湿った土を踏み固めた細い道を辿りながら森の中をしばらく歩くと、視界に昼の光が広がった。
人々の声と音、降り注ぐ陽の光がウィンダとカムイを迎える。
そこは、森の中心を開いて作られた集落だ。
円形に箱のような木製の住居が並べられ、囲まれるように中心にやや大きめの、やはり木造の社がある。家の数は十ほどで、この集落に暮らす家族と同じ数。
家々の屋根の縁に、若草色の生物が羽を休めている。いわゆる鳥の形をしたものだけでなく、四本の足や四対の翼を持った異形も混じっている。いずれも、森に生きる原生生物だった。夜になれば森へ帰るものもいるし、そこに巣を作るものもいる。中には、「ガスタ」の者と意気投合し、移動手段となってくれる者もいる。「ガスタ」の者たちは巣作り用の枝にと薪の切れ端を集めておいたり、鳥を傷つけないように建物に鋭利な装飾をつけないようにと気を配っている。そうやって、「ガスタ」と原生生物は共生していた。
「お姉ちゃんはこれからどうする?」
足を止めてカームが尋ねた。
「とりあえず、お社に顔を出しておこうかな。神官様にただいまって顔出しておかないと」
「そっか。じゃあ、ここでお別れだね」
くる、とつま先の向きを直角に変える。
「どこ行くの?」
「さっき言った奴のところ。乗せてもらえるように交渉してみるよ。早くウィンダお姉ちゃんみたいに空飛びたいな」
じゃあ、と手を振ってカムイは森への出入り口近くの家へ駆けて行った。ウィンダは、ガルドの背に乗せてもらうまでの自分を思い出して、肩の止まったガルドを見る。同時、彼の方も同じことを思い出したのかこちらを見ていた。
頑張れ、と後ろ姿を見送り、社へ向かう。社は他の建物より一段高く、入口の前から短い階段が伸びている。
と、その階段の頂上に一人の少女が社から姿を現した。少女から女性への過渡期のような顔立ち。ウィンダと同じようなローブ姿に、やはり緑色の長髪を、こちらは首のあたりで束ねている。ウィンダの顔見知りだった。
「カームさん、こんにちわ」
ウィンダが声をかけると相手も軽く礼を返す。
「これからお勤め?」
カームは顔の表情の動かし方を知らないような無表情で尋ねた。
「いえ、今日はもう終わりました。外から帰ったので、神官様に挨拶をと」
「そう」
返答は短く、抑揚がない。相手に届きやすい澄んだ声だが、気を抜くと空気に消えてしまいそうな声色だ。声と同じように、その温度を感じさせない視線は遠くまで――心の中まで届きそうな気がして、正直な話、ウィンダは彼女が苦手だった。決して嫌いなわけではないが、どうしても萎縮してしまうのだ。
「あの――じゃあ、これで」
語尾が小さくなるのを自覚しつつ、軽く礼をして、ウィンダは社に入ろうとする。しかし、カームがやはり声音を変えずに後ろから声をかけた。
「気をつけて」
「え?」
ただの別れのあいさつではない、忠告の意を含んだ言葉に、ウィンダは思わず振り返った。
「――何に、ですか?」
「分からない――ただ、良くない雰囲気が風にある。冷気に混ざったこれは、悪意の気」
「悪意って、誰が……誰に?」
「分からない。だから、気をつけて」
「は――はい」
首をかしげながらも会釈をして、カームに背を向ける。
社の入口をくぐり、ウィンダはふう、と喉の奥に詰まっていた空気を吐き出した。ガルドが不思議そうにくちばしを向ける。小さな頭を撫でながら、ウィンダは呟いた。
「どうしても、苦手だなぁ……」
カームに対して、嫌悪感はない。「ガスタ」の巫女として、特定の誰かに肩入れしたり、その逆であることは許されないし、そもそも物静かなカームを嫌うような要素がない。
ただ――苦手なのだった。
「罪悪感、とかかなー」
ウィンダはカームと話すたびに喉に詰まる空気を、そう言い換えてみる。
元々、巫女は、カームがなるはずだったのだ。
風を読む能力は歴代の巫女や神官と比較しても遜色なく、過去最高とすら言われたカームが巫女に推されるのは、むしろ当然のことだった。表情の読めないところはあるが、愛想が悪いというわけではなく、住人達からの信頼も厚い。神官となったムストからカームを推すという話を聞いた時には、ウィンダも諸手をあげて賛成した。
だが、ほかならぬカーム自身が、「ガスタ」の代表者たちが集まる場で、その推薦を断ったのだった。
なぜ、とウィンダは思った。思っただけでなく、口に出した。他の大人たちもだ。なにも言わなかったのはウィンダールだけだった。
皆のざわめきの声が高まる中、一言、静かに――とウィンダールは告げた。
「彼女の事情もあるだろう」
皆が、一斉に口を閉じてカームを見た。あまたの視線を、カームは瞳で受け止めつつ、ゆっくりと平素と変わらぬ口調で言葉を紡いだ。
「巫女への推薦は、身に余る光栄――至極恐悦です。しかし、その任、お受けするわけにはまいりません」
「なぜだ」
ムストが眉を寄せる。他の者たちは、固唾を呑んで次の言葉を待った。
「私は――湿原の皆と、言葉を交わすことが出来ないからです」
言葉が通った後を、静寂が支配した。それが抜けるように、少しずつ言葉にならないような小さな呟きが湧いてくる。
「それは――本当か」
呻くような口調で、ムストが尋ねる。カームは平然と首肯した。
「はい。生まれてこの方、一度たりとも彼らと心を通わせられたことはありません」
驚愕と、落胆のため息が場に満ちる。ウィンダのものも、その中に混じっている。
「ガスタ」の者は、湿原の生物たちと心を通わせることが出来る。だから彼らと協力してミストバレー湿原で共生することが出来たのだ。初めは極めて稀だったというその能力は、今では半分以上の者たちが有しているものだ。あることを誇るほどのものではない。無いからといって恥じたり、引け目を感じるようなものでもない。だが、各集落の代表者たちの前で、視線を一身に受けてそれを告げることが、いったい何人に出来ることか。
巫女や神官は、「ガスタ」を導く指導者としての立場がある。原住生物と共存する以上、彼らとのコミュニケーションは必須能力だ。故に、能力のないものがその職に就くことは出来ない。
それが理屈だ。だが、感情が納得するわけではない。
どうにかならないか、と、声に出して言う者こそいないものの、皆がそう思っていることはひしひしと感じられた。
視線がムストに集まる。最高指導者の神官たる彼が承認すれば、たとえ能力が無くともあるいは――と。それほどまでに、カームの風を読む力は高かったのだ。まったく影を感じさせない彼女の姿勢に魅せられたということもあるだろう。ただ一点を除けば、彼女の巫女としての適性は最高といえた。
ムストは、長い間無言だった。その時間、ずっとカームの視線は前へと向けられていた。その瞳の中の感情は、やはりウィンダには読みとれなかった。
最終的に、ムストはこう言った。
――後日、再び場を設け巫女の選定を行う、と。
そして、後日その場で、ウィンダが巫女に選ばれたのだった。満場一致だった。
あるいは、どこかで意見の統合が行われたのかもしれない。表立って言う者はいなかったが、カームが巫女でないことを惜しむ声は、どこからともなく漏れ出していたのだ。それはもしかすると、ウィンダ自身のものだったのかもしれない。
ウィンダがカームを苦手とするのはそんな背景もあってだった。胸を張って巫女を努めなければ皆に示しがつかないし、巫女としてくれたムストの顔に泥を塗ることになる。だから平素は気にしない素振りをしているのだ。
だが、カームの前ではどうしても緊張してしまう。決してウィンダのせいではないはずの罪悪感からか、彼女の視線からかは分からないが。
やはり、ウィンダはカームが苦手だった。
振り返ると、階段にカームの姿はない。身体に纏わりつくような喉から出た空気を振り切るように、ウィンダは社の奥に歩を進めた。