翌日。
ウィンダがいつものように朝の勤めを終えて社を出ると、朝露に濡れた風が髪の間を抜けて行った。
「うぅーん」
杖を持った両手をあげ、澄んだ空気を思い切り吸って伸びをする。まだ空気が暖まりきらない朝の風は冷たくて心地よい。
ふぅ、と吸った分の息を吐き、顔を上げる。薄い雲が一面に張られている。やや眉を下げ、ウィンダは呟いた。
「あんまりいい天気じゃないね。……お父上、朝早く出かけたけど大丈夫かな」
森と共に目を覚ますような早起きの「ガスタ」の集落でも朝が早いウィンダが起きた時、ウィンダールは既にどこかへ出発していた。朝の勤めの時にムストに尋ねると、どうやら霞の谷へ出かけたようだ。
「霞の谷、ね。あんな何も無いところに、何の用だろ?」
肩のガルドに目を向けるが、彼は首をかしげるだけだ。
「……ま、考えてもわかんない、か」
どうも、大陸中で何か変化が起こっているようだ。この時期に霞の谷を訪れるというのは、それと何か関係あるのかもしれない。そうだとして、ウィンダが出来るのは帰りを待つくらいだ。
「今は、やることやらないとね」
そう言って、ウィンダは社の入口から裏手に回る。家と家の間に、小さな倉庫が見える。ウィンダが板張りの扉を開くと、中に残っていた夜の冷気の残滓がひんやりと身体を包み込んだ。
暗い室内には小さな窓が一つだけ空けられている。そこから入るわずかな光を頼りに、ウィンダは倉庫の中を見まわす。肩に留まったガルドが一声鳴き、暗い部屋の中に、文字通り飛びだした。
「あ、そこか。ありがと」
ガルドが羽を鳴らして滞空したところに、古い瓶が鎮座している。中には、社の神様の前に備えるための霊水が入っているはずだ。ウィンダは近くに転がっていた柄杓を手に取り、瓶の中に突っ込んだ。軽い音が響く。
「へ――あれ?」
瓶の中で柄杓を動かすが、水の抵抗がほとんどない。光の下に持っていって中を覗き込むと、うっすらと張った水の膜の真下に瓶の底が見えている。
「あちゃー……そういえば、前に取ってきたの結構前だったなぁ……」
勤めの後に霊水を備えるのは歴代の巫女の役目だ。まさか、自分の代で絶やすわけにはいかない。
「まだ尽きないけど、早めに補充した方がいいかな……。まあ、取ってくればいいだけなんだけどね」
霊水は氷結界に近い湖の水に護符を溶かして清めたものだ。元となる水があれば霊水は作れる。なら、とガルドを見、
「じゃあガルド、ちょっと湖まで――」
ああ、とウィンダが手を打つのとガルドが警告するように鋭く鳴くのは同時だった。
「つい最近、湖に行くなって言われたばかりだったね。お父上は今いないし、カームさんは……」
鳥と言葉をかわせないということは、背に乗って移動することも出来ない、ということだ。歩いて湖までいったのでは、たどり着くまでに陽が暮れてしまう。
「ということは、神官様に頼まないと」
とりあえず、と瓶を傾けて残った霊水を集めて柄杓で掬い、それを持ったまま倉庫を出る。薄曇りの空から、わずかに陽の光が零れていた。
まずは、霊水を備えようと再び社の入口に向かう。露で濡れた階段で滑らないようにややゆっくりと階段を昇っていると、ふと、見覚えのある長い緑の髪が見えた。少ない陽光でもエメラルドのように輝く束ねられた長髪は、カームのそれだった。彼女はまだ静かな朝の森に入っていく。
「なんだろ……こんな時間に?」
気になるが、手元の柄杓を持ったままでは追えない。ウィンダは後ろ髪を引かれつつ社に入る。
靴を脱ぐと、板張りの廊下が素足に冷気を伝えてくる。静かに廊下を進み、神像の安置された部屋の扉を開く。
朝の静寂に包まれた無人の部屋。ウィンダが扉を開けた瞬間、止まっていた時間が動き出したかのように空気が動く。ウィンダは「ガスタ」の神の木像の前に行くと、柄杓を置いて瞼を閉じ膝をつき、ゆっくりと礼をする。肩から床に降りたガルドも頭を垂れた。
流れた空気が再び止まり始めたころ、ウィンダは顔を上げる。軽く首を動かしてガルドを乗せ、神像の前におかれた筒を手に取ると、部屋の端の小さな窓を開いてそこから外へ中身――古い霊水を流す。
そして空になった筒に柄杓の霊水を流し込み、神像の前に備える。
「これでよし、と」
軽く息を吐き、再び膝をついて礼をし、立ちあがる。
「あとは、神官様に霊水のことを伝えないとね」
今の時間なら、ムストは神官用の小部屋で瞑想しているだろう。そう思い、神像の脇の扉を二度叩く。
「ウィンダです」
「入れ」
「……失礼します」
神官の個室として使われているだけの部屋なので、広さはあまりない。せいぜい大人二人が寝ころべる程度だろう。それなのにあまり圧迫感を感じないのは物が無いからか。ムストと来客用なのか綿をつめた布が二つ、脇に積まれているだけであとは何もない。そんな部屋の中心で、ムストが背を向けて座っていた。
「どうした?」
目を閉じたままムストが尋ねる。
「霊水を切らしてしまって。もうすぐ風祭りですし、補充しないと――でも、湖には行くなと言われているので」
「それは困ったな……」
「え?」
ウィンダが声を上げるが、ムストは口を閉ざしたまま。そのまましばらく時間が経ち、ウィンダが声をかけようとした時、
「……風に混じる悪意が、強まっている。何か動きがあるかもしれん。今、ここを動くわけにはいかん。ウィンダールは所用でいつ戻るか分からんし……。調査のついでに汲んでくることも出来るが、間に合わないか」
「え――じゃあ、どうすれば?」
再びムストは口を閉ざす。だが、今度の沈黙は短かった。
「致し方ない。お前がとりに行け」
「よろしいのですか?」
「カームと一緒に、だ。彼女を連れて湖に行き、用がすんだら素早く帰ってこい。その後、湖の様子を報告しろ」
「……はい。分かりました」
「くれぐれも、気をつけろよ」
はい、と礼をしてウィンダは部屋を出た。
朝露に首を垂れる草をかき分け、ウィンダは森を歩いていた。ローブの裾は濡れ、それなりの時間、森の中を歩いていることを示している。
「どこだろ……」
首を振って探す相手はカームだ。森の中で人を探す時にはコツがある。キノコや野草の群生地、地下水の湧き出ているところや薪が落ちていそうな木の下――そういった、用のありそうな場所を重点的に探すのだ。そうでもしないと、狭いとはいえ視界の悪い森の中、一人を探すのは難しい。
「居そうなところは探したんだけど――他にどこかあるかな」
ガルドは首を傾ける。
「だよねえ。他には――?」
言葉を切る。草木の茂る緑色の視界に、一際鮮やかな色が見えた気がしたからだ。
こっそりと様子をうかがうように、腰を落として草をかき分ける。そこに、カームはいた。
カームだけではない。その周りを、鳥やリス、犬型といった様々な森の生き物たちが囲っているのだ。木々の間から零れる陽に照らされた広間に集まったその光景は、カームを指揮者とする楽団のようにも見えた。
「言葉――通じないんじゃ……」
息をひそめてさらに身をかがめて前に出ようとすると、ばさ、と茂み全体を揺らすような大きな動きが起きた。
「あ――ガルド、ごめん!」
肩に乗ったガルドのことを忘れていた。茂みに羽が引っかかることを嫌がったガルドが飛びあがったのだ。
慌てて前を向くと、驚いた森の生き物たちはどこかへ隠れてしまい、カームだけがぽつんと浅い草の海の中に取り残されている。首だけで、カームが振り返った。
「あの……その、カームさん、おはようございます」
ごまかすように頭を掻きながら挨拶すると、いつもの無表情のまま、おはようと帰ってくる。
「ここで、何を?」
飛んできたのは、当然の疑問。
「ええと、ちょっとした用事で、カームさんを探してて。カームさんこそ、朝からこんなところで何をしていたんです?」
「それは――」
彼女にしては珍しく、言いよどむように言葉を切る。と、ガルドが羽をはばたかせて草むらの中から何かをついばんだ。それは、小さな穀物の殻だ。
「ごはん、あげてたんですか? みんなに?」
「……ええ」
カームはローブの袂から小さな袋を取り出す。軽く振って手の平に出した中身は、小さな木の実や穀物だ。ガルドが物言いたげにウィンダを見る。カームが手を差し伸べるのを見たウィンダが軽く頷くと、ば、とウィンダの腕につかまり、差し出された木の実をついばみ、飲み下す。
その様子を、カームがじっと見つめていた。
「毎日、ごはんあげてるんですか?」
「ええ。朝だけだけれど」
応えるカームの視線はガルドに落とされたままだ。ウィンダはどんな言葉をかけるかを考え――口を開く。
「なんで、わざわざ?」
「初めは……もしかしたら、と思って。でも、今は習慣」
「もしかしたら――言葉、分かるかもって?」
言ってから、ウィンダは口に手を当てる。カームのコンプレックスを刺激するようなことを言ってしまったと。だが、カームは気にしていないように表情を変えずに頷く。
「でも、無理だった。資質だから。懐いてはくれたけど、もしかしたら朝食を用意してくれる小間使い程度にしか思われていないのかもしれない」
「そんなこと、無いですよ!」
ウィンダは力強く断言した。ぎゅ、と拳を固めた勢いで腕のガルドが落ちかけ、必死にローブに爪を立てる。
「そうかしら。私は彼らの言うことが分からないから」
「……私だって話したことはないけど、それでも、みんなカームさんを信頼しているから、あんなに集まってくるんです」
「でも、小さな物音ひとつで彼らは逃げてしまったわ」
手の平に木の実を追加しながら、カームは静かに言った。音を立てた原因が他ならぬ自分なだけに、う、とウィンダは言葉に詰まる。
――と、ガルドが腕から飛び立った。軽くその場を旋回し、やがて茂みの前で高い声で数度短く鳴く。さらに数度、今度は低く、まるで諭すように。
「なんて言ってるの?」
「出てこい、とか、安心しろ、とか――カームさんのこと信頼してるならって……!」
がさ、と茂みを揺らす音。同時に二人は目を向けた。その視線を、茂みの中から跳ね返す光がある。アイスブルーの二つの瞳。
ガルドがもう一度鳴く。観念したように首を下げ、瞳の持ち主が姿を現した。四足の犬のような姿。額に天を貫くような立派な角を一本備えている。
「あなたは――」
カームが、珍しくわずかに表情を動かす。ウィンダにも見覚えのある姿。それは、カームの周りに集まっていたうちの一匹だ。
ウィンダが瞳を見つめると、彼も見つめ返した。
「この子――カームさんのこと、慕ってるっていうか……懐いてるっていうより、尊敬してる? そんな感じです」
「尊敬?」
す、と礼をするように、彼は前足を揃えて頭を垂れる。
「毎日、朝早くからご飯をくれるって。雨の日も、寒い日も暑い日も、毎日かかさずに来てくれたから――」
「それは、ただ、習慣になってたからで」
「この子たちは、そんなこと知りませんよ。カームさんが毎日ご飯をくれたことと、それ以上に、毎日来てくれたこと自体が嬉しかったんです」
「そう――なの?」
疑問の声は、彼に向けられていた。彼は、頭を垂れたまま短く鳴く。
「……何を言ってるかは分からないわ」
言ったカームの眉は、しかし優しく下がっていた。
「まあいいわ。行きなさい。また、明日。ええと」
「サンボルトです。彼の、名前」
「そう――また、明日ね。サンボルト」
サンボルトは一声鳴き、背後の茂みに姿を消した。
その姿を見送り、影も消えてから、いつもの無表情になったカームはウィンダに視線を向ける。
「それで、何の用かしら」
「ああ、そうでした。カームさん、私と一緒についてきてくれませんか? 湖まで」