薄暗くなっていく世界の中、共に歩いていった仲間達。
今はもう、それぞれの道を歩んでいて。
それでも、ほんの少しだけ見上げれば。
あの時の空は、ずっと僕らを包んでいて。
【津田タカトシの一日】
身体が熱い。
息が切れる。
でも、辛いとは思わない。
だって、自分が好きでしている事だから。
真夏の炎天下の早朝、街中を走っている津田タカトシは自分が溶けるかと思うような錯覚を覚えていた。
小学校の頃から欠かさず行っている早朝マラソン。サッカーを止めてからも、身体を鍛える事は続けている。
陸上部にも遅れは取らないと思わせる速さで、タカトシはゴールである自宅へとたどり着いた。心臓の音が聞こえ、汗が止まらない。
「はあっ……はあっ……」
肩で息をしつつ、タカトシは玄関へと入る。家の中には、両親の姿はない。海外へ出張に行っているのだ。
いつもの事なので、静かな家には何の感慨も浮かばない。津田コトミは早起きする性質ではないので、この時間はいつも1人だ。
部屋に行き、着替えをもって風呂場へ。服を脱ぐと、脱衣所の鏡に自分の姿が映る。
別段、自分の裸に見惚れる趣味はない。ただ、筋肉がついてきたと思っただけだ。
生徒会の仕事というのも、なかなかに体力がいる仕事だ。もちろん頭脳も使うしデスクワークが多いものの、体力的な仕事は基本的にタカトシ1人が行っているのだ。
まして、体力を落とす事が嫌だったから。日頃は時間を見つけては運動を始めている。基礎的なものばかりだが、だからこそしっかりと固めておくべきなのである。
シャワーを浴びて、身体を清める。生活着に着替えた後で、朝食の用意。
今日はサンドウィッチにする。食パンを斜めに切り、ツナや切ったトマトを用意。千切ったレタスや炒った卵を皿にくべ、自分の好みで食べられるようにしておく。
2人分のコップを用意し、食卓へ置く。コトミの部屋をノックして、用意ができたと伝えた。
先に自分の席に着き、食事を始める。遅れて妹が姿を見せる。眠そうな目を擦り、パジャマのまま食卓に着いた。
「顔を洗って、うがいしてこい」
「もう、タカ兄はうるさいなあ」
面倒そうに洗面所へ行くコトミ。ややあって、先ほどよりはサッパリした様子のコトミが食卓へ姿を見せる。
「もうちょっと寝ていたかったのに」
「夏休みだからって、いつまでもだらけているんじゃないぞ」
「いいじゃん。まだ夏は始まったばかりだし」
口ではブツブツ言いながらも、パクパクと食べるのを止めないコトミ。やはりお腹が空いていたのだろう。
「そういえばさ、タカ兄。今日はアルバイトの日だっけ? あの駅前のレストランの」
「ああ。今日は朝からシフト入っているから」
ちょっとお洒落なレストランとして、地元では割と有名の店である。若者を中心とした客が多いので、人手不足になっているという。そのため、即日採用されたのだ。
夏休みの間だけ、朝から仕事ができる。学園が始まれば、さすがに夕方中心の時間帯になるだろう。
あのレストランは、メニューが豊富で覚える事がたくさんある。接客をするフロアーも立ち振る舞いを細かく注意され、はじめは悪戦苦闘したものだった。体力に自信のあるタカトシですら、はじめはクタクタになって帰ってきたものだ。
だが、その苦労のおかげか作れる料理の規模も広がっている実感はある。今晩あたりにも、もう少し凝ったものに挑戦してみようかと思うタカトシ。
「いいなあ、仕事できて。給料もらったら、私にも何か買ってよ」
「お前は今年受験だろ。小遣いなら、母さんと相談しろ」
「ケチ。今月は欲しいものがあったから、もう少ないし」
「……一昨日貰ったばかりだろうが」
妹の金遣いの荒さは今に始まった事ではない。だが、金の使い方や節約もそろそろ覚える時期だろうに。
「だからさ、タカ兄」
「駄目だ」
「まだ何も言ってないよ」
「金を貸してくれって言うんだろ、どうせ」
「さすがタカ兄。分かってるー」
「お前に貸したら、2度と返ってこないからな。だから駄目だ」
「えーっ」
「それより、お前も成績がギリギリなんだろ。夏休み中に少しでも挽回しとけ。受験生に夏休みなんか無いんだからな」
釘を刺すように言う。まったく、そろそろ将来がかかっている瀬戸際だという事を自覚してほしいのに。
「もう、タカ兄はそればっか。受験生でも、身体を壊したら元も子もないじゃん」
身体に影響するほどの勉強などしていない妹が何か言っているが、これ以上言うのは止めておいた。代わりに、別の事を告げる。
「じゃあ、もし夕方までに言われたとおりの勉強を終わらせたら、今夜はちょっと豪華なメシ作ってやるから」
「え、ほんと?」
途端、目を輝かせるコトミ。現金である。
洗い物をしながら、肯定するタカトシ。
「ああ。レストランで覚えたばかりだけど、結構手が込んでるやつだ。だから、ちゃんと宿題を真面目にやっとけよ?」
「うん。タカ兄の料理はお母さんより上手だし」
やがて身支度を整えたタカトシは、アルバイトへ向かうために家を出る。
兄がなぜ、自分が宿題を終わらせていない事を知っていたか。コトミがそれにようやく気付いたのは、まっさらな宿題を手に取ってからだった。
この日は、フロアーの仕事だった。
搬入や雑務。店内外の清掃。オーダーを取ったりメニューを運んだり、レジで会計。
白のワイシャツに紺のベスト。黒のリボンタイ。割とシンプルなタイプだが、彼自身は割と気に入っている。
客の目障りにならない事を意識しつつ、店内を移動する。メニューの追加が来たので、キッチンへ向かう。
「2番テーブル、夏のナポリタン追加!」
「了解!」
威勢のいい声がキッチンを担当している男性から発せられる。続けて来客が来たので、失礼にならない程度に傍へ近寄る。
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか」
「あ、えっと、3人です」
年上の学生らしい女性が言う。
「はい。では、こちらへどうぞ」
窓際の眺めがいい5番テーブルへ案内する。彼女たちは、おずおずと席へ座った。
カウンターに戻って氷水を用意する。微かにレモンの香りがするところに、店長の拘りを感じた。
銀のお盆に氷水の入ったグラスを乗せ、お客様のところへ行く。
「失礼します。ご注文はお決まりでしょうか?」
「は、はい。私は豚ロース肉のグリルを」
「あたしは鮮魚のソテーを」
「わたしは仔牛のカツレツを。あと、ミネストローネ」
「お飲み物はいかがなさいますか?」
「コーヒーを3つ」
「ありがとうございます。それでは繰り返しますと、豚ロース肉のグリル、鮮魚のソテー、仔牛のカツレツ、ミネストローネをお一つずつ。コーヒーを3つ。以上でよろしいでしょうか?」
「はい……」
「では、メニューの方はお下げさせていただきます。御用の際はお呼びくださいませ」
キッチンへ向かい、オーダーを告げる。再び威勢のいい声が返ってきた。同時に、店を出る客が目に入る。
「ありがとうございます。お会計は――――」
営業スマイルを維持しつつ、それからもタカトシは続けた。後半のシフトはキッチンに変わるのだ。今のうちに、接客に慣れておかなければ。
夕方の6時。この日のタカトシの仕事は終わった。これからは夜のシフトが入っている者達で店を続けるのである。
スタッフルームで着替えを済ませ、先輩達に挨拶を済ませる。ちょうど会計を終わらせた店長にも声をかけた。
「お先に失礼いたします」
「お疲れ様、津田君。今日も助かったわ」
店長は、妙齢の夫人である。いつもにこやかで、落ち着いた態度を崩さない。
「いえ、仕事ですから」
「それでも、助かっているのは本当よ。なにしろ、人手が足りないから」
体力のある若い子が来てくれてよかったわと、彼女は言った。それに、タカトシは複雑な気分になる。他に体力のある男性スタッフは何人もいるのに。何となく、煽られている気分になるのだ。
もっとも、店長はそんなつもりはないのだろう。にこやかな表情からは、そういう下心は感じ取れない。とりあえず、当たり障りのない返事をしておく。
「俺なんて、まだまだ新人ですよ。覚える事がたくさんありますし」
「あら、そんな。覚えたてでも、そこがいいと思う女の人はいるものよ?」
「女の人……え?」
「チェリーが好きな大人の女性には受けがいいと思うわ。津田君は、今のままでいて頂戴」
おかしい。会話が妙にずれ始めている。とりあえず、チェリーというのはサクランボの意味ではあるまい。
「……えっと、アルバイトとしての話ですよね?」
「えっ?」
「えっ?」
なぜか訊き返された。なんだ、この反応?
周囲のスタッフは、また始まったよという目で店長を見た。というか、すぐに関わり合いにならないように仕事に没頭する。
助けてくれる人は、いそうになかった。
アルバイト先のイタリアレストランの店長。胸のプレートに書かれている名は、萩村。
萩村スズの母親、萩村アカネが取り仕切っている店であった。
夕暮れの中、部活帰りの学生や家族連れが目に入る。街中はオレンジ色の世界。
レストランから自宅まで向かう途中の公園のベンチに、タカトシは1人座っていた。以前、五十嵐カエデやスズと談笑した場所である。
「それでさ、バイトは順調なんだけれど、妹のやつの勉強を見てやるのに忙しくて」
携帯電話を片手に、彼は話をしていた。中学時代の友人から、久しぶりに電話がかかってきたのである。
電話口から、大変そうだなと笑う声が聞こえた。この友人はトモヤという名で、現在は県外の高校に通っている。久しぶりなので電話をよこしたらしく、口調が弾んでいた。
タカトシとも仲が良く、トモヤは同じサッカー部の友人で、昔から揉め事の仲裁をするのがうまかった。怒ると怖いが、それ以外ではいつも優しい友達である。
お互いの近状を語り合う2人。トモヤは現在、サッカー部の部員として毎日汗を流しているという。1年生にも関わらず、夏の大会にも出場する予定らしい。
そういう様子を聞くたびに、タカトシは嬉しさを感じつつもどこか寂しさを覚えてしまう。
分かってはいたが、トモヤは自分とは別々の道で頑張っているのだ。自分だって将来のために努力している。それは、胸を張って言いきれる。
だが、かつて共に汗を流して一緒にいた日々は、すでに自分達の中では過去のものとなっていた。そんな事もあったなと、笑って懐かしがる。ただ、それだけの感慨。
いつかトモヤとも新しい日々に埋もれているうちに、連絡すら途絶えてしまうようになっていくのだろうか……
しばらく話し込むと、タカトシは携帯の通話を切った。ディスプレイを確認すると、20分近く話していたようだ。
いけない。コトミが腹を空かせて待っている。彼は心持ち早めに、足を動かした。
適度に急ぎつつ、タカトシは空を見上げる。
オレンジ色から、群青色に染まっていく空。星が瞬いている。1つ。2つ。
野球のグローブを手に、ボールを追いかけた毎日。サッカーボールを蹴り、仲間と共に競い合った日々。
もう還らない日々。瞬きと共に、少年はうっすらと微笑する。暗いはずの夜空が、なぜが少し眩しく見えた。
タカトシは、心の中で祈る。俺は今でも、ちゃんと元気でいるよ。
平凡なようでいて、どこかくすぐったい感慨に沈みながら、過ぎ去った日々の記憶が空に消えていくのを、タカトシはじっと見守った。
「おいしーい。さっすがタカ兄!!」
夕食。お腹を空かせたコトミが、一口目に食べた感想がそれだった。
料理店で覚えたばかりの、豚ロースの炭火焼きをおかずに、コトミは白米をかきこんでいく。牛丼のように湯気の立つ肉の切り身をご飯の上に乗せ、美味しそうに食べていた。
他にも、自家製ミネストローネにサラダといった具合に、津田家の食卓に花を添えている。来週には両親が出張から帰ってくるので、その時にも振舞ってあげようと思う。
「そっか。おかわりはあるから、慌てないで食えよ?」
タカトシはご飯とおかずを交互に食べつつ、ミネラルウォーターで喉を潤す。
家に帰ってきてから、コトミは勉強した分を見せてきた。所々答えが間違ってはいたが、それでも妹にしてはよくやった方だ。そこで、約束通りに夕食を少し手の込んだものにしたのである。
程よい焼き加減や、香ばしい匂いが食欲をそそった。それでも、まだ他のコックが作る料理とはどこか違うと感じてしまう。
まだまだ、って事か。俺は。
一人前には遠い。そう痛感しながらも、タカトシは栄養補給のために食事を勧めた。別に将来料理人を目指しているわけではないのだが、アリかなと思ってしまう。
やがて、2人の夕食が終わる。タカトシは洗い物をし、妹は部屋へと戻った。
タカトシも自分の部屋に戻ると、机に向かって勉強を始める。2学期の予習を中心に、問題集を消化していく。
程よい運動の後は、頭の回転が速くなる。血行が良くなるため、頭の働きが活性化されるからだ。
英語。数学。化学。物理。
時間を決めて、効率的に勉強を進める。カリカリとシャープペンシルの音が鳴る。
しばらく無言で問題を解いていくタカトシ。答え合わせをすると、まずまずの結果だった。
「さて、と」
すでに、時刻は10時過ぎになっている。あとは学園外の勉強だ。
机の棚から、ドイツ語の入門書を取り出す。将来の実益のために覚えようとしている言語の1つだ。ドイツ語は英語に似ているので、他の語学に比べて比較的覚えやすい。
在学中に、フランス語にも手を出せたらいいと思っている。国外に出ようと思っている人間ならば、これくらいできなければいけないのだ。
もっとも、この辺りの理屈はスズから教わったものではあるが。彼女は5か国語も話せるので、本当に尊敬する。もちろん、天草シノや七条アリアの事も。
負けたくないよな。やっぱり。
気合を新たに、タカトシはドイツ語の基礎に執りかかった。
【五十嵐カエデの一時】
タカトシが勉強を始めた頃、五十嵐カエデは自宅で机に向かって勉強を続けていた。
カエデは集中力を切らす事もなく、黙々と問題を解いていく。特に悩むこともなく問題集の数十ページ分を解いているのは流石だった。
この辺りは受験にも重点的に出題される項目なので、油断はしない。何度も見直し、やり直しを続け、自分の学力へと繋げていく。
来年はカエデも3年生。受験がかかっている重大な時期。
彼女は、進学希望だった。将来は教師になることを目標にしている。そのため、教育学科のある有名大学を志望。
正しい事を教え、導く職業。少年犯罪が増加している現代では、何が正しくて何が間違っているかを教える社会を作らなくてはならない。教師の犯罪など論外だ。
大人がしっかりせずして、子供が正しく育つものか。カエデはそう思っている。
やがて、シャープペンシルを机に置く。目を閉じると、少しだけ痛んだ。
休もう。流石に集中しすぎた。
机の電気を消し、傍のベッドに腰を下ろす。とうに夕食を食べて、歯も磨いた。風呂で体を洗ったので、後は勉強をするだけだったのだが、それももういいだろう。
とはいえ。時計を見ると、夜の10時だ。眠ってもいい時間であるが、もう少し時間を潰してもいいかもしれない。
ふと、机の隅に置いてある携帯電話が目に留まった。途端、あることが頭に思い浮かぶ。
――――みんな、今頃どうしているのかな。津田君とか。
「って、あ……」
途端、顔を真っ赤にする。なんで。何で急に津田君の名前が!?
1人だけ部屋の中でワタワタする姿はおかしかったが、カエデにはそれを気にする余裕が無い。
頭に思い浮かぶのは、あの男性恐怖症の自分にも普通に接してくれるあの横顔。生徒会の仕事を、あの会長達と一緒にこなしている後ろ姿。
男が苦手な自分が、彼に対してだけは考える事に際限が無い。どうなっているのだろうか。
火照った頬を自覚しつつ、携帯を手に取る。電話帳に表示されているのは、他ならぬタカトシの名前。学園の仕事で連絡を取る事もあるので、生徒会のメンバーの連絡先は交換済みなのであった。
何か、悪いことをするような緊張がカエデの動悸を早くさせる。
電話、してみようかな。でも、こんな時間にするのは迷惑よね……
あーとか、うーとか要領を得ない独り言を呟きつつ、カエデは結局――――携帯電話を仕舞う事にする。
将来の目標を見据える五十嵐カエデ。異性に対しては度胸が全くなかった。
つづく