようにして、リチュアの少女は未だ眠っていた。
雨は、既に見えない程粒を小さくしている。
「あまり遅くなると、集落の皆に心配をかける。夕日も近い。発つぞ」
カームが小さく頷き、イグルがのびのびと乾いた翼を伸ばして変化する。巨体の上で、少女を抱えるようにして膝を乗せたウィンダールと、その後ろにカームがまたがる。
イグルが空に向かって高く鳴き、土や枝葉を舞いあがらせながら飛び立った。
飛行は、そう長い時間ではなかった。だが、その間に雨は完全に止み、纏わりつくような湿気が湿原を埋め尽くしている。
それは湖の周りも例外ではなく、ウィンダールが足を降ろした砂浜からは水がじわりとしみ出し、頬に薄く水の玉が浮く。
ウィンダールとカームは、変化したままのイグルの足元に少女を安置し、湖へと足を向ける。
カームが杖を掲げ、目を閉じた。
「……湖の底。あまり深くは探れませんが、それでも深ければ深いほどに悪意が増しているのを感じます」
「やはり、リチュアとみて間違いないか」
ウィンダールが呟く。
「未だ確証はありません。可能性でいえば、真っ先に上がるのがリチュアである、としか」
「なんであれ、対策の方針が必要だ。相手がリチュアだとして、湖底に潜む彼らとどうやって接触を持つか、だな」
イグルの方に視線を向けるが、その足元の少女は動くそぶりを見せない。
「彼女が目を覚ませば、多少の進展は得られるだろうが」
「なら、今は他の方法を考えましょう」
うむ、とウィンダールは頷いた。
「以前までなら、このまま放っておく、という手もあった。あちらが手を出してこない限り、存在しない者として無視することも出来た。だが、「ガスタ」の者が襲われたとなっては明確に方針を打ち出さねばならない」
「……戦いますか」
「争うのは、まだ早い。あちらの要求が分かれば交渉の余地はある。もしかすれば、何らかの誤解や行き違いがあったかもしれん」
「しかし、襲われたということは、我々にとって危険ということでは? それが知れれば混乱が起きます。しかし、隠し通すことは賢明ではなく、あまり長い期間は不可能です。ならば、湖周辺の警戒を行い、万が一の事態に早急に対応できる体制を作ることが、皆の安心に繋がるでしょう。交渉の椅子を引くもう一方の手で武器を磨くことも重要です」
「たしかに、それはある。だが、我々は争いを知らぬ種族だ。この地では、未だ大規模な戦闘があった記録はない。大がかりな準備は時間がかかり、警戒が長引けば皆の心にいらぬ不安と負担をかけることになる」
カームは無表情にウィンダールを見た。
「では――どの程度の対策を?」
「今まで通り、湖に近づくことのできるものを制限する。万一のことを考え交渉は私と他、わずかな人数で行い、皆への報告は最低限にする」
「それは、いらぬ不安がはびこることを懸念して、ですか」
「そうだ。風祭りも近い。重要な儀式の前に、下手な情報が流れて意識を流されるということは好ましくない」
しかし、とカームは表情はそのままに、杖を強く握った。
「万が一のことがあれば、隠していた反動は一気に起きます。混乱も起きるでしょう。いっそ、皆に正確に状況を把握させることが肝心ではないでしょうか」
ウィンダールは厳しい顔を作る。
「水面下で事を収めれば、皆に余計な心配をさせることがない。ならば、我々は隠密にことを収めることを考えるべきだ。責任は――賢者たる私の一存において行い、有事の際の責任も私が果たす」
ざ、と砂を分ける音がした。カームが杖を砂に突き刺していた。ぽつりと呟くように言う。
「御覚悟の上であれば――私からは、なにも。後は、神官様および各集落の代表者とお話しください」
「お前の意見も汲もう。警戒については一考する。交渉次第では、そちらに比重を置かねばなるまい。だがまずは、話し合うことを第一としたい」
カームが頷く――その動作にあわせるように、声が上がった。
「っわ、あああぁぁぁぁ――!?」
高い、少女の悲鳴。二人は同時にイグルの方に振り返った。
イグルが困惑した目をこちらに向ける。その足元で、黒い衣装の少女が腰を抜かしていた。
「イグル」
ウィンダールが声をかけると、イグルは小さく羽をたたむ。ごう、と風があたりの砂を薙ぎ、次の瞬間、風の中央に変化して小さくなったイグルの姿があった。
当惑したように小さな羽をはばたかせて滞空するイグルを見上げる少女。ざ、と砂を踏み分ける音に、少女が振り向く。
「あな、た――達は?」
おどおどと様子を探るように、上目遣いでウィンダールとカームの顔を見比べる少女。
ウィンダとは似ていない、とウィンダールは思った。背丈は同じほどだが、溌剌(はつらつ)とした娘に比べると、どこか陰のある少女だ。
「私たちは、「ガスタ」の者だ。そちらは、「リチュア」の方でいいのかな」
意図的に、外交用ではなく年頃の少女にかけるような言葉を選ぶ。
「あ……ええと、「リチュア」?」
声をかけると、少女の顔に、途端に困惑が溢れた。ウィンダールは眉をひそめる。
「すみません、その――分かりません」
「分からない?」
ふるふると頭を下げて振る少女。青い湖底のような色の髪が揺れる。
「それは――どういう?」
カームの声にも、近しいものにしか分からないような、わずかな困惑が見られた。ウィンダールは片膝をつき、座りこんだ少女と目線を合わせる。
「あなた、いや、君は、湖から来たのかな」
少女が、考え込むように顎を引く。前髪で、完全に表情が見えなくなった。しばらくその状態が続き、再び上げた顔の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「わ、わたしは――」
一度顔を伏して、ぐい、と袖で顔を拭くが、あげた時にはもう涙が滲んでいる。そのまま、鼻声に近い声で呟いた。
「どこから、来たのか……その」
わかりません、という声は湖面のさざ波の合間に消えるほど小さかった。