されど、宵闇はなお深く。
向けられる敵意。近寄る悪意。
外の世界に隠れ潜む、暗い闇。
冷たい牙にさらされた、ある一夜にて……
*今回は若干の暴力描写があります。苦手な方は戻る事をお勧めいたします。
【彼の横顔】
日曜日に開催された桜才祭が終わったため、この日は休日として桜才学園の生徒を迎える事となった。
大抵の学生ならば、せっかくの休みを満喫するために眠ったり、趣味に時間を費やしたりするものなのだが、そんなお約束に縛られない者もいた。
津田タカトシ。彼はこの日も、アルバイト先のレストランで仕事を続けていたのである。
「特製アクアパッツァ2つ。クリームスパゲティ3つ追加!!」
「了解! 特製アクアパッツァ2つ。クリームスパゲティ3つ!!」
同僚が汗を額に浮かばせながら調理室で告げた言葉を、タカトシは仲間たちと共に復唱する。自分の役目はクリームススパゲティの方だ。
続けて、仲間たちから鶏肉の用意は出来ているのかと言われる。タカトシは予期していたように、注文分の肉をトレイごと渡した。
仕事は常に先読み。これは店長の萩村アカネから教わった事である。彼女は仕事となると普段の穏やかそうな表情が一変し、まるで実年齢以上に経験を積んでいるかのようなプロの料理人の顔を見せる。そのため、タカトシもまた仕事を妥協せず、腕を磨き続ける事が出来た。
娘のスズがIQ180などという途方もない頭脳を持っているようになった事も、きっとこういう母親を持っているからだろう。今ではそう思っている。
そんな調子で仕事は続き、午前中を働きぬいた。タカトシは午後もシフトを入れているので、気は抜けない。
休憩時間となり、彼は手短に昼食を済ませた。一緒に休んでいる職場の先輩と話をしながら、交流を深める事も忘れない。
「ふうん、留学をするんだね。ドイツの大学に行くつもりなんだ」
「はい。入学当初は就職も考えていたんですけど、同じ生徒会にいる人から影響を受けちゃって」
「その人も留学したがっているんだ?」
「そうなんです。萩村店長の娘です」
「マジ? スズちゃんと同級生なの?」
「マジです」
店長の娘という言葉に、他の先輩達も食いついてくる。年輩の男達が、タカトシに接近する姿は、なかなかに迫力があった。
スズちゃんなどと呼ばれている通り、彼女は店員にも顔を覚えられている。たまに家の都合で彼女が店に顔を出す事もあるのだ。
「いつも成績で勝負しているんですが、一度も勝てなくて」
「そりゃあそうだ。あの子、IQ180って言ってたし」
「帰国子女ですしね」
「英語はペラペラ」
「10ケタの暗算なんて朝飯前」
そして、今度はすべてのみんなが異口同音に。
「どう。これでもスズちゃんを子供呼ばわりする?」
タカトシも、同僚も、みんなが滅茶苦茶笑った。
――午後になると、タカトシはウェイター専門となった。作りたての料理を運び、注文を受け取る。会計をこなし、また来店した客を席に案内。
満足そうに店を去っていく親子連れに礼をすると、とうに日没を迎えており、あと2時間ほどで明日になるという時刻だ。
そろそろラストオーダーになるという直前、2人組の女性が来店してくる。買い物の帰りらしく、紙袋を持っていた。
そう思いながら、疲労を無視して笑顔を浮かべる。すでに身に染みついた口上を述べた。
「いらっしゃいませ。2名様でよろしいでしょうか」
「はい……って」
タカトシが姿を見せた時、2人組のうちの1人が驚いた顔になる。彼も相手が誰なのかに気付き、名前を言う。
「あ、五十嵐先輩」
「津田君。あなた、ここで働いていたの?」
来店したのは、風紀委員の五十嵐カエデであった。目を瞬かせている顔が、どこか年下のようにも見える。
「あら、カエデ。後輩の子?」
そう不思議そうに訊くのは、見慣れない女性。どことなく容姿がカエデに似ているが、雰囲気はどこか活発そうだ。高級そうな黒のバッグを手にしている。
「あ、うん。桜才学園の一年生。生徒会の副会長だから、たまによく話す人」
「へーえ。そういやカエデって、風紀委員長なんだっけ」
「そうよ。前に言わなかった?」
「聞いてはいたけどさ。正直忘れちゃってた」
「なにそれ」
呆れた顔をするカエデに、女性はカラカラと笑う。少なくとも、仲は良さそうに見える。
会話を不快な部分で遮断させないようにタイミングを見て、タカトシは言った。
「それではお客様。お煙草はお吸いになりますでしょうか?」
「ああ、ごめんなさい。私たちは禁煙で」
「かしこまりました。こちらのお席へどうぞ」
仕事に戻ったタカトシにつづいて、2人は部屋の内装がよく見渡せる席へ座る。メニューをテーブルの上に開いた。
「本日のお勧めは、牛肉のタリアータとエビとポテトのイタリア風オムレツがおすすめです。では、ご注文がお決まりになりましたら、お気軽にお声をおかけくださいませ」
最後にニコリと笑い、他の客のテーブルへと向かうタカトシ。家族連れの席で、子供がデザートを欲しいと喚いているらしい。慣れた様子で子供をあやしつつ、父親から何かないかと言われる。
「では、特製パンナコッタはいかがでしょうか。バニラティラミスもお勧めなのですが」
彼は嫌な顔もせず、スラスラとメニューを告げた。今日の人気デザートも、彼は把握しているらしい。
そして夫婦はバニラティラミスを、子供には特製パンナコッタを注文する事になった。礼をし、厨房へ向かうタカトシ。
「なんか……もうベテランに片足突っ込んでいるって感じよね」
「まあ、津田君は真面目だから」
そう言いつつも、カエデは前の席に座っている女性共々、タカトシの後ろ姿を目で追いかけていた。なんだかあまり年下という印象を受けない後輩の働く姿は、普段とはまた違う姿を垣間見た気分になる。
「ふぅん。私も高校の時に、ああいう男の子がいたらよかったのにな」
「え?」
「だって、大学の男共ってほぼ全員が似たり寄ったりな奴らばっかりだし。彼氏持ちだし」
カエデは頭を抱えた。この話になると、妙に口調が粘着質になるのだ。よほど大学生活に不満があるらしい。
目の前の女性は、カエデの姉。名を、五十嵐ヤヨイといった。
ヤヨイが高校時代に恋人と別れてから、ずっと色気のない生活をしている事は知っている。男性恐怖症の自分には理解できないが、大学の友人たちはみんな恋人がいて、自分だけがいない事に焦りを募らせているらしい。
ヤヨイは妹の自分から見ても、美人の類に入ると思っている。だが、世間一般で言うところの肉食系という部類に入る性格であり、また少々理想が高い事も相まってか、まともな男に縁がない。
恋人どころか、そもそも妹のカエデには相槌を打つ事すらできない話題。それを気にもせず、ヤヨイはふとした拍子に男への不満をペラペラと口にし始める。
「だいたいさ、草食系とか世間で言ってるけど、あたしからすればみっともないわけよ。黙って喰われるのを待っているだけの奴なんか、相手にもしたくねえっての」
「ね、姉さん……ちょっと声を小さく」
「やっぱ男は、締めるところは締めつつ、それでいて女のいう事を黙って聞いてくれる奴に限る。貢いでもらう時だって――」
「……」
だめだ。こうなると、酔っ払いと大して変わらない。というか、そういう事を言っているから、男が寄り付かないのではないだろうか。
と、そこへタカトシがスプーンやフォークといったカトラリーを持って、テーブルに置いた。失礼いたします、と断って。
「お客様。失礼ですが、当店に何かご不満でも?」
続けて、タカトシはヤヨイに遠慮をするような口調で言った。言われたカエデの姉は、我に返ったようにアワアワとする。
「い、いえ、すみません。何でもないんです」
「そうでしたか。それは失礼いたしました。それでは、ご注文がお決まりになりましたら、お気軽にお声をおかけくださいませ」
「は、はい」
タカトシは去り、後にはバツの悪そうな姉と、そんな彼女を見る呆れた視線のカエデだけが残された。
「ヤヨイ姉さん……私、恥ずかしかったんだけど」
「む。言わないでよ。ちゃんと分かってるから」
姉が自分の後輩に叱られた。これでは、タカトシの方が年上のようだ。
「まあ、それはそれとして、津田君って結構大人っぽいのね。確か、まだ1年生じゃなかったっけ?」
気まずい空気を隠すように、ヤヨイはタカトシの話を始める。なんとなく暗い雰囲気のままというのも、気分が悪い。カエデにしては珍しく男の話題に乗る。
「うん。けれど、結構頼りになる人よ。私もたまに、年下って感じがしなくなるくらい」
「あら。あんたでもそう思うの? 確かカエデって、男がダメなんじゃなかったっけ」
「そうだけど……でも、津田君はあまり怖いって感じがしないから。普通に話せる」
「あら、意外ね。カエデにも、やっとそういう人ができたなんて。帰ったら、お父さんたちにも教えてあげようかな」
「や、やめてよ。ちょっと慣れてきたってだけで、津田君以外の人とは全然」
「え、津田君だけ?」
不思議そうな顔になるヤヨイ。てっきり、もう恐怖症は治りかけているものだとばかり思っていたのだが。
「うん。他の男子とは相変わらず。足がすくんじゃうくらい」
情けなさを隠しつつも、そう伝えるカエデ。このままでは、卒業してもこのままなのではないだろうか。
だが、ヤヨイは真剣な顔になってカエデを見る。ややあって、ヤヨイはポツリと告げた。
「カエデ……もしかして、あんたって気づいてないの?」
「え?」
突然、何を言っているのだろう。カエデは本気でそう思った。
その様子にため息をついたヤヨイは、何でもないと言ってメニューに視線を向ける。カエデは何か聞きたそうだったが、姉は話をはぐらかしつつ、傍を歩いていた顔の知らないウェイターに声をかけた。
【長い夜】
最後の客が店を出た事を確認すると、タカトシ達は店の清掃作業に入った。モップをかけ、テーブルを拭く。調理器具と共に皿洗い。
最後に従業員がフロアに並び、最後の礼。更衣室で着替えを済ませ、従業員に別れを告げる。
裏口に施錠をしたタカトシは、店の横を回って駐車場の出入り口へ向かおうとする。時間も遅いせいか、傍に見える道路を走る車の数もまばらだ。
冷たい風が身に堪えるが、耐えられない程ではない。中学時代はそれこそ深夜まで近くの公園でチームメイトとサッカーの練習をしていた事もある。試合が近くなれば、ほぼ毎日のようにやっていた。
ふと、店の前にある植え込みに、誰かが座っているのが分かった。こんな時間に待ち合わせだろうかと思っていたが、よく見ればとうに家に帰っていると思っていたカエデであった。
一緒にいた女性の姿はない。気になった彼は、声をかける事にした。
「あの、五十嵐先輩?」
「ひゃっ!」
肩がビクリと震える彼女。どうやら、彼の接近に気付いていなかったらしい。
「あ、なんだ……津田君。もう仕事は終わりなの?」
「はい。さっき掃除も終わらせたところです。ところで、先輩は何をしているんです?」
「いえ、実はですね……」
はぐらかされるだろうかと思っていたが、意外にもすんなり打ち明けてくれた。
「実は食事を終わらせた後、姉に急用ができてしまったんです。それで、すぐに戻ると思っていましたので、ずっと待っていたのですが」
「そうでしたか。でも、今は真冬ですので、近くのコンビニの中で待っていた方がいいのでは?」
「いえ。その急用というのが、実はこの近くを前の、その……姉の恋人が偶然通りかかったそうでして。そのまま追っていってしまったんですよ」
なんだそれは。あの人が姉だったという事にも驚いたが、妹を放ってどこかへ去ってしまうなんて。
「それは……なんとも」
「戻ってくるかも分かりませんし。1人で帰っても、なんだか置き去りにするみたいで申し訳ないので。どうしたものかと」
随分と猪突猛進な姉のようだ。タカトシは内心でカエデに同情する。コンビニの中で待っていれば、戻ってくるかもしれない姉がその場にいないカエデを確認し、自分を置いて一人で帰ったと判断してしまうかもしれない。
腕時計を確認したカエデは、ため息をつく。すでに10分を過ぎているようだ。
「携帯に確認してみた方がいいんじゃあないですか? 恋人と話し込んでいるのを邪魔してしまうかもしれませんが、仕方がありませんよ」
「あ、やっぱりそう思います?」
カエデも、その可能性は薄々考えていたらしく、連絡を入れるに入れられなかったらしい。しかし、よく考えれば置き去りにされたのはこちらの方だ。遠慮などする必要はない。
手元のバッグから携帯電話を取り出し、操作をする。連絡が繋がったらしく、もしもしと告げるカエデ。
タカトシは聞き耳を立てないように、僅かに距離を取っておく。通話を盗み聞ぎする趣味はない。
だが、二三短い会話をするごとに、カエデの様子がおかしくなっていく事に気付く。眉をひそめ、背を向けているカエデに視線を向けた。
やがて、カエデの口調が大きくなる。なにか、不安と焦燥を交えた声である事だけは分かった。
「もしもし。姉はどこにいるんですか!」
「……っ」
タカトシは息を呑んだ。不穏な空気を感じ、嫌な予感がする……
カエデが震える手で携帯電話を耳から離し、壊れた機械のような動きでタカトシの方に振り向く。
そこで、彼は気づいた。カエデの顔色が、まるで病人のように白くなっている事を。イルミネーションに照らされたその表情は、何か只ならぬ事が起きた事を確信させる。
「五十嵐先輩。お姉さんに何かあったんですか?」
つい強い口調になってしまう。男が苦手なカエデの身体が震えるが、流石に構ってはいられない。
「教えてください。何か妙な事が起きたんじゃないですか?」
「あ、あ、は、はい……」
なんとも頼りなさそうに、言葉が喉につっかえるカエデ。しかし、それでも返事は肯定だ。
「落ち着いて。とにかく息を大きく吸ってください。その後で、詳しく教えてもらえますね?」
「……」
顔色は相変わらずだったが、それでも言う通りにはしてくれた。その後で聞かされた話は、タカトシの心を痛めるには充分すぎた内容だ。
姉が、姿を消した。偶然会った元恋人に連れられ、行方が分からなくなったという。さっき通話していた相手は、その元カレらしい。
「ど、どうしよう……まずは、警察に」
「それは、俺が通報します。先輩は、携帯のGPS機能を使ってください」
タカトシも、決して冷静さとは程遠い心理状態の中で、それでも携帯電話を取り出した。すぐに110番に繋がった。手短に状況を伝えると、通話を切る。
「あ、いた。いたわ!」
カエデを見ると、姉の携帯電話の場所が分かったらしく、その場所をタカトシに言った。なんと、僅か200メートルほど離れた場所に反応があったらしい。
警察が来るまで悠長にしていられない。2人は、急いでその場所へ駆けつけた。
だが、目にしたものは歩道の植え込みの中に隠すようにして打ち捨てられてある黒のバッグ。それは、タカトシも見覚えのあるものあった。
肝心のヤヨイの姿は、どこにもいない。今にも倒れそうなカエデを、どうにか支えてやる。
「落ち着いてください。とにかく、今は出来る事をしましょう」
「出来る事って……なによ」
縋るような目のカエデ。最早、思考も真っ白になっているらしい。それを責めるほど、タカトシは無神経ではなかったが。
「この辺りに、人が隠れられそうな場所があるはずです。警察が来るまで、まだ時間がかかるでしょうから、俺たちだけでも諦めずにお姉さんを探しましょう」
「どうやってよ!」
「ですから、落ち着いてください。電話があって、ここから駆け付けるまでにはそう時間がかかってはいません。確か、先輩はお姉さんが去ってから10分間くらいは店の前で待っていましたよね?」
「だから何よ」
「その時までは、少なくともお姉さんはバッグが捨ててあった場所にいた事は確かです。つまり、俺たちがそこへすぐに駆け付けたから、まだお姉さんはそう遠くに入っていないという事です」
「あ……」
ようやくその事に気付くカエデ。口を開けて、呆けたようにタカトシを見る。おおよそ、普段の彼女ならば絶対に見る事の出来ない表情であった。
「ですから、諦めちゃあいけません。嫌がる女性を連れているという事は、できる限り連れている奴らも人の目が多い場所は歩けない筈ですから。だから、探すとしたら――」
「――人が通らず、周辺に家もない場所」
続きを、カエデが引き継ぐ。ようやく、何かをしようという気持ちが芽生えたらしい。顔色こそ悪いものの、目に力が戻りはじめている。
やはり、先輩は強い人だ。彼は素直にそう思った。
「探しましょう。警察が来るのを悠長に待つよりも、俺たち自身だって何かが出来る筈です」
自然と、手をさし伸ばすタカトシ。
毛嫌いする、男の手。だが今のカエデには、その手がまるで文字通りに救いの手のように思えてならなかった。
カエデは、躊躇なくその手を握り返した。
【救いの手、君に届け】
立ち止まった場所は、住宅からも若干離れた公園。雑木林が敷地内の3分の1を占め、ジャングルジムや滑り台が深夜の光景の中で不気味な存在感を感じさせる。
その人の悲鳴すら届かない雑木林の中、複数の男達が1人の女性の腕を掴んでいた。
女性は、五十嵐ヤヨイ。食事の後で偶然出会った元カレを追ってきた女性である。今のヤヨイは、嫌悪と恐怖を織り交ぜた瞳をかつて好きだった男に向けていた。
「おいおい、んな目をすんなよな。つれねえじゃんか」
髪を金髪に染め、細い眼でかつての恋人を見下ろすかのような姿は、昔の彼とは似ても似つかぬものであった。視界には、彼の連れである2人の男も入っている。
小太りと、痩せぎすの男達。どちらもオタクっぽい外見で、鼻の穴を広げてヤヨイを見ている。
ただ、どちらも表情は何となく危険そうである。いざとなれば、ヤヨイに手を上げる事も出来そうな雰囲気すらあった。
「いい加減にしてよ。こんなところにまでわざわざ引っ張ってきて。卑怯だと思わないの?」
「なーにが卑怯だよ。マジうけんだけど」
彼の後ろの2人も、へらへらと笑う。そんな小馬鹿にした反応に、ヤヨイはさらに苛立つ。もとより、こういう軽薄な男に怯む性格ではない。
「わたし、もう帰りたいんだけど。妹を待たせてるし」
「いきなり話しかけてきたのはそっちじゃん。なに今更いい子ぶってるわけ?」
「……っ。ここまで馬鹿な奴になってるとは思わなかっただけよ」
「あっそ。こっちもオメーと別れてから、色々あったからなぁ」
いろいろあったと言ってはいるが、大したことは起きてはいないだろうに。自分が別れたのも、男の浮気が原因であったからだ。この分では、浮気相手にもフラれているはずだ。
もとより、あの浮気相手は誰とでも寝るような好色の女であった。そんな女相手に簡単に靡いていた男に愛想を尽かしていたのも、今となってはほろ苦い思い出である。
――思えば、ヤヨイという女性は昔、よく男に惚れやすい性格であった。
少し持ち上げられれば舞い上がってしまう、恋に免疫のない少女。目の前の男も、似たような理由で交際を“してしまった”うちの一人だ。
とはいえ、この男も昔はここまでの性格ではなかった。当時は頭こそ悪かったものの、スポーツに一生懸命で友人もそれなりにいる、普通の少年だったはず。
それが、今では。
似合いもしない金髪に染め、自分を見る目は下心しかない。体格こそそれなりに大きくなっているようだが、おそらくは喧嘩で鍛えたのだろう。随分と軽薄な男に成り下がっていたらしい。
「どうせこれから帰るんだろ? なら時間くらいあるはずじゃん」
「じゃあ早く帰らせてよ。ちょっと話しかけたくらいで調子に乗らないで」
「逆ナンしたかったの間違いだろ。知らない仲じゃあないんだからさ。あんま意地張るなって」
そう。かつての知り合いになり下がった男をたまたま見かけたので、声をかけてみた。ただそれだけのつもりだったのに。まさかここまで付きまとってくるとは。
こんな男なんか無視して、さっさとカエデと一緒に帰っておけばよかった。そんな後悔を胸の中に秘めつつ、ヤヨイは強気で付きまとってくる男を突き放そうとする。
「なあ。こうやって会えたのも、運命だと思ってさ。ちょっと付き合ってくれよ」
「さんせー。俺たち驕ってやっからさ」
「いやあ、女一人いるだけでも、楽しさ倍増だぜ」
彼だけでなく、2人の男も便乗する。勝手に騒ぎ、いい気なものだ。
「カラオケ行こうぜ。それからどうするか決めようぜ」
「あ、おれちょうどいい店知っているんだ。紹介してあげるよ」
そう言って、男達はヤヨイの腕を掴む。小太りの方は馴れ馴れしく腰に手を回した。
「ちょっと……!」
「あ、そうだ。なんだったらさ、待たせているとか言ってた妹さんも呼んでみようぜ。一人で帰らせても寂しいだろうし」
この時、ヤヨイの中で心の底から嫌悪感を覚えた。顔を真っ赤にし、手加減なしの平手をかつての恋人に見舞う。
乾いた音がした。顔を真横に向け、驚いた表情になる男。呆れた事に、彼女が怒るとは露ほどにも考えてはいなかったらしい。
「うおっ。痛そー」
周囲の男2人は、いたって呑気な声を上げる。だが、それは相手に逆上の機会を与えてしまった証明でもあった。
「てめえ……」
「ひっ……」
自分にギロリと黒目を向ける彼の顔は、すでに軽薄さなど消え去っていた。先ほどまでの勢いはどこへやら、ヤヨイは完全に竦みあがってしまったのである。
「こうされなきゃ分かんねえのか!?」
拳を固め、大きく振りかぶる男。目を閉じ、1秒後に来る痛みに耐える準備をする。
だが、その衝撃はいつまでたっても来ない。恐る恐る目を開けると、目の前に拳が止まっていたのであった。
彼が寸止めをしたのかと思ったが、耳からは男の狼狽えたような声が聞こえる。
「な、なんだよテメー。邪魔すんな!」
「……無事ですか?」
罵声には全く取り合わないまま、どこかで聞いた事のある声がかけられるヤヨイ。視線を僅かに横にずらすと、見覚えのある少年と目が合った。
「あんたって……カエデの?」
無意識に呟くと同時に、誰かに手を引かれた。慌てて相手の顔を見ると、妹のカエデと顔を合わせる恰好になる。
「大丈夫、ヤヨイ姉さん!?」
「あ、あんたたち……探してきてくれたの?」
「そうだよ。心配していたんだから!」
涙を浮かべ、姉を叱るカエデ。どうやら、かなり心配させてしまったらしい。
「ごめん。昔の男だったから、つい」
心がチクリと痛み、素直に謝罪する。すべては、自分の迂闊さが招いたことだったからだ。
「……まあ、説教は後にしてあげるけど」
そう話を打ち切って、カエデは顔を上げる。目線の先には、自分達を忌々しげに睨みつけている男たちの姿。
男は怖い。けれど、今は姉がピンチなのだ。しっかりしなければいけない。
「てめえら、邪魔すんじゃねえよ。こいつは俺の知り合いなんだからさ」
「そ……そうは見えませんでしたけれど。そんな事より、姉に近寄らないで」
途端、ゲラゲラと笑う男たち。彼らには、カエデの言葉が非常に陳腐な台詞に聞こえたらしい。
「うっひょー、かっわいいー! お姉さんに近寄らないで、だってよ!!」
「いいねえ、こういうの。僕ちん、だーいすき!!」
カッと顔が赤くなるカエデ。だが、その視界を少年の背中が塞ぐ。まるで、姉妹を男の視線から守るかのように。
津田タカトシ。普段は温厚な彼も、今はハッキリと敵意をむき出しにしていた。もとより、こういう輩は彼の嫌いなところだ。
「すみませんが、あんた達。彼女たちは俺の知り合いなんです。妙なちょっかいをかけないでもらえませんか?」
「あ? ヤローはすっこんでろよ。ヒーロー気取りの馬鹿が」
呆れたように小太りの男がタカトシを押しのけようと手を伸ばす。そうする事で、その男は――タカトシという男を侮っていた報いを受ける事になる。
「え?」
手を掴まれたと思った瞬間、自分の見る世界が急に逆さまになったと錯覚した男。身体が半回転し、背中からコンクリートに打ち付けたのだった。
「うげっ!」
「て、てめえ、フザける気か!?」
細身の男は血相を変え、ポケットからナイフを取り出した。五十嵐姉妹が、ヒッと短い悲鳴を上げる。
だが、タカトシは先手必勝と言わんばかりに靴先で手首を蹴りあげた。やはり見た目通り、ナイフを握る握力そのものは強くなかったらしい。だからこそ、武器に頼っていたのだろうが。
さらにタカトシの後ろ回し蹴りが男の脇腹に激しく炸裂した。細身の男は声もなく泡を吹いて昏倒する。
鋭い眼で、タカトシは残った男を睨む。男はまるで猛獣にでもあったかのように、背筋を凍らせた。
「う……な、なんだよ。てめぇ、ヒーロー気取りで暴力かよっ! 傷害で訴えてやるからな!!」
「好きにしていい。その代わり、お前たちがやっていた事も警察に話してもらうからな」
「だ、誰が加害者のいう事なんか信じるかっ!」
「被害者は彼女の方だ。お前じゃあない」
冷たい視線を男からそらさないまま、タカトシは言った。
「こんなことをして、ただで済むと……!」
「済まないなら、どうするのか教えろ」
パン、と甲高い音が響く。タカトシの正拳が、男の鼻の下を撃ったのである。
「ぶえっ!」
悶絶し、顔半分を抑えて蹲る男。見上げた先には、汚い物を見下ろすかのようなタカトシの目。
「ひ……!」
尻餅をつき、後ずさりをする。だが、タカトシは威圧するように一歩前に出た。
「う、うわあああ……っ!」
転がるようにして、男は手足の使い方を忘れたかのような動き方のまま走り去っていった。固まっている五十嵐姉妹の真横を通り過ぎ、そのままあっという間に姿が見えなくなっていく。
「お、おい! 逃げんなよ!!」
「ま、待ってくれ……痛いんだよぉ……!」
遅れて男達が身体の各所を抑えながら後を追う。残されたのは、タカトシ達3人だけであった。
事が終わったと判断し、タカトシはヤヨイの傍に駆け寄る。怖がっているかもしれないので、若干の距離を置きつつ。
「駆けつけるのが遅れて、すみませんでした。お怪我の方は?」
「い、いえ。別に……」
「つ、津田君の方こそ、大丈夫だったの?」
カクカク頷くヤヨイに対し、カエデはどこか不安そうに尋ねる。タカトシはかすり傷ひとつないというように手を軽く振った。
「はい。怪我の方はご心配なく」
タカトシは携帯を取り出すと、警察に通話する。事の次第を伝えると、そこで待っていてほしいと言われた。
さすがに警察の指示とあっては、無視をするわけにもいかない。仕方がなく、この人気のない場所で警察が来るのを待つ3人。
ややあって、ヤヨイが口を開く。その表情はどこか暗い。
「あのさ、ごめんね。私が、元カレなんかに構おうとしなかったら」
タカトシは彼女の顔を見る。その表情は、怒っている時のそれではない。
「俺の事はいいですよ。それよりも、五十嵐先輩に言ってあげてください。先輩が店の前で待っていなかったら、俺もそのまま帰るつもりだったんですから」
「うん。ごめんね、カエデ」
「もういいよ、ヤヨイ姉さん。正直、それどころじゃなかったし」
カエデはすでに、諦めたような様子だった。叱る気でいたが、気が抜けた。そんなような表情である。
多くの事があって動揺している2人は、タカトシにそっと寄り添う。下心ではなく、人として頼りたいという気持ちがあったからだろう。
やがて、パトカーのサイレンが近づいてくるのを、タカトシはぼんやりした頭で聞いていた。
【事後処理】
結局、3人が警察から解放されたのは2時間後の事であった。
所轄にパトカーで移動し、彼らはそれぞれに事情聴取を受けたのだ。タカトシ達は事前に打ち合わせを行い、絡まれていたヤヨイに駆けつけたら、彼らが逃げ出したと口裏を合わせている。
真面目なカエデとしては嘘をつく事は気が進まなかったが、やむを得ないとして自分を無理矢理納得させた。
なぜならば、人助けのためとはいえ暴力をふるってしまった事は事実だ。警察は本当にこういう事にうるさく、傷害罪でタカトシが罪に問われかねない。殴られた者達がすでに自分の意志であの場を去っている以上、実際に立件される可能性は少ないのだろうが、可能性としては充分にあり得る。
カエデとて、姉を助けてくれた者に対して恩を仇で返す様な真似はしたくはない。犯人たちの人相も、暗闇で見えていなかったと証言する。
何度か同じ質問が続き、3人が辟易した様子で駅へと向かう事になった。
「やっと帰れますね」
「2人とも……本当に……」
「そのセリフはもういいってば。ヤヨイ姉さん」
駅のホームのベンチで、ぐったりしたまま背もたれに背中を預ける3人。どうにか終電には間に合ったので、後は電車が来るのを待つのみだ。
時間まで、あと10分ある。タカトシは飲み物を買うために自販機に歩いていった。
人数分の飲み物を購入しているタカトシを見ながら、ヤヨイはカエデだけに聞こえるように言う。
「カエデ。あの子って凄いのね」
「あ、うん。確かに、津田君って年下って感じがしないから」
カエデはお世辞を抜きでそう言った。普段の学園生活の仕事ぶりや、真面目な性格。こういう時だというのに、ちゃんと飲み物を買ってくれる気配り。
「文化祭の時は、結構派手なアクションシーンもぶっつけ本番でやっていたし。成績だって、萩村さんとトップ争いをしているから」
「ふーん。彼のこと、よく見ているのね」
「な、何を言っているのよ。仕事の付き合いとかがあるから、たまたま……」
「じゃあ、なんで今も彼の事チラ見してるわけ?」
「し、してないわよ。気のせいでしょ?」
プイッとそっぽを向く。だが、耳まで赤いのはヤヨイの位置からでも確認できている。指摘するのは可哀想なので、気づかないフリをしているのだが。
「……」
自分でも、それは分かっていた。首筋までが赤くなっているのが嫌でも理解できてしまう。
一緒になって姉を探し、身を守ってくれた後輩の男子。自分のように怖気づいたりせず、悪漢をものともせずに倒してしまった姿。
そして、何より――あの瞳。
男達を見るあの視線を横から見た瞬間、カエデは頭が真っ白になってしまったのだ。普段は温厚な彼が、ああも冷たい視線になってしまうなんて。
怖かった。あの軽薄な男達などよりも、タカトシの目が一番怖かったのだ。背筋が寒くなり、目を逸らしたかった。
しかし、できない。あの時、彼女の中では彼の目から視線を外すなど、どうあってもできなかった。もとより、そんな選択肢など初めから無かったのである。
身が竦んだ。でも、見ていたい。怖かった。でも、その視線を自分に向けてほしい。いつもの優しい彼に戻ってほしい。でも、ずっとその姿のままでいてほしい。
津田への恐怖心が芽生えてしまった事は確かだ。なのに、どういうわけか惹かれてしまった。津田タカトシという男が心から憤った時に見せた、あの目が。
おかしい。カエデは、自分の心の変化が分からなかった。
あの目を思い出すたびに、彼女の顔は熱くなった。寒気がする筈なのに、顔はどういうわけか熱を帯びてしまうのだ。
心臓の鼓動が早い。ヘソの下が、どういうわけかキュンとする。
恥ずかしい。姉やタカトシに知られてしまえば、変な人を見るような目で見られてしまう事は間違いないだろう。
「すみません。適当に選んでしまったのですが……飲み物、どれがいいですか?」
「あ……すみません。お手数を……」
そこへ、タカトシが飲み物を持って近寄ってくる。カエデは無理に取り繕ったような声で応対した。
お金を出そうとする2人だが、奢りですからと笑って答えた。
お茶とコーヒーをそれぞれ飲む。ようやく一息ついた3人は、話に花を咲かせ始める。疲れがたまっているはずなのだが、この時はなぜか舌が回った。
「きみって、武道もできるのね。何かやっていたの?」
「まあ、一応。護身のためですので、スポーツと一緒に習っていました」
「もしかして、空手?」
カエデは、格闘技に詳しいわけではないので思い付きを口にした。それに、タカトシは首を左右に振る。
「空手とはちょっと違うんですが……日本拳法です」
聞かれたから答える、という口調で言った。ヤヨイはふぅんと生返事をする。あまり違いが分かっているという感じではない。
「そういえば、五十嵐先輩のお姉さんって、もう社会人なんですか?」
「ヤヨイでいいわよ。来年度で卒業するの」
「そうだったんですか。失礼しました」
「気にしてないわよ。大学3年なんて、大体社会人に出てる奴らと変わんないし」
そうかもしれない。もし彼女が短大生や専門学校生ならば、もう社会人一年生だ。歳の事を指摘してしまったと思っていたタカトシだが、あまり深く考えすぎるのもよくない。
そこで、ふと何かを思いついたような顔をするヤヨイ。それを、すぐに言葉にする。
「でも、そうねえ……すまないと思ってくれているのなら、ちょっと聞いてほしいお願いがあるのよ」
「?」
お願い。一体何の事だろうか。
「もしよかったらさ……カエデの事、名前で呼んであげてくれない?」
「え?」
「カエデも、今日から彼の事を名前で呼んであげなさいな」
「ちょっと、ヤヨイ姉さん。な、なに言っているのよ」
目をパチパチと瞬かせるタカトシと、動揺して顔を真っ赤にするカエデ。2人の対比が、なんとなく可笑しかった。
「まあ、いいじゃない。歳を聞かれて女心を傷つけられた代償だと思って」
全くそんな事を思っていない調子のまま、ヤヨイは笑う。
「ええっと、五十嵐先輩は、それでいいんですか?」
「あ、え、その……」
困ったようなタカトシに、カエデは視線を右往左往させる。やがて、いかにも仕方がなさそうに溜息を吐いた。
「ま、まあ……私は風紀委員長ですし、津田君は副会長ですし。ちょっとくらい砕けた話し方の方が、コミュニケーションも取りやすくなるかもしれませんね」
「そ、そうですか。よかった」
「カエデ……」
素直じゃないわねと、ヤヨイは呆れる。まあ、男を寄り付かせない妹にしては頑張った方か。
「それじゃあ……カエデさん」
「ひゃ、ひゃひ!?」
噛んだ。
「明日も、学園で会いましょう」
「あ……はい。こちらこそ、タカトシ君」
初々しい、2人のやり取り。そんな様子をヤヨイは笑いを堪えたように見ていた。
そして、列車が到着した。
そして、次の日の朝。
「タカ兄。昨日は帰ってこなかったみたいだけど、誰と朝帰りしてきたの?」
「終電だったんだよ。深夜だったけどさ」
「じゃあ、ご休憩?」
「違う」
何も知らない妹は、今日も平常運転であった。
つづく