黒ずんだ、年季を感じさせる木の板が廊下の両端に並んでいる。社の廊下。「ガスタ」の始めの者たちが作ったと言われる古い建物に満ちる、ひんやりとした空気の中を、ウィンダは歩いていく。
窓のない廊下は、点々と灯る小さな蝋燭だけが光源だ。だが、それは恐怖を喚起させることはない。むしろ荘厳な静謐さを持って、廊下を通る者にこの社に祀られている存在を感じさせる。
距離感のつかみにくい廊下をしばらく歩くと、行く手に大人の身長ほどの一枚板で出来た扉がある。ウィンダは、その扉を二度叩いた。
「どなたか」
低い声が中から聞こえる。
「ウィンダです。戻りました」
「そうか。――入れ」
失礼します、と音を立てないようにゆっくりと扉を横に引く。広間のような板張りの部屋。廊下とは違い、大きく開かれた天窓から日差しと風が舞い降りている。部屋の奥に、光を浴びる木像があった。牛のような頭部を持った人型だ。それが、「ガスタ」が代々祀る、この星を創ったと言われる神だ。
わずかに埃が舞う空間の中心に、神官姿の男が背を向けて座っていた。
「ご苦労だった」
男が立ち上がり、振り向く。「ガスタ」の神官、ムスト。今の「ガスタ」における最高指導者であり、ウィンダの上司。さらに言えば、父親の友人だ。
ウィンダは部屋に一歩足を踏み入れた。
「座れ」
扉の隣に積まれた綿の入った布を一つ取り、それを敷いてムストの前に座る。ムストも同じように腰をつける。
「先ほど、ウィンダールと話していた」
「父上と……?」
ムストは首肯し、続ける。
「風を読んでみろ。北からの風だ」
言われ、ウィンダは瞼を閉じた。
視界を閉じると、肌の感覚が鋭敏になる。遠い外のざわめき、身を照らす日差し。そういったものを肌で感じ、その中に混じった風を探す。
ゆっくりと室内に吹き込んでくる風があった。霞の谷から流れ込む、過去の戦禍を未だに残すような火と鉄の混ざる風。氷結界からの、鳥肌を立たせようとするような冷たい風。もっと遠く、霞の谷とは違う、もっと熱気を持った風とそれに混ざる大地の匂い。長く風に接し、読む訓練をしていれば、風がどこから吹いてきたものかは手に取るように分かる。
冷たい風だけを肌で感じるように集中する。幼いころからずっと感じ続けている風の一つだ。
「……」
ふと、違和感を覚えた。もはや感覚ですらない、そんな気がした――という程度の違和感。それは、風に混じる匂いだ。
氷の山から吹きこむ、鼻から口に抜けるような澄んだ冷気ではない。もっと湿気を帯びた、淀んだ空気だ。
嫌な風。
ウィンダはそう思った。
淀みは負の感情だ。妬みや恨み、そういったものの混ざった悪意が風に乗っている。
「……北からの風に、悪意が混ざっています。誰に向けてかは分かりませんが――嫌な、風です」
ムストは無言で首を引いた。
「北が不穏だ。当分、湖には近寄らないほうがいい。皆にもそう伝えよう」
「でも――」
ウィンダが眉を上げた。
「もう少しで『風祭り』が始まります。供物の魚はどうするのです?」
「ウィンダールに任せる。他の者ならともかく、彼ならば不安はない」
「父上に……なら、安心ですね」
ほ、と一息つき。ウィンダは顔を上げた。
「しかし、北で何が起こっているというのでしょう? まさか、伝承にあるような氷結界の龍の復活が――といったことでは?」
「あれは眠りについたはずだ。再び揺り起こさんという者は、もはやこの大地にはいないだろう。むしろ――」
そこでムストは、ウィンダに「リチュア」のことを話した。伝聞で存在を知っていたウィンダは、軽く眉を動かした。
「では、彼らがこの湿原に悪意を向けていると、そう仰りたいのですか?」
「可能性だ」
「――どうであれ、調査を行うべきではないでしょうか」
ムストは首を縦に振った。指を降り、
「ウィンダールとカーム、それに湿原の生き物にも話をつけて支援してもらう。手が空いているときは、私も混ざる予定だ」
「私は?」
膝を詰めてムストに寄ると、ムストは首を、今度は横に振った。
「私が留守の間、万一のことがあれば皆を纏める者が必要だ」
「……それは。私に、その役目を?」
す、と血の気が引いた。想像するだけで、肩に重しが勢い良くのしかかってくる。
「神官がいない時は巫女がその役を得る。「ガスタ」の神職は皆のまとめ役でもあるのだからな」
「私に、出来るでしょうか。他に適任が――」
「お前だ、ウィンダ。それ以外の人選はない」
そこで、安心させるように、わずかに表情と声色を和らげる。
「まあ、私がいなくなるようなことは万一にも起こらないだろう。さらに、ウィンダールもいる。カームも、良い相談役になれるだろう。不安がることはない」
「……そう、ですね」
ウィンダは無理やり首を動かした。ムストが立ち上がる。
「役目、ご苦労だった」
「はい。――では」
座ったまま頭を下げ、布を片づけて、一礼して部屋から出る。
暗い廊下に、ため息を漏らした。
「気が重いなぁ……」
こういう時、カームが巫女ならば。そう思うが、頭を振って考えを放りだす。肩が揺れて、ガルドが宙へ飛びあがった。
「あ、ごめん。……それは、責任押し付けてるだけだよね」
首を軽く曲げて肩を出してやると、ガルドが爪を立てた。高く、一声鳴く。
ウィンダは頷いた。
「そうだね。ガルドもいるし――大丈夫だよね」
そもそも、ムストにウィンダールにカーム。三人とも居なくなるようなこと自体、あり得ない。