授業開始のチャイムが響く。
廊下から窓へと心地よい風の抜けていく教室は、担当教諭が入ってきてもざわざわとした喧騒が止まず、浮き足立つ雰囲気が迫る祭りを意識させた。ずれた前髪を指先で整えながら、沙綾は無意識のうちに視線を前へ向ける。
——楽しそうだなぁ。
笑顔で周りの生徒とのおしゃべりを楽しむ少女を見ると、ふふと笑みが漏れてしまう。そこでようやく自身の行動を自覚して顔が熱くなった。
「……はぁ」
窓際の席なため、顔を動かせば外の景色がよく見える。ちらちらと向けてしまう視線を制御出来ないまましばらく風に当たっていると、何度目かの一瞥で元凶とぱっちり目が合う。
「さーやーっ!」
ぶんぶん手を振る少女——香澄に頬杖をついたまま手を振り返して、諦めるように息を吐いた。どうしてかいつも視線で追ってしまう。どうしてもなにも、目立つから視界に入ってくるというのが一番の理由なんだろうけれど、目立たなくても探している自分がいて。
それはまるで曇り空の奥に太陽を探すような——
『それがなきゃ生きていけないみたいな印象が……』
——うわぁあっっ‼︎ 違うっ! そうじゃなくって!
違くないなんて、言われなくても分かってる。でも、どうしようもなく恥ずかしい。友達のことを大切に感じるのがどうしてこんなに恥ずかしいのだろう。なんというか、読んでいると足をバタバタさせてしまうような青春漫画を実際に味わっているような——現実の中に空想じみたものを感じてギャップに戸惑ってしまうような、そういう感覚。
自分はお伽話のお姫様でも少女漫画の主人公でもないし、まして青春漫画の親友キャラでもない。理解しながらそれでもそれっぽい思考になっているのが、無性に恥ずかしいのだ。
——いやいやでもみんなそうでしょ? ポピパ大事でしょ?
なんて言い訳をしつつ教師へ視線を移した。この時間はLHR。なにをやるかは教室の雰囲気から察せられる。
号令を済ませると、教師に呼ばれて教壇に立ったクラス委員長がどうせやるんでしょという空気の中、一応訊いておくかみたいな投げやりな態度で口を開く。
「——文化祭実行委員、やりたい人いますかー」
クラスの視線は一点へ集まり——いや、もともと集まっていた視線の中心で、高らかに手を挙げるのは戸山香澄。やっぱりなんてつぶやきがそこかしこから聴こえるが、そんなものは気にした様子もなく、ぴょんぴょん飛び跳ねそうな勢いで立ち上がる。
「はーいっ! やりたいっ、やりたいでーすっ! やりますっ!」
「いや、決まってんのかよ……」
隣の有咲が呆れ混じりに笑う。
「他にやりたい人、いるー?」
なんて、義務的な質問に手を挙げる生徒はおらず、笑い声に包まれながら実行委員が決定する。香澄が実行委員をやるのはこれで三度目。つまりは三年連続というわけで、同級生的には分かりきった結果だったりする。なんなら他のクラスの生徒さえも予想していたくらい。
「実行委員になりました! 戸山香澄ですっ!」
「「「知ってたー」」」
「あちゃー、バレバレだったか」
えへへと無邪気な笑みをこぼす香澄に、くすくすとあちらこちらから微かな笑い声が漏れる。そんな光景を見ながら沙綾の頭に浮かんでくるのは、「やっぱり、すごいなぁ」なんて気持ちで。
戸山香澄が動けば人が
——人の上に立つタイプじゃないんだけど……。
人の手を引くのが得意で、気づけば側にいて、けれどいつだって選択をこちらに委ねてくれる。誰かのために怒って、誰かのために泣けて、誰かと笑うのがなによりも好きな子だから、きっと誰よりも好かれるのだ。
「副委員長やりたい人ーっ! はいっ、有咲ーっ!」
「聞いてんじゃねぇのかよ!」
自分もまた、そういう香澄が好きで、みんなもそう。空気を悪くする人間が嫌われる道理はあっても、空気をよくする人間が嫌われる理屈はない。あるとすれば、それは妬みや僻みで、別に香澄でなくてもいいのだ。誰かを下げようとする人間は自分に人気がない原因を他人に求めているだけだから、誰が相手でも同じことをする。
「やらねーからな!」
「えぇっ、やらないのっ⁉︎」
「昨年ほとんど私がやったの忘れてねーからなっ? 沙綾パース」
もはや恒例となった夫婦漫才を「またやってる」と思いつつ眺めていると、唐突に矛先がこちらに向いた。
「えぇっ? ……私もなぁー……」
香澄を一瞥してちょっと渋って見せると、香澄は眉尻を下げて肩を落とす。期待通りの反応に満足して、そのまま言葉を続けた。
「あははっ、うそうそ。いいよ、一緒にがんばろ?」
「さーや〜っ!」
名前を呼びながら駆け寄ってきた香澄を立ち上がって受け止め、二人で教壇へと戻る。途中で有咲と目が合って、
「はぁー、沙綾は甘やかし過ぎなんだよ」
なんて言われてしまう。
——まあ、自覚はあります。
「有咲が厳し過ぎるんだよ〜っ! さーやぁっ、えへへー」
ぎゅーっと抱きついてくる香澄をはいはいと宥めつつ、このままは確かになぁとも思うので、とりあえず忠告だけ。
「
「うっ……が、頑張ります……」
目を逸らしながらも不満はこぼさない香澄に、そういうところがずるいよなぁと苦笑が漏れる。多分、今回もなんだかんだでいろいろやっちゃうんだろう。有咲も一緒になって。香澄とは対照的にどこか拗ねている様子の有咲を見て、そんな未来を想像した。
——それはともかく、進行進行。
「香澄。私が書くから、司会よろしくね」
「うんっ! じゃあ、なにかやりたいことある人ーっ!」
香澄の問いに、クラスメイトから次々と案が出る。
「お化け屋敷ー」
「お化け屋敷っ! いいね!」
「プラネタリウムとかどう?」
「プラネタリウムッ⁉︎ 出来るのっ⁉︎」
「ジェットコースター!」
「ジェットコースターも好きーっ! 乗りたい!」
こうして板書をしていると、二年前のことを思い出す。今こうしてほとんど変わらないことをしているのに、実際にはいろいろとあのときとは違っていて。そのことに少しノスタルジックな想いを抱いたりなどしてしまう。
本当にいろいろあった。こんなにいろいろある人生になるなんて思ってなかったのに、たった一人との出会いがなにもかもを変えて——なんて言うと、香澄は「そうじゃないよ」って言うんだろうけど。
——なんにも、違くないよ。
だって、きっかけも勇気も、きみがくれた。
心の底から伝えたい気持ちがある。届けたい言葉がある。でも、「いつも」の中ではなかなか難しくて。
——なんか、いいタイミングがあればいいんだけど。
そうそうそんなものはないだろう。そっとため息を吐くと、丁度、だいたいの案が出尽くした頃だったらしい。声を上げるクラスメイトが減ってきた。
「——はい!」
「おたえっ!」
「山吹ベーカリー喫茶復活!」
「おたえぇぇ〜〜っ!」
「お、おたえちゃん……っ!」
もはやいいか悪いかすら言わなくなった香澄と、いきなりテンションが吹っ切れたりみはとりあえず置いておくとして。
「私はいいけど……一年生のとき同じクラスだった子とかはつまんなくない?」
クラスメイトに向けて問うと、そういう意見は特にないらしい。あれ、そっかーと思っていたより人気な実家を誇らしく思いつつ、ベーカリー喫茶も一覧に加える。
「えーっと……じゃあ、この中から選ぶってことでいいのかな」
「えっ、決定じゃないのっ?」
「私もそう思ってた」
「ねー」
「私もー」
「あ、そう……? え、でも一応やっとこうよ」
他のやりたい人もいるかもしれないし、というわけで香澄に多数決を任せる。すると、香澄は拳を突き上げて、
「山吹ベーカリーのパンが食べたいかーっ!」
「「「「おぉーっ!」」」」
「えぇー……」
× × × ×
その日の放課後のこと。
今日は練習のある日——というか、文化祭までの日数や定期考査で練習出来ていなかったことを考えると、「今日は休み」とも言っていられない状況なため、ここからは基本的に休みはなかったりする。そういう融通が利くのも蔵練の長所だ。
普通のバンドみたいにスタジオ借りてたらこうはいかないよなぁなんて思いながら、たえと楽しげにはしゃぐ香澄を一瞥してから隣を歩く二人へ視線をやった。
「ごめんね、待ってもらっちゃって」
香澄と沙綾が実行委員として放課後の会議に参加したため、五人が校門を出たのは四時半を過ぎた頃。沙綾の申し訳なさそうな謝罪に、りみは控えめに微笑んでふるふると首を振る。
「全然大丈夫だよ。ね、有咲ちゃん」
「そうそう。勝手に待ってただけだし、謝ることじゃねーだろ」
「ふふっ、ありがと! 二人とも優しいね」
「は、はぁー? 意味わかんねー」
「沙綾ちゃんのほうが優しいよ」
見事にそれぞれらしい答えがなんだか妙におかしくって笑みが漏れる。つーんとそっぽを向く有咲をりみと二人で見守るように眺めていると、そういえばと頭に浮かんできたのは今日のLHRでのこと。
「ねぇ、有咲。ほんとはやりたかったんじゃないの?」
「……なんの話だよ」
「実行委員の話」
しらばっくれようとした有咲の逃げ道を塞ぐように明言すると、有咲は小さく呻くような声を漏らして、こちらに顔もむけずに、
「な、なにを根拠に言ってんだよ……別に、寂しくねーし」
「ぷっ……寂しいなんて、言ってないけどなぁー?」
「う、うるせぇな……悪いかよ……」
——悪いとも、言ってないよ。
そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに。なんて、自分のことは棚上げして思ってしまう。誰かと一緒にいたい、誰かと一緒にやりたいという想いはなにも恥ずかしいことじゃない。
「ね、有咲も手伝ってよ」
「えっ? あっ、いや、でも、それは……」
一度断った手前、ここで即答するのは躊躇われるのか、もにょもにょと口を動かして俯いてしまう。
「わ、私もお手伝いしたいなっ」
「おっ、りみりんありがとーっ!」
「有咲ちゃんも手伝ってくれると嬉しいなぁ。ね、沙綾ちゃんっ」
「うんうん。みんなでやったほうが楽しいもんね。おたえも有咲もいなくっちゃ」
「……私は、別に。つーか、そういう気遣いが……一番恥ずかしいんだっつーの……」
耳を澄まさなければ聴こえないような声量でぼそぼそとつぶやく。どうやらりみのアシストでも足りなかったらしい。とはいえ、経験からしてこの反応はもうちょっとという感じがする。
——さーて、どうしよっかなぁー。
視線を動かすと、前方の香澄が視界に映った。すうっと空気を吸い込んだ沙綾は有咲へ顔を戻して。
「あー、私とりみりんだけで二人の相手は大変だなー! 香澄も年々パワフルになってくからなー! 誰か手伝ってくれそうな人いな——」
「——だーっ! もうっ! 手伝うっ、手伝うからやめろっ!」
「あははっ! ありがとね、有咲」
屈託のない笑みで言う沙綾に、有咲はぽしょりと言葉を返す。
「う、うん……」
——こちらこそ、ありがとう。
「? なんか言った?」
「い、いや、気のせいじゃね?」
——んー、なんか怪しいなぁー?
耳を赤く染めて明後日の方を向く有咲をじろじろ見ていると、さっきの大きな声に反応して振り向いた香澄たちがこちらに駆け寄ってきた。
「えーっ、なになになんの話〜っ?」
「な、なんでもねぇっ!」
「みんなで文化祭がんばろーねーって話。ね、りみりん」
「ふふっ、うん」
「さーやの家のパンだもんねーっ!」
「パン、楽しみ」
これはもう食べるときのことを考えているなと、微妙に口角の上がったたえを見て思う。二年前は予測不能だった思考回路も今はなんとなく分かるようになった。そういう何気ないところに時間の経過を感じる。
「でも、どんなパンにしよっか? 一昨年と同じ?」
一年生のときは小さなパンを作ってもらった記憶があるが、今回はどうしようか。Poppin'Partyだけでも何度かパンを作る機会はあったけれど、文化祭となるとまた話は変わってくるだろう。
まったく同じだとつまらないしと深い思考に入りかけると、二人でアイコンタクトをした香澄とたえが待ってましたとばかりに揃って声を上げる。
「「——ポッピンパンッ!」」
「あー……だいぶ前に、そんなこと言ってたね」
あれはいつのことだったか。もう記憶も曖昧だけど、香澄に新作パンを考えてるという話をしたときにそんな単語が飛び出してきたのを覚えている。
「みんなの好きなものを入れるんだっけ?」
「そうっ! おたえもりみりんもお肉好きでしょ? 有咲がゆでたまごで、さーやがチーズで、私がポテト!」
「おかずパンかぁ……喫茶店だから甘いのの方が良さそうだけど」
「メインは一昨年の小さいやつにして、ポッピンパンは限定メニューってことにしたらどうかなぁ?」
「あ、それいいねー! じゃあその方向で……パンは、みんなで作る?」
なんとなく予想しながら訊ねると、有咲もりみもたえと香澄を見ていて、予想通り二人は目を輝かせて息ぴったりに答える。
「「作るっ!」」
「あははっ! うん、おっけー、お父さんに伝えとくね」
食い気味に寄ってくるたえと香澄を宥めていると、小さいため息とともに横から声が耳に届いた。
「つっても、新曲も作るんだろ? そんなに出来るか?」
「大丈夫だよ!」
「その自信はどっから出てくんだ……」
有咲が呆れ笑いをこぼしつつ言葉を落とすと、香澄はそんなの考えるまでもないという様子で、自信満々に言い放つ。
「みんな! みんながいるから大丈夫!」
——あぁ、そういえば、そういうやつだった。
戸山香澄は出会ったその瞬間から今まで、ずっとそういう人間で、そんな恥ずかしい台詞を一切の恥じらいなく言い切れてしまうようなやつなのだ。当たり前のことを、当たり前だと再認識した。
こういうことはままある。それは、思い出したとは少し違くて。なんというか、いつもそうなのに、いつまで経っても慣れることがない不思議な感覚。戸山香澄だなと納得しながら、新鮮さを感じてしまう。
「香澄ちゃんらしいね」
「そう? えへへー」
「別に褒めてねーだろ」
「えぇっ⁉︎ そうなのっ⁉︎」
「香澄らしいは、一応褒め言葉じゃない? ……香澄みたいとか香澄っぽいとかは分かんないけど」
一理ある。別に香澄をバカにしているとかではなくて、有咲にとって香澄は「すごいやつ」だけれど、別に香澄になりたいとは思わないという話。戸山香澄は、一人でいい。
「なにその言い方ーっ! どういう意味っ⁉︎」
「私は香澄っぽいって言われても嬉しいよ?」
「おーたーえ〜っ!」
そのまま五人で談笑を交わしつつ歩いていると、前方から見慣れた顔ぶれが歩いてくるのが見えた。香澄が気づくと、向こうもこちらに気づいたようで、にこっと笑みを浮かべる。
「なっちゃーんっ!」
一直線に突進していった香澄に苦笑しながら四人も後を追って、ガールズバンドCHiSPAのギターボーカル担当——
「香澄っ、奇遇だねー」
わしゃわしゃと慣れた手つきで香澄を撫でる様からは、夏希と香澄の仲の良さが分かる。まあ、香澄は基本的に誰に対してもこうなので、だいたいみんな似たような反応になるのだが。
「ナツ」
「沙綾も、みんなも。今から練習?」
「うんっ! 蔵練〜っ! なっちゃんたちも?」
「ううん、うちらは今日はおやすみ。って言っても、みんなで遊びに行くんだけどさ」
「あれ、でも文化祭ライブ、CHiSPAもやるんでしょ?」
現時点でのステージ申請グループ一覧に、CHiSPAの名前を見た覚えがある。そもそもCHiSPAがライブをするという話自体、Poppin'Partyに負けないくらい話題になっていることなので、「やるんだね〜」なんて話をこの前みんなでしたばかりだ。
「うん。でも、一応もう新曲も形になってるし、文化祭直前の二日だけスタジオで改めて合わせて、それまでは文化祭準備満喫ーって感じで」
「わぁ、そうなんだね……すごい」
「私らはいつも直前に慌ててやる感じだもんなー」
「いやいや、全然そんなことないって! っていうか、ポピパはほら、香澄がいろいろ持ってくるからでしょ?」
「えぇっ、そんなこと……そうかも?」
「よーやく自覚したかー、偉いなー。よく出来たなー」
「子供扱いしないでよぉっ!」
もはや定番なやり取りにみんなの頬が緩む。高校最後の文化祭。きっといいものになると、この場にいる全員が思っていた。ひとしきり笑って落ち着くと、夏希は目尻を拭って少し真剣な表情を見せる。
「……最後のライブだから、結構気合い入ってるんだ」
そんな台詞に微妙な違和感を覚えた。香澄がぐぐーっと首を傾けると、沙綾はなにかに気づいたのか冗談でしょとでも言うような口調で問いかける。
「最後って……最後の文化祭ライブってこと、だよね?」
だって、その言い方だと、まるでこの文化祭と同時に終わってしまうみたいじゃないか。
頷いて欲しかった。頷くと思っていた。けれど、夏希は「あれ、言ってなかったけ」となんでもないようにつぶやいて、ふるふると首を振る。正直、理解が追いつかない。いや、より正確に表現するのなら——理解することを拒んでいた。
しかし、いくら拒んだところで意味はなく。
混乱した頭の中で、追い詰めるようにそれは確かな輪郭を帯びていき、そうして形となった事実が現実を映し、漠然と抱いていた夢から目を覚まさせる。
ぴしゃりと冷や水を浴びせられたようなきぶんだった。はっとなって目を向ければそこには無数の道があって、逃げていたつもりなんてないのに、目を逸らしていたことに気づかされ、わけのわからない怖さに胸が苦しくなる。
歩むべき
確かな
肌を撫でたぬるい風が、迫り来る夏を意識させた。もう、