相変わらずの灰色の空模様と湿原の暗い緑の間を、新緑の翼が切り裂くように飛んでいく。駆け抜けていく風の中には水気が多く、足元の湿原には薄く靄がかかっている。ガルドの背中でウィンダは眉根を寄せた。
「嫌な天気……まだ降らないと思うけど、早く帰りたいね」
呟き、背中につけられた手綱を握る力を強める。背後に、風に乗せて声を飛ばす。
「カームさん、ちょっと急ぎます」
「どうぞ」
ウィンダの後ろに乗ったカームはまったく動じる様子もなく、背中にまたがった膝の上に杖を持った手を置き、平然と正面を眺めている。髪やローブの裾は風に煽られて激しく揺れ動いているが、絹のような肌には鳥肌一つ立たず、それどころか長いまつ毛は瞬き以外で揺れることはない。おそらく、何らかの術で風を受け流しているのだろう。
それを横目で見たウィンダの目から、雫が数滴、風に乗って飛んでいく。風を読んでガルドに負担が少ない航路を飛ばせるために、風の影響を完全に立つことは出来ないのだ。ウィンダは小さく呟いた。
「目が乾くー……」
「何か、言った?」
「あ、いえ、こっちの話」
首を振り、ウィンダは続けた。
「すみません、つき合わせちゃって」
「いいえ――空を飛ぶのは久しぶりだから」
いつものように小さな声だが、不思議なことに風に流されず耳に届く。
「前飛んだのは?」
「そうね……たしか、ひと月ほど前。ウィンダール様と共に、湖に行った時」
「お父上――賢者様と一緒に?」
初めて聞く話に、ウィンダは眉を上げた。
「その時も、調査かなにかで?」
「……そう。そんなところ」
その声はわずかに小さかったが、ウィンダはそれに気づかない。目元を軽く袖で拭いながら、眼下を見下ろす。靄がかかって分かりにくいが、慣れた風景だ。おおよその場所を把握して、声を飛ばす。
「もう少しです。カームさん、なにか感じます?」
「あなたは感じない?」
「……え?」
振り返ると、カームは手櫛で乱れた髪を撫でながら目を細めて前方に視線を投げた。
「ここ最近、ずっと風に混じっている悪意。それが強くなっていくわ」
息をのみ、ガルドの背中を撫でる。それだけで意図が伝わり、ガルドが速度を緩めた。流れる風が少しだけ弱まる。
「ほんとだ……これは」
うっすらと鳥肌の立つような、冷たい感情が風に乗って伝わってくる。ローブを揺らす風の温度ではなく、もっと感覚的なもの。明確にウィンダに向けられたものではなく、一種の場を展開するように広範囲に放たれているため、強い風の中では気付かなかったのだ。
カームが気づいていたのは、力の差か。
「流石ですね」
「なにが?」
「こんな風の中でも、正確に風が読めるなんて」
「そうかしら」
明日の天気の話でもするようにカームは言った。
「余分な風は切っていたから。鳥を操っているあなたは、そうはいかないけれど――それだけよ」
「そう、ですかね」
謙遜でもない、ただ事実を述べているような声音に、ウィンダはわずかに顔を落とした。そこで自慢でもしてくれれば逆に気持ちのふっきれもつくものを、当り前のように言われては「ガスタ」の巫女として立つ瀬がない。
まあ、今更の話だ――そう思い直し。ウィンダは顔を上げる。強い風に、また涙が流れて行く。
「このまま湖に向かいますか?」
悪意は、前方――向かている方向から流れてくる。おそらく、湖からだ。
「調査のために、向かう必要があるわ。降りて、私だけが行ってもいいけれど。水を入れる桶も、ここから湖までなら持っていけるし――」
「ダメです!」
自分でも驚くような、大きな声だった。ガルドの背中の気がわずかに逆立つ。カームの表情は変わらない。
「私の、巫女としての役目ですから。カームさんに頼むわけにはいきません」
なぜ声が大きくなったのかは解らない。ただ、種類の判別できない感情が口から出た。つばと一緒にそれを呑みこみ、手綱を握る。小さく、しかし力強く呟いた。
「――私も、いきます」
そう、とカームが頷いた。無表情で、眼下の靄の絨毯を見る。
「そろそろね」
遠くから見る湖は、まるで巨大な鏡のようだった。風に揺れるのは水面のわずかな部分だけで、全体としてみれば湖は磨いたガラスのように平坦な面を空に向けて、薄曇りの色を反射している。
ウィンダは、ガルドの背中を軽く撫で、高度を落とさせる。翼で風を受け止めるようにしてガルドはゆっくりと高度を落としていく。正面からの風が弱まり、空気に混じる悪意を、ウィンダの感覚は形を持っているような程に感じていた。
ごう、と周囲の土を軽く吹きあげながら、ガルドは着地する。まず、ウィンダが杖を持ったまま飛び降り、続いてウィンダの手を借りながらカームがゆっくりと地に足をつける。
ガルドの首に着けた桶を外したウィンダが振りかえると、カームは既に水面のほとりに杖を抱いて砂に膝をつけている。
「なにか、見えますか?」
水中を覗きこむようにしているカームに声をかけながら、ウィンダが駆けよる。その後ろを変化したガルドが追い、立ち止ったウィンダの肩に乗る。
カームは首を振った。そのままの体勢で目を閉じる。
「悪意は、湖の奥底から。氷結界と集落の両方に、放射状に放たれているわ」
「じゃあ、やっぱり、リチュアが?」
「……わからない。湖の中は風が通らないから。もしかしたら、他の要因があるのかもしれない」
ウィンダは桶を置き、怖々と冷たい水の中を覗きこんだ。湖はゆっくりとした傾斜をしているため、透けた水面のすぐ下に黒い砂が見えるだけだ。
とりあえず、と桶を湖に浸け、沈めていく。
「これでよし、と」
三分の二ほどに水が入り、重くなった桶に杖を乗せて両手で持つ。
その時、カームが顔を上げた。湖のほとりに目を向ける。
「あれは……」
え、と釣られてウィンダも視線を飛ばす。隣でカームが立ち上がり、杖を右手で身体の前に構えて歩き出す。あわてて背中を追おうとすると、カームは左手を後ろに出した。
「なるべく岸から離れて、待っていて」
でも、と言っている間にカームは再び歩き出してしまう。ガルドが何かを尋ねるようにウィンダの顔を覗く。
「……そうだね」
カームの背中を見ながら、下がっていく。背中を返し、岸から数十歩ほど離れた場所で立ち止まる。
遠ざかっていくカームの背中を見ながら、手に力を込める。調査を任されたのはカームで、ウィンダはカームを運ぶためにいるようなものだ。もしもカームが空を飛べたなら必要ない、その程度の存在。そう思うと、巫女としての矜持が折れそうだった。
今のカームとウィンダの距離が、そのまま実力やムストからの信頼を示しているようにさえ思えてくる。ここへ来る途中に感じた気持ちが再び胸の中で鎌首をもたげてくる。
気づけば、右足が砂を漁るように踏み出されていた。誘われるように左足が出、気づけば小走りに、さらに動きは大きく、それにあわせてカームの背中が近づいていく。カームが振りかえる。そして。
「危ない――っ」
え、と呼気が漏れる。ガルドが飛び上がる。カームが杖をつきだす。側面、湖から何かが飛び出してくる。
全てが並行して行われた。
そして、ウィンダは見る。
正面、巨大な風の流れが生まれた。直後それは一気に大きな球体へと変化し、ウィンダを吹き飛ばす。そのつま先を掠めるように、何かが水しぶきを纏って水中から飛び上がる。
倒れこむウィンダ。幸い、地面は柔らかい砂だ。小さな粒が入った目を細めつつ、桶から杖を引きだして構える。
砂浜に突き刺さった鎖。それが、水中から襲いかかったものの正体だった。ウィンダが立ち上がるのと同時に、鎖が勢いよく引き戻される。
カームが水面に目をやりながら駆けてくる。
「大丈夫?」
「あ、あの」
呼吸が乱れている。一瞬の事態に理解が追いつかず、混乱する頭。頭上でガルドが鋭く鳴いた。
「え? 来るって――」
言葉が終わらないうちに、ウィンダは再度砂の上に投げ出される。カームが、身で覆うように押し倒したのだ。その背の上を、鋭い分銅のような錘がついた鎖が掠める。
カームが身を跳ねあげるように起き上がった。杖を振る。
途端、巻き起こる強風。杖を振る時に起こったわずかな風が瞬時に増幅され、砂を巻き上げる。カームが無言で向けた杖の先は水面。ウィンダの目には、渦を巻く風が身をうねらせ、湖に向かって猛進する様子がはっきりと見えた。水を裂き、小さな台風とすら呼べる風の塊が水面を駆ける。
水面が爆発した。
煙の代わりに水しぶきを跳ねあげ、エネルギーの全てを一瞬で解き放ち、周りを押し上げる力へと返る。
唖然とし、口を半開きにしたウィンダの顔に霧雨のような水が降り注ぐ。
風を読み、それを操る力。「ガスタ」の持つその力の中でも、これほどのものは規格外だ。ウィンダが起こせる風は、せいぜい木の枝を揺らし、実を落とす程度。カームが杖の一振りで引き起こした風ならば木の枝ごとねじ切ることが出来るだろう。
圧倒的な力の差。
理屈ではなく、感情で。心の底からそれを感じさせられた。
「立って、下がって。ここは危ない」
「カームさんは――」
上空でガルドが鳴いた。カームの杖の一閃。顔へ向かって飛来した鎖を密度の高い風で押し返し、弾く。
「早く。ここは、私が。あなたは神官様の元へ」
足手まといだ――ウィンダは、そう言われたように思った。
背中を向け、杖を構えるカーム。このままでは、ウィンダがいることは邪魔以外の何物でもない。ウィンダを庇いつつでは満足に戦うこともできないだろう。だが。
「……やってみなくちゃ解りません!」
叫び、ウィンダは杖を握った。敵よりも、カームの背から離されるのが怖かった。その背中を離れれば、その分だけ力の差を思い知らされる。
「私は、巫女です。カームさんを置いて、逃げられません」
カームは無言。
「私も戦います!」
言った瞬間、風に飲まれ、砂浜から足が舞い上がった。そのまま吹き飛ばされる。
「なんで……!」
巻き込まれたのではない、明らかに、ウィンダを狙った風だった。
「私も――」
「あなたには」
言葉を遮り、カームが表情を変えず、いつもの声色で言う。
「あなたの出来ること――あなたにしか出来ないことをしなさい」
見開いた眼の前で、カームが舞うように身体を半歩動かした。その側面を槍のように鎖が貫く。引き戻される鎖をカームが杖で弾く。
「集落に急を告げなさい。もはや、湖に敵がいるのは明白。ならばそれを誰かが教えなければ」
「なら、一緒に!」
「私はここで足止めを。出来れば、敵の詳細も調べたい。あなたは飛べて、私は飛べないから」
飛べない――その言葉。ウィンダに全てで勝る、そんなカームの唯一の欠点。そこを埋められるのは、ウィンダしかいない。上を見れば、既に変化したガルドがこちらへ降り立ってくる。その巨躯を狙った鎖を、カームが弾く。
「早く」
「……はいっ」
ガルドの背に駆け寄り、素早く飛び乗る。空の雲は密度を増し、墨をこぼした色になりつつある。
「なるべく急いで戻りますっ。無事でいてください!」
遠ざかるカームが無言で頷くのが、ガルドの翼の下から見えた。