雨は止んだが、空一面に鉛色の雲が敷き詰められている。
その場の唯一の光源たる月も隠されているために、辺りはまるで水墨画で描かれたような暗い雰囲気を醸し出している。
「今話したことが、私が過ごした夏休みの全貌だよ。今まで過ごしてきた夏という季節の中でも、類を見ないほど多くのことを体験した二ヶ月だったよ」
私は自嘲気味に笑った。
笑える雰囲気などではあるはずがないが。
聞き入っていた雷真は俯き言葉を発することはなかった。
おそらく、自分の境遇に投影しているのだろう。
雷真は、私より遥かに凄惨な過去を体験している。
実の家族、長い間共に過ごしてきた同門を、それも実の兄に殺されるという…
だからこそ、今私が話した内容に何か感じるものがあったのだろう。
しかし、これだけは伝えなくてはならない。
雷真が私の手助けをしようという提案をする前に。
「なあ零―――」
「ストップ」
顔を上げ、言葉を選びながら発言しようとする雷真に待ったをかける。
「君が優しく、仲間思いなのは知っている。おそらく、今まで、シャル、フレイ、ロキ、夜々そしてエリアーデ教授を助けたように、手を貸してくれるように提案しようとしてくれたのだろう。その心遣いは本当に嬉しい。だが、君は何のためにここに来たんだ。私と関われば十中八九、命を狙われ、そして命を落とすことになるだろう。そんな些細なことのために、自分の本懐を曲げるようなことはするな。君の家族、そして、仲間のためにもね」
「些細なことじゃ―――」
「話はここまでだ。どうやら翁も花柳斎殿と話も終わったみたいだしな」
雷真の話の腰を折るように、視線を奥の森に向けると、翁と花柳斎硝子がそこに現れていた。
「まだそこの少年は納得したような顔はしていないが、よいのか」
「ああ…ルーラ」
「待てよ零夜!話は終わってねえ!!」
雷真の怒りの混じった罵声を背に浴びながら、私はその場を後にした。
実際は、長くその場に居たら、覚悟も何もかも揺らぐ可能性があり、それを回避するための足早の退散であったのだと私は心の隅で、認識していた。
まだ、この期に及んでも、誰かにすがりたいという、心の弱さが露呈したようで、悲しいやら腹立たしいやら複雑な心境である。
私と翁はトータス寮の自室に戻っていた。
いつ見ても、変わらない、薄暗く、埃っぽく、壁などにはヒビがはいっている、見た目にも古い建物を思わせる室内。
けして良い環境ではない。
ただ、今の私には、唯一心の安らぎはを得られる所である。
「二人ともいきなり帰ってきて、履き物は脱いでよね。ここは日本じゃなくても、私たちは日本と同じように過ごすのよ」
「す、すいません」
私と翁はそそくさと、履き物(鉄下駄と鞋)を脱ぎ、片付けた。
室内に到着した瞬間私達を注意したのは、掃除の最中だったのか、白い割烹着を着物の上から羽織り、黒い髪を束ねた葵姉さんである。
葵姉さんは生命の危機にひんした後に、翁によって、助けられていた。
ただ全うな助けかたではなく、破損した部位を自動人形の部品を使い直すといった方法。
以前私達の敵だったアリスと同様の形となっている。
「二ヶ月ほったらかしにしていたからか、相当酷かったわよまあ、一応一段落はしたけれど」
仕上げとばかりにはたきをパタパタさせ、すーっと雑巾を走らせて、掃除は終わったようだ。
「ありがとう姉さん。どうも掃除は苦手でね」
「いいわよ。今日も疲れたんでしょ。もう休みましょうか」
「そうする」
だが、室内を見回した所である違和感に気づく。
どういうことだ、アレが足りない。
「どうしたの?」
私の視線の先を見て、姉さんは感づき、イタズラっぽい笑みを浮かべる。
「ああ、布団のことね。二組しかなかったわよ」
そう布団は私と以前十六夜が使っていた二組しかなかった。
「私は女性だし」
「ワシは老体じゃ。ゴホッゴホッ」
わざとらしく咳をする。
自動人形が風邪ひくはずないだろ!と言いたいがぐっと堪える。
「じゃあ私は?」
「しょうがないわね。一緒に寝る?私は構わないわよ」
艶のある声と、頬を染めて、上目遣いでの提案。
ぐらつく理性。
しかし、今はそんな事態ではない、気を入れ直して煩悩を振り払う。
「私は毛布一枚あればそれでいい」
顔を背けながら、毛布を一枚受け取り、くるまって部屋の隅に陣取る。
「結構がんばるようになったわね」
「ああ、金髪のかわいい彼女もいたしな。下手なことはできんからじゃないかの」
「えっ!?彼女?」
「そうじゃ。かなり美貌じゃったぞ。ただ少々気性が荒そうで、少し残念な所もあったがの」
「ちょっと零君、お姉さんに話してみなさい」
足を踏み鳴らし私の側にやって来た姉さんは、にこやかな笑顔だった。
全く目が笑ってはいないが。
私がくるまる毛布を強引に剥ぎ取ると、まるで尋問官のように矢継ぎ早に質問をしてきた。
「じゃあお休みお二人さん」
それを傍目に翁は布団を被り寝始めた。
問題を大きくして。
私は一晩眠らせてもらえなかった。
ボーッとする頭で考えてみると、完全な自動人形である翁は睡眠など必要ないんじゃないかという結論にいたり、気持ち良さげに横たわる翁を終始睨み付けながら、拷問のような尋問に耐え抜いた。
窓から目に染みるほどの朝日が射し込んでくる。
音を控えめに窓を開くと、朝特有の清々しい空気が部屋の中に入ってくる。
綺麗な空気で肺をいっぱいにすべく、深呼吸をする。
いい天気だ。
かなりの早朝なため、まだ快適な気温だ。
隣で疲れて眠ってしまった姉さんに毛布をかけて、私は欠伸を噛み殺しながら、ある用紙と筆記用具を手に、部屋を後にした。
鳥の囀ずりとは違い、まさに騒音ととらえられても仕方がない足音を鉄下駄で奏でながら学院のメインストリートを歩く。
早朝なだけあって人っ子一人いない、閑散としたメインストリート。
空気も天気も晴れやかなのに、対照的に今一気分が晴れないのは、懸案事項を一つ抱えているからだ。
そうカリキュラムの登録のことだった。
「私に関わるな」あのように大見得をきってしまった中で、同じ講義を受けるのは、なんとなく気が引ける。
少し考えるか。
メインストリートに備え付けのベンチに腰を下ろす。
昨日とは違い、雲一つない綺麗な青空を眺めたのち、カリキュラム登録用紙とのにらみ合いが始まった。はずだった……
気がつくと、辺りに人が溢れかえっていた、どうも麗らかな陽気で眠ってしまったらしい。
辺りから灌がれる視線は然程気にはならないが、このままここにいても、一向に進まないため、学生食堂に向かった。
学生食堂に向かうまでも、鉄下駄が見慣れないのか、音がうるさいからか奇異の視線を向けられたが、食堂についてもそれは変わらなかった。
気にするつもりもなかったが、気にならないはずがない視線が二つそこには存在した。
考慮しとくんだった……
見慣れた二組と一人の女性がいた。
妖精のような美貌を持つシャル、パートナーの小竜シグムント、雷真とパートナー夜々、そして新任であり、過去魔王にまで上り詰めたという〈迷宮の〉魔王、グリゼルダ·ウェストン男爵がそこにいた。
新任のグリゼルダ教授は年の頃二十そこそこ、胸元が強調されたフェミニンなドレスを着て、ポニーテールをした女性である。
さらには腰に物騒な大振りの大剣を携えている。
幼女だったり大剣を持ったゴスロリだったり豊富な人材だな。
二人の視線に耐えかね、踵を返し立ち去ろうとした時だった、
「待って零―――」
「お前は確か、私のバカ弟子と一戦やらかした〈一匹狼〉だったか」
気づいた時には背中を取られていた。
気配を感じることが全くなかった。
戦慄を感じながらも、それをおくびにも出さず、挨拶をする
「お初にお目にかかりますグリゼルダ教授。仰いました通り、私は〈一匹狼〉零夜と申します」
恭しく礼をする。
一応社交辞令の挨拶も終わったことだし退散させてもらうか。
「それでは―――」
帰ろうとしたのだが、〈迷宮の〉魔王は怪しげな笑みを浮かべて、腕を掴んでいた。
「昨日の〈夜会〉見せてもらったが、かなり興味深いものだった。ちょうどカリキュラム登録用紙を持っているようだし、お前もこっちへこい」
カリキュラム登録用紙を隠したがすでに遅く、私は引き摺られるようにして、雷真、シャルのいるテーブルまで連れていかれた。