乃木さんちの青葉くんはこんな感じである 作:ቻンቻンቺቻቺቻ
警戒を足元に向けるか周囲に向けるか、その差によって僅かに反応が遅れて鯨型の体当たりを当てられてしまった友奈だが、辛うじて手甲を体と鯨型の間に挟んでダメージを軽減させる事に成功していた。
「ぐっ、つぅ……!」
しかし、大質量との衝突による衝撃が手甲を抜けて友奈の腕に届き、骨を砕いて血管を破裂させる。衝撃によって肺腑から押し出される空気が炸裂する苦痛の呻き声に変わる。
「づっあ゛あ゛あああぁぁぁ!!」
体当たりの勢いでこのまま宙に跳ね飛ばされれば完全に無防備になり、その隙にトドメ刺されてしまうと咄嗟に判断した友奈が手甲の指先、鋭い爪になっている箇所を鯨型の肉へと突き刺してしがみつく。腕の負傷と痛みで力が入らずに砕けていなかった拳側の指しか突き刺す事が出来なかったが、それが息つく間もなく友奈に襲い掛かる危機から命を守った。
地から跳び出した鯨が慣性に従い宙で放物線を描き、その頂点で友奈に浮遊感を与えた後に重力に引かれて地へと向かう。着地と同時に地中へと潜行、指を突き刺していたために離脱できなかった友奈も共に地中へ。元々の特性として地中に潜れる鯨型とは違い、友奈は戦うための力を持っていても地中で土砂との苛烈な摩擦に耐える事はできない。しかし、先程突き刺せなかった片手を利用する咄嗟の判断で友奈は土砂に擂り潰されての死亡を回避してみせた。
砕けた拳、折れた腕、巨大な鬼の手を模した手甲が無ければ形すら保てていないそれらを完全に捨てて頭部を守る盾に使い土砂の流れに耐える。
凄まじい速度で地中を進む鯨型、地中の圧力に押されて突き刺した指を支点に後方へと流れる体、頭部を守る手甲に阻まれる土砂、手甲に押し退けられた土砂が圧力に押し戻される頃には友奈の頭が通り過ぎ、胸も通り過ぎ、腹も通り過ぎ、腰が通る頃にようやく追い付いて友奈の下半身のみを激しく損傷させていく。
(痛い、苦しい、足の感覚がもう痛みしかわからない。私の足はまだあるの?)
しがみつく五指と体を支える折れた腕に激痛、身を守る潰れた腕に激痛、削れていく下肢に激痛、地震を引き起こす四本角の個体の振動に傷付いた臓器の苦痛、濃紫の煙を吸入して蝕まれた胸の重み、身体中の何処にも無事な箇所が無い中で友奈は自らを奮起させる。
(怖い……でも、ここで力尽きたら本当にぺっちゃんこになっちゃう!)
一秒が途方もなく長く感じる過酷な状況で友奈は力の限りしがみつき続ける。反撃の好機を待ちながら耐え続ける友奈、地中をのたうちながら進む鯨型、両者の根比べは友奈に軍配が上がった。
いつまでも振り払えない友奈に業を煮やしたのか鯨型が地上へと身体を出して勢いのままに宙を跳ぼうと試みる。着地の衝撃で振り落とすのか、それとも友奈を下に着地して押し潰すのか、しかし、そのどちらも果たされる事は無かった。
「でぇやぁぁぁぁっ!!」
土砂の圧力から身を守る必要の無い地上、友奈の体が地表に出た瞬間、盾にする必要がなくなった片腕を振り回して無理矢理握った拳を叩き付ける。再度描かれるはずだった放物線を無視し、半端に地中から出ていた鯨型の巨体を周囲の地盤ごと垂直に弾き飛ばす。
(あっ、膝から下、無い)
何も視認できない地中から地上への移動、それによって見えてしまった自身の取り返しのつかない負傷。感覚どころか在るべき場所に在るべき物が無くなっている光景に鯨型に爪を突き刺したままな友奈の思考が瞬間的に白く染まり、直後に辛い未来を予感する思考が並列して脳裏に浮かぶ。
(もう歩けない、もう走れない、スポーツも格闘技もできない。これからずっと車椅子かな。血がいっぱい出てる、死んじゃうかも。やだ、こわい、こわい、いたい、こわい、なんで私がこんなことに。死にたくない、もういたいのはやだ、なんで私がこんな目に)
友奈の顔が恐怖と嘆きに歪み、眦から大粒の雫が滲む。
花のような笑顔の面影は無く、心の奥底にある水がこぼれる。
弾け散る土砂の飛沫、地盤ごと弾きあげて舞う樹海の植物、全力で叩いたのに拳の跡を中心に波打つだけな鯨型の体表。死を間近に感じたせいか走馬灯のように緩慢に動く視界、その端の遠い位置に自分を見る三人の仲間に友奈が気づいた。
(三人とも無事だったんだ、怪我も無さそう……良かった)
その瞬間、自身の苦痛を忘れて仲間の無事に心が喜びと安堵を思い出す。そして、そのポジティブな感情が呼び水となって友奈の心の奥底から尽きぬほどに湧き出し、心に満ちる。
(コイツをこのままにしたら皆も同じ目に遭っちゃうかもしれない、そんな事はさせない、このバーテックスは私が今倒さなきゃ!)
高嶋友奈は常日頃から他者の心を慮り、人の和を尊む優しい少女である。そんな友奈だからこそ、自分の感じた苦痛を大切な仲間であり友達である存在達に味わわせたく無いと心が奮起したのだ。
(もう歩けないし、もう走れないけど、私にはまだこの腕がある! 死にたくないし!死なせたくもないし!他の誰にもこんな目に遭わせたくない!!)
「ごめん! 逃げそびれちゃった! でも、こいつは私が倒すから任せて!」
地盤の破壊で鳴り響く轟音を上回る決意の咆哮、友奈の意志が通信を介して仲間に届く。
「おおぉりゃぁぁぁぁぁぁ!!」
片手の指を突き刺したまま、叫び、拳を握り、叩き付ける。砕けた拳の貧弱な打撃。しかし、その打撃は鯨型の全体に打撃以上の衝撃を徹し、巨体を満遍なく劣化させるダメージを与える。
「倒す! 絶対に、倒す!!」
友奈が拳に纏う神具である"天の逆手"は天への呪詛、天の神に連なる存在であるバーテックスに対して特別なダメージを与える特性を持つ。砕けた拳による貧弱な打撃は殴打した箇所の周辺を破壊するに及ばず、しかし、それが友奈にしがみつく部位を破壊せずに鯨型に接触し続ける事を可能にさせ、繰り返される打撃に付随する呪詛の力が鯨型の全身にくまなくダメージを与える事に繋がった。
『僕はただ、自分に出来る事をしているだけだよ』
弱気に挫けかけ、大切な仲間達のために奮起した少女が拳を振り回しながら思い出した"とっても強い男の子"の言葉。いつも自分にできる事に一生懸命だったから強くなれて、その強さが何度も"大切"を護れる要因となったと語っていた。
「絶対倒す! それが今、私にできる事!!」
脚を無くして自力での移動が困難となり、このまま出血が続けば意識すらも無くすであろう友奈に今できること、殴打。友奈が健気に一途に自分に今できることを繰り返す。
「もう、何もさせない!」
拳を握り、叩き付ける。拳を握り、叩き付ける。激痛に耐えて、叩き付ける。地をのたうつ鯨型に振り回されても、叩き付ける。荒い呼吸に混ざって毒の煙に蝕まれていた肺腑から血がせり上がってきても、叩き付ける。力が抜けて拳が握れなくなっても、手を叩き付ける。叩き付ける。何度も叩き付ける。友達を守りたい、その思いを叩き付ける。
「っ! まって!」
何度も叩き付けた果てに、ぐずり、と、友奈が指を突き刺して握り締めていた部位が崩れた。自分を唯一支えていた箇所の崩壊によって友奈は鯨型の体表から落下していく。このまま落下してしまったら自分にはもう鯨型を追う手段が無いと焦った友奈が手を伸ばして再度指を突き刺そうとするも、既に落下を初めていた友奈の手は届かずに空を切った。そして、見た。
「あっ……」
鯨型の体表から落下して離れる事によって拡がる視界、友奈が霞む視界に収まった巨体が崩壊していくのを見て安堵の吐息と声を漏らす。
友奈は自分にできる事を貫き、成し遂げていた。
安堵の心のまま落下していく友奈。限界をとうに越えていた肉体に一切の力は無く、脱力したまま受け身の予備動作どころか指先一つ動かせない状態で背中から地へと落ちていく。下肢の擦りきれて無くなった箇所から細い血液の帯を散らし、落下した先で樹海の植物にやわらかく受け止められた。
(さすがに、疲れちゃった……指の一本も動かせないし、息するのも、つらいなぁ)
ひ、ひゅ、ひ。と、浅く鳴らされる自身の吐息を耳にしながら意識が朦朧としていくのを自覚する友奈。下肢の断面に限らず、身体中の負傷箇所から友奈の命その物と言える血液がとめどなく流れ落ちていく。この世のどんな華より鮮明な紅が流れ落ちる様は、友奈の命を表す砂時計そのものだった。
(怪我、あんまり痛くなってきた……でも、寒い……もう、私、ダメなのかな……)
失血による体温の低下、感覚の麻痺。友奈はその症状によってなんとなく自身の最期を悟り、樹海の大地に残り少ない命を吸わせながら茫然と空を見上げた。
(血の他にも私から何か抜けていく……でも、これは怖くないや……なんだろう……まるで、誰かが抜けちゃった何かをちゃんと受け止めてくれてるみたいな……)
死に近付くにつれて欠落していく五感、何を見るでもなくただ見上げていた空は朧に散り、肺腑からこみ上げて舌を汚した血の味を忘れ、全身の肌に刻まれた痛みも霧散する。そして、五感を欠落する度に増したそれ以外の感覚、第六感と言われるそれ。感覚派と称され続けてきた友奈の直感が死の間際に冴え渡り、手掛かり無きままに友奈は答えを得る。
(……受け止めてくれてるのは、神樹様? ……私、神樹様の所に逝くんだ……)
戦いの最中では死の予感に取り乱した友奈だが、最早その心に一切の乱れは無い。故郷の奈良で勇者の力に覚醒し、今此処で果てるまで自分に加護を与え続けてくれた大いなる存在の元に受け入れられる安心感、それが友奈の最期に安寧を築いていた。
自分の頬が安心感に弛んでいる自覚の無いまま瞼を閉じて何も見えなくなった瞳に蓋をする。そして、残る五感である鼻に残っていた鉄臭い血の匂いが薄まり、最後に残っていた聴覚も徐々に遠くなり始めた時に友奈は叫びを聴いた。
『高嶋さん!! 応答して高嶋さん!!』
自身を探す、悲痛で沈痛な叫び。虚無に溶けかけた意識が形を取り戻し、反射的に瞼を開くがやはりその目に光は無かった。
(……ぐんちゃん……そっか、死んじゃうって事は、お別れって事だもんね……)
死に付随する人と人との別れ、死の淵に在る友奈は今更ながらそれに気付いて心に築いていた安寧を崩していく。そして、安寧を失くした代わりに心を埋めていくのは心配や哀しみ等の切ない感情だった。
きっと、通信の先にいる千景は失った宝物を探す迷子の幼子のように樹海を駆けているのだろうと、泣き出しそうな幼子のような表情をしているのだろうと、友奈は耳にした叫びから連想してしまう。簡単に想像できてしまった哀しむ顔、友奈は自分の死によって大切な『友達』や家族、自分達勇者を慕う多くの人達を哀しませてしまうだろうと想像し、胸の内が途方もなく苦しくなった。
『何処にいるの! 今行くから! だから、応答して!!』
再度友奈の耳を打つ、千景の叫び。
二度目の叫びに、友奈の心にあった安寧は完全に崩れて消えた。
(ごめんね、指切りして『ずっと幸せ』って約束したのに、言い出しっぺなのに……)
友奈の心を占める切ない感情、その中でも一際強く友奈の胸を締め付けるのは心配の感情。
度重なる戦いによって心を穢れに蝕まれている仲間達が自身の死に心を痛め、深い傷を負ってしまわないだろうか。弱った心に穢れがつけこみ、大変な思いをしてしまわないだろうか。既に自身の死を受け入れてしまっている友奈は自分の事よりも、この戦いを生き残りこの先も生きていくであろう仲間達の事ばかりを案ずる。特に仲間達の中で心を追い詰められ、わかりやすく穢れ由来の症状が顕れている千景の事が胸中を大きく占めていた。
『高嶋さん! お願いだから……お願いだから返事を……!!』
『友奈っ! くっ……大天狗で群れから脱出するから吹雪の援護をくれ!』
『は、い……!』
呼び声と言うよりは泣き声。呼応するように緊迫と焦燥の強い声と荒れた呼吸の短く細い声。
視覚の機能を失っている友奈の瞳、しかし、涙を流す機能は失っていない。心の奥底にある泉から清い水が氾濫し、瞳を沈めて尚湧き出し続ける水が擦り傷だらけの頬を伝い、樹海の大地を潤す。
(神様、神樹様……どうか、どうかおねがいします。私の中にもう私の命が残って無い事はわかっています、もっと生きていたいなんてワガママは言いません)
五感の全て、最後に残っていた聴覚すらもはや残っていない友奈の直感は、生涯の最期に自分の命の事さえ理解させていた。
友奈の肉体は既に死んでいる。
しかし、友奈の心は、魂はまだそこに在った。
死した肉体にある友奈の意識は、神樹が友奈の霊魂を自らに受け入れてる途中の半分亡霊で半分神霊のあやふやな存在だからこそ成り立つものだ。
(でも、でも……! 最期にみんなにお別れを言わせて下さい!)
若葉は友奈の通信を聞き入れて"任せて"しまった事を、ひなたは戦えなくも自分にもっと何かできたのでは無いかと後悔を、杏はもっと良い指揮があったはずだという悩みを、球子は共に戦場に立てなかった事を、青葉は共に戦う事すらできなかった無力さを、そして、千景は『大切な友達』の死による悲しみそのものを。このまま言葉の一つも遺せず死に別れてしまっては皆が自分の死によってそれらを生涯引き摺り続けてしまうと、友奈は直感で知ってしまっていた。
自分の死のせいで、仲間が、友達が、生涯心の底から笑う事をできなくなってしまう。今まで頑張ってきた皆に、そんな不幸な未来は悲しいと友奈が嘆く。
ずっと幸せ。約束し、願った思い。
全員と直接約束していなくても、友奈は皆の幸福を願っている。
『千景、掴まれ! 空から友奈を見付けた!』
『乃木さん!』
(あれ? ……聞こえる、見える)
唐突に友奈の耳が音を取り戻す。直後に目も光を取り戻し、友奈の視界が像を結ぶ。
(身体中、あたたかい……私の命はもう無いけど、神樹様が代わりの何かをちょっとだけ貸してくれたんだ)
友奈の嘆きは、祈りは神樹に届いていた。人の死は覆らないが、神樹は樹海に留まっていた魂に人の形をした物を動かせる程度の奇跡を与えた。
友奈の目に映るのは地に倒れる自身を囲むように空から降りてきた三人の仲間達。全身がずぶ濡れで長い麦穂の髪に霜を纏わせている若葉、白い肌を更に白くさせる程に消耗している杏、滂沱の涙を顔全体に化粧している千景、三人共通して友奈の姿を見て驚愕し、悲痛な表情をしている事に友奈はどうしようも無い程に申し訳なくなる。
「高嶋さん! そんな、どうして……!!」
「友奈!」
「友奈、さん……!」
千景が髪を振り乱して友奈に縋り、若葉が必死に呼び掛けて意識を確かめ、杏が血を流しきって出血さえ無くなった下肢を自身の装束を裂いた物で止血しようと試みる。
「アンちゃん、そんな事しなくてもいいよ。もう、意味無いの」
大泣きして取り乱す千景の声に紛れる、凄惨な姿の人間が放つにはいっそ有り得ないほど穏やかな声。若葉と杏が目を剥きつつ、友奈がまだ命を繋いでいると誤解して微かに喜ぶ。
「友奈! 意識が有るのか!?」
「意味無い、なんて……! 絶対に、助けて、みせま──」
「意味、無いの。もう、私は死んでいるから」
「──えっ」
杏の途切れ途切れの声を遮り断言する友奈に三人が石のように固まり、理解が追い付かないまま身動きどころか呼吸さえもを忘れる。そして、その沈黙に友奈は縋りついてた千景を折れた腕で胸に抱く。
「心臓、動いてないでしょ?」
友奈の鼓動無い胸に耳で触れた千景が表情から血の気を失い、絶望一色に顔をに染まる。
「嘘、こんなの……嘘よね……?」
「本当だよ。私は死んじゃったけど、神樹様にお願いしたらちょっとだけお別れの時間をくれたの」
友奈の口から放たれた二度目の『既に死んでいる』の言葉。それによって取り乱して大泣きしていた千景さえもが言葉を失う。その姿を目の当たりにした若葉は人は狂乱を越えると人形のようになるのか、と、現実逃避気味に思考を逸らした。
「ごめんね、神樹様がくれた時間は多くなくてあんまりお喋りできないから、言いたい事だけ言うね」
「神樹様にもっとお願いしてもっと長い時間を貰う事はできないんですか!」
無意味な止血する手を止めず、諦めない事を行動で示し続けている杏。友奈は駄々っ子を見る親のように困った微笑みで返し、首を左右に振る。
「あのね、死んじゃって、悲しませて、ごめんね。今まで、ありがとう。私、みんなが大好きだよ」
飾り気の無い言葉、だが、何一つ偽りも誤魔化しも無い友奈の本音。
「いや、いやよ……そんなの、いやよ」
「どうにも、ならないのか……」
涙に溺れた声で嘆く千景が友奈の胸に顔を埋め、いやだいやだと幼子のように首を振る。若葉に視線を向けて頷き、友奈は困ったように微笑んで千景への抱擁に精一杯の力を籠めて返す。
「ぐんちゃん、約束したよね。『ずっと幸せ』って」
「っ! したわ! でも、高嶋さんがいないと、皆が揃ってないと私……!!」
「大丈夫だよ。私は傍にいれないけど、神樹様のいるところから皆の事を見てるから。心は、ずーっといっしょだから」
どれだけ言葉を尽くしても、どれだけ本心からの言葉を紡いでも、今生の別れに伝えたい心は尽きない。しかし、時間は有限で、奇跡には限りがあった。
「くっ……バーテックスどもめ、追い付いてきたか」
「……呼吸はかなり整いました……吹雪で抑えます」
「あ、あぁぁ、いや、なんで、消えないで、高嶋さんが消えちゃう……いやよ、そんなの!」
「そっかぁ、身体も神樹様のところにいくんだね。……私のお葬式ってどうなるんだろ?」
若葉が背負う大天狗の翼で置き去りにしてきた大群が間近まで迫る。神樹が友奈に貸し与えた命の代わりの奇跡が終わり、友奈の肉体が空気に溶けるかのように徐々に透け始めた。
別れ。どう足掻こうと変えられない結末。
友奈が敢えて日常の中にいるかのようにとぼけてみせるが日常の中のように空気が弛む事はなく、若葉は歯を食い縛り、杏が眦から涙を落とし、千景が友奈を掻き抱いて決して離さないように細い腕で締め付ける。
「消えないで! こんなお別れなんて嫌よ!」
「ぐんちゃん、幸せになってね。もちろん、みんなも」
「あああああぁ!! 神様……神樹様!! お願いします!! 高嶋さんを連れていかないで! 私の『大切な友達』なんです! どうか、どうか! 神樹様!!」
祈りの慟哭虚しく、千景の腕が籠められた力のままに空を切る。
もう樹海には、友奈の肉体も魂も無い。
「あ゛あ゛あああぁぁぁぁぁぁぁ!!」
空気を抱いた千景の慟哭が樹海に響く。
友奈を見送った若葉と杏が千景から目を逸らし、迫りくる大群へと向き直る。
「幸せになって……ですか。そんな事言われても……」
「難しくとも、なるしかあるまい。そのためには、生きて勝たねば……」
胸が苦しくて、心がつらくて、ひたすらに悲しい。しかし、神樹を破壊して人類を滅ぼそうと攻める敵は待ってくれない。勇者達に別れを悲しむ暇など有りはしなかった。
地にへたりこんで慟哭する千景をチラリと見た若葉が口を開く。
「強敵討てども敵山の如し、か……この様子では千景に少し休憩が必要だ……負担を掛けてしまうが、杏を頼りにしてるぞ」
「……はい。でも、体力の限り吹雪で薙ぎ払いますが、きっと長くはもたないです」
口調は弱く、しかし、強い意思と責任感を秘めた瞳で杏が応える。
視線を交わし、頷き合った二人。直後、若葉が羽ばたいて宙を疾走し、杏が弩を掲げて迫りくる大群に吹雪を放った。
(ここで死ねば、亡骸も残らないのか? 私が死ぬと、青葉とひなたは空洞の棺桶を弔うのか?)
想像してしまった嫌な未来、空の棺桶に涙を流す半身と大切な幼馴染の姿。そして、半身は約束を果たすために自刃を試み、幼馴染はそれに対して後追いを仄めかして止めるか本当に後を追うかだろう。そんな事を最愛達にさせる訳にはいかない、そう決意した若葉の戦意が敵への憎悪と共に燃え上がる。
「何事にも報いを! 何度も私の"大切"を奪った報いを受けろ! バーテックスゥゥーーーッ!!」
若葉の咆哮が轟く。若葉が突破した後には羽ばたきの突風が吹き荒び、剣閃の嵐が乱れる。
(怖い、バーテックスに負けたら死んじゃう。あの山ほどいる中の一匹一匹が、どれも私達を一口で容易く殺せてしまう、怖い……)
杏の記憶に焼き付いている友奈の凄惨な死に様、自分達の勝敗次第で四国中の人間があのような、いや、もしかしたらそれよりも悲惨な結末を迎えてしまうかもしれないという事実に杏は恐怖していた。
自分達が戦うのは人喰いの化物で、情け容赦なく襲い掛かってくる人類の天敵だと頭では理解していた。だが、理解していただけだった。
今までの戦いでもたしかに危機は数え切れない程にあったが、取り返しのつかない事態になる事は無かった。しかし、目の前で友達が凄惨に死ぬ。間近にあった死によって杏は危険を理解だけではなく強く実感を得てしまっていた。
(負けたら、死んじゃう。私達も、お父さんも、お母さんも、丸亀城で待ってる皆が、タマっちも!)
恐怖、全身が震える程の恐怖。涙が止まらない程の恐怖。気を抜けば心が折れて戦意を喪失し、杏の勇者装束は失われるだろう。だが、杏はもう誰も死なせたくないという祈りと、勇者としての責任感で自分を支え続ける。そして、杏の心を支えるものがもう一つ、『幸せになって』という友奈が遺した言葉。
(あんなに酷い怪我だったのに痛いとか苦しいじゃなくて、ましてや恨み言なんかでもない、何よりも優先して遺した友奈さんの願い! 絶対に、叶えなきゃ!)
一瞬、ほんの一瞬だけ杏の意識が勇者装束の下に隠された変色した肌と、その奥にある臓器の癒えぬ損傷に向く。
杏が幸せという言葉に連想したのは仲睦まじい両親の姿、特に、父にいつも芸能人に憧れる少女のような熱烈な眼差しを送る母の姿。
杏は異性に自身の肌を見せる事は生涯無いだろうと、母のように素敵な男性と子を成して家庭を築く事は無いと思い込んでいる。だが、人の幸せとはそれだけではないとも杏は思っている。
(皆が幸せになるのを見守る! 私には届かない幸せを掴む皆を応援して、一番近くで幸せを見ていたい! だから、悲しくても、辛くても、戦う!)
球子が自分と一緒に楽しそうにしているのを見た幸せ、若葉とひなたが仲良くしているのを見た幸せ、友奈が人の和の中心で笑顔を咲かせていたのを見た幸せ、強く意識しあっている千景と青葉を見ていた幸せ。
他者の幸福を心より祝福できる心優しい穏やかな少女、伊予島杏が自分が求めるべき幸福を自分に定めて誓う。
(数だけ揃えた脆い相手と戦うのなら、この場にいる中で私が一番適してる。私が頑張ればこの戦いに勝てるはず)
目視でもスマホのマップ機能でも進化体は確認できず、猛威を振るう杏の吹雪で広範囲のバーテックスを殲滅し、吹雪をものともせずに大群の中を突破し続ける若葉がバーテックスを引き寄せつづける。二人の体力を度外視すればほぼ確実に勝利できる布陣。これに持ち直せた千景も戦線に加わる事ができれば、バーテックス相手に王手を突きつける事ができる程に勝敗の天秤は傾いていた。
勇者達は大きな犠牲を払ったが、もう少しで人類の生存という対価を得る事ができる。そんな戦況だった。
(千景さんが復帰できれば万全、できなくてもかなり優位。これ以上失わないために、まずは千景さんを守り抜く!)
長く続いた戦闘に疲労が蓄積し、そのせいでまたも息が荒くなってきた杏が気力を振り絞って吹雪を放ち続ける。 ふと、その最中に杏は背に守っていた千景の慟哭が聞こえない事に気付いて振り向いた。
「……あれ?」
振り向いた先、そこにいたずだった千景が消えている事に杏は肝を冷やす。友奈の遺した思いのために、自分の幸せのために、守るべき対象が姿を消していたのだ。敵の接近に気付かず戦闘を認識していたかも定かではない千景、そんな状態では自衛なんてできないだろうと想定していたからこそ杏は千景を背にして移動せずに吹雪を放っていたのである。
(いったい何処に!? ……え?)
動揺を抑えつつマップ機能で千景の位置を確認する杏、表示されたのは神樹に向かって真っ直ぐ進む郡千景の文字。杏は何か良くない事態になっているのではとうすら寒い予感を感じつつ訳もわからぬまま通信機能で千景に呼び掛ける。
『千景さん、戻って下さい! この戦況で単独行動は控えるべきです!』
『……さなきゃ……取り……きゃ……』
『千景さん!』
呼び掛けても微かに聞こえるうわ言のような返事しか返らず。杏はいよいよ良くない事態を予感ではなく事実だとして受け入れる。
『杏、何があった! 千景がどうしたんだ!』
『おそらくは穢れの症状です! 何をするかわからない状態で神樹に向かって──』
『取り返さなきゃ、神樹の中から、高嶋さんを……』
通信を遮る憎悪に満ちた冷えきった声、たった今まで悲痛な慟哭をあげていたのと同一人物とは思えない程に害意に満ちた攻撃的な声色。
若葉と杏の背に冷たい感触が走る。
『中から……? 神樹を切って開くつもりか!?』
『千景さん! 止まって下さい!』
『私の『大切な友達』を……取り返す……笑ってくれる、わたしのたいせつ……』
四国を囲み人類を守護する結界の大元、神樹。それに危害を加えて結界を損なえばどうなってしまうかは火を見るより明らかである。そもそも、若葉達勇者が命を賭して戦ってきたのは人類を滅ぼそうとするバーテックスにそれをさせないためだ。
状況の悪さを完全に理解した瞬間、杏は打開のために通信で指示を叫ぶ。
『若葉さん、私を担いで千景さんを追ってください! 戦線を下げます!』
神樹に迫る千景、杏が単身で追えば追い付けず、若葉が単身ならば追い付けるが杏が一人残るのでは出てしまうであろう討ち漏らしの接近に杏はなす術なく殺される。故に、神樹の近くまで撤退すると決めたのだ。
『承知!』
二つ返事で吼える若葉。すぐさま大群と追いつ追われつの軌道から脱出のための軌道へ、何処を見てもバーテックスしか見えない視界の中で杏が援護に放つ吹雪を頼りに脱出を試みる。
吹雪の渦巻く中心、杏から一直線に伸びる最も冷気の強い芯とも言える直線を探り当てた若葉。脆い通常個体では一瞬で凍りついて砕け散るその空間に大群から脱出する最短ルートを見出だし、冷気をレールに大群を突破して脱出、身体中に霜を纏いながらも合流を果たす。
天上世界を焼き払う光焔を操る大天狗の力をその身に降ろしているからこその冷気を真正面から突破する強引な脱出だった。
「えぇっ!? なんて無茶を!?」
「無茶を通さねばならん状況だろう!」
自分が放っているからこそ吹雪の威力を知っている杏が若葉の強引さに目を剥いて嗜めるが、聞く耳を持つつもりの無い若葉が切って捨てて杏の胴を俵のように担ぎ上げる。
「行くぞ!」
杏の返事を待たずに飛翔、杏が急発進急加速に舌を噛みそうになりながらも大群に向けた吹雪を置き去りにする。
離れていく大群、近付く神樹、千景に追い付くまで後少しというところで二人を掠める矢。杏が大群と距離を離した事により吹雪の冷気が薄まり、その隙に一部の通常個体が不意打ちのために融合して進化したのだ。
「くっ! 隙を見せればすぐに進化してこのザマだ!」
「このまま撤退を続けたら神樹に矢が届いてしまうかもしれませんね……」
僅かな思案の間、そして、すぐに杏が若葉に指示を
投げる。
「私を千景さんの方向に投げて下さい、そしたらすぐにあの矢を持つ個体を倒すために反転、討伐して──」
「よし、わかった! 舌を噛むなよ!」
「──くだゃひゃう゛!!」
指示を聞ききらない内に若葉が杏を大きく振りかぶって投擲、若葉は中途半端に聞いた指示の通りに反転して大群に守られた矢を持つ個体へと突撃を始める。
(……んもぅ! おバカ! 猪おバカ!! ゴリラおバカ!!)
口を開きながら投げ飛ばされたせいで物の見事に舌を噛んで痛い思いをした杏、乱回転しながらも内心で珍しい悪態を吐く。直後、奇跡的に脚から着地をしつつ地面を転がって勢いと衝撃の受け流しに成功する。
(この距離、足の遅い私じゃあ普段なら追い付けないけどマップ機能で把握していた今のかなり消耗している千景さんの速度なら追い付ける)
気持ちを切り替えて走り出す杏。短くは無い距離を走り、千景に追い付いて捕まえるまであと少しという所で今日何度目かの驚愕にまたも目を剥く。
「壊れなさい、神樹……」
大鎌の刃を届かせるには絶対的に遠い距離、しかし、玉藻の前を身に降ろしている千景が狐火を放って燃やせる距離。千景の掲げた手にチロチロと細く燃える火を杏は見た。
(え、目的が友奈さんの奪還から神樹の破壊に変わってる?)
正気とは言えない今の千景の行動原理は死んだ友奈の奪還、そのために神樹への攻撃をしようとしていた。だが、いつの間にか目的と手段が入れ替わり神樹の破壊が目的となってしまっていたのか、神樹を跡形も残さないような遠距離攻撃をしようとしていた。
「ダメ! 千景さん!やめて!!」
杏が叫ぶ制止の声虚しく、千景が掲げた狐火を放つために腕を振った。
しかし、狐火は放たれなかった。
「? ……??」
千景が腕を振るう直前、千景の意思に反して勇者装束が瞬間的にほどけて消滅。それに気付かないまま腕を振るった千景が放たれない狐火に首を傾げ、その後も何度か繰り返して腕を振っては不思議そうに首を傾げる。やがて、火を放てない事を理解した千景が勇者装束を失くしている事に気付かないまま大鎌を重そうに担ぎ直して神樹に向かって人並みの速度で進み始める。
その一部始終を目撃していた杏の首筋に冷たい怖じ気が走る。
(あの様子だと変身が解除されたのはきっと千景さんの意思じゃない、神樹の意に反したから神樹が勇者の力を取り上げた……?)
本来勇者は勇者装束が無くとも十全とは言えないが勇者の力を発揮する事ができる。だが、杏は目に映る千景が大鎌を重そうに担ぎ、人並み程度の速度でしか走れてない事から見た目相応の身体能力しか無いと推理して装束だけではなく勇者の力その物を失くしていると推測する。
人喰いの化物が多数蠢く戦場で生身、それはつまり、千景は自衛どころか危険から逃げる術すら持たないという事だ。
(神樹に攻撃できないのは好都合、でも……これじゃあまるで千景さんが要らなくなったから使い捨てたみたい! そんなの、ひどい!)
意に反するから力を取り上げる、その後の事は知らない。神は神の道理でそう判断したのだろうが、それまで共に戦ってきた杏にはそれが酷く残酷で身勝手に感じてやり場のない思いを胸に抱える。
重荷を抱えた只の人、消耗しているとはいえ勇者。そこからの追走劇はすぐに終わりを迎えた。
「千景さん、落ち着いて下さい」
「…………え?」
追い付いた杏が千景の錯乱して振り回さないように大鎌を取り上げつつ背後から胴に腕を回してしっかりと捕獲する。すると、最初に多少は振りほどこうとした千景が二度三度と呼吸を繰り返す間の後に周囲を見回して困惑の声を漏らした。
「落ち着きましたか?」
穢れによって発生する何をするかわからない状態、今までそれの多くは他者との接触によって解消されていたのを観察によって把握していた杏。雰囲気の変化という感覚に頼った判別方法だが千景の状態が平常に戻ったと判断しつつ念のために問いかける。
密着する杏に対して背中越しに振り返った千景。困惑の表情で何かを言葉にしようとしたが、自身の勇者装束が解除されている事に気付いて自分の両手を見下ろしながら更に困惑を深めた。
「……なんで、私……あっ……」
錯乱に暴れる気配は無い、そう判断した杏が腕を離し、地に大鎌を刺して手離す。
眼を見開き、その場に膝から崩れ落ちて静かに涙する千景。
「たかしま……さん……」
さめざめと泣く千景を見下ろす杏に激しくのしかかる疲労感。それは、仲間が世界を滅ぼす引き金を引くのを防げた解放感に気が弛んだからか、それとも最悪の場合は守らねばならない対象と見ていた相手の手足を折るくらいはしなければならないと後ろめたい想定をしていた罪悪感からか、どちらにせよ杏の精神は千景と接触した瞬間に酷く疲弊した。
深く長い溜め息を吐く杏のすぐ傍で、千景がほど近い場所にそびえる神樹を見上げて呟く。
「……勇者の力を切っ掛けにたいせつだと思える人に逢えた事は感謝します……でも、そのたいせつな人をつれていった事を、恨みます……」
空虚な昏い瞳、杏はあまりの痛ましさに目を逸らす。心が折れていると断言できる程に、千景の目は死んでいた。
声を掛けるべきか、どんな言葉を贈るべきか、何もできないまま立ち尽くす杏の耳に通信を介した若葉の声が届く。
『杏! 矢を持つ個体は倒したが奴等の動きが変わったぞ! 私を無視して一斉に神樹へと進み始めた!』
「バーテックスもかなり追い詰められてる……って事でしょうね」
応答する前に杏が認識している戦況から推測して呟く。バーテックス側の主力は壊滅、しかし、それまでに押し上げた戦線により神樹は目と鼻の先。バーテックス側も一か八かの総突撃による電撃戦、首狩り戦術に踏み切ったのだと杏は解釈した。
『戦局は最終段階になりました。なにがなんでも殲滅してください、これを凌げば私達の勝ちです』
言いながら、杏は勝率は五分五分だろうと見積もる。バーテックスが追い詰められているのと同じく、勇者達も追い詰められているのだ。
下げすぎた戦線、半分以下に減った戦力、消耗の激しい自分、有利な要素はほぼ無しなのに不利な要素ばかりが杏の戦意を折ろうと悪目立ちする。
『承知した。ならばこの戦い、私達の勝ちだ』
たった一言、通信越しに放たれた強気一辺倒の断言。
有利な要素はほぼ無し、だが、それでも幾つかある内の一つ、まだ体力に余裕のある人類最強の存在が杏の戦意を鼓舞する。
『はい、勝ちましょう』
応える杏が弩を掲げて吹雪を放つ、放とうとして──
「……うっ……うぇ、う゛ぅ……」
──唐突過ぎる猛烈な恐怖心と不安感に肉体さえもが揺さぶられ、激しく嘔吐した。
(なに、これ……? 手が、全身が震える。毒?)
確かにそれまで恐怖心があったのは事実だが、それ以上の戦意によって戦えていたのも事実。戦う事は怖い、だが、それ以上の何に怯えてるかも自分でわからない恐怖に竦み上がって動けなくなる自分に杏は混乱する。
『杏、どうした、何かあったのか?』
放たれない吹雪を怪訝に思った若葉が通信にて問い掛ける。それに対して杏は震える手でスマホを操作し、震える声でなんとか応答を返す。
『わかり、ません。こわくて身体がふるえて、わからないん、です、こわ、こわくて……』
理性は必死に平静を保とうとするが、根源的な本能の部分がひたすらに何かを恐怖する。それこそ、まともに身動きができないほどに。そう途切れ途切れの言葉で説明をしている間にも若葉単身では抑えきれない大群か徐々に神樹への距離を縮めていく。それを見ているだけしかできない杏の脳裏に敗北の予感がよぎり、更なる恐怖心を呼び寄せる。
(訳のわからない恐怖?)
杏の言葉を聞いた若葉が目に映るすべての敵を片っ端から斬り捨てながらも胸につかえた言葉に思考を割く。わかりやすい異常、あからさまな違和感だな。と、考えた所で所で若葉は半身も似たような事を以前に言っていた事を思い出した。
『杏、切札を解除するんだ。穢れの影響で精神に異常をきたしているかもしれん』
半身が杏に対して感じていた違和感、些細な事に大きく驚いたり大袈裟に怖がったりする。精密検査や大社の神官への聞き込みで穢れの影響だろうと推測するようになったそれが、とうとう千景と同じように無視できない領域にまで至ってしまったのだと考えた若葉が杏の負担を減らすように指示する。
『で、でも、切り札無しでは……バーテックスを抑えられ……』
『動けないよりはよっぽどマシだろう、落ち着くまで深呼吸を繰り返せ』
『……はい』
戦況はどう見積もっても不利だが、それでも少しでも杏の心理的負担を軽くするためにそれでも堂々とした声で欠片も無い余裕を有るように見せる。
余裕は無い。若葉もまた、常に自分を強く見せ掛けていただけで限界は確実に近付いていた。
(さて、正念場だな)
数え切れない程に切り捨てたが、未だにバーテックスは山のように蠢いている。対する勇者は、若葉一人。
圧倒的不利。しかし、若葉の心は決して折れない。
生来の気高い気質、かけがえの無い仲間が遺した願い、信じて帰りを待つ最愛の半身と幼馴染の存在、本人の自覚は無いが恐怖を肩代わりされる呪い、全てが若葉の心を支える。限り無く燃え滾る心、果て無き戦意が肉体を突き動かして有限の体力を無限に膨らませる。
「不思議だな。これだけ不利なのに、全然負ける気がしない」
翼の羽ばたきを、剣を振るう手を休めずに呟く若葉。感じるはずの恐怖や不安を一切感じない若葉が感じるのは、自身に寄り添って支える最愛の気配。
(止まった時の中で、私達の勝利を祈っているのか?)
二人が揃えば負け無し。そう信じている若葉の心が限界知らずに燃焼して光を放つ。
「青葉、私に力を貸してくれ……!」
力強い羽ばたき、飛び回るままに咲かせる花火の剣閃。人類最強の剣は、決して折れない。
若葉が単身で支える戦線、しかし、数の差は覆し難く、やはりバーテックスの大群は徐々に神樹へと接近していく。
天の殺意たる山の如し化物の大群に立ち向かう一輪の華。耐えて、斬り捨て。堪えて、斬り捨て。ひたすらにがむしゃらに戦い続ける。
しかし、それでも一輪では抑えられない天の殺意が刻一刻と神樹に迫る。
「う……う、あ、わぁぁぁぁぁぁっ!!」
このままでは世界が滅ぶ、皆が死ぬ。恐怖と混乱の中に有りながらもそれを悟れる賢い華が叫ぶ。叫びながら震える手で弩を持ち上げて引き金を引く。
訳のわからない身体の震えは治まらない、心も恐怖に縛られたまま。それでも、皆が死ぬ事の方がよっぽど怖いと自身を叱咤して戦闘に復帰した杏が狙いを定められないまま矢を乱射する。
山の如し殺意の大群、矢を放てば何かしらに当てられる状況、杏の援護は確実に若葉の助けになっていた。
「くっ、足りない! 手数が足りない!!」
しかし、抗う華が二輪に増えてもやはり敵は膨大。少しずつ磨り潰すかのように殺意の進軍は止まらない。
「目に見えてバーテックス共の数は減ってきているんだ! もう少しなんだ!」
「負けてなんか、いられないのに!」
叫ぶ二輪。無情で残酷で無機質な保身の無い進軍を続ける大群。
若葉が瞬きさえも忘れる程にひたすら剣を振るう事に集中し、杏が手の震えを忘れる程に引き金を引く事に集中する。それでも、殺意の進軍は止まらない。
「まだ負けてない! 私に力を……ひなた……青葉ぁぁぁぁっ!!」
祈るように、最愛達の名を叫ぶ若葉の声が樹海に響き渡る。共に在るならば負け知らず、感じ続ける気配に勇気を貰いながら若葉の剣が煌めき続ける。
しかし、どれだけ強い思いでも、それだけでは絶対的な数の差は覆らない。
「あ、おば……? ……のぎくん……」
思いだけでは何も覆らない。
だが、思いを拾い上げる存在がいるならば、何かが変わる。
「……乃木、くん」
折れた心に放心し、周囲を何一つ認識しないままただ神樹を見上げていた千景が『とても大切な友達』の名前に反応する。
いつもやさしくて、勇者相手に一矢報いるほどに強くて、有事の際に真っ先に前に出て皆を守ろうとする背中が頼もしくて、でも、勇敢なだけでじゃなくて命懸けで戦う友達を心配して怖がる臆病な所もある『とても大切な友達』の男の子。友奈の死に、心を痛めて泣いてしまうだろうと、千景の胸が痛む。
「ごめんなさい……」
呟くように溢した、誰に向けられたかもわからない謝罪の言葉。それに秘められた思いは千景本人にもわからないほどに複雑で不透明で、それでも強い思いだった。
(戦わなければ、勝たなければ、世界が滅ぶ……それは、絶対に駄目)
世界が滅べば、不安になりながらも皆の帰りを待っててくれている『とても大切な友達』も死んでしまう。そんな単純な事を千景は今更ながら思い出した。
(それは、駄目。私はもう、何も失いたくない)
立ち上がる千景の瞳は未だ昏いが、虚無ではない。
深い悲しみと絶望に苛まされているが、確固たる意思を以て千景は地に刺さる大鎌を握ってスマホを操作する
(大鎌が重い、何度操作し直しても勇者装束が出てこない……今の私に、勇者の力は無い?)
穢れの症状によって錯乱していた時の記憶が曖昧な千景だが、曖昧な記憶の前後でしっかりとしている部分と戦闘の手を止めてまで自分を捕まえていた杏から自分が危険でロクでもない事をしていたのだろうと推察し、それによって勇者の力を取り上げられたのだろうとも推察する。
(神樹様、お願いします、もう一度私に勇者の力を与えて下さい。今戦って勝てなければ、何もかもが無くなってしまうんです。私に『とても大切な友達』を守らせて下さい)
祈りながらスマホ操作するも、反応は無し。
(神樹様……神樹様……どうか、高嶋さん……!)
祈り、強く祈り、心底から祈り、守れなかった『大切な友達』を祈る。
「あっ……」
涙ながらの祈りの中でほんの一瞬だけ感じた抱擁の温もりに声を出す千景。気付けばその全身はスマホの操作なんて無いままに彼岸花を模した勇者装束に包まれていた。
祈りは神に届かなかった。しかし、神樹の元にいる友奈に届いていた。
若葉が放つ思いの叫びは千景の心にに届き、千景の祈りが神に至った友奈に届いて不利を覆す力となった。
「ありがとう、高嶋さん」
神樹を見上げて小さく笑む千景。髪を飾る彼岸花に寄り添う、小さな桜の花弁がひとひら。
涙を拭い、すぐ背後の戦場へと振り返る千景。地からは杏が矢を乱射し、空では若葉が飛び回る。しかし、それでも数に押し潰されそうな戦況に自身がすべき事を悟る。
「七人御先!」
切札の行使により七人に増える千景。千景が今すべきと判断したのは、手数を増やしつつ進行する大群の壁となる事。
「千景! ようやく戻ったか!」
「千景さん!? もう大丈夫なんですか?!」
千景の復帰に驚愕するも、それ以上に頼もしさを覚える二人。
「ごめんなさい、待たせてしまったようね」
「構わん! ここから逆転するぞ!」
二輪から七輪増えて九輪の華。
それでも数の上では圧倒的に不利だが、それ以上に質の有利が上回った。
斬り、射ち、薙ぐ、ひたすらにひたすらに繰り返す。
山のような大群がただの大群へ、大群が群れへ、群れが小規模な集まりへ、バーテックスの数が時間と共に減っていく。
勇者達三人の誰もが消耗に意識を朦朧とさせた頃、最後のバーテックスが矢に動きを鈍らせ、縦に撫で切られ、横一文字に斬り捨てられる。
勇者達は、勝利した。
勝利の後、樹海には鬨を上げる気力すらない三人の勇者が倒れ伏していた。
お馬鹿猪ゴリラ勇者(最強)
そういう事だ
かつての傷痕は深い杏ちゃん
そういう事だ
友奈神
そういう事だ
ちょっと■■■■■になったけど千景ちゃんに戻った勇者
そういう事だ
敗北バーテックス
そういう事だ
神樹
友奈ちゃんおいしいです♥️
───
誤字報告そういう事だ
活動報告そういう事だ